織田家

細川忠興~正室は明智光秀の娘・ガラシャ~文武両道のハイスペック武将で何事にも極め人。

細川忠興






細川忠興

細川 忠興(ほそかわ ただおき)、
長岡 忠興(ながおか ただおき)は、
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。
丹後国宮津城主を経て、
豊前小倉藩の初代藩主となり
肥後細川家初代となりました。

【概要】
足利氏の支流である細川氏の出身です。
正室は明智光秀の娘である明智玉(珠)(通称細川ガラシャ)。
室町幕府第15代将軍であった足利義昭追放後は
長岡氏を称し、その後は羽柴氏も称しましたが、
大坂の陣後に細川氏へ復したとのことです。

足利義昭、織田信長豊臣秀吉徳川家康と、
時の有力者に仕えて、
現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた人物です。
また父である細川幽斎と同じく、
教養人・茶人の細川三斎(ほそかわ さんさい)としても有名で、
利休七哲の一人に数えられていました。
茶道の流派三斎流の開祖でもありました。

【父】
細川藤孝細川幽斎
(ほそかわふじたか・ほそかわゆうさい)
【母】
沼田麝香(ぬまたじゃこう)
【養父】
細川輝経(ほそかわ てるつね)
【生誕】
永禄6年11月13日(1563年11月28日)
【死没】
正保2年12月2日(1646年1月18日)
【墓所】
<泰勝寺跡>
所在:熊本県熊本市中央区黒髪
<高桐院>
所在:京都府京都市北区紫野大徳寺町

【生い立ち】

【幼少期】
永禄6年(1563年)11月13日、
室町幕府第13代将軍である足利義輝に仕える
細川藤孝(幽斎)の長男として京都で生まれました。
母は沼田光兼の女・麝香です。(のちの光寿院)
足利義輝の命により、
一族・奥州家の細川輝経の養子となります。
しかしながらこの養子縁組は、系譜上のものであり、
その後も実父である細川藤孝と行動をともにし、
領国も継承しています。





織田信忠に仕える】
永禄8年5月19日(1665年6月17日)、
三好義継、三好三人衆
(三好長逸・三好政康・岩成友通)と
松永久通らの軍勢によって
室町幕府第13代将軍足利義輝らが
京都二条御所に襲撃され、殺害されてしまいます。
この政変は永禄の変と呼ばれており、
この後、細川藤孝や明智光秀らは、
尾張及び美濃の大名である織田信長を頼って
殺された足利義輝の弟である
足利義昭を第15代将軍に擁立します。
しかし、やがて織田信長と足利義昭が対立していきます。
すると細川藤孝や明智光秀は、
織田信長に臣従していきます。
長男の細川忠興は、
こののち、織田信長の嫡男である
信忠に仕えていくことになります。
なお、永禄9年(1566年)には
弟である細川興元が誕生しています。

【織田時代】

【初陣と名誉の痕】
天正2年(1574年)、
父である明智光秀の主君・織田信長の発案により
細川藤孝(細川幽斎)の嫡男である
細川忠興(ほそかわただおき)と
明智玉(珠)が婚約します。
天正5年(1577年)3月、
15歳で紀州征伐に加わり初陣を飾ります。
危うく命を落としそうになったものの、
織田信長に武勇を称されたと
伝わっているそうです。

同年10月には、織田信長に謀反を起こした
松永久秀の武将である森秀光が立て籠もる大和片岡城
父である細川藤孝とその僚友である
明智光秀と共に落としました。
(信貴山城の戦い((しぎさんじょうのたたかい))
この戦いで松永久秀と松永久通父子は自害しています。

細川忠興は、弟である細川興元と共に
一番槍の功績を挙げたとされています。
この際に、投石で右の額に傷を受けてしまい、
この痕が残ってしまいます。
けれども、一番乗りを果たした故の痕であると
織田信長より感状をもらっており
自慢にしていたとのことです。

