織田家

石山本願寺~11年にも及んだ石山合戦~織田信長VS本願寺顕如及び浄土真宗

石山本願寺 推定地




石山本願寺

石山本願寺(いしやまほんがんじ)は、
戦国時代初期から安土桃山時代にかけて、
摂津国東成郡生玉荘大坂にあった浄土真宗の寺院でした。
戦国の当時は「大坂本願寺」「大坂城」と呼ばれており、
後世「石山本願寺」というようになったとも云われています。

【所在施設】
大阪城公園
【所在地】
〒540-0002 大阪府大阪市中央区大阪城2−2

【概要】
他の本願寺と比較した際の特徴は、
本山・石山本願寺を中心に防御的な濠や土居で囲まれた
「寺内町」と称される町を有する点にあるとのことです。

天文2年(1533年)に本願寺教団の本山となって以後発展し、
戦国の一大勢力となりましたが、
織田信長との抗争(石山合戦)の末、
天正8年(1580年)に顕如が明け渡し、
その直後に焼亡しました。

【立地など】
寺地は上町台地の北端にある小高い丘でした。
古代は港湾都市、国内流通の中心であった住吉津や難波津、
中世には渡辺津があったとのことです。
丘の北緯は淀川と旧大和川が合流しており、
その付近にあった渡辺津は、
淀川・大和川水系や瀬戸内海の水運の拠点で、
また住吉・堺や和泉・紀伊と京都や山陽方面をつなぐ
陸上交通の要地でもありました。
台地にそった坂に町が形成されたことから、
この地は「小坂」、後に「大坂」と称されたとも言われています。
同寺建立以前は、古墳であったとも言われ、
生国魂神社の境内であったともいわれています。
同神社は太古からの神社であるため、
この地が太古の磐座であったとの説もある程です。
なお、同神社は後の大坂築城の際に、
上町台地西麓の現在地へ遷座されています。

【石山御坊時代】
蓮如は延徳元年(1489年)に法主を実如に譲り、
自分は山科本願寺の南殿に隠居しました。
けれども、布教活動は盛んに行われていたらしく、
大坂周辺に年に何回か行き来していたそうです。
明応5年(1496年)9月に
坊舎(大坂御堂)の建設が開始されたそうです。
これが後に石山本願寺となり、
これを中心に建設された寺内町が再び、
それまでは港湾都市、
国内流通の中心であった住吉津や難波津、
中世には渡辺津といった大坂の源流になったとされています。
建設は堺の町衆、摂津、河内、和泉、北陸の門徒衆の援助を得ながら、
翌年の明応6年(1497年)4月に上棟があり、
同年11月には総石垣の扉御門が出来、要害の寺院が完成したそうです。
蓮如は今までいくつかの坊舎を建設しましたが、
「日本都市史研究」によりますと、
その中でも大坂御坊が
もっとも美しいものであったという記録がある、とのことです。

【武装化へ】
蓮如の後継者である実如は、
細川政元と畠山義豊との明応の政変以降の戦いに対して、
細川政元から強く参戦を求められていました。
永正3年(1506年)に実如は、
摂津、河内の門徒衆の反対を押し切り、
本願寺として初めて参戦しています。
これ以降、本願寺は武装化していき、
武士勢力との抗争が始まっていくのでした。

享禄5年(1532年)5月、
河内の飯盛山城に立て籠もった木沢長政が
主筋である畠山義堯の他に、
三好元長、筒井氏も加わった連合軍に攻囲されました。
そこで実如の後継である法主証如は、
細川晴元からの救援の要請に応じて
大坂御坊により門徒衆2万兵を率いて
参戦した翌月6月には、
攻囲軍を退散させました。
これは後世、飯盛城の戦いと呼ばれます。
さらに一向一揆は法華宗徒であった
三好元長を堺まで追い回し、自害に追いやります。
その間にも続々と参集した門徒は
10万人まで膨れ上がったと伝わっています。





