城跡

穴水城跡~畠山七人衆で、加賀八家である長一族の元々の本拠地~ご先祖は長谷部信連

穴水城跡




【穴水城】

穴水城(あなみずじょう)は、
能登国鳳至郡穴水村川島、
現在の石川県鳳珠郡穴水町川島に
存在した日本の城です。
現在は町の史跡に指定され、
穴水城址公園として整備されています。

【別名】
岩立城、白藤城、白波城、岩木城

【城郭構造】
山城
【築城主】
長氏

【築城年】
文治2年(1186年)

【主な城主】
長氏、温井氏、長沢光国(上杉氏)、前田氏

【廃城年】
天正11年(1583年)

【遺構】
曲輪、堀

【指定文化財】
穴水町指定史跡

【再建造物】
なし

【穴水城について】
長きに渡り守護大名畠山氏の重臣、
長一族の居城でした。
長氏の祖にあたる長谷部信連によって
文治2年(1186年)に
築城されたと伝えられています。

畠山家滅亡後、
天正5年(1577年)に
上杉謙信の手に渡り、
越中衆である長沢光国が入城しました。

【菱脇の戦い】
天正6年(1578年)に上杉謙信が急死すると、
長連龍が織田信長の支援のもと
奪還に成功しています。
天正11年(1583年)に廃城となりました。

【現在の状況】
城跡は公園となっており、
桜が植えられています。
また、長氏34代・長昭連の揮毫による
穴水城趾の石碑が建てられています。
三の丸跡から穴水港が遠望できるとのことです。

【交通アクセス】
のと鉄道穴水駅より徒歩20分程度

【所在地】
〒927-0027 石川県鳳珠郡穴水町字川島

【長谷部 信連】

長谷部 信連(はせべ のぶつら)は
平安時代末期から
鎌倉時代前期にかけての武将。
右馬允・長谷部為連の子です。
長氏の祖となります。

【時代】
平安時代末期 – 鎌倉時代前期

【生誕】
不詳
【死没】
建保6年10月27日(1218年11月16日)

【別名】
長兵衛尉(通称)

【官位】
左兵衛尉

【幕府】
鎌倉幕府

【主君】
以仁王⇒源頼朝

【氏族】
長谷部連長谷部氏

【胆勇な人となり】
人となりは胆勇あり、
滝口武者として常磐殿に入った強盗を
捕らえた功績により
左兵衛尉に任ぜられたそうです。

【上司を護る】
後に以仁王に仕えましたが、
治承4年(1180年)に
以仁王が源頼政と謀った
平氏追討の計画(以仁王の挙兵)が発覚したとき、
以仁王を園城寺に逃がし、
検非違使の討手に単身で立ち向かったそうです。
奮戦するが捕らえられ、
六波羅で平宗盛に詰問されるも屈するところなく、
以仁王の行方をもらすことはなかったそうです。
平清盛はその勇烈を賞して、
伯耆国日野郡に流したとあります。

【能登国珠洲郡大家荘を与えられる】
平家滅亡後、源頼朝より
安芸国検非違使所に補され、
能登国珠洲郡大家荘を与えられました。





【穴水の国人として】
長谷部信連の子孫は
能登国穴水の国人として存続していき、
長氏を称して
能登畠山氏、加賀前田氏に仕えました。
また、曹洞宗の大本山である
總持寺の保護者となり、
その門前町を勢力圏に収めて栄えたのでした。

<穴水城跡(遠景)>
穴水城跡(遠景)

【長氏】

長氏(ちょうし)は、日本の氏族のひとつ。
能登の国人領主です。
畠山七人衆であるとともに加賀八家の一つです。

【始祖は長谷部氏】
はじめ姓は「長」ではなく「長谷部」でした。
鎌倉時代、鎌倉幕府の御家人となった
長谷部信連が始祖となります。
長谷部信連は鎌倉幕府から
能登大屋荘を与えられて領主化しました。
その子孫が「長」姓に改めたのでした。

【室町・戦国時代】
室町時代に入ると、
能登畠山氏の家臣として仕えました。
長氏で最も著名な人物は、
第19代当主となった長続連、
その息子で第20代当主である長綱連、
第21代当主・長連龍らの親子です。

【畠山七人衆として】
長続連は能登穴水城主で、
もとは平加賀秀連の次男でした。
第17代当主・長英連の養子となって
長氏を継いだのでした。
長続連は畠山義続の時代から
畠山七人衆の一人として暗躍しました。

【織田信長側につく】
やがて能登に織田信長の勢力が伸張してくると
織田信長と誼(よしみ)を通じて
上杉謙信に通じた遊佐続光らを中枢から遠ざけ、
子の長綱連と共に幼君の畠山春王丸のもと、
実権を掌握したのでした。

七尾城の戦いで一族滅亡の危機】
天正4年(1576年)、
上杉謙信による能登侵攻を受けました、
長続連主導のもと、
七尾城に立て籠もって一度は撃退しました。
けれども天正5年(1577年)、
上杉謙信の再侵攻を受け、
その籠城戦の最中に城内で
疫病が流行って進退に窮し、
最後は上杉謙信と内通した遊佐続光らによって
長続連、長綱連ら長一族は
大半が殺されてしまったのです。

【長連龍に託された一族の未来】
このとき、長一族で生き残ったのは、
長続連の次男で織田信長のもとに
援軍要請に赴いていたために
命拾いした長連龍と、
長綱連の末子で七尾城から
乳母に抱かれて脱出した
長菊末丸のみでした。
長菊末丸はのちに
京都清浄院で僧侶となりました。
長連龍は父や兄の死後、
長氏の家督を継いで織田信長の家臣となり、
能登攻めに抜群の功を挙げて
父の仇である遊佐続光らを討ち果たしたのでした。

前田利家に仕える】
天正10年(1582年)に
本能寺の変にて織田信長が死去すると、
七尾城主となった前田利家に仕え、
以後は加賀前田家に臣従したのでした。

【江戸時代】
長氏は前田家臣従後も
鹿島郡の半分の3万3000石を領有し、
半大名状態でした。
しかしながら、長連龍の曾孫の代である
長尚連の時代にお家騒動が勃発し、
収拾できなかったことから、
前田綱紀は長氏の鹿島半郡の領主権を
取り上げたのでした。
以後は金沢在住の前田家重臣
(禄高:3万3000石)として
長氏は存続したのでした。

【明治維新後】
維新後、長氏は男爵に叙せられました。
また、島田一郎ら5人と共に
東京の紀尾井坂にて
大久保利通を暗殺した長連豪や
太平洋戦争当時、
沖縄戦を戦った
帝国陸軍第32軍参謀長長勇中将は
長氏の末裔とのことです。

2013年(平成26年)、
34代当主の長昭連氏が
穴水町の名誉町民になったとのことです。

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