【元服と結婚】
天正6年(1578年)に元服しました。
主君の織田信忠より偏諱を受け、
以降、忠興と名乗るようになります。
天正6年(1578年)8月、
明智光秀の三女(次女とも伝わる)である
明智玉(珠)(のちのガラシャ)と
勝竜寺城にて婚礼を挙げます。
それは主君である織田信長の命令による婚姻、
「主命婚」と言われています。
けれども、この時は夫婦仲は大変良かったとも
言われていたそうです。
織田信長は、忠興と玉が二人並んでいる様を見て
「人形の様に可愛らしい」旨の
発言をしたとも言われています。
また、織田信長の命により九曜を定紋とし、
これが細川家の家紋となりました。
以前、細川忠興が織田信長の小刀の柄に
九曜が描かれているのを大変気に入り、
このことを織田信長が覚えていたためとも言われています。

<勝竜寺城>
勝竜寺城・細川忠興

天正7年(1579年)には、
織田信長の命を受けて、
父である細川藤孝や明智光秀と共に
丹後守護だった建部山城城主である一色義道を滅ぼしました。

<建部山城・遠景>
建部山城・遠景

天正7年(1579年)には
二人にとって初めての子供となる
長女である長(または於長)が誕生しています。





【丹後南半国が領国になる】
天正8年(1580年)、
父である細川藤孝は功により
丹後南半国の領主となります。
ただし北半国は一色義定の領国でした。
天正7年(1579年)に一色家の家督を継承し、
弓木城で残党を率いて織田方に抗戦します。
抗戦に手こずった細川藤孝は、
明智光秀の助言により、
細川藤孝の娘である伊也
政略結婚によって
一色義定に嫁がせ和議を結びました。
丹後を長岡氏(細川氏)と
南北で分割統治することになりました。

<弓木城>
弓木城・登城

【幸せな日々】
また、天正8年(1580年)には
長男(細川忠隆、後の長岡休無)が
誕生しています。

天正9年(1581年)、
京都御馬揃えにも
若年ながら一色満信らとともに参加しています。
この時に織田信長が着た「蜀紅の錦の小袖」は、
細川忠興が京で探し求めて
織田信長に献上したものだということです。

天正9年(1581年)4月12日、
細川藤孝(細川幽斎)・細川忠興親子は、
明智光秀、茶人の津田宗久(つだそうぎゅう)、
連歌師の里村紹巴(さとむらじょうは)を招き、
宮津及び天橋立を案内して
連歌会と茶会を催しています。

朝倉討伐及び甲斐の武田討伐の際には、
一色満信と共に出陣しています。

本能寺の変

【味方にはならず】
天正10年(1582年)6月、
岳父である明智光秀が本能寺の変を起こしました。
明智光秀は、細川藤孝及び細川忠興父子を味方に誘うも、
細川父子はこれを拒否します。
この時、明智光秀は、
細川藤孝及び細川忠興父子に対しては

「領地は摂津を与えるが、
若狭を望むなら若狭を与え、
他にも欲しいものがあれば必ず約束を履行する。
50日、100日の内に近国を平定して
地盤を確立したら、十五郎(光秀嫡男の光慶)や
与一郎(忠興)に全てを譲って隠居する」

などと6月9日付で出された書状で
誓約していたことがわかっており、
破格の条件を提示し、
味方になることを願い望んでいました。
けれども、細川親子にとっては、
明智光秀のとの関係は、
主君である織田信長あってこそ、
成り立つものであったとの考えが推測されます。
その主君を殺めてしまった明智光秀は、
いわば仇も同然の存在であったのでしょう。
まして、事前に何の相談の痕跡も
現在では確認出来ていないのですから、
この細川親子の判断は、
理にかなっているとも言えます。





【正室の明智玉(ガラシャ)を隠棲・幽閉】
正室の明智玉(ガラシャ)を
丹後国の味土野(現在の京丹後市弥栄町須川付近)に
隠棲・幽閉しました。
幽閉されていた屋敷跡は
「女城跡(御殿屋敷)」と呼ばれ、
現在はその地に石碑が建っています。
また、味土野は明智の茶屋があった場所ともされ、
明智ゆかりの地に明智玉(ガラシャ)を置くことで
形式上は離縁という形をとることができます。
これで細川忠興と同じく、
明智光秀の婿だった津田信澄とは異なり、
明智光秀との内通を疑われ
討伐されることはありませんでした。
また細川忠興はこのとき、
父である細川藤孝が速やかに剃髪して弔意をあらわし
隠居したので領国である丹後南半国を譲られ、
丹後宮津城主となりました。

