史跡・城跡

一乗谷館跡と朝倉氏~一乗谷朝倉氏遺跡・国の三重指定、103年間の栄華の跡

一乗谷 朝倉氏館跡



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一乗谷朝倉氏遺跡】

一乗谷朝倉氏遺跡
(いちじょうだに あさくらし いせき)は、
福井市の南東約10キロ、
福井県福井市城戸ノ内町にある
戦国時代の遺跡(日本の城)です。
戦国時代、朝倉氏五代が103年間にわたって
一乗谷城を中心に越前国を支配した
戦国大名朝倉氏の遺跡です。
一乗谷城(山城)と
山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)
から成り立ちます。
武家屋敷・寺院・町屋・職人屋敷や
道路に至るまで町並が
ほぼ完全な姿で発掘されています。
遺跡全体の面積は278ヘクタールで、
そのすべてが、
国の特別史跡の指定を受けています。

そのうち4つの日本庭園は
一乗谷朝倉氏庭園の名称で、
国の特別名勝の指定を受けています。

日本100名城に選定されています。
スタンプ設置場所は
復原町並入口(南・北)です。

【所在地】
〒910-2153 福井県福井市城戸ノ内町

【電話】0776-41-2173

<園内マップ>
一乗谷朝倉氏遺跡 リーフレット

【開館(利用)時間】
一乗谷朝倉氏遺跡
見学自由、
【復原町並】
午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)

【休館日】
【一乗谷朝倉氏遺跡】⇒見学自由、
【復原町並】
無休。
ただし年末年始を除きます。

【入場料】
【復元町並】
大人:210円
団体(20名以上)210円×人数×0.75(10円未満切り捨て)
70歳以上・障害者は無料(ただし、証明書が必要)
※ 一乗谷朝倉氏遺跡資料館との共通券230円

【お問い合わせ】
0776-41-2330(朝倉氏遺跡保存協会)

【駐車場】
有り。
●一乗谷史跡公園センター
●復元町並及び朝倉館跡の向かい側あたり
●管理棟&休憩所&朝倉そば亭付近
●上城戸付近

【レンタサイクル】
「一乗谷朝倉氏遺跡資料館」【一乗谷駅近く)
に大人用5台、子供用が3台あります。
「復原町並」に大人用が5台あります。
西山光照寺跡、富田勢源道場跡、盛源寺などの見学に便利です。
一乗滝までは復原町並南入場口より約3キロあります。

【交通アクセス】
【電車】
「JR福井」駅⇒「一乗谷」駅下車⇒徒歩10~15分⇒下城戸
<越美北線>15分

【車】
【福井方面】
北陸自動車道「福井IC」⇒国道158線大野方面⇒
ローソン信号で右折⇒天神橋を渡って左折⇒
福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館(安波賀町)⇒
一乗谷朝倉氏遺跡(城戸ノ内町)

永平寺方面】
国道364号線⇒国道158線経由(約20分)⇒朝倉氏遺跡

【タクシー】
「 福井市内・あわら温泉」⇒観光タクシー】

【路線バス】
「JR福井」駅より

福井駅(西口バスターミナル)のりば
京福バス




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【朝倉氏遺跡資料館】
城下町遺跡から発掘された貴重な出土品や
遺跡に関する歴史資料、模型などを展示し、
一乗谷文化を分かりやすく紹介しています。

※※朝倉氏に関する資料や出土品、
一乗谷のジオラマなどがあり、
訪問された方の感想は上々、だそうです。
レンタサイクルのブレーキ、
一部の自転車は効きが良くないとのことです。

【開館】
午前9時~午後5時

【休】年末年始(臨時休業あり)

【入館料】
一般・大学生:100円
高校生以下及び
70歳以上及び障害者:無料(ただし、証明書が必要)
復原町並との共通券230円

【電話】
0776-41-2301:
遺跡内の散策に便利なレンタサイクル申込窓口(無料)

【所在地】
福井県福井市安波賀町4−10

【立地など】
現在の福井市街の東南方向に約10キロメートル離れた、
九頭竜川支流の足羽川の、
さらに支流である一乗谷川沿いの谷あいにあります。
戦国時代の城下町と館跡、
および背後の山城から構成されています。

