史跡・城跡

曾我城跡~曾我兄弟が育った曽我氏の館。北条氏康に滅ぼされたが嫡流は足利将軍や徳川家に仕え出世した。

曽我城址(曽我氏館跡)




【曾我城跡(曽我氏館跡)】

曽我城は曽我氏の居城で
曽我兄弟の菩提寺である
城前寺の東背後の丘陵に築かれていました。
城の形態は丘城(52m/20m)です。
「日本三大仇討ち」のひとつとされる
曾我兄弟の仇討」で有名な
曾我兄弟が育った城です。
曾我祐信と再婚した
満江御前の連れ子であった
一萬丸と箱王丸がこの地で元服して、
曽我十郎祐成と曽我五郎時致と名乗り、
実父である河津三郎祐泰の仇である
工藤祐経を討ち取りました。

<曽我城址(伝曽我氏館跡)>

曽我城址(伝曽我氏館跡)

現在城址は曾我兄弟の菩提寺である
城前寺の境内となっており、
兄弟の五輪塔が土塁跡に立っています。
城前寺の門あたりが
城の大手門であったとのことです。

小高い山頂部は現在は畑となっていますが、
その一角に「曾我氏館跡」の碑や
「曽我一族郎党の供養御堂」、
「物見塚古墳」などがあります。
しかしながら城館に関する遺構は
見つかってはいません。
室町時代に入ると、
若狭国には青郷の大草氏、
熊川の沼田氏そして
曽我氏が足利将軍家より配されました。
曾我氏は、足利将軍家の奉公衆となり
幕府に仕えるようになりました。
やがて曽我氏嫡流家は、
若狭国遠敷郡三重村(おおい町)にあった
足利将軍家御料所の管理を
永代に渡って任され、
所領の背後に
三重城(久坂)を築いて
名田庄地区の中央部を治めました。
一方、相模国曽我荘に残った
曾我氏も代々続いていました。
曾我氏は上杉氏や大森氏に
仕えていたとのことです。
しかしながら、上杉氏も大森氏も
小田原北条氏に敗れていきます。
そして永禄2年(1559年)6月16日、
14代曽我甚五郎信正のときに
北条氏康軍に攻められ、城に火をつけられ
360余名もの一族が
自決したと伝えられています。

【供養御堂】

曽我一族郎党の供養御堂

【物見塚古墳】
調査の結果、古墳時代後期(7世紀)の
墳丘をもつ円墳であることがわかりました。
また周囲からは弥生時代から室町時代にかけてと
思われる柱穴が見つかっています。
更に城前寺付近からは
縄文時代後期の遺跡が見つかっています。

物見塚古墳(曽我氏館跡)

【曽我谷津岩本遺跡第Ⅰ地点】
曽我谷津岩本遺跡第Ⅰ地点

【所在地】
〒250-0204 神奈川県小田原市曽我谷津

【交通アクセス】
<電車>
JR御殿場線「下曽我」駅から徒歩約6分
<車>
東名高速道路「大井松田」ICから約11分

【駐車場】
専用の駐車場はありません。
人ひとりがやっと通れる小路なので、
城前寺参拝者用駐車場に車を停めて
参拝がてら曽我城址を
散策されるとよいと思います。

【曾我祐信】

曾我 祐信(そが すけのぶ)は、
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士、御家人。
相模国曾我荘の領主でした。
曾我兄弟の養父として知られています。
「曽我物語」では、
実父である河津祐泰の仇討ちを誓う
曾我兄弟の影の薄い養父として
描かれていますが、れっきとした
鎌倉幕府御家人であり、
治承4年(1180年)8月23日の
源頼朝挙兵石橋山の戦い
頃から記録が見られます。

【平家側として】
当初、曽我祐信は平家方として
大庭景親軍に属して
源頼朝と敵対する立場にありましたが、
戦況の転換に伴い10月18日に
投降して捕虜となり、
11月17日に赦免されて
源頼朝に臣従したのでした。





