【曾我物語】
建久4年(1193年)に
源頼朝が富士の裾野で行なった
大規模な巻狩り(富士の巻狩り)の際、
現在の富士宮市上井出の地で、
兄である曽我十郎祐成と
弟である曾我五郎時致が
父の仇である工藤祐経を
討ち果たした伝説を基にしています。
事件の発端は、伊豆にある工藤祐経の領地をめぐる、
工藤祐経と曽我兄弟の祖父である
伊東祐親の所領争いに始まります。
この争いの中で、伊東祐親の嫡子であり
曽我兄弟の実父である伊東祐泰が
工藤祐経によって殺されました。
当時幼かった曽我兄弟は
母の再婚で曾我姓となります。
やがて成長し、兄十郎が22歳、
弟五郎が20歳の時、本懐である仇討ちを遂げました。
工藤祐経を討ち取った後、
兄の曽我十郎祐成はその場で討ち取られ、
弟である曾我五郎時致は捕縛されて
鎌倉へ護送されることになりました。
源頼朝は処刑するつもりは
なかったとされていますが、
工藤祐経の遺児の懇願によって、
鷹ヶ岡で首を刎ねられました。
この鷹ヶ岡が、現在の
富士市鷹岡の地であるといわれています。
富士市にある曽我兄弟に縁のある場所を
いくつか紹介します。
今回訪れた全体の分かりやすい地図です。
【化粧坂少(姫宮神社)】
化粧坂(けわいざか)の少将(しょうしょう)とよみます。
曽我兄弟の弟の方である
曽我五郎時致(そがのごろうときむね)の相思の人でした。
歌舞伎の演目では重要な登場人物の一人です。
曾我五郎が親しく通う大磯の廓の傾城
化粧坂(けわいざか)の少将が、
五郎の父の仇敵である工藤祐経が
廓内にありと聞きつけ、
女だてらに勇み立って駆けこもうとするのを、
小林朝比奈が少将の帯を捕らえて引き止める場を
舞踊化したのが〈帯引〉。
その作品の一群を〈帯引物〉ということです。
虎御前と同じところで働いていたようですね。
虎御前を兄に紹介したのも
弟の曽我五郎時致であるという
エピソードもあることですし。
虎御前よりはその足跡があまりにも少ないので
実在した人物であるか否かは疑問に残る処です。
けれどもお兄ちゃん同様に、弟君にも
相思の人がいてほっとしてしまいました。
本懐は遂げたけれども若くして亡くなった兄弟。
その恋人の女性達も若くてともに
まだ10代だったのかなと
思うと中年の自分は切なくなってしまいます。
道路「松風通り」に面した小さな祠です。
民家の一角にひっそりとあります。
富士市立鷹岡小学校の近くにあります。
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【所在地】
〒419-0202 静岡県富士市久沢2丁目1−16
【駐車場】
狭い処なので駐車場も
コインパーキングもありません。
姫宮神社と小学校の間には川が流れており、
橋の近くに、停められる停車スペースがあり、
そこに停めさせて頂きました。
その場所から姫宮神社までは橋を渡って1分程です。
道路「松風通り」は狭い割には、交通量があるので
くれぐれも道路には停車しないでください。
更に橋がある処が一層狭く坂道になっています。
【曽我寺】
正式には鷹岳山福泉寺ですが、
今日では曽我寺の名で親しまれています。
境内には曽我兄弟の墓があり、
江戸時代から東海道を往来する人々が
寄り道をして参詣したといわれています。
また本堂の中には兄弟の位牌と木像が
安置されているとの事です。
かつては凡夫川右岸にあったものが
洪水で流されて現在の場所に移ったと
伝えられていますが、
その時期は明らかではありません。
近年まで、兄弟が仇討ちを果たした
5月28日に合わせて、
曽我兄弟の供養祭が毎年盛大に
行なわれていたとのことです。
曽我兄弟の遺体はこの地で
荼毘に付されたとの事です。
そして一周忌の法要を
箱根権現で済ませた後、
養父、母、叔父である三浦義澄、
従兄の和田義盛により、
生まれた伊豆、
育った曽我をさけて
本懐を遂げたこの富士の鷹岡の地に
骨を埋めたということです。
その場所が今の曽我寺となります。
さらに境内には曽我兄弟の兄の
曽我十郎祐成の相思の人である虎御前、
弟の曽我五郎時致の相思の人である
化粧坂の少将の歌碑があります。
<虎御前の歌>
露とのみ 消えにし跡を来てみれば
尾花かすえに 秋風ぞ吹く
<化粧坂少将の歌>
捨つる身に なほ思ひ出となるものは
問ふにとはれぬ 情なりけり
【所在地】
静岡県富士市久沢229 曽我寺境内
