城跡

小山城跡(こやまじょう)(遠江国)~武田VS徳川家康との激戦の地・赤い口の蛙伝説

小山城(遠江国)と模擬天守




小山城跡】

小山城(こやまじょう)は遠江国、
現在の静岡県榛原郡吉田町にかつてあった日本の城です。
吉田町指定史跡となっています。
小山城は武田四天王と呼ばれたひとり、
馬場信春によって築かれた城と伝わっています。
徳川家康との激しい戦いが
繰り広げられた城として知られています。
現在は能満寺山公園として整備されています。
甲州流築城術の特徴である丸馬出し、
三日月堀が史料を元に復元されています。
また、かつて物見台があったとされる
三の丸跡に犬山城天守をモデルにした
模擬天守(展望台小山城)が建てられています。

小山城(遠江国)遠景

【城郭構造】
連郭式平山城
【天守構造】
なし
望楼型3層5階(昭和62年、RC造り模擬)

【築城主】
馬場信春

【築城年】
元亀2年(1571年)

【主な城主】
大熊朝秀

【廃城年】
天正10年(1582年)

【遺構】
土塁、曲輪、堀、馬出し

【指定文化財】
吉田町指定史跡

【小山城の歴史】
正確な築年は不明です。
今川氏によって築かれた山崎の砦が
土台となったとの見方があります。
今川義元桶狭間の戦いに敗戦したのち、
武田信玄と徳川家康は、
大井川を境界として駿河を武田信玄、
遠江を徳川家康が領有することを約束していました。
けれども永禄11年(1568年)12月、
武田信玄がその約束を破って侵攻し、
今川氏真を討って山崎の砦を攻略したのでした。
一方徳川家康は松平真乗に城砦周辺の領地を与え、
元亀元年(1570年)4月に
城砦を落とすことに成功したのでした。
最も大井川を境界とした国分けの約束については、
徳川方の史料にはありますが、
武田方の史料には出てこないため、
武田信玄の違約とされている通説も確証はなく、
本当の事は今となっては不明です。





元亀2年(1571年)2月、
甲州から2万5000人の兵を率いて
攻め入った武田信玄はこれを真乗から奪取して
「小山城」と名付け、大熊朝秀(長秀)を
城主におき遠州攻略の拠点としたのでした。
それまで小規模の城砦にすぎなかったのですが、
武田方の改築によって
この時に本格的な築城されたと見られています。

小山城跡(遠江国)・赤い橋

小山城築城は大井川西方の防衛ラインを形成し、
武田方にとっては
高天神城攻略の為の拠点となったのでした。
これにより武田信玄は三河にて
足助、田代、二連木を取ったとされています。

武田信玄の病死後、子の武田勝頼が跡を継ぎました。
東海道の金谷原に諏訪原城を築城し、
高天神城攻めの足掛かりとしました。
けれども、新兵器・鉄砲の登場により、
武田の騎馬隊は長篠の戦いに敗退。
諏訪原城も落城し、残兵が逃げ帰った先が小山城でした。
勢いに乗った徳川軍は小山城を攻撃。
城番の岡部元信らの防戦により落城は免れました。
小山城は堅牢であったため、
滝堺城を通じて武田方の最前線である
高天神城への補給路の要となっていました。
これに対し徳川軍は、
城の南方にある吉田の田んぼの
青田刈りを行い食糧攻めを行ったのでした。
天正9年(1581年)3月に高天神城が落城。
翌年の天正10年(1582年)2月に
織田・徳川軍による甲州征伐が開始されると、
戦況をみた兵たちは城を捨て小山城は自落したのでした。

【小山城の構造】
小山城の築城法は特徴が顕著でした。
それもそのはずで、
築城の良し悪しを決定する縄張を行ったのは、
甲州流築城家の馬場信春だったのでした。
湯日川に面した舌状台地上に築城され、
本曲輪・二の曲輪・三の曲輪からなる
連郭式の城です。
甲州流築城術の特徴である
丸馬出し・三日月堀を持ちます。

小山城址(遠江国)

【三重の堀】
三重の三日月堀は内側から
幅7メートル、9メートル、10メートルであり、
内側の2つには土塁がありますが、
一番外の堀には土塁はありません。
このような三重の堀は、
他にあまり例がないとされています。

<三重堀>

三重堀(小山城(遠江国))

【現在の小山城】
昭和62年(1987年)9月、
吉田町が小山城址に能満寺山公園として整備し、
町のシンボルとして
模擬天守「展望台小山城」を建築しました。

小山城(遠江国)模擬天守

3層5階で、1、2階は史料展示室として
町ゆかりの歴史史料や甲冑などが展示されています。
3、4階は吹き抜け、5階は展望台となっており、
町内を一望のもと見渡せ、
晴天時には南アルプス連峰や
伊豆半島、御前崎の海岸線、駿河湾が遠望できる程の
眺めの良さです。
天守閣部分は犬山城を模したもので、
400年前の小山城にあったものではありません。

能満寺山公園 案内図

また、城西側に掘られたトンネル
(静岡県道230号住吉金谷線)は
備前守隧道と命名されました。

【口の赤い蛭の伝説】
三重堀にある勘介井戸には、赤い口の蛭がいます。
敗北を悟った武田軍は城に火をつけ
本陣の甲府へ逃げ帰ろうとしました。
その際、当時の大井川の激流を渡るには
女子供は足手まといになると考え、
愛する夫や子供の無事・帰郷を祈りながら
女たちは自ら井戸に身を投げ、
その霊たちは口の赤い蛭へ姿をかえたという伝説です。 

<小山城跡へ>
小山城への登城口

<能満寺>
大ソテツで有名です。
能満寺(門)

<小山城への道>
小山城への道

【交通アクセス】
【公共交通機関】
<島田駅>
島田駅(北口)から
「しずてつジャストライン」島田静波線・静波海岸入口行きに乗車
⇒片岡北吉田特別支援学校で下車、徒歩5分





<藤枝駅>★おススメです。
藤枝駅(南口)から
「しずてつジャストライン」藤枝相良線・相良営業所行きに乗車
⇒片岡北吉田特別支援学校で下車、徒歩5分

【車】
◆東名吉田IC⇒県道34号((主)島田吉田線)を右折
⇒約1.8km南下(国道150号方面へ)⇒
案内看板を右折し、約400m

◆国道150号⇒
国道150号の「片岡」交差点を北上(島田方面へ)、
約400m

【駐車場・トイレ】
あります。

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