【平家追討軍】
元暦元年(1184年)2月、
一ノ谷の戦い源範頼の軍に
属して戦っています。
文治元年(1185年)10月、
勝長寿院の落慶供養で
都から招いた導師に
布施物の馬を引き渡す役を務め、
嫡子である曽我祐綱は随兵を務めています。

勝長寿院旧蹟

【嫡子への世代交代】
弓射の芸に優れており、
文治5年(1189年)正月、
御弓始の射手に選ばれています。
同年11月の源頼朝上洛には
曽我祐信ではなく
曽我祐綱が供奉しており、
嫡男である曽我祐綱への
世代交代が進められていたことが
うかがえます。

【曾我氏の所領】
曾我荘以外に所領のない曾我氏にとって、
世代交替が終わるまでの
過度な御家人役は負担でもありました。
更に妻の連れ子であった
十郎(祐成)と五郎(時致)兄弟に
分与できるような所領もありませんでした。

現在の曾我荘

【曾我兄弟と北条時政
特に兄の十郎は不満を募らせていたと見られ、
縁戚であった北条時政に接近し、
建久元年(1190年)9月、
弟五郎を伴って北条時政邸を訪れ、
北条時政を五郎の烏帽子親として元服させています。

【河津も曽我も継げない曽我兄弟
曽我氏には嫡男が既におり、
家督継承もしています。
伊東氏は伊東佑清が継いでいます。
何故曽我兄弟は河津を
継げなかったのでしょうか?

そして伊東佑清が死去、
或いは行方不明になった時に、
工藤氏に取られてしまっています。
曽我も河津も継げずに、
いわば「のけ者」となってしまった
曽我兄弟がなんだか
不憫に思ってしまいます。
それ故、自分たちの場所を確保するために
「仇討」に走ったのでしょうか?

【曾我兄弟の仇討ち】
建久4年(1193年)5月、
源頼朝による大規模な
富士の巻狩りが行われました。
16日に源頼朝の嫡子である源頼家
鹿を射止めた際に側に候していた
然るべき射手として
曽我祐信と他2人が召し出されました。
矢口餅を賜る儀式で
源頼朝が曽我祐信に問いかけた意図が
わからなかった曽我祐信は、
源頼朝に勧めるべき餅を
自分で食べてしまい、
源頼朝を興ざめさせています。

・・・儀式のノウハウがわかる家臣が
誰もいなかった、ということですね・・。
東日本には元々なかった儀式なのでしょうかね?

同28日、曽我祐成・時致兄弟は、
巻狩りの源頼朝宿所を襲撃して
近習していた実父の仇である
工藤祐経を討ち果たしました。
この事件は曾我兄弟の仇討ちとして
広く世に知られる事となりました。
兄の曾我祐成は襲撃の際に討ち取られ、
捕縛された弟の曾我時致は
審議ののち工藤祐経の遺児である
犬房丸の要望によって処刑されました。

【曽我荘の年貢を免除】
6月1日、曽我祐信は兄弟の連座を恐れましたが、
兄弟に同意した証拠はないとして許されました。
7日に鎌倉へ戻る源頼朝から帰郷を許され、
曾我荘の年貢を免除されて
兄弟の菩提を弔うよう命じられました。

【曽我祐信の記録】
曽我祐信の記録は翌年の
建久5年(1194年)12月15日条が
最後となっています。
嫡子である曽我祐綱は地頭職を得て、
将軍随兵などを務めた記録が
建暦3年 (1213年)まで見られます。

