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今川義元~祝・生誕500年~足利一門の名門・海道一の弓取りと称された東海の覇者!

今川義元




今川義元

今川 義元(いまがわ よしもと)は、
戦国時代の駿河国及び遠江国の守護大名戦国大名
今川氏第11代当主。
姉妹との婚姻関係により、
武田信玄北条氏康とは義理の兄弟になります。
「海道一の弓取り」の異名を持つ東海道の
広大な地域の支配者でした。

【生誕】
永正16年(1519年)
【死没】
永禄3年5月19日(1560年6月12日)
【改名】
菊丸(幼名)、
栴岳承芳(せんがくしょうほう、法号)
義元
【別名】
通称:治部大輔、
渾名:海道一の弓取り(初代)
<海道一の弓取り>
海道⇒東海道
弓取り⇒武将
「海道一の弓取り」=「東海道で一番の武将」
<初代>
今川義元:
駿河国、遠江国を支配し、三河国の松平氏(のちの徳川氏)を服属下におく。
<2代目>
徳川家康:三河国、遠江国を支配。
のちに駿河国も支配下に置く
(東海道以外では甲斐国、信濃国も支配下に置いたこともある)
<戦国時代以前(鎌倉時代末期から南北朝時代)>
宇都宮公綱⇒「坂東一の弓取り」by楠木正成

【墓所】
愛知県豊明市の桶狭間古戦場伝説地
愛知県豊川市牛久保町の大聖寺
(胴塚、一色時家の墓の隣)
愛知県西尾市駒場町の東向寺(首塚)
愛知県東海市の今川塚
愛知県清須市正覚寺の今川塚
静岡県静岡市葵区大岩町の臨済寺(今川家菩提寺)
(墓所と神廟(生誕500年祭に向けて新造)

【概要】
寄親・寄子制度を設けての
合理的な軍事改革等の領国経営、
外征面でも才覚を発揮して
今川氏の戦国大名への転身を成功させた人物です。
所領も駿河・遠江から、
三河や尾張の一部にまで領土を拡大させました。
戦国時代における今川家の最盛期を築き上げました。

【生い立ち・仏門へ】
永正16年(1519年)、
今川氏親の五男として生まれました。
母は父の正室である中御門宣胤の娘で
のちの寿桂尼(じゅけいに)です。
生まれた時は既に跡継ぎとして、
同母兄の氏輝、及び彦五郎がいたために
4歳で仏門に出され、
駿河国富士郡瀬古善得寺の
太原雪斎(たいげん せっさい)に預けられました。
その後、太原雪斎と共に建仁寺に入り、
常庵龍崇の元で得度し
栴岳承芳(せんがくしょうほう)と称しました。
または、梅岳承芳(ばいがくしょうほう)とも。
さらに太原雪斎と共に妙心寺で
大休宗休に学び学識を深めていったとされています。





【還俗し家督を継ぐ】
その後、兄である今川氏輝の命を受けて
京都から駿河に戻りますが、
その直後の天文5年(1536年)に
兄・今川氏輝が急死します。
けれども、
この時点ではまだ兄の彦五郎がいたために
継承権はありませんでしたが、
次兄の彦五郎までもが、
今川氏輝と同日に死亡したために
継承権が巡ってきたとされています。
今川氏輝・彦五郎と同じく生母が
寿桂尼所生であることも後押しとなり、
重臣たちから還俗を乞われた栴岳承芳は
主君であり本流に当たる
第12代将軍・足利義晴から偏諱を賜り、
今川義元と名乗りました。
けれども当主継承は、
有力家臣の福島(くしま)氏の反対で混迷化しました。

【花倉の乱・勃発】
福島氏は自家の血を引く義元の異母兄である
玄広恵探(げんこう えたん)を
当主として掲げて反旗を翻したのです。
これはのちに(花倉の乱(はなくらのらん)と呼ばれた
今川家のお家騒動です。
「花倉」とは、静岡県藤枝市の地名で、
玄広恵探らが挙兵した地にちなむ、
もしくは玄広恵探は「花蔵殿」と
呼ばれていたからとも云われているそうです。