【山科本願寺の戦い】
けれども、ここで解散せずに大和へも乱入した
一向一揆に危機感を覚えた細川晴元が、
天文に改元後の同年8月初旬から
本願寺の末寺や大坂御坊に攻撃を仕掛けてきました。
更に細川晴元からの要請に応じた法華一揆衆や
近江守護六角定頼によって、
同年8月23日に3万から4万の兵で包囲された山科本願寺は、
寺内町共々焼き討ちに遭って焼失してしまいました。

【石山本願寺時代】
この時証如は大坂にいましたが、
このまま寺基を移し石山本願寺時代が始まりました。
山科本願寺から持ち出された祖像が転々とし、
ようやく翌年の
天文2年(1533年)7月25日に鎮座しました。
この年が築城年にされているのは、
この鎮座の時期が理由とされているとのことです。

この間も細川晴元と石山本願寺との戦いは続き、
木沢長政や三好長慶らが石山本願寺攻めに加わり、
石山本願寺では坊官の下間頼盛が指揮官として赴任。
紀伊の一向門徒衆にも援軍を要請していましたが、
天文4年(1535年)11月末、
山科本願寺の戦いから約4年後、
ようやく両者で和議が成立します。
下間頼盛は一揆を扇動した罪で
兄の下間頼秀と共に本願寺から追放され、
後に暗殺されました。

細川晴元らとの抗争の中で
石山本願寺は寺領を拡大し、
城郭の技術者を集め、
周囲に堀や土塁を築き、
塀、柵をめぐらし「寺内町」として
防備を固めていきました。
このように石山本願寺は証如時代に
すでに要害堅固な城郭都市に至ったと
考えられているのです。

【顕如の時代へ】
証如から顕如の時代となり、
西日本、北陸地域の一向宗徒の勢力と、
富の蓄積も拡大していきました。
証如期には中央権門や戦国大名家への外交も展開されており、
中央権門では天皇・公家衆へ接近を強め、
東国の戦国大名家では甲斐国の武田氏、
相模の北条氏康北条氏政親子と
親交を結んだとされています。
そして三条公頼の三女教光院如春尼を、
法敵ともなっていた六角定頼の息子六角義賢の、
続いて細川晴元の養女としたうえで
顕如の正室に迎え入れ、
戦国大名と同盟を結んでいき、
基盤の安定を整えて、
石山本願寺の絶頂期をむかえていくのです。

【織田信長が立ちはだかる】
けれども、その前に立ちはだかったのが織田信長でした。
織田信長は上洛直後の永禄11年(1568年)に
石山本願寺に対して矢銭5千貫を要求しました。
また元亀元年(1570年)正月には
石山本願寺の明け渡しを要求したと言われています。
これに対して顕如は全国の門徒衆に対して、
石山本願寺防衛のため武器を携え
大坂に集結するように檄を飛ばしたとあります。
同盟軍で三好三人衆軍が織田軍と戦っている最中に、
ついに打倒信長に決起したのが同年9月12日でした。

崇福寺・織田信長肖像画





ここから石山合戦が蜂起しこれ以降、
石山本願寺と織田信長の戦いは、
連続した戦闘だけではなく、
和睦戦術を交え途中断続し、
両勢力とも同盟勢力の拡大をはかりながら
実に11年も長きにわたり続いたのでした。

【石山本願寺の戦い】

石山合戦(いしやまかっせん)は、
元亀元年9月12日(1570年10月11日)から
天正8年8月2日(1580年9月10日)にかけて行われた、
浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦いです。
本願寺法主の顕如が石山本願寺に篭って戦いました。

【合戦の期間について】
広義では、元亀元年9月12日の石山挙兵から
天正8年8月2日の顕如退去までの
10年間を指しますが、
天正8年閏3月7日(1580年4月20日)に
本願寺は大坂退去の誓紙を織田信長に届けて
戦闘行為を休止したことから、
閏3月7日を終わりとする見方もあるとのことです。

【石山合戦とは?】
戦国時代最大の宗教的武装勢力である本願寺勢力と、
天下布武を目指す織田信長との軍事的・政治的決戦であり、
石山合戦の終結と同時に各地の一向一揆は
その勢いを著しく失いました。
また、江戸時代に本願寺勢力が分裂する遠因ともなりました。