【交通アクセス】
東海道新幹線「新富士駅」より車で約15分程度。
JR身延線「入山瀬駅」より徒歩約10分程度。
【駐車場】
参拝者用駐車場があります。
7台位駐車できます。
【トイレ】
男女別のトイレがありますが、
トイレの入り口に蜘蛛の巣があり
中には入れませんでした。
【曽我八幡宮】
主神に応神天皇、相殿に曽我兄弟が祀られています。
この神社は、同神社所蔵
「曽我八幡宮略縁起(木版)」によりますと、
仇討ちから4年後の建久8年(1197年)、
曽我兄弟の意思に感心した源頼朝が
家臣の岡部権守泰綱に命じて
建てたものといわれています。
天文年間は今川氏・武田氏・小田原北条氏の
抗争によって廃墟となりましたが、
江戸時代に入った慶長14年(1609年)、
伊奈備前守が神領を寄進して再建されました。
その後、天保2年(1831年)、
雨宮丹後守守弘が社殿を
現在の場所に移して今に至っています。
なお、社殿を移したのは
寛政5年(1792年)という説もあります。
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【所在地】
〒419-0201 静岡県富士市厚原896
【五郎の首洗い井戸】
現在は井戸が無く碑が建てられているだけです。
かつては水が湧き出て小さな池になっていました。
仇討ち事件の後、弟の曾我五郎時致を
鎌倉へ護送する途中、
工藤祐経の遺児である犬房丸の懇願で
この地で曾我五郎時致を
処刑したとのことです。
また犬房丸自身が
討ち取ったともされています。
そして曾我五郎時致の首を
この湧水で洗ったことから、
「五郎の首洗い井戸」と
呼ばれるようになったとのことです。
池の水は「念力水」と呼ばれ、
毎年5月28日にはその水が
血に染まったように
赤くなるといわれていました。
【所在地】
〒419-0201 静岡県富士市厚原930−2
曽我八幡宮の近くです。
2022年NHK大河ドラマ
「鎌倉殿の13人」では
曽我十郎祐成を田邊和也(たなべ かずや)さん
曽我五郎時致を田中俊介(たなか しゅんすけ)さん
がそれぞれ演じられます。
曽我兄弟の縁の地・富士宮市~井出の代官屋敷・曽我八幡宮・曽我兄弟の供養塔・曽我の隠れ岩・音止の滝
河津三郎祐泰と血塚・伊東祐親の嫡男で曽我兄弟の父親であり曽我兄弟の仇討はここから始まりました。
満江(万劫)御前~曽我兄弟を含めて5人の子供のお母さんで狩野茂光の孫娘です。屋敷跡やお墓があります。
城前寺~曽我兄弟の菩提寺、曽我兄弟のお墓と養父・曽我祐信と母・満江御前の墓があります。
伊東佑親~源頼朝の配流地の監視役で八重姫の父であり、北条義時・曽我兄弟・三浦義村の祖父。
三浦義明と衣笠城合戦~長老は自らの命を盾に三浦一族の未来を守りました。
三浦義澄~源頼朝を支えた宿老の一人で13人の合議制のメンバーで相模守護。三浦一族の栄枯盛衰。
伊東佑清~八重姫の兄で曽我兄弟の叔父、親交のあった源頼朝を父から助けるが平家方につく。
虎御前~曽我兄弟の兄・曽我十郎祐成の愛妾、山下長者屋敷(住吉要害)で生まれ育ったとされています。
工藤佑経~復讐の連鎖の果てに~曽我兄弟の仇討の相手で後見人の伊東祐親に所領と妻を奪われてしまった人
源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。
源範頼~ひそやかに育てられ、兄の源頼朝のために尽力するも嵌められて消えてゆく
北条時政~先見性を持ち才腕を振るって幕府の実権を掌握するが暴走して寂しく去る。
曾我城跡~曾我兄弟が育った曽我氏の館。北条氏康に滅ぼされたが嫡流は足利将軍や徳川家に仕え出世した。
御所五郎丸~曽我兄弟の仇討事件で源頼朝の危機を救ったとされている人物です。
海野幸氏~弓馬の宗家と讃えられ曾我兄弟の仇討ちの際には源頼朝の護衛役、滋野氏の嫡流の家柄です。
文覚~元は北面の武士だが恋する女性を殺めて19歳で出家、源頼朝に挙兵を促した型破りな怪僧
西山本門寺・織田信長公の首塚~感銘を受けた富士山の麓で眠っています。
白糸ノ滝(静岡県富士宮市)~世界文化遺産、源頼朝が和歌を詠み「信長公記」にも名所と記されています。
若獅子神社~若獅子とは戦時中の少年戦車兵の愛称、帰還戦車・九七式中戦車があります。
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