【交通の要衝】
一乗谷は東西約500メートル、
南北約3キロメートルですが、
福井平野の端から山地に入って
すぐの場所に位置し、
数キロメートル先の目前には
北陸道や大野盆地(大野市)に通じる
美濃街道、鹿俣峠を抜け
越前府中(越前市)へ続く街道、
北陸道と連絡した朝倉街道どが通る、
交通の要衝をすぐ押さえられる位置でした。

【天然の要害】
一乗谷は東、西、南を山に囲まれ、
北には足羽川が流れる天然の要害です。
南北に城戸を設け、
その間の長さ約1.7キロメートルの
「城戸ノ内」に、朝倉館(武家屋敷)をはじめ、
侍屋敷、寺院、職人や商人の町屋が
計画的に整備された道路の両面に立ち並んでいます。
日本有数の城下町の主要部を形成していました。
周辺の山峰には城砦や見張台が築かれ、
地域全体が広大な要塞群でありました。

【一乗谷の歴史】
「朝倉始末記」によりますと、
文明3年(1471年)に
戦国初代朝倉敏景(孝景・教景)が
黒丸館(福井市黒丸町)から
本拠を移したと記されています。
けれども、「朝倉家伝記」や「朝倉家記」
などの新資料によると、
朝倉氏は南北朝時代には既に、
一乗谷を本拠にしていたような
記述があるようです。
文明年間には重臣が
一乗谷に集住するようになり、
また、足利将軍家の分家である
鞍谷公方などもいたことから、
応仁の乱により荒廃した京から、
多くの公家や高僧、文人、学者たちが
避難してきたため一乗谷は飛躍的に発展し、
華やかな京文化が開花したと推測されています。
このため北ノ京とも呼ばれていました。
戦国4代朝倉孝景の頃から全盛期を迎え、
最盛期には人口1万人を超え、
越前の中心地として栄えていました。




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【足利歴代将軍と一乗谷】
明応8年(1499年)には、
第10代将軍である足利義稙が
朝倉貞景を頼り来訪しています。
永禄10年(1567年)11月21日には
戦国5代朝倉義景
足利義昭を安養寺に迎えています。
朝倉義景は足利義昭を歓待しましたが、
同年7月24日、
足利義昭は上洛を果たすため
織田信長を頼って美濃国に出国します。

【一乗谷、灰燼に帰す】
天正元年(1573年)8月16日、
刀根坂の戦いに大敗した朝倉義景は
一乗谷を放棄し大野へ逃れました。
翌日、織田信長の軍勢によって火を放たれ
一乗谷は灰燼に帰しました。
三日三晩燃えていたと伝わっています。

【越前一向一揆】
この戦の功績により織田信長から
守護代職を与えられた
朝倉氏旧臣の桂田長俊前波吉継)が
一乗谷に館を構え、越前を統治していました。
けれども、同じ旧臣である富田長繁ら国人は
前波吉継に反感を抱いており、
民衆に一揆を起こさせるべく画策したのです。
天正3年(1575年)1月18日、
吉田郡志比庄で一揆勢が蜂起、
翌日には富田長繁を先頭に
坂井郡、吉田郡、足羽郡の
一揆勢3万3千人が一乗谷に攻め入り、
富田長繁は一族もろとも討ち取られました。
いわゆる越前一向一揆と呼ばれる合戦です。

【歴史の彼方と土砂に埋もれる一乗谷】
織田信長が一揆を平定した後、
越前八郡を与えられた柴田勝家は、
本拠を水運・陸運に便利な北ノ庄に構えたため、
一乗谷は辺境となってしまい、
田畑の下に埋もれていきました。
優れた造りの庭園も堆積する土砂と
時間の流れに埋もれていきました。
それから幾つもの時が経ち
1967年(昭和42年)に
発掘が開始され注目されるようになりました。

京都の金閣寺や広島の厳島神社に並び、
国の三重指定(特別史跡・特別名勝・重要文化財)
を受ける大変貴重な遺跡となっています。

<下城戸>
かつての要塞都市の跡を標すものです。
一乗谷を防御するため、
谷の南北に築かれた城門のひとつ、
北側の入口にあたります。
谷が最も狭い所で大きな岩を使って
敵の侵入を防ぎました。
高さは55m、長さは20mあり、
45t以上の岩が使われています。
下城戸