【淀川堤の戦い】
元亀元年(1570年)9月12日に
顕如は「信長が本願寺を破却すると言ってきた」
として本願寺門徒に檄を飛ばし、
三好三人衆攻略のために摂津福島に
陣を敷いていた織田軍を突如攻撃しました。
そのまま本願寺軍は石山を出て、
14日に淀川堤で信長軍と直接激突したのです。
この戦いは織田軍優勢のうちに終わり、
本願寺軍は石山に戻り篭城の構えを見せました。
織田軍は志賀の陣で既に四面楚歌の状態であるため、
石山に監視のための軍を置くと、
朝廷に働きかけて本願寺軍に矛を収めるよう
勅書を出すなど、本願寺との戦闘を避けました。
そのため、石山本願寺の第一次挙兵は、
実は一か月もたたないうちに実質的には終わったのでした。

長島一向一揆
石山挙兵とほぼ同時に
長島願証寺で一向一揆が発生し、
尾張の古木江城を落として守っていた
織田信長の弟である織田信興を自害に追い込むなど、
公然と織田信長に敵対するようになりました。
元亀2年(1571年)5月に、
織田信長は長島殲滅を図りますが失敗し、
多数の兵を失います。
この年の一向一揆に対する戦果は、
9月に一向一揆の篭る
志村城・金ヶ森城を降伏させたに留ります。

元亀3年(1572年)に織田信長が
京都に自身の屋敷を建てた際には、
3月に顕如から万里江山の一軸と
白天目の茶碗を贈呈されています。
7月には家臣に一向宗禁令を出すなど緊迫しましたが、
これは武田信玄の仲介という形で和議を結んでいます。
これは、武田信玄の妻と顕如の妻は
姉妹であることからできたともいわれています。
元亀4年/天正元年(1573年)に
織田信長は再度長島を攻めましたがまたも失敗しました。
11月には白天目の茶碗を贈られたことに対しての謝礼をしています。

【戦国時代の情報戦】
但し、兵力を出して戦火を交えてはいないものの、
いわゆる情報戦は非常に盛んであったようです。
顕如は遅くとも元亀3年末ごろまでには
武田信玄や毛利輝元などと密かに同盟を結び、
織田信長を東西から挟撃しようと画策しています。
足利義昭もこの流れに乗って
竹田信玄に上洛を促すなどしています。
当然、織田信長もそれを牽制するために、
朝廷外交や上杉謙信への友好工作などを行っていました。
したがって天正元年末までは、
石山本願寺と織田信長は
互いに牽制しつつも戦火を交えない、
いわば冷戦よりややましな程度で
推移していたと推測されています。





【浅井・朝倉を滅ぼす】
織田信長は、天正元年(1573年)8月20日に
一乗谷城の戦い」において朝倉義景率いる
朝倉軍を追撃して滅亡させました。
同年9月1日には、「小谷城の戦い」において、
居城の小谷城に籠城した浅井長政を滅亡させました。
本願寺勢力は同盟関係にある戦国大名の
朝倉義景と浅井長政を失ってしまい、
より苦しい状況に追い込まれたのでした。

一乗谷朝倉氏館跡 正面

【長島・越前一揆殲滅】
織田信長は朝倉義景の領国であった越前には
朝倉義景の元家臣であった
前波吉継を守護代に任じて統治させました。
けれどもし、前波吉継は粗暴な振る舞いが多くなり、
翌年の1月に富田長繁ら国人領主と結んだ
一向一揆によって殺されました。
さらに一向一揆と結んだ国人領主も
次々と一揆により織田方の役人を排斥し、
越前は加賀一向一揆と同じく、
一向一揆のもちたる国となったのでした。
これにより、織田信長はせっかく得た越前を
一向宗に奪われることになったのです。

これを知った顕如は、はじめ七里頼周を派遣し、
その後下間頼照を越前守護に任じました。
こうして本願寺と織田信長の和議は決裂し、
4月2日に石山本願寺は織田家に対し再挙兵したのでした。