正室の明智玉を隠棲・幽閉して離縁しても、
正室であることには変わりがありませんでした。
実際に、細川忠興は、
現代でも山深いこの地に足を運び、
明智玉との間に、
次男である興秋をもうけています。
この隠棲・幽閉はお家を守ることと同時に
玉自身の身柄を守っていたかもしれません。
そしてそれは特に羽柴秀吉に対してであったという
説も見受けられるほどです。

明智玉(細川ガラシャ
の隠棲・幽閉生活を支えたのは、
結婚する時に付けられた小侍従や、
細川家の親戚筋にあたる
清原家の清原マリア(公家・清原枝賢の娘)
らの侍女達だったそうです。

そうした細川家のやりとりや事情とは別に、
明智玉にとっては、この隠棲・幽閉生活で
心身ともにかなりのダメージを
受けてしまったことは確かなようです。

やがて明智光秀は山崎の戦で敗死します。
その変わり果てた姿は
重臣である斎藤利三の屍とともに
京都の粟田口に
首と胴をつないでさらされたと伝わっています。

その明智光秀の首塚と伝わる供養塔が、
細川忠興の領国内であった盛林寺(せいりんじ)にあります。
盛林寺・明智光秀首塚

【丹後平定】
細川忠興はその後、
次期天下人の地位を狙う羽柴秀吉に誼を通じ、
北丹後の一色義定を殺害し、
一色家旧臣を攻め滅ぼし、
羽柴秀吉から丹後全域の領有を許されました。
なお、一色義定は山崎の戦いで羽柴秀吉に与せず、
明智光秀側に付いていたため、
羽柴秀吉に、敵対視されていました。
そして、北丹後の元一色方の諸城に
軍勢を率いた重臣を派遣し、
丹後一国、12万石の平定を成し遂げたのです。





【妹から切りつけられる】
但し、この丹後平定には細川家のある女性の悲話があります。
細川忠興には額とは別に、
この頃にできた鼻に刃物で切り裂かれた傷がありました。
それは妹の伊也から襲われた際に出来た傷でした。

丹後北半国を統治していた
一色義定(いっしき よしさだ)を饗宴と称して
宮津城に誘き出した上、密室にて暗殺したのですが、
その一色義定に嫁いでいたのが、
細川忠興の妹である伊也でした。
元々は政略結婚で嫁いだ伊也でしたが、
一色義定とは仲が良好だったとも伝わっています。

一色勢の残党から救い出した伊也に
細川忠興は対面の席にて懐剣で襲われ、
首に突き付けられた刀を
間一髪のところでかわしたものの、
鼻を真一文字に切り裂かれ、痕が残ったそうで、
後年、この鼻の傷を話題にすることは
一切タブーとなったとも。

伊也にしてみれば、
同じ足利一門である一色氏を騙し討ちにした末、
敗残兵を皆殺しにするなど
残忍な手法も取った兄の忠興に対して、
恨んでいたとされています。

同じ年、側室の藤(松の丸、郡宗保女)が
次女である古保(こほ)を産みます。

【豊臣政権下で】

【出世街道】
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに参加。
天正12年(1584年)3月、
羽柴秀吉に許され、
明智玉は幽閉を解かれて復縁し宮津に戻ります。
其の後、細川忠興は
明智玉を細川家の大坂屋敷に移します。
天正14年(1586年)には三男で
後に豊前小倉藩の第2代藩主で、
その後に肥後熊本藩の初代藩主となる忠利が誕生しています。

天正13年(1585年)には従四位下・侍従に叙任。
羽柴秀吉から羽柴姓を与えられ七将に数えられました。

【七将(しちしょう)】
福島正則(ふくしままさのり)(尾張清洲城主)
加藤清正(かとうきよまさ)(肥後熊本城主)
池田輝政(いけだてるまさ)(三河吉田城主)
細川忠興(ほそかわただおき)(丹後宮津城主)
浅野幸長(あさのよしなが)(甲斐甲府城主)
加藤嘉明(かとうよしあき)(伊予松山城主)
黒田長政(くろだながまさ)(豊前中津城主)