墓は妻と曽我祐成と曽我時致兄弟と共に
神奈川県小田原市の城前寺にあります。

曽我兄弟と曽我祐信・満江御前の墓

【「仇討」だけなのか?】
曽我時致の烏帽子親が北条時政で、
北条時政の庇護も受けていました。
工藤佑経は、源頼朝の寵臣でした。
源頼朝の宿所をわざわざ襲っています。
この事件で亡くなったのが、
曽我兄弟、工藤佑経、
のちに死去したのが源範頼、
そして曽我兄弟と同じ母親で
源範頼に仕えていた原小次郎。
もしかしたら、この事件の真の目的は
曽我兄弟を仇討として利用して
北条時政にとっておジャマな人々を
消すため、だったりして。
そう、真の目的は「源頼朝の暗殺」。
二番手が寵臣の工藤佑経。
源頼朝の実行は難しくとも、
工藤佑経は確実に実行できると
画策したのかもしれません。
北条時政にとって、
曽我兄弟は最初から
捨て駒だったのかもしれません。
そして曽我兄弟も理解していたと察します。
河津も曽我も継げず、居場所などない自分たち。
居場所がないなら作るほかありません。
工藤氏にとられた伊東や河津を取り返す。
たとえそれが自分の命と引き換えだとしても。
曽我の嫡子の家臣に甘んじるのも
ダメだったのでしょう。
プライド?それとも当時のしきたり?





【伊東佑清に元々継がせる予定?】
では、伊東家及び河津家を元々から
長男の河津三郎祐泰ではなく、
伊東佑清に継がせる予定だったのでしょうか?
河津三郎祐泰が存命の頃は、
伊東佑清は実は狩野家に
預けられていたとの事です。
伊東佑清は、
嫡男の河津祐泰がいなくなってしまったので
伊東家を継いだのでした。

【曾我氏】

曾我氏(そがし)は、相模国を発祥とする武家です。
桓武平氏千葉氏の支流であり、
平常信の子である曾我祐家が、
相模国曾我荘
(現在の神奈川県小田原市周辺)
を本拠として曾我大夫を称したことから
始まったとのことです。

【曾我氏の「佑」の字は?】
曽我氏の名乗りにある「祐」は、
藤原南家流伊東氏一族の
通字となっている
「祐」との関係を感じさせます。
曽我兄弟も、伊東氏の分かれである
河津氏の出身です。
曽我氏の名乗りと、
曽我兄弟を支援したことなどを考えると、
もしかしたら、
伊東一族から曽我氏に養子に
入った人物がいるのかもしれません。

【鎌倉幕府の御家人として】
曽我祐家の子である曽我太郎祐信は、
仇討ちで有名な曾我兄弟の養父です。
また治承4年(1180年)の
源頼朝挙兵による石橋山合戦に際して
源頼朝に敵対しましたが、
後にその配下に加わり、
鎌倉幕府の御家人として活躍しました。
実子の曾我祐綱も功を立てて
土佐国に地頭職を得ています。

伝曽我太郎祐信の宝篋印塔

【足利幕府の奉公衆として】
室町時代に、室町幕府が開設されると、
若狭国には青郷の大草氏、
熊川の沼田氏、
そして曽我氏が足利将軍家より配されました。
曾我氏は、足利将軍家の
奉公衆となり幕府に仕えました。
第15代将軍の
足利義昭の近習に曽我晴助がいます。

【足利将軍より偏諱を賜る】
曽我師助は高師直の推挙により
足利尊氏に仕えることができ、
その子息である曽我氏助は
足利尊氏より偏諱を賜りました。
以後足利義満より曽我満助は偏諱を賜り、
その子である曽我政助は足利義政より
偏諱を賜り、
代々が奉公衆一番に列し
将軍を警護しました。

【最後の足利幕臣として】
曽我乗助(兵庫助)は
室町幕府15代将軍である
足利義昭の将軍家継承にも尽力し、
最後の幕臣として活躍しました。

【所領】
曽我氏嫡流家は
若狭国遠敷郡三重村(おおい町)
にあった足利将軍家御料所の管理を
永代に渡って任され、
所領の背後に
三重城(久坂)を築いて
名田庄地区の中央部を治めました。

【歴代(嫡流)】
祐信―祐綱―祐重―祐盛―時助―時之―師助―氏助―
満助―政助―教助―元助―助乗―尚助(尚祐)―
古祐―近祐―仲祐―善祐―儔祐―

尚助の頃から「助」を「祐」
と表記するようになりました。
先祖の曾我祐信や
「曾我兄弟の仇討ち」の
曾我祐成を意識してのことと
推測されるとのことですが、
果たしてそれだけでしょうか。

