明智家臣

阿閉貞征・阿閉貞大父子~元は浅井家の家臣~秀吉への不信感!!光秀に組して秀吉に一族もろとも滅亡させられる

阿閉貞征



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阿閉貞征

阿閉貞征(あつじさだゆき)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
浅井氏、織田氏の家臣。
近江国山本山城主。

浅井家家臣】
阿閉は、阿辻とも記すそうです。
もともとは、代々北近江伊香郡の国人でしたが、
浅井氏が京極氏に代わって勢力を拡大すると
これに従うようになったそうです。
阿閉貞征は浅井家の重臣として、
北国街道や琵琶湖の湖北を見渡せる
要害・山本山城を任されていました。

元亀元年(1570年)、
姉川の戦いには1000騎を率いて参陣したとあります。
磯野員昌、浅井政澄に続く3段目に布陣したとのことです。
姉川の戦い後も対織田戦に参陣し、
山本山城が織田信長の攻撃を受けましたが、
これを撃退したとあります。
けれども、天正元年(1573年)、
織田信長に内通して、
山本山城にに織田軍を引き入れました。
このために小谷城は孤立し、
主家滅亡の遠因をつくったとされていました。

朝倉攻めへ】
8月8日、子・阿閉貞大と共に
織田信長に降参し、
そのあとすぐに朝倉攻めの先手を務めたそうです。
このとき磯野員昌・堀秀村と共に、
一時、越前国木ノ芽城の守備についていたとあります。
なお、この越前国木ノ芽城は、
天正2年(1574年)、越前の一向一揆勢に攻められ、
堀秀村の城代・樋口直房
勝手に一揆勢と和睦して開城して陥落してしまいました。
樋口直房はこのために秀吉に誅殺されたとあります。

【お知り合い】
なお、堀秀村は鎌刃城の城主でした。
また、樋口直房は竹中重治(半兵衛)と親しかったようです。
また、竹中重治は西美濃三人衆の安藤守就の娘婿でした。




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羽柴秀吉との領地問題】
「浅井三代記」によりますと、
これらの功により伊香郡を与えられたとの
記述がありますが、
北江は羽柴秀吉に一職支配権が与えられており、
阿閉貞征は伊香郡内の本領と
浅井郡管浦の地などを安堵されたに過ぎなかったのが
正解らしいとのことです。
羽柴秀吉の与力とされたとあります。
この領地問題はやがて、
羽柴秀吉との亀裂を生むことになったとされています。
天正3年(1575年)の
越前一向一揆にも秀吉と共に参戦していましたが、
次第に羽柴秀吉の圧力が強まり、
不信感が強まっていったそうです。
ある時、羽柴秀吉に、
竹生島の寺領の横領で
訴えられてしまったそうです。
けれども、阿閉貞征は逆に、
竹生島にある扶持の過半を
羽柴秀吉に取らてしまったと、
阿閉貞征が織田信長側近の
菅屋長頼に弁明していたそうです。

【羽柴秀吉とは合わない】
天正5年(1577年)より
羽柴秀吉は中国攻めで播磨国へ赴きましたが、
与力であったはずの阿閉父子は
近江に留まっていることから、
この頃には織田信長の旗本に
組み入れられたとのことです。
同6年(1578年)11月より始まる
有岡城攻めには織田信長に従って参戦しています。
同9年(1581年)の伊賀攻め、
同10年(1582年)1月15日の
左義長の爆竹でも
近江衆のなかに名が記されてあります。
同年3月の甲州征伐にも
織田信長に随従していました。

明智光秀に加担するも】
天正10年(1582年)、
本能寺の変の後、明智光秀に加担して、
羽柴秀吉の居城・長浜城を占領しました。
山崎の戦いに参加しましたが、敗戦します。
羽柴(豊臣)秀吉方に捕縛され、
一族全て処刑されてしまいました。
「天正記」「惟任退治記」によりますと、
処刑方法は磔刑であったということでした。

なお、藤堂高虎や渡辺了も一時期、
阿閉貞征のもとで
家臣として仕えていたことがあったそうです。

阿閉貞大

阿閉貞大(あつじさだひろ)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
浅井氏、織田氏の家臣でした。

【父とともに】
浅井氏の重臣で
近江国山本山城主・阿閉貞征の子として生まれました。
元亀元年(1570年)の姉川の戦いに父と共に参戦し、
磯野員昌、浅井政澄に次ぐ3段目に布陣していました。
浅井氏の滅亡前には阿閉貞大も
当主浅井長政の感状に
副状を発給するほどの立場にあったとされています。
姉川敗戦後も浅井氏に従って父・阿閉貞征と共に
山本山城を守って織田信長に抗戦していましたが、
天正元年(1573年)8月8日、
ついに織田氏に降り、
山本山城に織田軍を引き入れました。
そのため小谷城は孤立し、
主家滅亡へとつながっていったとされています。
その後、
すぐに父と共に一乗谷城の戦いの先手を務めていました。

【羽柴秀吉への不信感】
浅井氏滅亡後、
山本山城と伊香郡内の本領は安堵されたのですが、
父ともども長浜城主となった
羽柴秀吉の与力の立場に留まっています。
天正3年(1575年)8月の
越前一向一揆討伐に参加しています。
けれども、領土配分について阿閉貞大は
父同様に羽柴秀吉に
不満や不信感をを募らせていたようで、
同年10月17日付けの書状で
阿閉貞大は菅屋長頼に宛てて
羽柴秀吉が竹生島の扶持の過半を奪ったことが
違乱であるという訴えを起こしていました。