なお、2007年のNHK大河ドラマ「風林火山」の
第5回「駿河大乱」で詳細に描かれていました。

【花倉の乱に勝利し家督を継ぐ】
玄広恵探側は今川館に
攻め寄せる等攻勢をみせたものの、
太原雪斎・岡部親綱(おかべちかつな)をはじめとする
今川義元側の家臣団の奮戦の前に
苦戦が続いていました。
加えて今川義元が
伊豆国(静岡県伊豆半島)及び
相模国(神奈川県西南部)を領する
後北条氏からの支援を得ることに成功します。
そのため、玄広恵探側の敗色は一層濃厚となり、
花倉城の陥落を以って
玄広恵探は自害して果てました。
このように内乱を鎮めて
家督相続を果たした今川義元は
第11代今川氏当主となり、
自らに忠義を示した家臣を重用して
支配体制を整えていきます。
特に、太原雪斎の重用があったとされ、
今川家での太原雪斎の影響力が
増していくのでした。

【甲駿同盟】
天文6年(1537年)2月、
先代の当主であっった氏輝期まで
抗争状態にあった甲斐国の守護である
武田信虎の娘(定恵院)を正室に迎え、
武田氏と甲駿同盟と称される同盟を結びます。
周囲の守りを固める目的での甲駿同盟の成立は、
結果的に旧来の盟友(駿相同盟)として
自らの当主継承にも助力した
北条氏綱の怒りを買うことになりました。





【河東一乱・第一次】
同年同月、北条軍は駿河国富士郡吉原に侵攻します。
花倉の乱による内部対立を引き摺ったまま
家臣団の統制がとれなかった今川軍は、
北条軍に対して適切な反撃が行えず、
河東(現在の静岡県東部)を奪われてしまいました。
今川義元は武田の援軍と連帯して
領土奪還を試みましたが、
花倉の乱で玄広恵探側に組した
堀越氏・井伊氏といった遠江に基盤を置く
反義元派の武将らが義元から離反し、
家臣の反乱と北条氏の侵攻とではさみうちに陥り、
河東は北条氏に占領されたまま
長期化の様相を見せていくのでした。

【小豆坂の戦い】
さらに追い討ちをかけるように、
尾張国(愛知県西部)の織田信秀(おだのぶひで)が
天文9年(1540年)に
三河国(愛知県東部)に侵攻を開始しました。
今川義元は三河に援軍を送り、
三河の諸侯軍と連合して天文11年(1542年)に
織田軍との一大決戦に臨みましたが、
その猛攻の前に敗れたとされています。
最も、この戦いは各史料との整合性がとれないことから
後世の創作である可能性もあるそうです。

【海野平の戦い】
天文10年(1541年)、
北条氏綱が死去し、
北条氏は北条氏康が家督を継ぎました。
「高白斎記」によりますと、
同年5月25日に甲斐国の武田信虎は
嫡男の武田晴信(のちの武田信玄)を伴い、
信濃国の諏訪頼重村上義清とともに
信濃佐久郡侵攻を行ったそうです。

【武田信虎追放される】
武田信虎は6月4日に甲斐へ帰国すると、
6月14日に今川義元訪問のため
駿州往還を経て駿河へ出立しましたが、
武田晴信により路地を封鎖される
クーデターが発生しました。
今川義元は甲斐国を追放された
武田信虎の身柄を預かることになりました。
そして、家督を相続した武田晴信とも同盟関係を続け、
高遠合戦では武田に援軍を派遣しています。

【河東一乱・第二次】
このように苦しい状況が続く中、
天文14年(1545年)、
今川義元は北条氏康と敵対する
山内上杉憲政と同盟を結び、
北条氏を挟み撃ちにする策を立てます。
同年8月22日、
今川義元と山内上杉憲政との同盟によって
河東と関東方面に戦力が
分断される形となった北条軍に対して、
今川義元は武田の援軍を得て河東に侵攻し、
同時に、関東においては
両上杉氏(上杉憲政・上杉朝定)が
古河公方・足利晴氏らと連合し、
8万の大軍で河越城を包囲しました。
河東では今川軍が北条軍を打ち破り、
関東では上杉連合軍が河越城を包囲し続け、
北条軍は西の今川軍と東の上杉連合軍との
はさみうち状態になり、
窮地に立たされていきました。
進退窮まった北条氏康は武田晴信に仲介を頼み、
今川義元との交渉で河東の地を
今川家に返還するという条件で和睦します。
今川氏は北条氏との争いに
こうして実質的に勝利したのでした。