天正14年(1586年)には三男で
後に豊前小倉藩の第2代藩主で、
その後に肥後熊本藩の初代藩主となる
細川忠利(ほそかわ ただとし)が誕生しています。

【出世したら側室が増えた】
天正15年(1587年)の九州征伐に従軍。
天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜されました。
この年位から、
細川忠興は側室をもうけるようになります。
明智光忠の娘の小也、清田鎮乗の娘である幾知、
真下元重の娘の才などです。
小也は四女の萬を産んだとされますが、
玉(ガラシャ)が産んだともされています。
四女:万(烏丸光賢室、1598年⇒1665年)
幾知が産んだのは、ガラシャが他界した後で
四男:細川立孝⇒宇土藩細川家(1615年⇒1645年)
五男:細川興孝⇒細川(長岡)刑部家(1617年⇒1679年)
才が産んだのは
六男:松井寄之(まつい よりゆき、松井(長岡)興長養子)
です。

天正18年(1590年)、
小田原征伐に従軍しています。

文禄元年(1592年)からの文禄の役では
九番隊に属して上陸し、
慶尚道などの制圧を担当しました。
同年10月には長谷川秀一らと
第一次晋州城攻防戦に参加し、
前哨戦で慶尚右兵使の柳崇仁を討ち取ったものの、
攻城戦で晋州城を落とすことは出来ませんでした。
翌年の文禄2年(1593年)6月、
第二次晋州城攻防戦にも参加して
ようやく晋州城を陥落させました。





strong>【豊臣秀次の事件】
文禄4年(1595年)の豊臣秀次事件では、
豊臣秀吉の甥・豊臣秀次に借金があったために、
豊臣秀吉に嫌疑をかけられます。
閉門を命じられ、
一時は切腹の沙汰も出たとも
言われているそうです。
松井康之が奔走して、人質を出し、
金子を用立て豊臣秀吉に返納しています。
なお、この時に金子用立てに
力を貸したのが徳川家康であると
言われているそうです。

【豊臣秀吉の死後】
慶長3年(1598年)8月、
豊臣秀吉が死去します。
やがて石田三成らと対立し、
徳川家康に誼を通じていきます。
慶長4年(1599年)には
加藤清正・福島正則・加藤嘉明
浅野幸長・池田輝政・黒田長政らと共に
石田三成襲撃に加わっています。

同年、豊臣家の大老の筆頭であった徳川家康の推挙で、
丹後12万石に加え、豊後国杵築6万石が加増されます。
城代として重臣の松井康之及び有吉立行を置きました。
これにより、都合18万石の大名となりました。

関ヶ原
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、
豊臣恩顧の有力大名である上、
正室の明智玉(ガラシャ)が
大阪にいたために、その去就が注目されていました。
けれども徳川家康からの
「味方につけば丹後の隣国である
但馬一国(10万石)を進ぜよう」
という言を受けて東軍に与し、
また東軍に入ることをいち早く表明したので、
他の豊臣恩顧の大名に影響を与えたと言われているそうです。

【正室のガラシャの壮絶な最期】
大坂城内の玉造の細川屋敷にいた
正室である明智玉(ガラシャ)は西軍の襲撃を受け、
人質となることを拒び、死ぬのは自分一人であるとして、
侍女たちに遺言を残します。
この遺言が侍女の霜が残した「霜女覚書」に
記されてあるそうです。
その一部は下記の通りで、
「三宅藤兵衛を頼りにしている(略)、
「藤」を正室代わりにされることはないように」 

「藤」とはガラシャが隠棲・幽閉されている時に
次女の古保を産んだ側室の事ですね。
このお古保が父譲りの気性らしく、
コワイ事をやらかしています・・。
それは、嫁ぎ先で
夫が手を付けた女中を吊るし
火箸で刺し殺したという逸話です。
またガラシャはキリスト教の教えにある
「一夫一婦制」こそ
正しい家族制度と認識していたそうです。
側室を増やした夫に対してかなり
心を痛めていたと推測されます。
「子だくさん」を奨励された戦国の世ですからね。

