城跡

末森城跡~末森城攻防戦の地~前田利家VS佐々成政、前田利家の加賀・能登統治の基礎構築の場。

末森城跡(遠景)



スポンサーリンク



【末森城】

末森城(すえもりじょう)は、
能登国羽咋郡末森村
(現在の石川県羽咋郡宝達志水町竹生野)
にあった日本の城です。
県指定史跡となっています。

【別名】
末守城、末盛城

【城郭構造】
連郭式山城

【天守構造】
なし

【築城主】
土肥親真?

【築城年】
不明

【主な改修者】  

【主な城主】
土肥氏、斎藤氏(上杉氏)、奥村氏(前田氏)

【廃城年】
元和元年(1615年)
【遺構】
土塁、曲輪跡

【指定文化財】
石川県指定史跡

【面積など】
末森山(標高138.8m)に所在したため、
この名で呼ばれていましたが、
「末守」あるいは「末盛」と記した
資料も残っているそうです。
曲輪は山中に点在し
合計面積は30,000㎡におよびます。

<末森城跡 案内板>
末森城跡 案内板

<末森城跡・登城口>
末森城跡 登城口

【歴史】
はじめ畠山氏の家臣で地頭職であった
土肥親真によって築城されたとされていますが、
詳しくは不明となっています。
天正5年(1577年)に
越後国より侵攻してきた上杉謙信に降伏しました。
斎藤朝信らが末森に入ったとの
記述があるとのことです。
その後、そのまま土肥親真が
城主として配されたとのことです。

けれども天正8年に、
加賀国の一向一揆を鎮圧した
織田氏家臣の柴田勝家らが侵攻してくると、再び降伏。
土肥氏は同地に改めて配された
前田利家の与力的な立場となったため、
これ以後は前田家の支配下となります。
なお、この際に土肥親真は
前田利家の妻芳春院(まつ)の姪を娶りますが、
末森城に在したため
「末守殿」と呼ばれたとのことです。

【末森城の戦い】
末森城は加賀国と能登国を繋ぐ交通の要所でした。
天正12年(1584年)、
徳川家康に同調した佐々成政が、
この城を攻めましたが、
城主であった奥村永福が死守しています。
この勝利により前田利家の
能登・加賀統治の基礎が築かれたともいえますが、
元和元年(1615年)の
一国一城令により廃城となりました。

本丸主門は、金沢城鶴の丸南門として
移築されていましたが、
宝暦9年(1759年)に
火災によって焼失してしまっています。
本丸は、津幡町加賀爪へ移転され、
加賀藩主代々の御旅屋として利用されていました。
明治10年8月28日に火災によって焼失しました。

昭和60年(1985年)から
押水町によって大規模な発掘調査が行われ、
山中からは生活用具や鉄砲の弾など
15世紀後半から16世紀後半の
歴史的資料が多く出土しました。
平成3年(1991年)に
石川県の史跡に指定されています。

本丸跡から日本海が遠望できます。

【遺構】
◆土塁、曲輪跡
◆若宮丸址




スポンサーリンク



【関連建造物】
<桜井三郎左衛門の像>
末森城の戦いで、前田利家を道案内した人物。
<末森山古戦場碑>
大河ドラマ「利家とまつ」を記念して設置。
<末森城跡鳥観図>
駐車場横にある案内板。末森城の縄張りが描かれる。

【所在地】
〒929-1305 石川県羽咋郡宝達志水町竹生野

【交通アクセス】
JR七尾線・宝達駅からタクシーで5分、徒歩45分程度。
駐車場あり

【駐車場及びトイレ】
末森城跡・駐車場とトイレ

【末森城の戦い】

末森城の戦い(すえもりじょうのたたかい)は、
天正12年9月9日(1584年10月12日)に
能登国末森城(石川県羽咋郡宝達志水町)で
行われた攻城戦です。
末森の合戦ともいいます。

【戦いの経緯】
天正12年(1584年)、
羽柴秀吉織田信雄・徳川家康連合軍が
小牧長久手の地で対峙しました。
それに呼応し、織田・徳川連合軍に味方した
越中国の佐々成政は、
8月28日に羽柴方の前田利家の朝日山城を急襲。
(石川県金沢市加賀朝日町)
前田家の家臣である村井長頼がこれを撃退しました。

9月9日、
佐々成政は前田利家の領国である
加賀国と能登国の分断をはかるべく、
宝達山を越えて坪山砦に布陣し、
総勢15000人で末森城を包囲します。
前田利家の増援軍を警戒し、
神保氏張を北川尻に置いて警戒にあたらせました。

9月10日、
戦闘が始まると
城将である奥村永福・千秋範昌らの
篭城軍(1500人)程度が
篭城戦を展開しました。
戦況は佐々軍が有利であり、
前田方の城代土肥次茂(土肥親真の弟)
が討死するなど、
落城寸前にまで追い込まれます。