【真の勝利者は誰?】
これにより一先ず、
西方に安堵を得た北条氏康は
関東方面に戦力を集中させていきます。
河越城の戦いにおいて
苦境から一転、逆転勝利を収めたのです。
河東の地の遺恨を巡って
両者の緊張関係は続きましたが、
北条氏が関東方面への侵攻に集中していったことで
今川家と北条家は徐々に
両者の緊張関係は和らいでいきました。





【三河の事情と小豆坂の戦い・第二次】
一方、三河においては、
西三河の松平広忠の帰順を受け、
(まつだいら ひろただ)(徳川家康の父親)
嫡男である竹千代(後の徳川家康)を
人質に迎え入れる約束を交わしました。
こうして尾張の織田家の妨害を受けてはいましたが、
着実に三河勢の従属化に努めていったのです。

【竹千代、奪われる】
ところがこの際、護送を請け負った
三河田原城(愛知県田原市)の
国人領主である戸田康光(とだ やすみつ)が裏切って
竹千代を敵方の織田氏
送り届けてしまったのでした。
これは前年に今川義元が
戸田氏の一族である
戸田宣成、戸田吉光の一族を滅ぼしたため、
戸田宗家の当主であった
戸田康光が反乱を起こしたものでした。
これ対して今川義元は
戸田宗家を武力で徹底的に滅ぼし、
その居城であった田原城に
有力家臣である朝比奈氏を入れたのでした。

天文17年(1548年)、
今川義元の三河進出に
危機感を覚えた織田信秀が侵攻してきます。
けれども、今川義元の軍師である太原雪斎と
譜代重臣である朝比奈泰能(あさひな やすよし)らを
大将とした今川軍は織田軍に大勝したのでした。

【三河を支配】
天文18年(1549年)、
家臣の謀反で松平広忠(徳川家康の父)が暗殺されます。
すると今川義元は、
領主が死去して不在となった松平家に対して
支配していた西三河地域を
今川家の領土にしようと画策します。
嫡子の竹千代は織田の人質となっており、
主不在である岡崎付近に向けて今川軍を派遣しました。
岡崎城(現在の愛知県岡崎市)家臣を送り込み、
事実上、松平家の所領を領有したのでした。
更に、松平家の支配下にあった
三河国の国人領主を直接、
今川家の支配下に取り込んでいきます。

【織田がいる尾張への侵攻】
また、織田方の三河安祥城を攻略(現在の愛知県安城市)して、
織田家の勢力を事実上三河から追い出しました。
これにより継承直後から続いた
西の織田氏との争いは今川氏勝利の形で決着しました。
また、このおり織田信秀の庶長子にあたる
城将・織田信広(おだのぶひろ)を捕らえ、
人質交換によって竹千代を奪還、
実質自らの配下としたのでした。
そしていよいよ、
尾張進出への足掛かりを着々と築いていきます。
天文20年(1551年)に、
織田信秀が死去すると
尾張への攻勢を一段と加速させます。

【戦国大名宣言】
更に天文22年(1553年)には、
亡父の定めた今川仮名目録に
追加法(仮名目録追加21条)を加えました。
その内容は、ここにおいて、
現在の今川領国の秩序維持を行っているのは
足利将軍家ではなく今川氏そのものであり、
室町幕府が定めた守護使不入地の廃止を宣言。
守護大名としての今川氏と
室町幕府間に残された関係を
完全に断ち切ったのでした。
これは、今川氏は既に室町幕府の権威によって
領国を統治する守護大名ではなく、
自らの実力によって
領国を統治する戦国大名であることを
明確に宣言したものであったのでした。





【甲相駿三国同盟】
天文21年(1552年)、
今川義元の娘嶺松院が
武田信玄の子武田義信に嫁ぎます。

天文22年(1553年)、
武田信玄の娘黄梅院が
北条氏康の子北条氏政に嫁ぎます。

天文23年(1554年)、
北条氏康の娘早川殿
今川義元の子今川氏真に嫁ぎます。

これにて武田氏・北条氏と互いに婚姻関係を結んで
ここに甲相駿三国同盟を結成しました。
なお、この会談は善徳寺の会盟とも呼ばれています。

【第二次川中島の戦いの和睦】
また弘治元年(1555年)に行われた
第二次川中島の戦いでは
武田晴信と長尾景虎(ながおかげとら)の
仲介を行って両者の和睦を成立させています。