<平面復元地区>
この地区には幹線道路が南北に走り、
西の山際には多くの寺院跡があって、
土塁、柿経、卒塔婆、墓地などが発見されています。
道路沿いには、大甕を、並べた紺屋をはじめ、
数珠屋、鋳物屋、檜物師、刀研ぎ師などの
職人の家や坪庭のある医者の家が建ち並び、
町屋を形成していました
平面復元地区




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<朝倉館跡・唐門>
義景館跡の入口に建つ唐門は
江戸時代に設けられた松雲院の正門。
桜との競演が見物で、
年中ライトアップされています。
朝倉氏五代義景様の菩提を弔うために
建てられたお寺、松雲院の正門です。
江戸時代前期の建物で、
豊臣家が移築寄進したと伝えられています。
朝倉館跡 唐門

<朝倉館跡・説明版>
朝倉館跡 説明版

<朝倉館跡・内部>
朝倉館跡 内部

<朝倉館跡・内部その2>
朝倉館跡 内部2

<五代 義景公墓所>
一乗谷に居館を構えてから五代目という意味です。
五代目 義景公墓所

<特別名勝一乗谷朝倉氏庭園>
平成3年には諏訪館跡庭園、湯殿跡庭園、
館跡庭園、南陽寺跡庭園を含む
4205㎡が特別名勝に指定されました。
特別名勝一乗谷朝倉氏庭園

<義景館跡庭園>
一乗谷の領主の館です。
館の面積は6500㎡程の
敷地がありました。
5代目の朝倉義景公が住み、
三方が土手と濠で囲まれ常御殿、
主殿、会所などの建物が真中の
日本最古の花壇を囲み、
その外側に台 所、 厩、蔵などが
建っていました。
義景館跡庭園

<一乗谷朝倉氏遺跡のジオラマ>
一乗谷朝倉氏遺跡 ジオラマ

<復元町並>
塀に囲まれた重臣の屋敷が山際に並び、
計画的に造られた道路をはさんで、
武家屋敷や庶民の町屋が成形されていた
様子がリアルに再現されています。
発掘された塀の石垣や建物礎石をそのまま使い、
柱や壁、建具なども出土した
遺物に基づいて復原されています。
復元町並

<復元町並の内部>
城下町の人々の暮らしの再現。
復元町並 暮らしの再現




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<一乗谷城・遠景>
復元町並から見た一乗谷城です。
一乗谷城

<復元武家屋敷>
塀に囲まれた重臣の屋敷が山際に並び、
計画的に造られた道路をはさんで、
武家屋敷や庶民の町屋が
成形されていた様子が
リアルに再現されています。
発掘された塀の石垣や建物礎石をそのまま使い、
柱や壁、建具なども出土した
遺物に基づいて復原されています。
復元武家屋敷 門

<復元武家屋敷・井戸など>
復元武家屋敷 井戸など

<復元武家屋敷・主殿>
復元武家屋敷 主殿の図面

<復元武家屋敷・主人と客人>
復元武家屋敷 主人と客人

<復元武家屋敷 主殿の台所>
復元武家屋敷 主殿の台所

<城内全景>
城内全景

<茶屋敷(離れ屋敷)>
茶屋敷(離れ屋敷)

<厠(トイレ)>
厠(トイレ)

<上城戸>
かつての要塞都市の跡を標すものです。
一乗谷を防御するため、
谷の南北に築かれた城門のひとつ、
南側の入口にあたります。
一乗谷川と山に挟まれて狭くなった箇所に
土塁が築かれています。
高さ5m、長さ50mあります。
上城戸

【一乗谷城】
朝倉氏によって当主館の東側背後、
西方に福井平野を一望できる
標高473メートルの一乗城山に
築城された中世山城です。
15世紀前半には築かれていたと考えられています。
一度も戦闘に使用されることなく
廃城となりました。
現在でも、曲輪、空堀、堀切、竪堀、土塁や
伏兵穴跡などの遺構が
尾根や谷筋に沿って残っているそうです。
全長1.5キロメートル、
幅200メートルの曲輪を配し、
主郭部分はおよそ600メートル×200メートルです。
本丸(千畳敷)は標高416メートルに位置し、
東南へ尾根伝いに一の丸(443メートル)、
二の丸(463メートル)、
三の丸(473メートル)となります。
各曲輪は堀切によって区切られており、
この形式を連郭式城郭といいます。
元亀年間には織田信長の侵攻に備えて、
約140条の畝状竪堀を
築くなどの改修が行われた痕跡があるようです。
一乗谷城付近と上城戸