そして、屋敷の女性たちを逃がし、
家老の小笠原秀清(少斎)に介錯を依頼し、
自分の遺体が残らぬように
屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃しました。





【嫡男を廃嫡】
この時、細川屋敷の護衛であったはずの
稲富祐直(いなとみ すけなお)は
包囲部隊に弟子が多数居た為逃げるように懇願され、
結果的にはガラシャを置き去りにして逃亡してしまいます。
細川忠興は後に追討をかけましたが、
徳川家康が家来として
召し抱えたため断念しました。
更に、嫡男である細川忠隆を廃嫡しています。
細川忠隆の正室の千世は前田利家の娘です。
関ヶ原の戦いの際に
ガラシャが大坂屋敷で自害した際に
千世は脱出して姉である豪姫がいる
隣の宇喜田屋敷に逃げ込み生き延びていました。
細川忠興は、これを咎め、
千世を離縁して
前田家と縁を切るよう忠隆に命じました。
けれども細川忠隆は千世を庇い、
離縁を承知しなかったため、
細川忠興は忠隆を追放・廃嫡としました。
そのため後に、細川忠隆は千世と長男を連れ、
祖父である細川幽斎を頼って京都で隠居しました。

【離縁を迫った背景】
なお、細川忠興が嫡男である細川忠隆と千世に対して
離縁を迫った背景として
以下の事があったともいわれています。

【1】
徳川家康が細川家・前田家の
婚姻関係を好ましくないと思っており、
細川忠興としては、千世を離縁させることで、
前田家との関係を絶とうと考えていた。

【2】
細川忠興がガラシャの死を知らされた時、
その場で泣き崩れてしまった(と伝えられている)事から、
本当はガラシャも
連れ出して共に生き延びてほしかった。

【3】
正室が壮絶な死を遂げたのに、
連れ出すこともなく、
嫁だけが生き延びている事が許せない。

<細川忠興と玉(ガラシャ)>
細川忠興と玉(ガラシャ)

【稲富祐直】
稲富祐直(いなとみ すけなお)は
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、砲術家。
稲富流砲術の開祖。
代々丹後一色家の家臣であって、
丹後弓木城(忌木城/弓ノ木城)居城としていました。

田辺城籠城】
また、弟の細川幸隆と父の細川幽斎は、
細川忠興の留守をよく守り、
丹後田辺城に籠城します(田辺城の戦い)。
慶長5年7月19日(1600年8月27日)
から9月6日(10月12日)にかけての戦いでした。
丹波福知山城主小野木重次、
亀岡城主前田茂勝らの西軍1万5000の兵に対して、
細川忠興の実弟の細川幸隆と父の細川幽斎および
従兄弟の三淵光行(幽斎の甥)、
更に母の沼田麝香も具足を付け奮戦し、
その数は500人程だったそうです。
細川幸隆と細川幽斎は抵抗したものの、
兵力の差は隔絶し、援軍の見込みもなく、
半月ほどで落城寸前となります。
ですが、後陽成天皇からの勅命により
関ヶ原の戦いの前に開城し、
細川幽斎らは敵将・前田茂勝の丹波亀山城に入りました。
その背景として、細川幽斎は
歌道の奥義を伝える「古今伝授」を相伝されており、
弟子ある八条宮智仁親王やその兄後陽成天皇は
細川幽斎の討死と古今伝授の断絶を恐れていました。
八条宮は使者を遣わして開城を勧めますが、
細川幽斎はこれを謝絶。
討死の覚悟を伝えて籠城戦を継続。
故に天皇から勅命が下されたという事です。

<田辺城・石垣>
田辺城・石垣

杵築城の攻防】
豊後国では飛び地の杵築の杵築城が
旧領主(元豊後国主)である大友吉統に攻撃されます。
けれども松井康之と有吉立行が防戦して、
その後、救援に駆けつけた黒田如水により
石垣原の戦いで大友吉統は打ち破られました。
一方、松井康之の居城である久美浜城の留守を守っていた
細川忠興のかつての養父である細川輝経は
西軍の誘いを受けて久美浜城を占拠したものの、
合戦後に松井康之から問い詰められて自害したとのことです。

