【細川晴元】
細川 晴元(ほそかわ はるもと)は、
室町時代後期(戦国時代)の武将・戦国大名です。
【人物紹介】
第34代室町幕府管領。
山城・摂津・丹波守護。
第17代細川京兆家当主。
父は細川澄元、母は清泰院、嫡男は細川昭元。
正室は三条公頼の長女であり、
その縁から武田信玄及び
本願寺法主・顕如の義兄に当たる人物です。
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畿内で内乱状態にあった細川京兆家を纏め、
自らの政権確立と室町幕府管領職に就いたものの、
家臣の三好長慶の反乱で没落し、
勢威を取り戻せないままこの世を去りました。
実権を持っていた管領としては最後の管領と見なされています。
けれども、管領就任を史実ではないとする説もあるとのことです。
なお、「晴元」という名は
室町幕府第12代将軍・足利義晴の偏諱を受けたものでした。
足利、義晴と敵対関係であった時期には
「細川六郎」という通称を用いていたそうです。
【細川晴元の生涯】
【打倒!細川高国】
永正11年(1514年)に細川澄元の子として誕生しました。
6年後の永正17年6月10日(1520年6月24日)、
僅か7歳で家督を継ぎました。
それは同族の細川高国との争いに敗れ、
阿波国へ退去していた父の死去によるものでした。
細川京兆家の家督を巡る
細川高国との争いを続けていた父親である細川澄元は、
細川高国に幾度も煮え湯を飲まされ続けたまま死去し、
細川晴元はその劣勢の状況のままで継承しました。
一方、仇敵の細川高国は将軍・足利義稙を追放し、
代わって足利義晴を将軍に擁立して
挿げ替えを断行するなど
事実上の天下人として君臨し、
権力をほしいままにしていました。
けれども状況は変わっていきます。
大永6年7月13日(1526年8月20日)、
従弟の細川尹賢からの讒言を信じた細川高国が
配下の香西元盛を討った為に
香西元盛の実兄(波多野稙通、柳本賢治)達に背かれ、
勢力の内部分裂を自ら招いたのでした。
これを機会と見て敵方の窮状につけ込むべく、
13歳の細川晴元は三好元長に擁されて、
同年10月に細川高国打倒の兵を挙げました。
同年内には畿内まで進出し、
細川高国に背いた波多野軍と合流します。
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【細川家の私闘に利用される足利将軍職】
細川高国と細川晴元の争いは、
本来は細川氏の家督を奪い合う
私闘であるにも係わらず、
細川高国は現職の管領である事を利用して
将軍である足利義晴を擁立していたのでした。
これでは、細川晴元側は賊軍の扱いを受けてしまい、
保身に奔る味方に離反される恐れがあったのです。
そのため細川晴元側も、対抗すべく
足利義晴の弟である足利義維を擁立しました。
【桂川原の戦いで高国に勝利と擬似幕府を創設】
大永7年2月12日(1527年3月24日)、
細川高国との決戦に勝利します。
足利義晴を擁したままの細川高国を近江国へ追い落とし、
和泉国堺を本拠とした細川晴元は、
都落ちにより実態を失った高国政権に替わるべく、
足利義維を将軍に戴く
「堺公方府」という擬似幕府を創設します。
【三好元長との不和と高国の挙兵】
ここまで三好元長の功績は抜群でした。
けれども三好元長は、
柳本賢治と傍流の三好政長らと対立し、
細川晴元も、三好元長が細川高国との和睦を図ったことによって
不仲となり、三好元長は阿波下向となりました。
よって、堺公方府の軍事力を低下させる事態になりました。
これにより、細川高国は再び挙兵します。
迎撃に向かった柳本賢治は細川高国が放った刺客に暗殺。
勢いに乗った細川高国・浦上村宗らが摂津国へ侵攻。
そして公方府を窮地に立たせます。
【天王寺の戦いと高国の自害】
一度は細川高国に摂津国の大半を制圧された上、
京都も奪回され堺公方府は攻撃の危機に晒されます。
けれども
享禄4年(1531年)2月に三好元長と和睦。
3月の中嶋の戦いと、
6月4日(7月17日)、
来援の赤松政祐(晴政)による
細川高国への支援を装った騙し討ちが決め手となり、
細川高国・浦上村宗軍を壊滅させました。
其の後、細川高国は逃亡しましたが、
6月5日には潜伏中の摂津国尼崎で捕縛。
同月8日には尼崎の広徳寺で自害させ、
父の仇を討ったのでした。
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【方針転換と三好元長との再びの対立】
それまでの権力者だった細川高国を滅ぼした
細川晴元でしたが、
堺公方府としての政権奪取という方針を転換します。
現将軍である足利義晴と和睦し、
その管領に就こうとした為に
三好元長と対立となります。
細川京兆家の家督と
管領の座さえ手に入れば、
別に足利義晴が将軍のままでも良かったのでした。
共通の敵である細川高国を滅ぼして
