【小浜城】
小浜城(おばまじょう)は、
福井県小浜市にあった日本の城(海城)です。
雲浜城(うんぴんじょう)の雅号をもち、
福井県指定史跡です。
江戸時代初期に、京極家により、後瀬山城に代えて、
海と河川と湿地に囲まれて築かれた海城です。
慶長6年(1601年)、京極高次の代に着工され、
京極家2代にわたって普請工事が行われましたが、
完成を見ずして京極家は出雲国松江に加増転封されてしまいました。
代わって入封した酒井家が二条城の様式を取り入れるなど、
大幅に城の縄張を変更し、本丸天守を造営、
その8年後の1642年に小浜城はようやく竣工しました。
以降、若狭酒井家の居城として明治を迎えることになりました。
【歴史・沿革】
慶長6年(1600年)の関ヶ原の戦いで
功績があった京極高次が
若狭国を拝領、後瀬山城を居城とします。
詰城であった後瀬山城本丸は標高が高すぎ、
麓の旧守護館は近世大名として
政務を執るには狭すぎたため、
慶長6年(1601年)、
北川と南川と小浜湾の三角州に
新たな居城(小浜城)の築城に着手し始めます。
近世の城として、
戦時の防御性よりも行政処理の利便性に重きがおかれ、
平坦な平野の中央部に築かれました。
京極家2代京極忠高は
越前敦賀郡を寛永元年(1624年)に加増され、
小浜藩の藩領が確定します。
その後、寛永11年(1634年)に
京極家が出雲松江藩へ転封されると、
松江城~天守は国宝、城跡は国の史跡。天守からは宍道湖が見えます。
徳川家譜代の重鎮である酒井家の酒井忠勝が
12万3000石で小浜藩に封じられ入城、
城の整備拡張が続きます。
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寛永12年(1635年)には、
3重3階の天守が完成、
寛永19年(1641年)に城がようやく完成し、
藩主が移りました。
その後、酒井家のもと明治維新を迎えましたが、
明治4年(1871年)に城内で
大阪鎮台第一分営を設置する工事中に出火し、
天守を除く城の大部分を焼失してしまいました。
残存した天守は1874年に売却撤去されてしまいます。
1875年(明治8年)に
本丸跡に藩祖である酒井忠勝を祀る小浜神社が建立。
1956年(昭和31年)に福井県の指定文化財史跡に指定されました。
<所在地>
福井県小浜市城内1丁目7番55号
本丸跡に小浜神社があります。
多田川・北川・南川の三角州に位置しています。
<小浜城 案内図>
<交通>
JR西日本小浜線小浜駅から約1.5キロメートル
<地図>
青印は本丸のあった小浜神社付近。
石垣の一角に京極家の家紋が刻まれているとか・・・?
駐車場2台分あります。
<古呂美橋の石・井戸>
<古呂美橋の石・井戸の説明看板>
【京極高次】
京極高次(きょうごくたかつぐ)は、
戦国時代から江戸時代初期の武将、大名。
若狭小浜藩の初代藩主。
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【生い立ち】
京極氏は北近江の守護で本来は浅井氏の主筋ですが、
臣下の浅井氏の下克上を受け、
高次はその庇護のもと、浅井の居城内で生まれています。
のちに妹(姉との説もある)・竜子(松の丸(京極)殿)が
豊臣秀吉の側室となり、
また淀殿の妹の初(常高院)を正室としています。
大津城の戦いでは、
居城の大津城に篭もって1万人を超える西軍の大軍勢を食い止め、
関ヶ原の戦いの主戦場へと向かわませんでした。
戦後、その功により若狭一国を与えられて国持大名となり、
弟・高知と並んで京極家を再興し、
近世大名家としての礎を固めました。
【浅井初(常高院)】
常高院(じょうこういん)は、
(永禄13年(1570年)~ 寛永10年8月27日(1633年9月30日))は、
戦国時代から江戸時代前期の人物。
若狭小浜藩の藩主京極高次の正室。
高次との間に子はなく、
妹・江の娘で2代将軍・徳川秀忠の四女・初姫(興安院)や
氏家行広の娘・古奈(母は高次の妹)らを養女とし、
