明智家

明智光秀の妻子まとめ 妻と子供の一覧リスト

明智光秀の妻子まとめ



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2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公・明智光秀(あけち-みつひで)の妻子に関して、様々な説をまとめてみました一覧リストです。
このように、400年以上前の歴史上での話であるうえに、明智光秀に関しては、特に色々な説が多くあり、これが正しいと断言できるものではありませんので、最初にお断り申し上げます。
いずれにせよ、明智家は稲葉山城主・斎藤道三に仕えており、美濃・明智城を本拠としたようです。

明智光秀の父親

明智光秀の出自に関しては諸説あります。
南北朝時代から戦国時代にかけて、美濃の守護であった土岐氏(とき-し)の一族となる明智氏の生まれには間違いなさそうですが、父親に関しては明智光綱、明智光国、明智光隆、明智頼明などと色々な説があります。




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明智光綱(あけち-みつつな)の兄弟には、小見の方がおり、斎藤道三の正室になっています。
この明智光綱の別名が明智光国、明智光隆ともされますが、1535年に討死したともされます。
この時、明智光秀はまだ子供だったと言われており、隠居していた祖父・明智光継の命にて、明智光安(あけち-みつやす)が明智城に入って後見したともされます。

その明智光安(遠山景行)は、斎藤道三の子・斎藤義龍と対立し、1556年に明智城が陥落し討死しました。
このとき、明智光安の子とされる明智秀満は、明智光秀と共に城から脱出したと言われていますが、不明瞭な点が多いです。

お牧の方

牧の方(於牧の方)は、通説では明智光秀の母親であり、若狭・武田氏の娘、武田信豊の娘とも伝わります。
明智光秀が老母を人質として、丹波の波多野氏に出した言う話が、江戸時代の軍記などで記載されていますが、事実だったかどうかは不明と言ったところです。
なお、お牧の方は、母親ではなく、明智光秀の最初の正室であるとする説もあります。

千草

明智光綱の弟である山岸光信(進士光信)の娘・千草がいます。
明智光秀は、この千草に庶子を産ませたとする説があります。
なお、千草とは結婚しておらず、側室にもしていませんので、未婚のまま子を産んだと言う説もあります。

ただし、1546年、明智光秀(明智十兵衛光秀)が18歳のときに、千草(山岸光信の娘、16歳)と結婚して最初の妻にしましたが、のち死別したとする場合もあります。
子の山岸光重は、母方の山岸家の養子となり、のち明智家の家臣に加わり、明智光重と称したともされます。
もちろん、諸説ある話ですので、どれが間違えで、どれが正しいとも言えません。

妻木煕子(明智煕子)

妻木煕子(つまき-ひろこ)と、明智煕子(あけち-ひろこ)とも言いますが、美濃・妻木城主とされる妻木範煕(妻木勘解由左衛門範煕)の娘と考えられます。
一説によると1530年頃に生まれており、妻木広忠の娘とする説もあります。

有名な話としては、妻木煕子が明智光秀に嫁ぐ直前「疱瘡」(ほうそう=天然痘)にかかり、左の頬(ほほ)に、ぶつぶつの跡が残ってしまったと言います。
そのため、妻木煕子は、嫁ぐのを辞退したとも、父が別の娘をと申し出たともされます。
一説では、煕子に姿が似ていた妹・芳子(よしこ)を代わりに嫁がせようとしたとも・・。
しかし、明智光秀は、煕子が芳子に知らない間に変わっていたのを見抜いたとも、そんな容姿の事は気にしなかったともされます。
容姿は年を取ったり病気をすれば変わるが、不変なのは心の美しさであるとして、いずれにせよ妻木煕子と結婚しました。




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1556年に、明智城が斎藤義龍によって攻められた際には、身籠っていた明智煕子を背負って、明智光秀は越前の朝倉氏のもとまで逃れたとされます。