【織田信長の包囲作戦】
本願寺は長島・越前・石山の3拠点で
織田信長と戦っていましたが、
それぞれが政治的に
半ば独立しているという弱点がありました。
その点に気づいた織田信長は、
それを最大限に活用して各個撃破にでたのでした。
7月、織田信長は大動員令を発して
長島を陸上・海上から包囲し、
散発的に攻撃を加えるとともに
補給路を封鎖して兵糧攻めにします。
長島・屋長島・中江の3個所に篭った一揆勢は
これに耐え切れず、9月29日には降伏開城しました。
けれども、織田信長はこれを許さず、
長島から出る者を根切に処したのでした。
この時、降伏を許されなかった
長島の一揆勢から捨て身の反撃を受けたため、
残る屋長島・中江の2個所は
柵で囲んで一揆勢を焼き殺しました。
指導者であった願証寺の顕忍(佐堯)は自害しました。

【越前の一揆制圧】
天正3年(1575年)には、
織田信長は本願寺と結託した
高屋城主である三好康長を降伏させ、
甲斐・信濃の武田勝頼長篠の戦いで破り、
兵を十分に休めた後で動員令を発し、
8月12日に越前に向けて進発しました。
一方越前では、
下間頼照ら本願寺から派遣された坊官らが
重税を課した事などにより、
越前で一揆をおこした民衆との関係は悪化し、
坊官の専横に反発し一揆が起こるという
一揆内一揆まで起きてしまったのでした。

こうした一向宗内部の混乱に乗じ織田軍は
連戦連勝で瞬く間に越前を制圧し、
さらに加賀の南部まで攻め込みました。
9月には織田信長は北の庄に戻り、
さらに岐阜へと戻って石山を牽制します。

【一向一揆の殲滅】
織田信長は、こうして
天正2年(1574年)9月に
長島一向一揆を平定し、
天正3年(1575年)8月に越前一向一揆を平定します。
織田信長によるこれらの殲滅戦によって、
石山本願寺は次第に追いつめられていきました。
同年10月に顕如は戦局好転の一時的な手段として
織田信長に有利な和睦を申し入れ、
織田信長はこれを受け入れました。
この時織田信長は、武田勝頼や毛利輝元などに
挟撃されかねない状態であったため、
戦略的にも有利な和睦の申し入れだったとのことです。

鳥越城跡 中の丸門

【毛利の動き】
一方で中国地方では、
この年に毛利氏は織田方へと寝返った
備中の三村氏を備中兵乱で滅ぼし、
備前と美作でも宇喜多直家と同盟して
天神山城の戦いを後援し、
浦上宗景・三浦貞広を失領させ、
大きく東へと勢力圏を拡大していました。
これによって毛利氏の軍勢は
陸路で播磨まで侵攻する事が可能になり、
海路でも瀬戸内海の制海権を確保して
対織田軍を視野に入れた
大坂の本願寺との連携が模索され始めるのでした。

【反撃へ】
天正4年(1576年)、
顕如は各地の門徒衆に檄文を送り応援を求めます。
そして、食糧を蓄えたり、
弓や鉄砲などの武器を集めたりするなど
織田信長に対して臨戦態勢でいました。





【天王寺砦、明智光秀が窮地に!】
顕如は天正4年(1576年)春に
毛利輝元に庇護されていた将軍足利義昭と与して
三たび挙兵しました。
織田信長は4月14日、
明智光秀らに命じて石山本願寺を三方から包囲します。
けれども、包囲後も本願寺は楼岸(現大阪市中央区)や
木津(同浪速区)から海上を経由して
弾薬・兵糧を補給しており、
織田軍が木津を攻めると、
本願寺軍は逆に1万を超える軍勢をもって
木津の織田軍を蹴散らし、
天王寺砦付近まで攻め入ったのです。
この時に包囲軍の主将であった
塙直政が戦死しています。
危機に陥った明智光秀は砦に立て篭もり、
織田信長に救援を要請しました。

