鎌倉殿の13人

文覚~元は北面の武士だが恋する女性を殺めて19歳で出家、源頼朝に挙兵を促した型破りな怪僧

奉安殿




文覚

文覚(もんがく、
保延5年(1139年)⇒
建仁3年7月21日(1203年8月29日))は、
平安時代末期から
鎌倉時代初期にかけての武士で真言宗の僧です。
父は左近将監茂遠(もちとお)。
俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)でした。
文覚、あるいは文覚上人、文覚聖人、
高雄の聖とも呼ばれています。
弟子には上覚、孫弟子に明恵らがいます。

【文覚の出自】
摂津源氏傘下の武士団である
渡辺党・遠藤氏の出身です。
北面武士として
鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)
に仕えていましたが、19歳で出家しました。

【伊豆国配流】
諸国の霊場を遍歴し、修行しました。
空海(くうかい)を崇敬し、仁安3年(1168年)、
その旧跡である神護寺(じんごじ)に住み、
修復に努めました。
承安3年(1173年)に
後白河法皇の御所法住寺(ほうじゅうじ)殿を訪ね、
神護寺興隆のために荘園の寄進を強請して
京都高雄山神護寺の再興を
後白河天皇に強訴したため、
渡辺党の棟梁である源頼政の知行国であった
伊豆国に配流されました。
当時は源頼政の子である源仲綱が伊豆守でした。

源頼朝との出会い】
文覚は近藤四郎国高に預けられて
奈古屋寺に住み、
そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に
配流の身だった源頼朝と知遇を得ます。
治承2年(1178年)に
許されて帰京しましたが、
流されてのちも文覚は信仰の篤い
後白河法皇への敬愛の情を失わず、
翌年の1179年、
平清盛が法皇を幽閉したのを憤り、
伊豆の源頼朝に平氏打倒を勧めたのでした。
そして1180年には平氏追討を命ずる
後白河法皇の院宣を仲介して、
源頼朝に挙兵を促したとされています。

【後白河法皇と源頼朝の後援で】
寿永2年(1183年)、
後白河法皇から紀伊国桛田荘を
寄進されたのをはじめとして、
後白河法皇や源頼朝から寺領の寄進を受け、
神護寺の復興に努力しました。
建久元年(1190年)には
神護寺の堂宇はほぼ完成し、
後白河法皇の御幸を仰いだのでした。

やがて源頼朝が平氏や奥州藤原氏を討滅し、
権力を掌握していく過程で、
源頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺の次は、
神護寺と同じく空海の古跡である東寺、
高野山大塔、東大寺、江の島弁財天など、
各地の寺院を勧請し、
所領を回復したり建物を修復しました。
また源頼朝のもとへ弟子を遣わして、
平維盛の遺児である六代の助命を嘆願し、
六代を神護寺に保護したのでした。
文治5年(1189年)、
播磨国が造営料国にあてられ、
文覚は復興事業を主催し、
1197年には諸堂の修造を終えたのでした。





【源頼朝の死後は流転続き】
源頼朝が征夷大将軍として
存命中は幕府側の要人として、
また神護寺の中興の祖として
大きな影響力を持っていました。
けれども1192年に
後白河法皇が没し、
正治元年(1199年)に
源頼朝が没すると、文覚は後援者を失い、
一転して不安定なものとなり、
将軍家や天皇家の相続争いなどの
さまざまな政争に巻き込まれていきます。
三左衛門事件に連座して
源通親に佐渡国へ配流されました。
源通親の死後に許されて京に戻りますが、
六代はすでに処刑されていました。
さらに元久2年(1205年)、
後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられ、
対馬国へ流罪となる途中、
鎮西で客死しました。