同年9月15日の関ヶ原本戦で細川忠興は、
黒田長政らと共に石田三成の本隊と戦闘となり、
首級を136上げたと伝えられているそうです。

尚、細川忠興は、自身の使用する武具にも深い関心を示し、
兜や越中具足や刀など独自の考案をデザインし、
関ヶ原の戦いの際には、
作った越中頭形兜(えっちゅうずなりかぶと)や
黒糸威二枚胴具足(くろいとおどしにまいどうぐそく)
を身に着けていました。
特に、黒糸威二枚胴具足は、
勝利を収めた際の着料ということから
「御吉例の甲冑」として細川家中で尊ばれ、
以後、越中具足は歴代の熊本藩主や
藩士の甲冑に踏襲されたということです。





【小倉へ転封】
徳川家康は慶長5年(1600年)の論功行賞で
細川ガラシャの潔い最期を武門の名誉と讃えます。
そして、但馬一国の加増は実行しなかったものの
丹後12万石から豊前国中津33万9000石に
国替のうえ加増となりました。
豊後杵築6万石は、そのまま細川領とされたので
合計で39万9000石の大名となりました。
なお、豊前国では前領主である黒田長政によって
年貢が持ち去られており、
返還をめぐって筑前商人を抑留するなど
関係がこじれています。
慶長7年(1602年)より、
小城であった小倉城を九州の要とすべく
大規模改修に取り掛かります。
なお、黒田長政が移った筑前国の年貢も
小早川秀秋によって持ち去られていました・・・。

その後中津城から
完成した小倉城に藩庁を移し、
小倉藩初代藩主となります。
また、弟の細川幸隆を竜王城の城主(1万石)として、
同じく弟の細川孝之を香春岳城の城主として、
さらに重臣の松井康之を杵築城の城主(2万6千石)として配し、
領内の守りを一層強固なものにしていきます。

【徳川政権時代】

慶長10年(1605年)、次男の興秋は、
三男の忠利の代わりに
江戸へ人質に送られる途中に出奔してしまいます。
慶長15年(1610年)、
父親の細川幽斎が死去します。
享年は77歳でした。

佐々木小次郎宮本武蔵
小倉藩では剣術師範として、
佐々木 小次郎(ささき こじろう)を迎えています。
そののち、慶長17年(1612年)に、
宮本武蔵との巌流島での決闘となります。
やがて宮本武蔵は、
寛永17年(1640年)に熊本藩主となった細川忠利に
客分(軍事顧問)として招かれ熊本に赴いています。

【家康から漢方薬を賜る】
慶長16年(1611年)3月24日、
伏見城の徳川家康のもとへ
祗候するために上洛をした時に病に倒れます。
この時、細川忠興に
癪の持病があることを知っていた徳川家康は、
本多正純を通して漢方薬の万病円を細川忠興に遣わします。
その薬で快復した細川忠興が
その日のうちに
徳川家康のもとに祗候し、礼を述べています。

【大坂夏の陣】
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣に参戦。
なお、次男の興秋は、大坂夏の陣の際に、
豊臣方として参戦しました。
徳川家康は興秋を許したそうですが、
父である細川忠興は興秋に切腹を命じて自害させます。
戦後、松平の苗字の下賜を辞退します。

元和6年(1620年)、
病気のため、三男の細川忠利に家督を譲って隠居します。
この頃、出家して三斎宗立と名乗ったとあります。





【肥後熊本藩へ】
寛永9年(1632年)、
細川忠利が豊前小倉40万石から
肥後熊本54万石の領主として加増・移封されると
細川忠利に44万5000石を残し、
自らは八代城に入り、
9万5000石を隠居領として
北の丸を隠居所としました。
なお、本丸には
細川忠興の四男である細川立孝を入れています。