僅か2か月で内部対立が表面化した堺公方府でした。
細川高国討伐の功労者であった三好元長に対し、
それを邪魔者と見る畿内の国衆が
細川晴元の下に結集していきます。
【細川元長の死と一向一揆】
享禄5年(1532年)、
細川晴元が肩入れする
木沢長政を攻撃する三好元長を排除すべく、
茨木長隆ら摂津国衆が策謀を凝らして
本願寺第10世法主・証如に一向一揆の蜂起依頼を提言。
証如の快諾で蜂起した一揆軍によって
細川晴元は、自らの手を汚す事なく
三好元長を堺で敗死させました。
更に、不和になった足利義維の
阿波国への放逐にも成功します。
そして木沢長政の主君で、
三好元長の支援を受けていた
畠山義堯も巻き込まれ、
一向一揆に討たれました。
【一向一揆の鎮圧へ】
内部の反対派を排除し、
将軍である足利義晴と和睦できた細川晴元は、
蜂起したまま乱行を重ねた一向一揆軍の鎮圧に
神経を費やします。
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【山科本願寺の戦い】
一向宗の対立宗派であった
法華宗とも協力して法華一揆を誘発させ、
他にも領内で一向宗の活動に悩まされていた
近江国の六角定頼とも協力して
山科本願寺を攻めました。
【享禄・天文の乱】
山科本願寺焼亡後、
石山本願寺に移転した一向一揆と戦い、
天文2年(1533年)に一向一揆の反撃に遭い
堺から淡路国へ亡命しましたが、
すぐに摂津池田城へ復帰して体勢を立て直し、
2年後の天文4年(1535年)に和睦しました。
それより1年前の天文3年(1534年)、
木沢長政の仲介で三好元長の嫡男である
三好長慶とも和睦して家臣に組み入れています。
【細川吉兆家の陰りと六角氏の発言力の高まり】
天文5年(1536年)、
京都で勢力を伸ばした法華衆に対し、
比叡山延暦寺・六角定頼と連合して壊滅させました。
また同年に細川高国の残党を率いて
敵対していた細川高国の弟である
細川晴国も討ち取り畿内を安定させます。
天文6年(1537年)に右京大夫に任官され、
管領として幕政を支配しました。
なお、この年の4月19日には
六角定頼の猶子となっていた
三条公頼の娘が
細川晴元に嫁いでいます。
けれども、一方で足利義晴が
本来は敵方である細川晴元に対抗するために
権力機構を整備したこと、
六角定頼の幕府内での発言力が高まったこと、
両細川の乱以前からの
細川京兆家譜代の家臣(内衆)の多くが
細川高国配下として
運命を共にしたことによる
京兆家の政治的手順などの喪失などによって
幕政における細川京兆家の発言力が
大きく低下したとする見方もあります。
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【木沢長政を討ち取る】
天文8年(1539年)、
上洛した三好長慶が同族の三好政長と
河内十七箇所を巡って争います。
細川晴元は三好政長側につき、
三好長慶と対立しましたが、
足利義晴と六角定頼の仲介で三好長慶と和睦しています。
この時は小競り合いに終わりましたが、
天文10年(1541年)には木沢長政が造反し、
京都郊外の岩倉へ逃れ、
翌年の天文11年(1542年)に
摂津芥川山城へ移り反撃し、
三好長慶・政長と河内国の遊佐長教による活躍で
木沢長政を討ち取りました。
けれども反乱はなおも続き、
天文12年(1543年)、
細川高国の養子である細川氏綱が
細川晴元打倒を掲げて和泉国で挙兵します。
この反乱は同年の内に治まったものの、
天文14年(1545年)に
は山城国で細川高国派の
上野元治・元全・国慶3代と
丹波国の内藤国貞らが挙兵したため、
三好長慶・政長ら諸軍勢を率いて反乱を鎮圧しました。
天文15年(1546年)8月、細川氏綱が
畠山政国や遊佐長教の援助で再挙兵します。
長慶の動きを封じて摂津国の殆どを奪い取ります。
細川氏綱と畠山政国・遊佐長教らが手を結んだだけでなく、
9月には上野国慶も再挙兵して京都へ入ったため
細川晴元は丹波国へ逃亡します。
【13代将軍の誕生】
この年の12月に将軍である足利義晴も
滞在先の近江国坂本で嫡男である
菊童丸(足利義輝)を元服させた上で将軍職を譲ります。
【烏帽子親役は六角氏】
が、この際に六角定頼が管領代に任じられたのでした。、
本来は管領が行うべき
加冠役(烏帽子親)を六角氏が務めました。
これは、従来は管領である
細川晴元が出陣中であったため
六角定頼が代行したと解されていましたが、
近年では文字通り管領が空席であり、
細川晴元は管領ではなかったと解する説が唱えられています。
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【足利義春父子と細川晴元の敵対】
細川氏よりも家格が下がる六角氏の当主を
将軍の烏帽子親にする行為は
細川晴元の面子を踏みにじるものでした。
また、足利義輝の元服の翌日に行われた
将軍宣下の儀式に遊佐長教が参列しています。