【織田信長に仕える】
そうした事情もあって、
与力ながら阿閉貞征・貞大父子は、
秀吉の中国攻めには同行せず近江に残っており、
天正6年(1578年)8月15日の
安土における相撲大会では、
信長の馬廻達に混じって奉行を務めており、
この頃に信長の旗本に転向したと考えられています。
なお、この相撲大会にて
剛力で鳴らす永田景弘の対戦相手として、
同じく巨体でかつ強力であったという阿閉貞大が
相撲を取ったが敗北しています。
天正9年(1581年)9月3日からの
第二次天正伊賀の乱では
父である阿閉貞征と共に甲賀口より侵攻しています。




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本能寺の変にて明智光秀につく】
天正10年(1582年)6月2日に起きた本能寺の変では、
一報を知ると阿閉貞征・貞大父子は
すぐさま明智光秀側について、長浜城の占拠に及びました。
そしてそのまま明智軍として
山崎の戦いに参加しましたが敗れ、
戦後に一族共々、
羽柴秀吉の軍勢に捕縛されて処刑されてしまいました。
「惟任退治記」によりますと、
処刑方法は磔刑であり、
首もしくは胴体は明智光秀・斎藤利三と共に
本能寺に晒されたと伝わっているとの事です。

【羽柴(豊臣)秀吉の二面性】
戦国時代屈指の「人たらし」と
異名をとっていた秀吉ですが、
晩年の出来事であった豊臣秀次
その一族への仕打ちなどは
かなり冷酷で残忍・非道の域であり、
また明智光秀亡き後は、
共にたてた手柄などを
自分一人でとったように書き換えるなど、
狡猾で猜疑心が強く、
ひどく器の小さな一面もあります。
自分にとって利益となる、
人や事柄については、
「人たらし」の一面を見せ、
懐に飛び込み、心を掌握し、
一方で所領(領地)や手柄などの
方法やたてかたは手段を選ばず、
時には人の功績を横取りやそれに近い形で
自分の手柄にするなどをしたので、
事実を知っている人間には、もう一つの面を見せて
容赦せず、徹底的に排除してきたのでしょう。
これが本来の「秀吉」像なのかもしれません。
身分が低く、出目も農民とされてはいますが、
よくわからず、自分が持てるあらゆる力と運を使って
のし上がってきた人間ですからね。
一般常識や良識があったら、
それは成功しなかったかもしれません。
織田信長よりも秀吉の方が、
サイコパス的な性質だったと考えます。

【山本山城】

山本山城(やまもとやまじょう)
【所在地】
〒529-0253 滋賀県長浜市高月町西阿閉
【築城】
平安時代末期と伝わっています。
【別名】
阿閉城
山本山の南側⇒山本山城と称する。
山本山の東側⇒阿閉城と称する。

【形態】
山城
【遺構】
土塁・曲輪・堀切
【築城者】
山本義経

【地形・場所】
小谷城跡から西に5キロほど、
賤ケ岳から南へ連なる丘陵の先端にある
山本山の頂上にあります。
山本山の南から西にかけては、
かつては琵琶湖が迫っていた要害であったようです。
上から読んでも・・・の山本山城は、
山頂部に土塁で囲まれた長方形の主郭、
その南側に二の曲輪があります。
ただし、この二の曲輪後は残念ながら、
後世の者によって破壊されてしまったそうです。
また、主郭北側の尾根筋には、
連郭式に八つの曲輪と六条の堀切が
交互に配された構造の模様です。

【登城口】
<宇賀神社>
(山本山登山口バス停近く)
宇賀神社の本堂横から登城口があるようです。
若宮山古墳まで緩やかな斜面をのぼるそうです。
古墳からはきつい斜面を30分程のぼると、
竹生島が見えてくるそうです。

山本山から賤ケ岳の8キロの山道が
ハイキングコースになっているようです。
この山道は整備されており、
30~45分程で二の丸へ出るそうです。

<朝日小学校裏>
朝日山神社の参道を進んだ朝日小学校北東角に
登城口があるそうです。
朝日山神社には駐車スペースもあるそうです。

山頂からの琵琶湖の眺めはサイコーとの事です。
竹生島もよく見えるそうです。




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【交通アクセス】
<鉄道>
JR北陸本線「河毛」駅からバス
⇒山本山登山口(宇賀神社近く)
<車>
北陸道長浜IC⇒国道8号線⇒県道258号線
<駐車場>
宇賀神社の参拝者用の無料駐車場あり(1台分くらい?)

【歴史】
近江源氏の山本義経が築城したと伝わります。
治承4年(1180年)に、以仁王の命によって、
平家追討の挙兵をしたそうです。
平知盛によって居館を焼かれてしまいます。
けれども、
木曽義仲と共に平家を西に追い込んでいきました。
其の後、木曽義仲が源頼朝と対立し、敗れます。

時は流れて戦国時代。
京極氏の被官であった阿閉氏の居城でしたが、
永正年間(1504年⇒1521年)の頃には
同じく京極氏の被官であった浅見氏が詰めていたそうです。
浅見氏は浅井亮政と反目していましたが、
其の後は臣従したそうです。
そして、浅井長政の頃に、
浅見氏の被官となった
阿閉貞征が居城として、小谷城の防衛の
重要な支城の役割を担っていました。

本能寺の変後、そして山崎の戦後、
阿閉一族の滅亡と同じくして、
廃城となった模様です。

<場所>
(山本山登山口バス停付近)
〒529-0362
滋賀県長浜市湖北町津里 県道258号線

織田信長・天下の奇祭「左義長まつり」がある日牟禮八幡宮、近江八幡の古社

小谷城~浅井家三代~浅井亮政・浅井久政・浅井長政

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