鎌倉殿の13人

源範頼~ひそやかに育てられ、兄の源頼朝のために尽力するも嵌められて消えてゆく

源範頼(墓所)




【源範頼】

源 範頼(みなもと の のりより)は、
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将でした。
河内源氏の流れを汲む源義朝の六男です。
源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄でもあります。

【概要】
遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため
蒲冠者(かばのかじゃ)、蒲殿(かばどの)と呼ばれていました。
その後、藤原範季に養育され、
その一字を取って「範頼」と名乗るようになったそうです。
治承・寿永の乱において、
源頼朝の代官として大軍を率いて
源義仲や平氏追討に赴き、
弟の源義経と共にこれらを討ち滅ぼす大任を果たしました。
その後も源氏一門として、
鎌倉幕府において重鎮となりますが、
やがて源頼朝に謀反の疑いをかけられ
伊豆国に流されたのでした。

修善寺温泉観光ガイド

【吉見御所】
武蔵国横見郡吉見
(現在の埼玉県比企郡吉見町)のあたりを領して
吉見御所と尊称されたとのことです。

<源範頼館跡(息障院)>
<所在地>
〒355-0151 埼玉県比企郡吉見町御所146
源範頼館跡(息障院)

<息障院(源範頼館跡)境内>
息障院(源範頼館跡)境内

【吉見観音(安楽寺)】
身を隠していたと伝えられています。
<所在地>
〒355-0151埼玉県比企郡吉見町御所374
吉見観音(安楽寺)

<三重塔(吉見観音)>
源範頼が吉見庄を領するに及び、
本堂・三重塔を建立しました。
その後小田原北条氏との戦いですべて消失。
現在の本堂は今から約350前の寛文元年、
秀慶法印によって再建されたものとのことです。

三重塔(吉見観音)

【時代】
平安時代末期~ 鎌倉時代初期

【生誕】
久安6年(1150年)頃と伝わる

【死没】
建久4年8月17日
(1193年9月14日)頃と伝わる

【別名】
蒲冠者、蒲殿、参州、吉見御所

【墓所】
伊豆市修禅寺温泉場西北側の山腹

源範頼のお墓

【父】
源義朝

【母】
池田宿(磐田市)の遊女

【養父】
藤原範季

【兄弟】
義平、朝長、頼朝、義門、希義、範頼
阿野全成、義円、義経、坊門姫、女子

【妻】
安達盛長の娘(亀御前)

<亀御前の供養塔>
亀御前の供養塔(阿弥陀堂)

【子】
範圓、源昭
※いずれも出家しています。

【母親の出自】
源範頼の生母は「尊卑分脈」によりますと、
遠江国池田宿の遊女とされています。
池田宿は現在の静岡県磐田市
(平成の大合併前は磐田郡豊田町)池田で、
源範頼の生誕地とされる
伊勢神宮内宮領・蒲御厨の東隣にあたります。
現在では池田宿と蒲御厨は
天竜川によって隔てられていますが、
平安時代には天竜川は池田宿の東側に流れていました。
従って池田宿は蒲御厨と地続きになっており、
天竜川西岸に設けられた東海道の宿場で
京都と東国を結ぶ交通の要衝でもあったのです。
このため、「遊女」とは称していても
実際には単なる芸能民ではなく
池田宿の有力者(長者)の娘で、
父親の源義朝が池田宿との関係構築を目的として
婚姻を結んだのではないかとみる説もあるとのことです。

【生い立ち】
父親の源義朝が敗死した
平治の乱では存在を確認されず、
出生地の遠江国蒲御厨で
密かに養われていたといいます。
養父の藤原範季が東国の受領を歴任する
応保元年(1161年)以降、
藤原範季の保護を受けたと考えられています。

源範頼 生涯 説明板

【挙兵の時期と甲斐源氏】
治承4年(1180年)に挙兵した
兄の源頼朝の元にいつ参戦したかは
よくわかっていません。
最初は源頼朝ではなく、
出身の遠江国を中心に甲斐源氏などと協力し、
遠江国を占拠した甲斐源氏の
安田義定と協力関係にあったと考えられています。





【関東での活動開始・野木宮合戦】
寿永2年(1183年)2月、
常陸国の志田義広が三万余騎を率い鎌倉に進軍します。
その進軍に下野国の小山氏が迎撃し
野木宮合戦となりました。
源範頼は援軍として関東での活動が
初めて吾妻鏡で確認されています。