この時、細川忠興に従って
八代郡高田郷に移った
上野喜蔵と長男の忠兵衛によって
高田焼が創始されています。

【高田焼(こうだやき)】
高田焼(こうだやき)は
熊本県八代市で焼かれる陶器で、
八代焼(やつしろやき)とも言われています。
焼き物には珍しい象嵌(ぞうがん)を
施すところが特徴です。
初期は上野焼(あがのやき)の手法を用いていましたが、
後に高田焼の特色でもある
白土象嵌の技法を完成させ、
現在もこの流れを汲む技法を堅持しつつも、
新たな彩色象嵌を開発するなどして
発展を遂げています。

【象嵌】
象は「かたどる」、嵌は「はめる」と言う意味があります。
象嵌本来の意味は、
一つの素材に異質の素材を嵌め込むと言う意味で
金工象嵌、木工象嵌、陶象嵌等があります。

【83歳まで長生きをする】
細川忠興は四男の細川立孝に
自分の隠居領の9万5000石を継がせて
立藩させることを強く望んでいたと考えられています。
けれども、正保2年(1645年)閏5月に立孝が早世し、
それに続くかのように細川忠興も
同年12月2日に死去したため、叶いませんでした。
臨終の際には
皆共が忠義 戦場が恋しきぞ
と述べており、
最後まで武将としての心を忘れていなかったとされています。
享年は83歳でした。

京都市北区にある高桐院(こうとういん)の本堂西側庭園奥には
忠興とガラシャ夫人の墓塔となっている春日灯籠があります。
また熊本市の泰勝寺跡(たいしょうじあと)には、
細川家初代藤孝(ふじたか)夫妻、
忠興とガラシャ夫人の墓「四つ御廟(ごびょう)」があります。

【その後の八代城】
八代城には孫で細川立孝の子・宮松(行孝)が残されました。
従兄で2代熊本藩主である細川光尚は、
(細川忠利の子、細川忠興の嫡孫)
これに宇土郡・益城郡内から3万石を与えて宇土支藩とし、
筆頭家老・松井興長(長岡佐渡守、松井康之の次男)を
八代城3万石の城主(正式には城代)としています。
松井興長の跡は細川忠興の六男・寄之(よりゆき)が
その養子となって嗣いでいます。

【忠興の人となり】

【天下一の短気】
家臣が記したと考えられる『茶道四祖伝書』の中で、
「細川忠興は天下一気が短い人で、
反対に気が長いのは蒲生氏郷である」
と書かれているそうです。
また岳父の明智光秀から丹波平定の際に
「降伏してくる者を無闇に殺してはならぬ」
と諭されています。

【父との不和・すぐ下の弟とも不仲】
多くの主君に仕えながら
細川氏を生き延びさせた政治手腕の反面、
身内の者にも容赦を加えない苛烈な側面がありました。
関ヶ原の合戦中、父の細川幽斎が居城を
敵に明け渡したことから
一時不和になっていたそうです。
また、すぐ下の弟の細川興元とも不仲でした。
不仲の原因は伝わっていません。
けれども、忠興自身に切り付けて傷の痕を残した
妹の伊也に対しては咎めることはありませんでした。

【年を重ねて角が取れた】
晩年は角が取れて丸くなったと言われています。
徳川秀忠:「天下の政務についてどうする?」⇚意訳
細川忠興:「角なる物に丸い蓋をしたようになさりませ」
徳川秀忠:「どんな人物を登用するのがよい?」
細川秀忠:「明石の浦の蠣殻のような人がよいでしょう
<その意味>
⇒明石の潮の流れは激しいが、
その潮にもまれた蠣は味がいいから、
人も人にもまれた者こそよき人柄になる)」

【情報通】
当代一流の文化人の一人として、
数多くの文化人や大名、
公卿たちとの交流が盛んでした。
また、土井利勝や遠戚関係にあった春日局などを通して
多くの情報を得ていたとされています。
隠居後も、家督を継いだ細川忠利と
交互に国許と江戸を行き来しており、
細川忠利とは書状で頻繁に連絡を取っていました。
ちなみに、細川忠興が生涯で書いた手紙の枚数は、
「大日本近世史料 細川家史料」の成果によりますと、
合計1820通で、
そのほとんどが細川忠利宛てだったとのことです。