越前で一乗谷城主の朝倉義景に仕えたとも客将になったともされますが、明智の屋敷は少し離れた西側にあります。
要するに、優遇されていたとは言えません。
明智家は、事実上、滅亡していたため、恐らくは、妻木家より、経済的な支援を少しは受けていたと推測されますが、生活は苦しかったと考えられます。
ある日、朝倉家にて連歌会の催しを明智光秀が行う事になり、酒宴の出費に苦労している明智光秀を見て、明智煕子は、自分の黒髪を売ってお金を用意したと伝わります。
当時の女性にとって、長い髪の毛は、身分の高い女性としての証でもあり「髪は女の命」ともされましたが、そのようなプライドにこだわらず、夫を支えた良妻でした。
そのため、二人の夫婦仲はとても良かったと言われています。

1563年には、3女(4娘)・明智玉(明智珠)のちの細川ガラシャが越前にて生まれました。

明智神社案内看板1

1571年、比叡山焼き討ちのあと、明智光秀は宇佐山城主となり、近江・坂本城が築城されると、明智煕子も転居したことでしょう。
1575年、明智光秀は、惟任の姓と日向守の官位を織田信長から賜わります。
しかし、赤井直正との黒井城の戦いで、おもいっきり大敗した際に、明智光秀はそれまでの疲れが出て発病します。
このとき、明智光秀は京の医師・曲直瀬道三正盛(まなせどうさんまさもり)の屋敷にて療養しました。
死の境を彷徨ったとも言われていますが、明智煕子の献身的な看病にて救われたとされます。




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その疲れのせいか、明智煕子は病気になったようで、明智光秀が平癒祈祷を吉田兼見にお願いしています。
また、吉田兼見が明智煕子の病気のお見舞いで、京都の宿所も訪問した記録が残っています。
しかし、1576年11月7日に、明智煕子は死去しました。享年46(享年36、享年42)ともされます。
戒名は福月真祐大姉。

墓所は、近江・坂本城からほど近い明智家の菩提寺「西教寺」にあります。
それら妻木煕子に関して詳しくは下記でも解説させて頂いております。

妻木煕子~明智光秀を愛し愛された糟糠の妻~

伏屋姫

伏屋姫(ふせやひめ)は諸説ありますが、伊賀の柘植城(伊賀・福地城)主である喜多村保光の娘ともされます。
本当に申し訳ないのですが、色々な説があります。
伏屋姫は、服部鳥羽守の長女で、美人のほまれ高く16歳で明智光秀に嫁ぎました。
服部鳥羽守は、鳥羽城主・服部保益と考えられます。
しかし、伏屋姫は疱瘡にかかって亡くなったため、妻木煕子が後妻(継室)として入ったする場合もあります。
別の話では、伏屋姫が嫁ぐ直前に疱瘡にかかり、服部鳥羽守は次女を代わりに嫁がせようとしたが、明智光秀は疱瘡にかかって容姿が醜くなった伏屋姫と結婚したともあります。
この疱瘡の話は、明智光秀の正室とされる上記の妻木煕子(明智煕子)の話でも同じく出てきますので、話が伝承されるうちに、混同したようですので、今となっては、どっちが最初の話なのか、確認は困難です。

また、伏屋姫は明智煕子が亡くなったあとに迎えた後妻(継室)だとする説もあり、1582年1月に坂本城にて内治麻呂を出生したともあります。
そして、本能寺の変のあと、徳川家康が伊賀越えをした際には、服部鳥羽守が命を狙ったとも言います。
色々な話がありすぎて、もはや解明は不明といったところです。




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ただ、継室にする場合には、そのとき、すでに明智光秀は織田家の中でも相当の地位ですので、伏屋姫を迎えたとした場合には、妻木煕子の前と考えるのが妥当なような気がいたします。

側室・喜多村保光の娘

明智光秀は側室を持たなかったとするのが一般的ですが、逆に側室は2人いたとする説もあります。
その一人が、喜多村保光の娘ですが、この女性は、上記でご紹介した伏屋姫であるともされます。
喜多村保光の娘は、1582年に明智光秀の3男を産んだともされます。
その子が、上記でもご紹介した内治麻呂です。
この幼子は坂本城から脱出して、母の実家である喜多村家に逃れたともあります。
そして、成長すると喜多村保之と称しました。
1635年に妙心寺の住職・玄琳が「明智系図」を喜多村保之に送り、その系図が現代に伝わると言う事になります。
この喜多村家は、服部一族とする説もありますので、そのように考えますと、伏屋姫の服部家=喜多村家と言う可能性もあります。