<文覚上人屋敷跡>
文覚上人屋敷跡

<所在地>
〒248-0005 神奈川県鎌倉市雪ノ下4丁目5−1

【人物評】
「玉葉」によりますと、
源頼朝が文覚を木曾義仲のもとへ遣わし、
平氏追討の懈怠や
京中での乱暴などを糾問させたと言うことです。

「愚管抄」では、乱暴で、
行動力はあるが学識はなく、
人の悪口を言い、
天狗を祭るなどと書かれており、
また、文覚と源頼朝は
四年間朝夕慣れ親しんだ仲であるとのことです。

「井蛙抄」によりますと、
同時代の僧侶西行を
憎んでいたとの噂があったと言うことです。

【京中の権力者には都合の悪い人物】
ここまでの悪評は逆に
それだけ京の都のとある権力者にとっては
都合の悪い人物であるということなんですね。
悪いが良くて、良いが悪い。
今も昔も変わっていませんね。

【「平家物語」での脚色】
「平家物語」では巻第五の「文覚荒行」、
「勧進帳」、「文覚被流」、
「福原院宣」にまとまった記述があります。
それらによりますと、
海の嵐をも鎮める法力を持つ
修験者として描かれています。
源頼朝に亡父である源義朝の髑髏を示して
蹶起をうながしたり、
配流地の伊豆から福原京の藤原光能のもとへ
赴いて後白河法皇に
平氏追討の院宣を出させるように迫り、
源頼朝にわずか八日で
院宣をもたらしたとのことです。
また巻十二の「泊瀬六代」では
源頼朝に直接、
六代助命の許し文を受け取りにいきます。
また後鳥羽上皇の政を批判したため
隠岐国に流されますが、
後に上皇自身も承久の乱で
隠岐国に流される結果になったのでした。
いずれも史実との相違が多く、
「平家物語」特有のドラマチックな脚色が
なされているとのことです。

【文覚の出家の原因】
「源平盛衰記」は、出家の原因は、
従兄弟で同僚の渡辺渡(わたなべわたる)の妻、
袈裟御前(けさごぜん)に横恋慕し、
誤って殺してしまったことであるとのことです。
事件は創作とされていますが、
登場する袈裟御前は絶世の美女、
孝道と貞節の狭間で死を選んだ貞女とされてきました。





【文覚と袈裟御前と渡辺渡】
なお、渡辺渡は源頼光の四天王の一人であった
源綱(渡辺綱)の子孫であったそうです。
また幼い頃に両親を亡くした文覚こと遠藤盛遠は
叔母である衣川に養われていたとの事です。
そしてその衣川の娘とされている人物が
袈裟御前であったとのことです。

文覚こと遠藤盛遠青年の
袈裟御前に対する想いは年月が長く
深いものであったのでしょうね・・。

【文覚井】
和歌山県かつらぎ町笠田(かせだ)には
文覚が開削したとする
伝承が伝わる文覚井(もんがくゆ)が
所在しています。
文覚井とは紀伊国桛田荘(かせだのしょう)
を灌漑した中世の用水路のことです。

【文覚の滝】
那智滝の下流に文覚が修行をしたという
「文覚の滝」が存在し、
滝に打たれる文覚の元に
不動明王の使いがやってきて
修行を成就するシーンが
よく描かれていたとのことです。
残念ながら2011年(平成23年)の
紀伊半島大水害で消滅してしまいました。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
市川猿之助(いちかわ えんのすけ)さんが
演じられます。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

比企尼~源頼朝の乳母~ずっと支え続けた偉大なゴッドマザーで鎌倉幕府創立の陰の功労者。

後白河院(後白河院天皇)(後白河法皇)「治天の君」の地位を保持した「日本一の大天狗」の異名をとる人物。

冷川(ひえかわ)不動尊~高源寺の不動院と伝わる場所~優しい雰囲気の滝があります。

高源寺~源頼朝が石橋山合戦出陣旗揚げ及び挙兵の密議をしたという場所

勝長寿院跡、源頼朝が建立した源氏の菩提寺で大御堂といいます。当時の鎌倉の三大寺社の一つでした。

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