そして足利義晴と足利義輝父子は
細川氏綱を支持に転じて、
細川晴元と敵対していきます。
【細川氏綱に勝利】
これに対して細川晴元は行動に出ます。
11月に三好長慶の居城である
摂津越水城から北の神呪寺へ移り、
越水城で待機していた三好長慶と協議して
翌年の天文16年(1547年)に反撃し、
摂津の細川氏綱方を打ち破り摂津を平定します。
更に7月21日に三好長慶が
細川氏綱・遊佐長教らに舎利寺の戦いで勝利すると、
足利義晴とも閏7月に六角定頼の協力で
和睦して細川氏綱の反乱をようやく鎮圧しました。
【三好長慶の離反】
天文17年(1548年)5月6日、
かつて細川氏綱に寝返った摂津国人である
池田信正を切腹させたことにより
三好長慶と他の摂津国人衆の離反を招いてしまいます。
更に8月に三好一族の和を乱す
三好政長討伐の認可要請を
三好長慶から出されても拒否します。
【江口の戦い】
10月に細川氏綱側へ転属した
三好長慶に挙兵されてしまい、
摂津榎並城を攻囲されます。
その榎並城で籠っていた
三好政長の子である三好政勝を見捨てては
畿内の国衆から見限られる恐れがある為、
細川晴元は戦力で劣るまま
摂津国江口において三好長慶らと戦いました。
けれども、正面からの主力決戦を回避し、
六角軍の到来を待ってから決戦に臨もうとした為、
機先を制せられた細川晴元の主力は
戦わないまま敗北となりました。
この戦いで三好政長・高畠長直ら
多くの配下を失った細川晴元は追撃を恐れて、
将軍である足利義輝らと共に
近江国坂本まで逃れていきました。
【没落していく晩年】
細川晴元や足利義輝ら
現職の将軍及び管領が不在となった京都には
三好長慶と細川氏綱が上洛し、
三好長慶が幕府と京都の実権を握りました。
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【中尾城の戦い】
近江へ逃亡した細川晴元は
天文19年(1550年)に
足利義晴が死去してからは足利義輝を擁立。
香西元成や三好政勝など晴元党の残党を率いて
東山の中尾城と丹波国を拠点に
京都奪回を試みたものの成功せず
中尾城を破棄しました。
天文20年(1551年)に丹波衆を率いた
香西元成・三好政勝が三好長慶軍に敗れ、
天文21年(1552年)1月に
三好長慶と足利義輝が和睦して
足利義輝が上洛します。
そして細川氏綱が細川氏当主となり
嫡男の聡明丸(後の昭元)が
三好長慶の人質になりましたが
細川晴元は和睦を認めず出家し、
若狭守護の武田信豊を頼り若狭国へ下向しました。
武田信豊は家臣の細川氏の領国である丹波へ派兵しました。
【再び足利義輝と組むも】
それからは丹波国から度々南下して三好軍と交戦します。
天文22年(1553年)3月に
足利義輝と三好長慶が決別します。
7月に足利義輝から赦免されると
再度足利義輝と共に三好長慶と交戦しました。
けれども、8月に足利義輝方の霊山城が
三好軍に落とされると
足利義輝と共に近江国朽木へ逃亡していきました。
丹波国では香西元成・三好政勝らが
波多野晴通と手を結び、
三好長慶派の内藤国貞を討ち取りましたが、
内藤国貞の養子で三好長慶の部将である
松永長頼に反撃されて丹波の殆どを平定されました。
なお、松永長頼は松永秀秀の弟で内藤ジョアンの父親です。
弘治3年(1557年)、
波多野晴通が松永長頼と和睦して丹波は三好領国となりました。
播磨国でも香西元成が明石氏と結びましたが、
弘治元年(1555年)に明石氏が三好軍に攻撃され降伏、
勢力拡大した三好長慶の前に手も足も出せなくなりりました。
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【北白川の戦い】
永禄元年(1558年)に上洛を図り
将軍山城で三好軍と交戦しましたが、
六角義賢の仲介で
足利義輝と三好長慶が再び和睦を結ぶと坂本に止まりました。
永禄4年(1561年)、
隠居の細川晴元は
次男の細川晴之を細川家の当主に見立て、
六角・畠山軍とともに近江に反三好の兵を挙げさせます。
けれども三好軍に敗退し細川晴之は戦死し、
三好長慶と和睦しましたが、
摂津の普門寺城に幽閉されました。
【細川晴元の死去とその後】
永禄6年(1563年)3月1日、
普門寺で死去し、享年は50歳であったとのことでした。
細川晴元の死後、
細川昭元が京兆家の家督を相続しましたが、
管領には任命されませんでした。
かつての威勢を取り戻せず没落していったのでした。
細川氏綱は管領に就任したとされるものの
史料的な裏づけは無く、
三好長慶の傀儡のまま死去し、
以降は誰も管領に任命されることはありませんでした。
後に、細川昭元は織田信長に仕え、
子孫は縁者の秋田氏を頼り、
三春藩の家老との待遇となったとのことでした。
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