【検地】
駿河・遠江・三河で
検地も積極的に実施しています。
天文10年(1541年)~弘治3年(1557年)まで、
ほぼ毎年の様に検地を
繰り返していたとされています。
この検地は、
今川氏の財政基盤を確固たるものにしていき、
特に軍事面での強化が目立ったとの事です。

この「検地」の厳しさは、
2017年NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」でも
度々描かれていました。

【雪斎の死去】
今川義元の右腕として
外交と軍事面での手腕を大いに振るい、
今川氏の発展に大きく寄与していた太原雪斎は、
弘治元年(1555年)閏10月10日、
駿河長慶寺にて死去し、享年は60歳でした。

「たられば」の話になりますが、
もし、太原雪斎が生きていたならば、
桶狭間の戦い」での
敗戦はなかっただろうとも言われています。
それほどまでに今川家における
太原雪斎の存在は大きく、
「黒衣の宰相」「名補佐役」「軍師」「執権」とも
評されているとのことです。

【三河の鈴木氏攻略】
永禄元年(1558年)には、
支配下においていた松平元康(のちの徳川家康)をして、
三河加茂郡寺部城の鈴木重教を攻略し、下しています。

【家督を譲るも尾張侵攻へ】
同年、今川義元は嫡男である
今川氏真に家督を譲り隠居します。
これ以後、今川氏の本国である
駿河・遠江に発給される
文書の著名は氏真名となります。
けれどもその一方で、今川義元は
新領土である分国の三河の鎮圧および経営に集中し、
それが成るとさらには
尾張以西への侵攻に力をそそいでいくのです。

【桶狭間の戦い・突然の死去】
永禄3年(1560年)5月には
那古野城を目指し駿河・遠江・三河から
2万余の軍を率いて尾張国への侵攻を開始します。

なお、桶狭間合戦当時の最盛期の今川義元の領国は、
駿河・遠江・三河の3カ国69万石だったとも、
されているそうです。
なお、尾張国は領国化されておらず、
尾張国内に、反織田方として山口氏・服部氏などが
今川に呼応する動きを見せていたとのことです。





織田方に身動きを封じられた
大高城(現在の名古屋市緑区大高)を救うべく、
大高周辺の織田方諸砦を松平元康などに落とさせました。
幸先良く前哨戦に勝利した報せを受けて
沓掛城で待機していた本隊を大高城に移動させます。
ところがその途上、
悪天候に見舞われてしまったとされます。
そして、そのために
桶狭間(おけはざま)山で休息、
そのさなか、織田信長の攻撃を受け、
松井宗信らと共に奮戦するも、
織田家家臣・毛利良勝に愛刀・左文字の太刀と
首級を奪われてしまいました。
享年は42歳でした。

その後、残存した今川兵によって
駿府まで連れ帰ろうと試みられたそうですが、
首の無い義元の遺体は、
季節柄な事もあって、
想像以上に腐敗の進行が早く、
三河国宝飯郡に埋葬されたとのことです。

織田方に討ち取られた首級は、
海城に留まり奮戦する
今川義元の重臣である
岡部元信と織田信長との開城交渉により、
後に返還され、駿河に戻っています。
なお、今川義元の首とともに
引き渡された兜が岡部家に伝わり、
(岡部家は代々岸和田藩主)
三の丸神社(大阪府岸和田市)に奉納され、
今に伝えられているとのことです。

なお、2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では
片岡 愛之助(かたおか あいのすけ)さんが
演じられることが決定されています。

【松平元康の独立と遠州錯乱】
今川義元の戦死により今川氏真が後を継ぎましたが、
この混乱に乗じて松平元康が西三河で独立しました。
この動きに追従する様に東三河でも
戸田氏・西郷氏などが離反し、
松平氏の傘下へ転属していきました。
この様な三河の動揺が隣国・遠江に伝わると、
正誤の判別がつかない噂が飛び交い、
遠江領内は敵味方の見極めさえ困難な
疑心暗鬼の状態に陥ってしまいました。