金沢城にて急報を聞いた前田利家は、
兵2500人を率いて出陣しました。
高松村(かほく市)の農民である
桜井三郎左衛門の案内により、
佐々軍の手薄な海岸路に沿いながら
北川尻を越えて今浜まで進軍。
9月11日明け方には
末森城に殺到する佐々軍の背後から攻撃し、
これを破りました。
両軍ともに750人余りの死者が出たと
されています。

【戦のあと】
佐々成政は越中国に向けて退却しましたが、
途中で無人であった鳥越城
(石川県河北郡津幡町七黒)を占領しています。
鳥越城が無人だった理由は、
城将の目賀田右衛門、丹羽源太郎の両名が
「利家が末森の戦いに敗れた」
との誤報により城を放棄していたからだということです。

【富山の役】
以降、佐々成政は守備を固めて守勢に転じました。
前田利家は領国の防衛に成功し、
小牧・長久手の戦い
政治的勝利を収めた羽柴秀吉と協力し
攻勢を強めていくのです。

前田利家とまつ~加賀百万石の礎を築いた二人は従兄妹同士~まつの生き方が凄い!!

金沢城~加賀百万石の城~歴史的建造物と再建造物の素晴らしさを堪能できるお城です。

富山城~築城は畠山氏家臣の神保氏、上杉氏や佐々氏との攻防を経て富山加賀藩として明治まで存在。

高岡城(越中国)~「高岡」の地の名付け親、前田利長公が築いた城、日本100名城です。

高岡山 瑞龍寺~前田利長公の菩提寺~国宝、江戸初期の禅宗寺院建築が見事です。

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

織田信長について~駆け足で手短にわかる織田信長の49年~

羽柴秀吉(豊臣秀吉・木下藤吉郎)~下層民から天下人~の生涯を手短に!

長久手古戦場公園~徳川家康VS羽柴秀吉の小牧・長久手の戦いのうち主戦場となった長久手の戦いの場所。

上杉謙信について~越後の龍・49年の生涯~駆け足で超手短に!

尾山神社~主祭神は加賀藩の藩祖前田利家と妻のまつ~ギヤマンのある神門

兼六園~日本三大名園・国の特別名勝~前田藩庭から市民の庭、そして世界の庭へ

越中国守館跡~越中国~大伴家持が赴任し暮らした館、万葉集を中心に良く歌に詠まれた国 

和倉温泉~開湯1200年~白鷺が癒し、畠山氏が保護、前田利常公が整備した湯の湧く浦

和倉港より出発!七尾湾イルカウオッチング&クルーズ、ミナミバンドウイルカの家族に会いに行こう!!動画あり。

能登金剛~遊覧船で巌門を観光できます!奇岩、奇勝、断崖が連続する能登を代表する景勝地

千里浜なぎさドライブウェイ~日本で唯一砂浜をドライブできる道路~動画あり!

穴水城跡~畠山七人衆で、加賀八家である長一族の元々の本拠地~ご先祖は長谷部信連

荒子城跡~築城は前田利春、四男であった前田利家が家督を継ぎ城主となりました。

関連記事

  1. 古木江城跡(愛知県愛西市) 古木江城~伊勢長島の一向宗の抑えとして織田信長の弟である織田信興…
  2. 網代城(あきる野市) 遠景 網代城~戸倉城と高月城を結ぶ 烽火台として築城された支城の可能性…
  3. 藤倉舘(会津) 藤倉舘~三浦一族の佐原盛蓮の三男・藤倉盛義の居館と伝えられていま…
  4. 宇龍城跡 登城口 宇龍城跡~奥出雲産の鉄の積出港として大変栄えた宇龍の湊。
  5. 月山富田城跡(山中御殿付近) 月山富田城~出雲国守護の城、170年間尼子氏6代の本拠地で別名は…
  6. 金剛寺(今井城) 横浜 今井城(今井砦)~木曾義仲家臣で巴御前とは兄弟である今井四郎兼平…
  7. 津幡城跡(物見砦) 津幡城~平維盛が砦を築き、富樫氏が戦い、上杉謙信が布陣、前田利家…
  8. 三河・東条城 三河 ・東条城~東条吉良氏・東条松平氏の居城、藤波畷の戦いで吉良…



スポンサーリンク




コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

おすすめ記事

  1. たね(築山殿侍女)~西郷局暗殺疑惑の侍女か、伊奈忠基の娘か、河井某か、藤原南家流の川井氏か、それとも? 桶狭間古戦場公園 大高城ジオラマ

ピックアップ記事

  1. 清龍寺・信康廟
  2. 足利公方屋敷跡(鎌倉)
  3. 河村城跡 本丸跡
  4. 新井城址碑
  5. 沢山城(三輪城) 町田市
スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
PAGE TOP