【信長、天王寺砦での勝利】
この敗報を聞いた織田信長は、
すぐさま諸国へ陣触れを発しましたが、
突然のことであるために兵の集結が遅かったのでした。
そのため織田信長は痺れを切らし、
3000ばかりの兵を連れて
天王寺を包囲している
15000余の本願寺軍に攻めかかりました。
また、包囲を突破して砦に入ると、
すぐさま明智光秀はじめとする
砦内の兵等と合流して討って出ます。
そのため、篭城策を取るものと
思い込んでいた本願寺軍は浮き足立って敗走し、
石山本願寺に退却していきました。
その後、織田信長は石山本願寺の四方に付城を
住吉の浜手に要害を設け、
塙直政の後任の司令官に
佐久間信盛を任命して本願寺を完全包囲下に置いていきます。
そして織田信長は大坂の周辺に10ヵ所の付城を造るように命じ、
尼崎城、大和田城、吹田城、高槻城茨木城
多田城、能勢城、三田城、花隈城有岡城が築城され、
兵糧攻めに出ます。
また住吉方面の沿岸にも砦を設け海上を警固しました。
本願寺勢力はこれに対抗し、
守口、野江、難波、木津などに
出城を構え籠城戦に入ります。
けれども、織田信長による一揆の平定により、
諸国の門徒からの救援は乏しく、
寺内町として発展していた石山本願寺は
食糧不足に陥ってしまいます。

毛利水軍への援軍要請】
食糧不足を打破するために、
顕如の長子である教如は、備後鞆の浦に向かい、
織田信長によって京都から追放されていた
室町幕府第15代将軍足利義昭の仲介を得て、
毛利輝元に本願寺に対する援助を要請しました。

【第一次木津川口の海戦】
経済的に封鎖された本願寺は、
毛利輝元に援助を要請しました。
毛利輝元は要請に応じ、
7月15日に村上水軍など
毛利水軍の船700から800艘
(実際は600艘程度と言われる)が
兵糧・弾薬を運ぶために大坂の海上に現れました。

【毛利・村上水軍VS九鬼水軍
織田軍はすぐさま、
配下の九鬼水軍など300余艘で
木津川河口を封じましたが、
毛利水軍は数の利を生かして
焙烙火矢で織田軍の船を焼き払い、
大勝して本願寺に兵糧・弾薬を届けました。
織田信長は仕方なく、
三方の監視のみを強化して一旦兵を引きました。
こうして、兵糧搬入は成功しました。

【紀州征伐】
翌年の天正5年(1577年)2月2日、
紀伊の雑賀衆の中でも本願寺へ非協力的とされていた
雑賀三緘衆と根来寺の杉の坊が
織田信長軍へ内応しました。
これを受けて、織田信長は準備を整えた上で
2月13日に京都を出て、
対抗する雑賀勢の篭る和泉・紀伊に攻め入りました。
織田信長の軍は貝塚にいた
雑賀衆を攻撃したのち佐野に進み、
自軍を信達で山手・浜手の二手に分け、
紀伊に攻め入ったとのことです。
3月1日に雑賀衆の頭目の1人で
有力な門徒でもある鈴木孫一の居城を
包囲し攻め立てました。
けれども、この攻勢で周辺一帯が荒れ果て、
戦線も膠着状態に陥ったことから、
事態を憂慮した雑賀衆が翌日に
大坂での事に配慮を加えることを条件に
降伏を申し入れたため、
織田信長はこれを受け入れて兵を引いたとのことです。





【第二次木津川口の海戦】
こうして天正5年に雑賀衆が織田信長に降伏しました。
織田信長は木津川での敗戦後、
九鬼水軍の長である九鬼嘉隆に、
大砲を装備した黒船を建造するよう命じ、
滝川一益にも白船を一艘建造させました。
天正6年(1578年)6月26日、
九鬼嘉隆らの船団は完成した6隻の鉄甲船を率い、
滝川一益の大船1隻とともに熊野浦を出発し、
大坂へ向かいました。
雑賀衆はこれを迎え討つべく、
淡輪(現大阪府岬町)周辺の海上で
この船団を取り囲み、鉄砲や火矢で攻撃しました。
けれども、九鬼嘉隆はこれに応戦し、
大砲も使って敵船の多くを撃沈し、
船団は7月17日に堺に着岸し、
翌日から石山本願寺への海路を封鎖しました。