北西の低い場所には小見放城という出城が築かれ、
馬出しなどが設けられていました。
なお、一乗谷の周辺の山峰にも、
東に東郷槙山城、
北に成願寺城、
南に三峰城などの出城が築かれていました。




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【山城登山について】
山城へは下城戸(片道約70分)・
馬出(八幡神社)(片道約50分)より登れます。
平成16年福井豪雨により英林塚の登山道は閉鎖しました。

トレッキングシューズ、コンパス、地図、
長袖長ズボン、飲料水、クマよけの鈴、
虫よけ、ハチ除けのスプレーなど
しっかりとした登山の装備をして
登城することをお勧めします。

公式サイト⇓⇓⇓
登山ルート

【朝倉氏】

朝倉氏(あさくらし)は、
但馬国を拠点とした豪族でした。
その後、越前国を拠点とし、
後に発展して戦国大名となった
越前朝倉氏が有名です。

【朝倉氏の発祥】
但馬には、開化天皇の後裔とも
孝徳天皇の後裔とも伝わる日下部氏が、
平安時代から大武士団を
形成し栄えていました。
朝倉氏は、
この日下部氏の流れをくむ氏族のひとつです。

朝倉氏の本貫は但馬国養父郡朝倉、
現在の兵庫県養父市八鹿町朝倉です。
但馬朝倉氏から分かれて
越前に移った系統が越前朝倉氏です。
越前朝倉氏は、越前国守護である斯波氏に仕え、
甲斐氏、織田氏に次ぐ、
斯波三守護代の第三席となりました。
後に朝倉氏自体が守護に
任命されるようになって自立し、
越前国を支配する戦国大名となったのでした。

日下部氏の流れをくむ氏族は他に、
山陰最大の守護大名である
山名氏の家老職である
太田垣氏・八木氏・田公氏などがいます。
とくに太田垣氏・八木氏は
山名氏の分国の守護代を勤めて
山陰道・山陽道で栄えました。

【但馬朝倉氏】
平安時代末期に日下部宗高が
但馬国養父郡朝倉に居住し、
はじめて朝倉氏を称したとされています。

伝説では、日下部宗高の子である朝倉高清は
平家に与したことで鎌倉時代に
領地を没収されましたが、
関東で誰も退治できなかった
白猪を射て退治した功績により、
源頼朝より領地の安堵と
木瓜紋を賜ったとされています。
その後、朝倉氏は朝倉城を築き、
代々この城を拠点としました。
通し字は「高」となります。

朝倉高清の長男である
朝倉安高は八木氏を興し、
次男の朝倉信高が
朝倉氏を継いだとされています。
承久の乱で朝倉信高は敗れた
京方に付いたため朝倉氏は衰退しました。
このため八木安高の孫である
八木高実が朝倉氏を継いだとされています。

室町時代には、
但馬守護の山名氏に仕えましたが、
戦国時代に織田信長に敗れました。




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【越前朝倉氏】
越前朝倉氏は鎌倉時代末期から
南北朝時代、足利氏の一族である
斯波氏に仕えた朝倉広景
(建長7年(1255年)⇒
正平7年/観応3年2月29日
(1352年3月15日))
から始まります。
通字は「景(かげ)」です。
元は但馬国養父郡朝倉庄の
代官であったと伝えられています。

次代の朝倉高景は、
(正和3年(1314年)⇒
文中元年/応安5年5月2日
(1372年6月3日))
斯波高経に仕えて、
斯波高経が守護に任じられた
越前国に所領を与えられました。
斯波高経が室町幕府によって
越前守護を追われて討伐された
貞治の変の際には、幕府軍に寝返って
所領を安堵されています。