側室・原仙仁の娘

原仙仁の娘ですが、肥後・細川家(細川ガラシャの嫁ぎ先)にゆかりある安国寺の「土岐系図」に掲載されています。
父・原仙仁は公家とされますが、そもそも、公家に原氏は存在していませんので、違った名前があった可能性もあり、どのような人物なのか全く不明です。
また、原仙仁の6男は浅野内蔵助、すなわち赤穂浪士で有名な大石良雄(大石内蔵助)の祖父というので、信憑性の問題はありそうです。
なお、原仙仁の娘は1女を儲けたようで、その娘は、川勝丹波守の妻になっています。
この川勝丹波守ですが、室町幕府の奉公衆で、織田家に従っていた川勝秀氏の子・川勝広綱の可能性があります。
ただし、川勝広綱の正室は織田家の末流にあたる藤掛永勝の娘ですのです。
よって、川勝丹波守の妻になった明智光秀の娘に関しても資料不足でよくわかりません。
この原仙仁の娘の姉が、美濃・佐藤一族の恩田氏に嫁いでおり、その子が「明智孫十郎」として明智光秀の与力を務めていますが、本能寺の変にて討死しました。

御ツマキ

御ツマキ(おつまき)は、この女性も諸説ありますが、下記の通りです。

明智光秀の実の妹
妻木煕子の妹

いずれにせよ、織田信長の近くにいるようになった女性(女中?側室?)です。

1577年11月には、惟任妹御ツマ木が、明智光秀と共に東大寺と織田家の調停を行いました。
1580年5月、上洛した織田信長に、山科言経が進物を献上した際、その近所女房衆の「ツマキ」らにも帯を献上したとあります。
ここで女房衆と記載されていることから、ご婦人、すなわち側室であった可能性が指摘されています。
また、1580年9月、吉田兼見の日記「兼見卿記」には、在京していた「惟任姉妻木」に酒と食物を持参したとあります。
この「姉」と言うのは恐らくは、妹の勘違い・誤記と考えられますが「妻木」と明記されていることから、御ツマキは「お妻木」、すなわち妻木煕子の妹である可能性があります。
この御ツマキを通じて、明智光秀は、織田信長の言動を入手したり、時には織田信長を説得するようなことも、依頼していたとも考えられます。
しかし、1581年8月、奈良・興福寺の多聞院日記に「去七日・八日ノ比歟、惟任ノ妹ノ御ツマキ死了、信長一段ノキヨシ也、向州無比類力落也」とあります。
惟任ノ妹ノ御ツマキ死了は、御ツマキが亡くなったことを示しています。
その翌年、本能寺の変となりました。
御ツマキの死が、織田信長と明智光秀の関係に影響を与えた可能性も無きにしも非ずです。




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なお、明智光秀自身は、土岐明智氏ではなく土岐妻木氏が出自で、明智氏の家督を継ぐことになったとする説もあります。
そのように考えますと、御ツマキは、明智光秀の実の妹とも考えられるのです。

明智光秀の子供

明智軍記 3男4女

長女:明智光春の妻(荒木村次の正室から、明智秀満の正室) ※麒麟がくるでは「お岸
次女:明智光忠の妻
三女:細川忠興の妻(細川ガラシャ
四女:津田信澄の妻
長男:明智光慶
次男:明智光泰(明智十次郎)
三男:明智乙寿丸

鈴木叢書(そうしょ)の中にある明智系図 側室の子も含めると6男7女

長女(養女):菅沼定盈の妻(三宅長閑の娘) ※麒麟がくるでは「お岸」
次女(養女):桜井家次の妻(三宅長閑の娘)
三女:織田信澄の妻
四女:細川忠興の妻(細川ガラシャ)
五女:筒井定次の妻
六女:川勝丹波守の妻
長男:玄琳(妙心寺の僧侶)
次男:安古丸(山崎の戦いで討死)
三男:不立(天龍寺の僧侶)
七女:井戸三十郎の妻
四男:十内(坂本城落城のときに自刃)
五男:自然(坂本城落城のときに自刃)
六男:喜多村保之(江戸町年寄)
不明:定頼

