本能寺の変を成功させた明智光秀(あけちみつひで)ですが、その後、山崎の戦いに敗れたあと、敗走中に農民によって殺害されたのが最後で死因とされています。
中国大返しで京に迫った羽柴秀吉を、山崎の戦いで決戦に挑んだ明智光秀でしたが、戦力差もあり敗走しました。
一旦、明智勢は勝竜寺城へ後退しましたが、1万もの軍勢を収容できる規模ではなかったため、兵の逃亡が相次ぎました。
そのため、明智光秀ら僅かな主従は、夜陰に紛れて、城から落ち伸びようとしました。
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再起をかけ、近江・坂本城へ向かい、軍勢を立て直そうとしましたが、その逃走途中、小栗栖(おぐりす)の竹藪を通過中に、落ち武者狩りの農民に襲撃されます。
このとき、農民は「竹槍」で明智光秀の胴体を突いたと一般的に伝わっています。
重傷を負い、馬から落ちた明智光秀は、家臣の溝尾茂朝に介錯を頼み、自刃して果てました。
よって、明智光秀の死因、明智光秀の最後としては、落ち武者狩りにあったと言えるでしょう。
明智藪(あけちやぶ)
小栗栖と言う場所は、京都の伏見にあります。
下記の地図ポイント地点です。
縮尺は変更操作してご確認頂けますと幸いです。
現在、明智光秀が襲撃されたとされる「明智藪」(あけちやぶ)があり、明智光秀「終焉の地」とされています。
明智藪は「藪」(やぶ)と言うだけに、本当に「藪」でして、道も歩行者が通れる小道となっています。
藪だけでは信じてもらえない為か、石碑もあります。
後年に設けられたのでしょう。
この付近には、小栗栖城(小栗栖館)があり、城主・飯田家は、織田信長に仕えていたとされます。
そのため、その飯田一族が明智光秀を討ち取ったとも言われていますが、本当に飯田家が討ち取ったのでしょうか?
本能寺の変に関して詳しく記載されているる吉田兼見の「兼見卿記」では、農民によって明智光秀の首は村井清三に届けられ、織田信孝の元へと送られると、最初は本能寺の焼け跡に、されさらたとあります。
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この頃、失礼な言い方をすれば、飯田家は没落しており、ほとんど農家であったとも考えられます。
そんな飯田家ですから、何名か引き連れて、明智光秀の一行を襲ったときには、協力者は、農民だったのでしょう。
そのため、槍や刀で討ち取られたのではなく、竹で作った槍にて明智光秀が刺されたと言う事です。
下記は小栗栖城(小栗栖館)があった跡地にある小栗栖八幡宮です。
小栗栖の竹藪から1段高いところには、本経寺があります。
その本経寺の境内には明智光秀の供養塔が設置されていました。
なお、明智藪から北に約2km離れたところには「明智光秀の胴塚」があります。
首塚は明智光秀の家来・溝尾茂朝が、首を持ち帰って埋葬したと伝わります。
しかし、溝尾茂朝は明智光秀を介錯したあとに、すぐ自刃したと、別の伝承もあります。
この明智光秀の胴塚も、場所がわかりにくく、注意してみていないと通り過ぎてしまいます。
下記の地図ポイント地点が、まさにその「胴塚」の場所を示しています。
地図では道路沿いに見えるかも知れませんが、正確には道路沿いではなく、道路脇の空き地(私有地・駐車スペース)と建物(建築資材屋さん?)の脇となります。
下記の写真をご参照願います。
すぐ近くに、コイン精米があるので、それが目印になるかも知れません。
説明版などもなく、現在でも不遇な扱いの明智光秀と言えるかも知れません。
ちなみに、明智光秀の首塚は京都の八坂神社近くにあります。
他には丹波・神尾山城から近い谷性寺と、上宮津城から近いに盛林寺に明智光秀の首塚があり、京都・東山の明智光秀首塚碑もあります。
→明智光秀とは?数奇なその生涯 本能寺の変と最後の地「明智藪」【麒麟がくる】
→坂本城・要所かつ豪壮華麗な明智光秀の居城~琵琶湖の浮城~
→天下分け目の山崎の戦い 明智光秀は遠慮して負けたか?
→本能寺の変と織田信長・明智光秀の関係に迫る
→本能寺のあと明智光秀に従った京極高次と武田元明
→本能寺とは 京都・本能寺の歴史
→溝尾茂朝 明智光秀を介錯した家臣と谷性寺の首塚
→桔梗塚(伝明智光秀公墓)
→明智光秀の家臣一覧表・明智一族・明智家臣団リスト
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