【文化人としての顔】
父と同じく、和歌や能楽、絵画にも通じた文化人でした。
「細川三斎茶書」という著書を残しています。
千利休に師事し、最も気に入られ、
利休七哲の一人に数えられています。
千利休が切腹を命じられたとき、
千利休にゆかりのある諸大名の中で
見舞いに行った者は、
細川忠興と古田織部だけだったそうです。
北野大茶湯の折には松向庵という名の茶席を設け、
それに由来して後年、
「松向殿」と呼ばれることもあったとか。

【医学への造詣】
徳川家康が製剤させた漢方薬の紫雪に関心を持ち、
江戸に詰めていた細川忠利に頼んで
薬能書付きのこれの製法を入手し、
玉弥というお抱え医師の指導のもと、
自ら製剤しています。

【医学の成果】
【1】

脈の結滞を心配する細川忠利の症状を癪か痰が原因と判断。
自己の体験をもとに、
命には別条ないから心配のない旨の書状を送っていたそうです。

【2】
徳川秀忠が胸部の表皮に固まりができ、
身体のあちこちに移動する病にかかりました。
其の後、万病円で回復しました。
すると細川忠興は、薬も灸も効果がなく
万病円で回復したのは
寸白(寄生虫)が原因と結論付けました。
この細川忠興の結論は、
徳川秀忠の治療に専念していた
幕府の医師衆が同様の結論を出す
5ヶ月以上も前のことでした。

【食事療法】
食事のあり方にも関心を寄せています。
偏食を嫌い、その弊害を重視しています。
細川忠利にバランスのとれた食事をとるように
注意した書状を送っています。
実際に細川忠利が病にかかった時には、
同じ物をたくさん食べないように念を押して忠告し、
鶏卵が痰によくないこと、
疱瘡に鮑が大毒であることを指摘しています。

そういえば、細川忠利は幼少の時から病弱で
母親である明智玉がずっと心配していましたからね。
大人になってもやはり無理が出来ない身体なのでしょうね。
まして城主は心身ともにストレスがかかりますから・・。

【武具への造詣】
幾多の合戦を経験している細川忠興は、
自身の使用する武具にも深い関心を示し、
独自の考案を凝らしていました。
打刀の拵(外装)では「肥後拵」と呼ばれる様式を、
甲冑においては「越中具足」
(「越中流具足」ないし「三斎流具足」とも)
と称される形式を確立しています。





肥後拵は細川忠興が修めていた
片山伯耆流居合術の刀法に適するように
工夫されていました。
刀身と柄を短めに仕立て、
片手で抜き打ちをしやすくしている点、
鞘や金具の装飾にも茶道のわび・さびの感覚が
反映されている点が大きな特徴とのことです。
また、細川忠興に召し抱えられて鍔など
刀装具の製作に当たった金工家の家系は
「肥後金工」として幕末まで熊本藩内で続きました。
細川忠興自身が所用した肥後拵の例としては、
「信長拵」や「歌仙拵」などが
愛刀家の間で有名とのことです。

越中具足も細川忠興が実戦での経験を踏まえ、
家臣と協力して考案・製作した、
機能性に富んだ簡素な構造の当世具足のスタイルです。

【城主としての家中の者に対する心構え】
後継者である三男の細川忠利に対しては
「家中の者は将棋の駒と思え。
将棋の駒にはそれぞれの働きがある。
人も将棋の駒の如く、一つの役目では不調法でも、
他のことで役立つことがある。
何もかも、ただ一人でできる者は百人いてもおらぬ。
主君たる者は、このことを心得ておくべきである」
と訓戒していたとのことです。

「ただ一人でできる者は百人いてもおらぬ。」
⇑⇑
忠興自身のことでしょうかね?
さりげなく「父ちゃんは凄いんだぞ」との
意味に取れてしまいます。

もしも、細川忠興が現代にタイムスリップしてきたら
どうでしょうか?
織田信長同様に、溶け込んで
八面六臂の活躍をしていそうです。
そういえば、細川忠興は、
織田信長を心から崇拝していたとも言われています。

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