上記の2つの史料にて一致する子供は下記の通りです。

織田信澄の妻
細川忠興の妻

織田信澄の妻(明智光秀の娘)の名前は不詳ですが、嫁いだのは間違いなさそうです。
なお、細川忠興の妻は皆様もよくご存じの細川ガラシャ(明智玉)と言う事になります。
細川ガラシャに関しては下記にて詳しく記載させて頂いております。

細川ガラシャの悲しい生涯を知って頂きたい(明智珠、明智玉)

また、明智光慶は「連歌目録」にその名があり、明智自然は津田宗久の茶会記に名があり、2人も実在している模様です。

明智光慶

明智光慶(あけち みつよし)は明智十五郎(明智十兵衛)とも言い、妻木煕子が産んだ長男とされます。
丹波・亀山城が築城された頃から、史書に名前が見られますが、初陣した形跡はないため、年齢は低かったものと推測されます。
本能寺の変の直前に、愛宕山で開催された威徳院連歌で結句を詠んでいますので、13歳前後であったとは考えられます。
この明智光慶もたくさんの説があります。
本能寺の変のときには、丹波・亀山城にいたとも、坂本城にいたともされます。
明智光秀が細川幽斎に味方するように書いた手紙には「近畿を平定した後は十五郎に天下を譲り、自分は隠居する」と記されてもいます。

明智光秀が襲われて命を落とすと、明智光慶は自刃したとも、坂本城から脱出したあと自害したとも、生き延びて妙心寺(京都市右京区花園)の住職・玄琳になったとも色々な話があります。

千葉県市原市不入斗(いりやまず)には「明智光秀側室の墓」と伝わる墓石があります。
この側室と言うのは「ふさの方」と言う名前で、明智十五郎と共に、不入斗まで逃れて生涯を送ったとも推測されています。
齋藤利満・斎藤利治の親子が同行したともあり、墓には土岐重五郎と言う名が刻まれているそうです。
なお、成人した明智十五郎は、つね子と言う女性を妻に迎えたようです。
桔梗の家紋とともに、側室・重五郎・つね子(ツ子)の3名の名がひとつの墓石に刻まれているそうです。




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千葉と言えば、万喜城主・土岐為頼(万喜頼春)がいますので、同じ土岐氏と言う事で、頼ったのかと思いました。
しかし、南北朝で戦功があった土岐頼貞の子・土岐頼重(明智頼重)のときの所領のひとつに武蔵国荏原郡大井郷不入斗村があります。
そのため、明智一族の親戚が不入斗(いりやまず)にいたと考えるのが自然でしょうか?

明智自然

明智光慶と共に存在が確実視されている明智自然(あけち-じねん)は、2017年のNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」にも登場しました。
明智軍記では明智光秀の次男・明智十次郎光泰の幼名が自然だと記されているようです。
鈴木叢書や明智系図では、坂本城落城の際に自刃したとあります。

また、別の説では、明智光泰(あけち-みつやす)は、一時は、大和・筒井城主である筒井順慶の養子・筒井定頼(自然丸)になったともあります。
ただし、その説の場合には、筒井定次が織田信長の娘を正室に迎えて、本家の跡目となったため、明智自然は明智家に戻っていたようです。




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以上、明智光秀の妻や子供に関しては、調べれば調べるほど、色々な説が多すぎて、余計に混乱します。
そのため、これが正解と言うのはありませんが、可能な限り上記のようにまとめてみました。

絶対そうだ、その話や他の説は間違えだと断定するような、どちらかに偏ったご意見は反映できませんが、皆様からの新たな情報なども賜りますと幸いに存じます。

明智煕子(妻木煕子)とは
お牧の方(於牧の方) 明智牧 若狭武田氏出身か
明智光綱とは 明智十兵衛(明智光秀)の父親とされる武将
明智光秀夫妻が身を寄せていた越前の称念寺
明智倫 (明智倫子、お倫)/明智きし~明智光秀の長女
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坂本城・要所かつ豪壮華麗な明智光秀の居城~琵琶湖の浮城~
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