側室の子で嫡子の忠高(母は山田氏)や
高政(母は小倉氏)、
また詳細不明の養子1名を始めとした
血縁・家臣らの子女の養育に積極的に関わったとされています。
後に養女の初姫と忠高を結婚させるも、
この2人の間にも子供はできませんでした。
【酒井忠勝】
酒井 忠勝(さかい ただかつ)は、
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。
武蔵国川越藩2代藩主、
後に若狭国小浜藩の初代藩主。
3代将軍・徳川家光から4代将軍徳川家綱時代の老中・大老を務めました。
天正15年(1587年)6月16日、
徳川家康の家臣である酒井忠利の子として
(後の川越藩初代藩主)
三河国西尾(現在の愛知県西尾市)に生まれます。
尚、忠利の兄である酒井重忠は雅楽頭系酒井家です。
初陣は慶長5年(1600年)、
中山道を向かう徳川秀忠に従い
従軍した関ヶ原の戦いでの上田合戦でした。
寛永元年(1624年)8月には
3代将軍家光の上洛に従い、
上総、下総、武蔵の3国のうちから2万石を加増されて、
その11月に土井利勝と共に本丸年寄(老中)となります。
寛永11年(1634年)閏7月6日には、
若狭1国および越前、近江、安房に加増され、
若狭小浜へ移り、12万3500石を領します。
将軍・家光から忠勝一代は国持大名とされました。
寛文2年(1662年)7月12日に死去し、享年76歳でした。
福井県小浜市城内鎮座の小浜神社に主祭神として祀られています。
<小浜城・石垣>
お墓は、小浜藩主酒井家の菩提寺である
「空印寺(くういんじ)」にあります。
尚、「空印寺(くういんじ)」には
八百比丘尼が入定したと伝わる洞窟と
八百比丘尼の木像があります。
<所在地>
小浜市小浜男山2
<空印寺>
青印は駐車場付近
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【酒井氏】
【(1)左衛門尉酒井家】
<左衛門尉家(さえもんのじょうけ)>
広親の長男とされる酒井氏忠(親忠)の家系で
徳川四天王と称された酒井忠次は氏忠から5代目。
【(2)雅楽頭酒井家】
<雅楽頭家(うたのかみけ)>
広親の次男とされる酒井家忠の家系です。
酒井雅楽助正親は
左衛門尉家の酒井忠次と同じく
家康青年期の重臣のひとりで、
三河統一の過程で西尾城主(西尾市)に取り立てられ、
直臣最初の城主となっています。
【八百比丘尼伝説】
八百比丘尼(やおびくに)は、
人魚など特別なものを食べたことで長寿になった比丘尼の事です。
福井県小浜市と福島県会津地方では(はっぴゃくびくに)と
称されているそうです。
または白比丘尼(しらびくに)とも呼ばれている地域もあるそうです。
800歳まで生きましたが、
その姿は17~18歳の様に若々しい風貌であったそうです。
何度も結婚をしては夫を見送りますが、
自身は一向に年を取らず、200歳を過ぎて諸国を巡ります。
そして、800歳になった時に若狭に渡って入定したと伝わっています。
全国各地で似たような伝承があり、実際に「八百比丘尼」が訪ねてきたと
記録もあったようですが、一方で
八百尼丘尼の伝説は尼によって布教活動に利用されており、
こうした伝説を利用する女性も少なくなかったそうです。
また、歩き巫女(あるきみこ)だった可能性もあるとのことです。
ですけれども、
八百比丘尼が晩年に仕えたとされる
小浜市の神明神社の境内には、
八百比丘尼を祀る社があり、
長寿を願う人々に厚く信仰されているとのことです。
【神明神社】
福井県小浜市青井14-2
摂社に「八百姫神社」があります。
この「八百姫」ですが、神社の由来によりますと、
元々は南国から来訪した高貴なお姫様とのことです。
伝承の内容や存命期間が「八百比丘尼」とかなり似ているとのことで、
もしかしたら「八百比丘尼」伝説の発祥の一つかもしれません。
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