このあたりも2017年NHK大河ドラマ
「おんな城主 直虎」で描かれていましたね。

【大名・今川家の滅亡】
この動揺期において、
今川氏真は井伊直親飯尾連竜などの粛清で、
事態の収拾を試みましたが、
逆に人心の離反を加速させてしまい、
家臣(国人領主)の離脱が相次いでしまいました。
多くの国人領主の支持を失い、
自国領内でさえも、
まともに統治できない状態となった今川氏は、
どんどん衰退していき、
とうとう今川義元の死から9年後である
永禄12年(1569年)、
今川氏真は武田信玄と徳川家康によって
駿河・遠江を追われ、
大名としての今川家は滅亡しました。

【其の後の今川家】
駿河追放後、
今川氏真は、妻である早川殿の実家である
北条家に身を寄せましたが、
武田・北条の同盟が復活すると
徳川家康の家臣となります。
そして江戸期に入り、
今川氏は高家旗本として幕臣に列、
明治20年(1887年)まで続きました。

【今川義元・あれこれ】

【戦国三大文化】
今川義元は公家文化に精通し、
京都の公家や僧侶と交流して、
京都の流行を取り入れて
都を逃れた公家たちを保護しました。
山口の大内氏と一乗谷朝倉氏と並ぶ
戦国三大文化を築いていたとされます。

【今川義元の服装】
また、今川義元自らも公家のようにお歯黒をつけ、
置眉、薄化粧をしていたことから、
貴族趣味に溺れた人物とされることも多々ありました。
けれども、公家のような化粧をした話は
後世の創作であるという説もあります。
一方、そのいでたちが、たとえ事実であったとしても
それは武家では守護大名以上にのみ
許される家格の高さを示す、
とされていた可能性もあるとのことです。
従って、軟弱さの象徴とは言い難く、
また、武士が戦場に向かう際に
化粧をしていくことは、
珍しくないばかりか
嗜みの一つであったという説もある程でした。

【化粧は戦国武士の作法】
実際に、戦いに敗れた時に
敵に醜い姿を見られないように
おしろいを塗って出陣するのは
戦国武将のたしなみであったそうです。
あと、死して首実検を待つ間、
武家の子女たちによって、首をきれいに洗い、
おしろいをして鉄漿(かね)(お歯黒のこと)をして
立派にみせていたとのことです。

時代は下って大坂の夏の陣で
20代前半で戦死した
美丈夫(イケメン)武将の
木村重成(きむらしげなり)は、
お化粧はしたかは不明ですが、
戦の前、頭や首にお香を焚きつけてから
出陣したとのことです。





【輿に乗っていた理由】
騎乗せず輿に乗っていたことは、
今川義元は足利将軍家との親密な関係
(今川家は足利将軍家の分家)から
特別に輿に乗ることを認められた
可能性が高いとされています。
従って、むしろ合戦の際も輿に乗ることは
その誇示と言う面があったそうです。
また「信長公記」には、
桶狭間山から退却する今川義元が
馬に乗っていたと記されており、
実際には騎乗は出来たと見なされています。
騎乗ができなかったことや
その理由とされる記述は
江戸時代中期以降から登場する
記述に見られていることから
ほぼ後世の創作であると推測できるそうです。

公家文化に精通しているという事は
素養の高さを示すもの、
であると考えることができます。

【今川氏】

今川氏(いまがわし)は、日本の武家。
本姓は源氏で、家系は清和源氏のひとつである
河内源氏の流れを汲む
足利氏御一家の吉良家の分家にあたります。
吉良家は足利将軍家の親族であり
足利宗家の継承権を有しています。
斯波家や畠山家をはじめとする
他の足利一門諸家とは別格の地位でした。
今川家はその分家として、
駿河の守護に代々任命されていました。
さらに遠江守護家も分流。
初期の分家である今川関口家は
幕府の奉公衆でした。

【格式ある家柄】
今川家は足利一門において名門とされ、
足利将軍家の親族としての家格を有し、
室町将軍家から御一家として
遇された吉良家の分家です。
「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、
吉良が絶えなば今川が継ぐ」
と言われていたように、
足利宗家(室町将軍家系統)
の血脈が断絶した場合には
吉良家は足利宗家と
征夷大将軍職の継承権が発生する
特別な家柄であったと伝わっています。

