【鷲津砦】
鷲津砦(わしづとりで)は、
現在の愛知県名古屋市緑区大高町にあった
中世の砦(城館)です。
【城郭構造】
平山城
【築城主】
織田信長
【築城年】
永禄2年(1559年)
【廃城年】
永禄3年(1560年)
【指定文化財】
国の史跡(附)
【鷲津砦の概要について】
永禄2年(1559年)に
織田信長によって築かれ、
翌年の永禄3年(1560年)には
桶狭間の戦いの前哨戦が
鷲津砦を巡って行われています。
大高町のうち、
字鷲津山の丘陵がその故地とされ、
昭和13年(1938年)12月14日に
大高城跡が国の史跡に指定された際、
丸根砦跡と共に約1.455ヘクタール
の範囲が「附(つけたり)」
として指定されていますが、
正確な所在地は、はっきりとはしていません。
【位置】
JR東海道本線「大高」駅から
東に約200m、
西方へ舌状に延びた丘陵の
頂部付近に位置しています。
大高城跡からは北東に約700m、
丸根砦跡からは北北西に
約600mの距離にあります。
【背景】
16世紀なかば、
尾張で勢力を伸ばしていた
織田信秀の死後、
子の織田信長が跡を継ぐと、
それまで織田方に従っていた
鳴海城主の山口教継が
織田方を見限って駿河の今川義元に与し、
結果として今川義元は大高城を手中にします。
そこで織田信長は、
鳴海城に圧力をかけるために
丹下砦・善照寺砦・中島砦を築き、
さらに大高城と鳴海城との往来を
遮断するために築いたのが、
丸根砦とこの鷲津砦であったとされています。
鷲津砦には守将として
織田秀敏と飯尾定宗・尚清父子が
置かれると共に
520騎が配置されたとの記録もあります。
けれども永禄3年5月19日早暁、
(1560年6月12日、桶狭間の戦いが行われた当日)
今川方の重臣であった朝比奈泰朝率いる
2000人の軍勢が攻撃を開始。
門扉や営柵に火が放たれて激戦となり、
立てこもっていた飯尾定宗らは
ことごとく死傷、残兵も清洲方面へ敗走し、
午前10時頃までには
陥落したということです。
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【構造】
「寛文村々覚書」(17世紀)、
「張州府志」(宝暦2年(1752年))、
「尾張志」(天保15年(1844年))は、
「鷲津古城」として
約14間(約25m)・南北15間(約27m)
の規模との記述があるとのことです。
他方で、徳川家(蓬左文庫)所蔵の
「尾州知多郡大高之内鷲津丸根古城図」には、
約37m四方の曲輪に
東西約30m、南北約16mの曲輪が
幅約3mの堀に囲まれて
南北に並ぶという
詳細な構造が記されています。
また「日本城郭大系」は、
標高35mの丘上に
東西約35m・南北40mの規模を持ち、
堀を有していたという
記録に触れていますが、
出典が明らかではないとのことです。
【現況】
鷲津砦跡の指定地は、
長寿寺本堂の背後にあたる
鷲津砦公園およびその東に広がる
雑木林として保存されています。
けれども測量調査や
発掘調査はなされておらず、
城館の遺構を確認することはできません。
指定地が指定される以前より
個人が「鷲津砦阯」碑を建立しています。
昭和4年(1929年)発行の
「愛知県史蹟名勝天然記念物調査報告」では
当該地である字「鷲津山」のほかに
字「鷲津」地内にも候補地がある旨が
述べられているとのことです。
「古城図」に記された遺構を
字「鷲津山」の指定地に
比定することは困難であり、
現状では、指定地の北隣にあたる字
「鷲津」地内の丘陵(明忠院裏山)が
砦跡の候補地として
最も有力であるとされています。
【所在地】
〒459-8001 愛知県名古屋市緑区大高町鷲津山
※急こう配の坂道を上っていきます。
鷲津砦跡の看板がある公園は、
坂道及び住宅街なので
車は麓の有料駐車場に
駐車するのがよいでしょう。
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