11月6日、毛利水軍は600余艘を繰り出して
再び木津川河口に現れました。
織田信長軍は九鬼嘉隆の大船を
中心として立ち向かいましたが、
毛利水軍はまたも焙烙火矢で
攻撃を繰り返しました。
けれども、
九鬼嘉隆は淡輪での戦いと同様に、
大船を相手の大将が乗っていると
思われる舟に近づけては
大砲を打ち込んで
撃沈するという方法で相手を打ち崩し、
ついには毛利水軍の舟数百艘を
木津沖に追い返すことに成功しました。
こうして、毛利水軍は
鉄甲船6隻を擁する
九鬼嘉隆の九鬼水軍に敗れてしまいました。

【講和に向けて】
天正6年(1578年)10月、
摂津における石山本願寺討伐の要であった
荒木村重の離反によって、
織田信長の対石山本願寺戦略に
重大な狂いを見せました。
同時に、三木合戦で羽柴秀吉
三木城を攻めていましたが、
毛利氏が摂津に上陸して
三木城に兵糧を運び込む恐れも生じました。
これを機に織田信長は朝廷を動かして、
本願寺と毛利氏との和解を試みたのでした。

11月4日、朝廷は織田信長の希望を受け入れて、
正親町天皇が本願寺の顕如と毛利輝元に対し、
織田信長と講和するよう勅命を下しました。
朝廷から本願寺に勅使が派遣されましたが、
顕如は毛利氏の賛同がないと
応じられないとして勅命を拒否し、交渉は決裂します。
これを受けて、織田信長は
毛利氏への勅使も派遣を検討したのでした。

けれどもその直後、織田水軍が
第二次木津川口海戦において毛利水軍に大勝します。
11月24日に茨木城が開城すると、
織田信長は急遽朝廷へと使者を飛ばし、
毛利氏への勅使派遣を中止させ、
和平交渉を取りやめたのでした。
その後、信長は荒木村重攻略を進め、
また荒木村重の反乱自体が
周辺の織田方武将の呼応を伴わなかったため、
反乱自体は長期にわたったものの、
石山本願寺攻略への影響は最小限に留まりました。

【再度の講和に向けて】
第二次木津川口海戦での毛利水軍敗退を受けて、
本願寺は将来の弾薬や食料の欠乏を恐れ始めた他、
天正7年(1579年)10月には有岡城が陥落し、
三木城の情勢もすこぶる悪くなっていたこともあり、
12月、ついに恒久的な和議を検討するようになりました。
密かに朝廷に先年の和解話のやり直しの希望を伝えたのでした。
その動きを期待していた織田信長側でも再度、
朝廷に講和の仲介を働きかけていました。

【三度の講和に向けて】
そして、翌年の天正8年(1580年)1月、
三木城が落城しました。
そのような状況の中で3月1日、
朝廷は本願寺へ
勧修寺晴豊と庭田重保を勅使として遣わして
年寄衆の意向を質し、
本願寺は和議を推し進めることで合意しました。
また、織田信長も別箇に開戦の経緯を知る
近衛前久を派遣して
本願寺側との妥協点を探りました。
以上の経緯から「勅命講和」という方式での
和議を提案したのは織田信長側でしたが、
実際の講和申し入れは本願寺側からであるとも言えます。

【3度目の講和】
閏3月7日、
本願寺は織田信長に誓紙の筆本を提出し、
織田信長と本願寺は3度目の講和を果たしました。
4月9日、顕如は石山本願寺を嫡子で
新門跡の教如に渡し、紀伊鷺森御坊に退去しました。
けれども雑賀や淡路の門徒は
石山に届けられる兵糧で妻子を養っていたため、
この地を離れるとたちまち窮乏してしまうと不安を募らせ、
織田信長に抵抗を続けるべきと教如に申し出て、
教如もこれに同調してしまいました。
故に、顕如が石山を去った後も
石山は織田信長に抵抗する教如勢が占拠し続けたのです。