その後、外来の武士ながら
越前国に定着して勢力を築いていきました。
斯波氏が越前守護に復帰すると
帰参しましたが、
既に越前に勢力を築いていた
朝倉氏の存在を斯波氏も
無視する事は出来ず、
室町時代に入ると、
甲斐氏・織田氏とともに
守護代に任ぜられるようになりました。




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【朝倉孝景】
室町時代後期に入ると、
朝倉孝景(英林孝景)は
(応永35年4月19日(1428年6月2日)⇒
文明13年7月26日(1481年8月21日))
守護代の甲斐常治とともに、
主である斯波義敏と対立し、
長禄合戦を引き起こしました。
足利将軍家の家督争いなどから
発展した応仁の乱では、
山名宗全率いる西軍から
細川勝元率いる東軍に
寝返ったとされています。
越前では甲斐氏を圧迫して
国内をほぼ統一し、
斯波氏に代わって
越前国守護に取り立てられました。
朝倉孝景は分国法である
「朝倉敏景十七ヶ条」を制定し、
戦国大名としての朝倉氏初代となりました。

【一乗谷城の築城】
「朝倉始末記」によりますと、
朝倉孝景が文明3年(1471年)に
一乗谷城を築いたとされています。
近年では、もう少し早い時代、
15世紀前半には朝倉氏が
一乗谷に移っていたとの見解が出されています。
それ以前に朝倉氏が本拠としていた
黒丸については、
坂井郡三宅黒丸(現・福井県福井市三宅町)説のほか、
足羽郡北庄黒丸(現・福井市中央)説があるそうです。

旧主の斯波義敏が越前守護職を奪還しようと、
朝倉氏の越前実効支配について
幕府に異議を申し立てました。
すると朝倉孝景は、
かつて守護であった斯波義廉の子を
鞍谷公方の養子として
足利義俊と名乗らせた上で
幕府の反対を押し切って
足利この義俊を「名目上の越前国主」
として擁立し、越前守護の斯波氏に対抗しました。
後に朝倉氏自体が越前守護に
任じられることとなったため、
鞍谷公方足利氏は朝倉氏の客将と化し、
朝倉氏が名実ともに越前の大名となりました。

<鞍谷公方(くらたにくぼう)>
足利義持の弟、
足利義嗣の子である
足利嗣俊を祖とします。
足利将軍家の越前における分家、
鞍谷御所と呼ばれて
尊崇を集めていたそうです。

ただし、異説として
鞍谷公方は後世の創作で、
実は奥州斯波氏の嫡流に近い
斯波氏の庶流であり、
斯波氏宗家に準じた家格を持つ家
であったとする説もあるそうです。

【戦国時代の朝倉氏】
戦国時代には早期から越前一国を安定的に支配し、
その余勢で隣国の
若狭、加賀、近江、美濃にも出兵しました。

【足利義昭を庇護】
謀反で殺された
室町幕府第13代将軍である
足利義輝の弟である
足利義昭が落ち延びて来ると、
第11代当主の朝倉義景はこれを庇護します。
けれども足利義昭を擁しての上洛はせず、
代わってそれを実行した尾張国の
織田信長が京都の政権を掌握しますが、
その後も従うことはありませんでした。




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【織田信長に滅ぼされる】
朝倉義景は浅井長政らと同盟して
織田信長と度々戦いましたが、
天正元年(1573年)に敗れて
一乗谷を焼かれ、朝倉義景は自刃しました。
戦国大名としての朝倉氏はここに滅びました。

【子孫】
越前朝倉氏の一族とされる
朝倉在重が徳川家に仕え、
その子の朝倉宣正は
徳川忠長の附家老・掛川城主になります。
けれども、徳川忠長の改易に連座して
朝倉宣正も改易となってしまいます。
朝倉宣正の弟の家は江戸幕府旗本として存続しました。

朝倉義景の墓~義景清水~孤独を纏う朝倉家最後の当主・戦よりも芸事と内政が得意

足利義昭・最後の室町幕府将軍、懲りずに粘って兄の分まで生きる!歴代足利将軍の中で最も長生き!

国吉城~難攻不落の落ちない城~朝倉攻防10年間・粟屋勝久守りぬく!

小谷城~浅井家三代~浅井亮政・浅井久政・浅井長政

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