以降の一族においても
「助」と「祐」の字は
文献上で表記に乱れがあり
統一はできてはいません。

太田道灌を斬った曾我兵庫】
曾我氏は扇谷上杉家の新参の家宰でした。
古くからの家宰である太田道灌を直接殺めたのが、
曾我氏の子孫である曽我兵庫です。
「兵庫」は代々受け継いでいるので実際の名前は
残念ながらわかりません。

【足利将軍から豊臣秀吉へ】
曽我助乗は足利義晴足利義輝
足利義昭に仕え、のち豊臣秀吉に仕えました。





徳川家康に仕える】
曽我尚祐は足利義昭、織田信雄
次いで家に伝わる
武家故実の知識をもって
豊臣秀吉、やがて徳川家康と仕え、
関ヶ原の戦いの後は知行1千石となりました。

徳川秀忠に仕える】
曽我古祐は徳川秀忠に仕え、
大坂の陣で抜け駆けを行い
首級を得ましたが閉門処分となり、
のちに許されました。
使番や目付、肥後熊本藩加藤忠広の
改易の使者、長崎奉行を歴任し、
長崎ではキリシタン取締りに功を成しました。
中浦ジュリアンの処刑や
フェレイラの転向も業績となります。
大坂西町奉行を勤め、
最終的には3千石の大身旗本となりました。

【「曽我流書札法式」】
曽我尚祐と曽我古祐は
鎌倉幕府及び室町幕府以来の
武家故実に詳しい家として
江戸幕府に優遇され、
曽我古祐はそれらを大成した
「曽我流書札法式」を残しました。
幕府祐筆の久保正之・正永親子は
これを学んだとのことです。

【出世する子孫たち】
曽我古祐の異母弟の曾我包祐(包助)は
徳川家光の側衆を勤め、
館林徳川家の家老となり
5千石の禄を得ました。
曽我包助の子の曾我祐興(助興)の室は
高家旗本の畠山義里の娘、
曽我助興の娘は
旗本上条上杉家の上杉義陳室となっています。

城前寺~曽我兄弟の菩提寺、曽我兄弟のお墓と養父・曽我祐信と母・満江御前の墓があります。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

勝長寿院跡、源頼朝が建立した源氏の菩提寺で大御堂といいます。当時の鎌倉の三大寺社の一つでした。

源範頼~ひそやかに育てられ、兄の源頼朝のために尽力するも嵌められて消えてゆく

北条時政~先見性を持ち才腕を振るって幕府の実権を掌握するが暴走して寂しく去る。

河津三郎祐泰と血塚・伊東祐親の嫡男で曽我兄弟の父親であり曽我兄弟の仇討はここから始まりました。

満江(万劫)御前~曽我兄弟を含めて5人の子供のお母さんで狩野茂光の孫娘です。屋敷跡やお墓があります。

中村宗平~中村党の祖で源頼朝を支えてきた武士団で、鎌倉党とは大庭御厨を巡る対立がありました。

大乗院~土屋氏屋敷跡、土屋宗遠を祖とする土屋氏は北条氏・足利氏・武田氏・北条氏政・徳川家に仕えました。

伊東佑清~八重姫の兄で曽我兄弟の叔父、親交のあった源頼朝を父から助けるが平家方につく。

虎御前~曽我兄弟の兄・曽我十郎祐成の愛妾、山下長者屋敷(住吉要害)で生まれ育ったとされています。

相模国大友郷~和田義盛の和田屋敷跡があり、戦国大名の大友氏の発祥の地です。

扇谷上杉管領屋敷跡~扇谷上杉氏の遠祖は足利尊氏の叔父。鎌倉公方を補佐する関東管領家として鎌倉に居住。

大森氏頼~兄弟親子の分裂を経て当主になり西相模で勢力をのばしました。居館跡(矢崎城)は紫雲寺です。

北条氏康~小田原北条3代目~相模の獅子 ・関東八州にその名を轟かした猛将は戦国随一の民政家。

善栄寺(小田原市)~北条氏康夫人・木曾義仲・巴御前・二宮尊徳のお墓があります。

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