講和条件である
「如在無きに於いては(=従順でいるならば)
加賀江沼・能美2郡を本願寺に返付する」
という条項については、
実現されることはありませんでした。
何故なら、教如が抗戦を呼びかけたため、
加賀一向一揆と織田信長の重臣である
柴田勝家の交戦は続いたからです。
織田信長と顕如は停戦を命じたものの戦闘は続き、
天正8年11月17日に柴田勝家に諸将を討ち取られ、
天正10年(1582年)3月には
吉野谷の一揆が鎮圧されて
「百姓の持ちたる国」は終焉を迎えたのでした。

【去り行く顕如と手中に収める織田信長】
7月2日、顕如は3人の使者を遣わして織田信長に御礼を行い、
織田信長もそれに合わせて顕如に御礼を行いました。
これと前後して荒木村重が花隈城の戦いに破れ去るなどの
情勢悪化や近衛前久の再度の説得工作によって
石山の受け渡しを教如派も受け入れて
雑賀に退去し、8月2日に石山は織田信長のものとなりました。

【灰に帰した石山本願寺】
しかし、引き渡し直後に石山本願寺は出火し、
三日三晩燃え続けた火は石山本願寺を完全に焼き尽くしました。
信長公記」では松明の火が風で燃え移ったとされています。
「多門院日記」には、
「退去を快しとしなかった教如方が火を付けた」
と噂されたとあります。
8月、佐久間信盛は織田信長から
折檻状を突きつけられて織田家から追放されましたが、
理由の1つに石山本願寺を包囲するだけで
積極的に戦を仕掛けなかったことを挙げています。

また織田信長と石山本願寺の交渉の影には
森成利(森蘭丸)の母の妙向尼がいたとされています。
妙向尼は和睦成立に奔走し、
本願寺の危機を救ったとされています。
森成利を通じて情報を得た妙向尼は
織田信長と直接、面会し、
直談判をして織田信長の石山本願寺の追撃を
断念させたとあります。
織田信長は当時、本願寺との和睦に際して
「金山城下に浄土真宗の寺院を建立、
子息(妙向尼の子)の一人を出家」
させることを条件に
和睦を提示したともいわれているそうです。

【難攻不落の名城】
石山本願寺は、
織田軍の長期の攻撃にも関わらず、
武力で開城される事はありませんでした。
その理由として、「日本城郭大系」では、
「いくつかの要因があるにせよ、最大の理由として、
城郭そのものが難攻不落の名城であったことを
挙げねばならない」と解説されているとのことです。

大阪城 堀

【顕如派と教如派に分裂】
顕如の退去後に教如が講和に反して石山を占拠したため、
本願寺は顕如と教如の2派に分かれ、
顕如は誓約違反を問われることになってしまいました。
結局、教如も石山を出ることで内紛には決着がつきました。

【教如を廃嫡】
天正10年(1582年)6月の
本能寺の変の織田信長の死の直後に
顕如と教如は朝廷の仲介により和解しましたが、
顕如は内紛の核となった教如を廃嫡し、
3男の准如を嫡子と定めました。
文禄元年(1592年)11月、
顕如が死没すると豊臣秀吉の命で
教如が本願寺を継ぎますが、
如春(顕如の妻、教如・准如らの母)らが
顕如の遺志にもとづき豊臣秀吉に働きかけたため、
翌年には教如は隠居させられ、
弟である准如が跡を継ぎました。

【教如派の分裂】
しかしその後も教如は
大坂の大谷本願寺
(難波御堂、現在の真宗大谷派難波別院)
を本拠地として、
各地の門徒へ本尊の下付などの
法主としての活動を続けたため、
この時点で本願寺は准如を支持する派と
教如を支持する派に事実上分裂してしまいました。