【発祥は鎌倉時代
足利義氏
(足利家3代当主・母は北条時政の娘・時子)
(時子は北条政子の同母妹)の庶長子として
吉良家を興した吉良長氏・足利長氏
(きら おさうじ・あしかが おさうじ)がいました。
そしてその吉良長氏の次男である
今川国氏(いまがわくにうじ)が、
吉良氏の所領から三河国幡豆郡今川荘
(いまがわのしょう、現在の愛知県西尾市今川町周辺)
を分与されて本貫とし、
今川四郎を称したのが始まりとされています。
別説として、吉良国氏は吉良長氏の甥で、
養子になったとされている説があります。
現在、愛知県西尾市今川町には
愛知県によって建てられた
今川氏発祥地の石碑があるそうです。





【南北朝時代から室町時代】
鎌倉幕府滅亡から建武の新政を経る頃、
今川国氏の孫(基氏の長男)である今川頼国が
四人の弟や子達を率いて足利尊氏の北朝方に属し、
各地で戦功を挙げたとあります。
今川頼国は数々の功績を挙げましたが、
相模川の合戦で三弟の頼周と共に戦死し、
二弟の範満も小手指原の戦いで戦死してしまいました。
これらの功績により、今川頼国の子頼貞は
丹後・但馬・因幡の守護に任ぜられました。
また今川頼国の末弟で、
足利尊氏近くに仕えていた今川範国も
駿河・遠江の守護に任じられました。
観応の擾乱に際して、今川範国の嫡男である
今川範氏は尊氏方に属して功を立て、
駿河守護職を継承します。
この今川範氏の系統が今川氏嫡流として
駿河守護を世襲していくことになります。
駿河守護である今川氏は、
境を接する関東公方領を監視する役割を
将軍家から負わされていたともされているそうです。

さらに、今川氏の幾人かは
斯波氏(しばし)・畠山氏(はたけやまし)・細川氏(ほそかわし)
一色氏(いっしきし)・山名氏(やまなし)・赤松氏(あかまつし)
京極氏(きょうごくし)・土岐氏(ときし)らとともに
室町幕府の侍所の長官にも任命されるなど、
幕府の宿老の一人もつとめたそうです。

【戦国時代】
戦国時代の15世紀末、
伯父伊勢盛時(北条早雲)の助けで
家督争いに勝利した今川氏親は、
亡父義忠の代に頓挫していた遠江への再侵攻を試みます。
その結果、敵対する斯波氏を排することに成功し、
遠江守護職を獲得します。
また、甲斐国の乱国状態に介入し、
甲斐西郡の国衆大井氏を従属させています。
領国統治においては分国法「今川仮名目録」を定めて、
今川氏を戦国大名に発展させ、
(実際の戦国大名宣言は今川義元)
駿府には冷泉為和など戦乱を避けた公家が下向し、
文化的にも円熟した時代を迎えるようになっていきます。
今川氏親没後は正室寿桂尼が嫡男である今川氏輝を後見し、。
家督争いである「花倉の乱」後に、
栴岳承芳が今川義元と改名して今川家の当主となります。

【江戸時代】
今川義元の嫡男である今川氏真は、
曲折を経て徳川家康の庇護を受けるようになり、
近江国野洲郡(現・滋賀県野洲市)に
500石の知行地が安堵されました。
今川氏真の嫡孫・今川直房は江戸幕府に出仕して
高家職(奥高家)に就き、
徳川秀忠・徳川家光・徳川家綱の三代にわたって
朝廷との交渉などに奔走していきます。
正保2年(1645年)、
3代将軍の徳川家光から
武蔵国多摩郡井草村(現・東京都杉並区)
など500石の知行を加増され、
家禄は都合1000石となっていました。
今川直房の官位は今川家歴代で最も高い
左近衛少将まで昇り、子孫からは中興の祖と仰がれました。





高家旗本として存続した江戸時代の今川家では、
11人の当主のうち、6人が高家職に就いています。
幕末の当主であった今川範叙は、
高家出身者として唯一若年寄に就任し、
官軍との講和・江戸城の開城に際して
尽力したそうです。

けれども明治維新後は、
他の士族と同じく家禄を失って没落したうえ、
一人息子である淑人にも先立たれました。
明治20年(1887年)、
今川範叙の死によって今川氏は絶家となりました。

【品川家】
なお、今川氏真の次男の今川高久も
徳川秀忠に出仕し、品川氏を称して
本家とともに高家に列していました。
これは、徳川幕府が嫡家以外に
今川姓を称することを許さなかったため、
庶流は品川姓を称したとのことでした。

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