【東西に分かれた本願寺】
慶長7年(1602年)、
教如は以前より昵懇だった
徳川家康による土地の寄進を受け、
京都の七条烏丸に東本願寺を建てたために、
本願寺は東西に分かれることとなったのです。

【石山本願寺の正確な場所や規模】
豊臣秀吉が石山本願寺跡地に大坂城を築き、
城下町を建設したため、
大坂本願寺の規模や構造などは
残念ながらほとんどわからなくなってしまいました。

【石山本願寺と寺内町の構造】

【石山本願寺の規模は?】
「新修 大阪市史」によると
「要害の地に占め、寺院とはいえ堀と土居に囲まれ、
まさに堂々とした城郭であった」
と記されています。
石山本願寺は、「門前町」が栄える本山・本願寺ではなく、
本山・本願寺を中心に濠や土居で囲まれた
「寺内町」を有する一種の環濠城郭都市であったそうです。
石山御坊時代の坊舎が建っていた地は、
淀川河口の要港渡辺津に近く、
景勝、要衝の地であったと思われ、
石山本願寺の規模に関しては、
現在の大阪城の本丸、二の丸、三の丸あたりとか、
大阪城の80%程度と曖昧な表現がされていました。
けれども、規模に関しては史料から2つ引用されています。
一つは「信長公記」で、と伝える
「八町説(約872m)」です。
もう一つは「宇野主水日記」で伝える
「七町(約545m)×五町(約763m)」説です。
こちらは豊臣秀吉によって寺内町が天満に移され、
その広さが七町×五町で、
元の石山本願寺より広かったと記されています。
このように、
両史料の広さに関する記述には大きな隔たりがあります。
「摂津石山本願寺 寺町町の構成」では、
宇野主水とは顕如の祐筆で石山本願寺を熟知しており、
他の寺町と比較しても方八町説は法外に大きい等を指摘し、
「「宇野主水日記」の記載の方が
信憑性が高いと思われる」とし、
「日本城郭大系」でも
「実際は方八町もなかったのであろう」と
「七町×五町説」が有力であるとしています。





【石山本願寺のあった場所】
なお、石山本願寺の推定地は、
現在の大阪城の二の丸周辺とされています。
最近の発掘調査によると、
二の丸大手門付近の地表は
わずか20~30cmで地下層にあたり、
徳川氏大坂城の本丸については10m近くも盛土され
全面改修が行われていますが、
二の丸はほとんど盛土も行われず、
豊臣氏大坂城のものを部分的に改修して
再用された可能性があるそうです。
さらに遡れば、石山本願寺の外堀も
何らかの形で受け継がれた可能性があるとのことです。

石山本願寺の実際の規模を示す史料は
現存してはいませんが、
石山本願寺を仮に方五町余の規模とした場合、
「宇野主水日記」の条件を充たし、
更に徳川期の二の丸、
現在の外堀内側の面積にほぼ充当します。
これらにより「摂津石山本願寺 寺町の構成」によると
「石山本願寺を大阪城二の丸に充当することは、
ありえぬ想定ではないと考える」としているとのことです。

大阪城下

【寺内町の発展】
「寺内町」も大きな発展を遂げていました。
天文初年頃には、
清水町、北町、西町、南町屋、北町屋、新屋敷の6町を数え、
天文4年(1535年)頃には檜矢町、青屋町、
天文10年(1541年)頃には造作町、横町が加わり、
最盛期には10町が「寺内町」となり、
寺域を含め完全な領主権を確保し、
戦国大名に匹敵する独立王国を
築きあげる規模になっていたそうです。
けれども、これら町屋の家族数や人数が
どの程度の規模を擁していたかは明確になっていません。
なお、大坂城北東の虎口・城門である青屋口・青屋門は
青屋町の名残りとも言われているそうです。
寺内の生活は統制され、
各町にある番屋には高札が掲げられていたとのことです。

【寺院跡へのアクセス】
【電車】
地下鉄谷町線 谷町四丁目駅
徒歩約15分
【車】
阪神高速道路東大阪線 法円坂出入口
大阪城有料駐車場有り

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