【大将軍代理】
寿永3年(1184年)1月、
源頼朝の代官として源義仲追討の大将軍となり、
大軍を率いて上洛し、
先に西上していた源義経の軍勢と合流し、
宇治・瀬田の戦いに参戦しています。
尾張国墨俣渡にて
御家人らと先陣争いで乱闘になったのが
源頼朝の耳に届き、怒られています。
1月20日、源範頼は大手軍を率いて瀬田に向かい、
源義経は搦手軍を率いて宇治を強襲します。
これは源義経の独断による強襲と見られていますが、
源範頼軍は広く展開し、ゆっくりとした進軍をしています。
従いまして源義経の強襲は、
戦上手の今井兼平率いる500余騎を
源範頼軍に引きつけるための
作戦だったとも考えられています。
源範頼軍も強襲をすると、
進軍の大義名分である源義仲が
西方面に逃亡してしまう危険性があり、
しかも京都には3万の兵士をまかなえるだけの
食糧もなかったとのことです。
源義経の京都強襲が成功すると
源義仲は今井兼平と合流し、
北陸に逃亡をはかりますが、
事前に察知していた源範頼軍は追跡し、
甲斐源氏の一条忠頼がまず捕捉して、
最終的には源義仲を討伐したのでした。

源範頼の墓参道 入り口

【源範頼の役割】
寿永3年(1184年)2月5日開始の
一ノ谷の戦いでは、
源範頼は大手軍を率いて進軍し、
源義経は1万の搦手軍を率いて進軍しました。
福原を本営に強固な防御陣を築いて
待ち受ける平氏に対し、
源範頼軍は東側から正面攻撃を行い、
生田の森において激戦が展開さましれた。
この間に西側に回り込んだ源義経軍による奇襲によって
戦いは7日に終結し、
平氏を海上に追いやって大勝しました。
このうして源義経の評価はいっそう高まったのでした。
一方、源範頼は、兄の源頼朝の名代であり、
源範頼自身が前線で武功を上げるよりも
配下の諸将を指揮して
武功を上げさせる役割を担っていたのでした。
墨俣渡で御家人と先陣争いをした事を
源頼朝に叱責されたのも
源範頼の役割に反するものと
みなされたからと考えられています。

【三河守として】
同年6月、源範頼は戦功により三河守に任じられます。
この三河守は名義上のものではなく
建久4年(1193年)8月の失脚に至るまで
最高責任者として同国を支配したのでした。
その証拠として、現在も三河の地には
源範頼の名で建設された寺が存在し、
このことから政治においても
高い能力を持っていたと考えられています。





【九州征伐】
8月、源範頼は今度は九州進軍の任を受けます。
出陣の前日に源範頼軍の将達は
源頼朝から酒宴に招かれ、馬を賜ります。
この時代において馬は貴重品でした。
また源頼朝の秘蔵の馬(甲一領)を与えられました。
九州進軍の主目的は平氏討伐ではなく、
源頼朝と対立し平氏を援助する西国家人を鎮圧し、
平氏を瀬戸内方面に孤立させる事でした。
参加した武将は
北条義時・足利義兼・千葉常胤・三浦義澄
八田知家・葛西清重・小山朝光・比企能員・
和田義盛・工藤祐経・天野遠景など錚々たるメンバーで
源頼朝軍の主力武士団を揃えたのでした。
それほどにこの九州征伐は重要であったのでした。

【停滞する遠征軍】
備前国藤戸の戦いにて
佐々木盛綱の活躍で平行盛軍に何とか勝ち、
長門国まで進みますが、
瀬戸内海を平氏の水軍に押さえられており、
遠征軍は兵糧不足などにより進軍が停滞しました。
源範頼は防長から、
11・12月にかけて
兵糧の欠乏、馬の不足、武士たちの不和など
窮状を訴える手紙を鎌倉に次々と送ります。
それに対して源頼朝は食料と船を送る旨と、
地元の武士などに恨まれない事、
安徳天皇・二位尼・神器を無事に迎える事、
関東武士たちを大切にする事など、
細心の注意を書いた返書を送っています。
特に安徳天皇の無事は重ねて書き送っていたのでした。

文治元年(1185年)1月26日、
豊後国の豪族である緒方惟栄の味方などを得て、
源範頼はようやく兵糧と兵船を調達し、
侍所別当の和田義盛など
勝手に鎌倉へ帰ろうとする
関東武士たちを強引に押しとどめて
周防国より豊後国に渡ることに成功します。
九州の平氏家人である
原田種直を2月に豊前の葦屋浦の戦いで打ち破り、
さらに博多・太宰府に進撃します。
これによって、長門国彦島(下関市)に拠点を置く
平家は背後を遮断されたことになり、
平家の後背戦力は壊滅したのも同然となりました。
平家はこうして彦島のみを拠点とせざるをえなくなりました。

同年2月、源頼朝から出撃の命を受けたとされる
源義経が屋島の戦いで勝利しました。
なお、この戦いにおいて
源義経が源頼朝の命を受けず、
自分の一存で屋島の戦いに赴いたとする異論も存在します。

一方、源範頼は源頼朝に窮状を訴える手紙の中で、
四国担当の源義経が引き入れた
熊野水軍の湛増が九州へ渡ってくるという噂を聞いて、
九州担当の自分の面子が立たないとの苦情も記していたとの事です。

そのご、3月24日、
壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させたのでした。

【頼朝と義経の対立】
壇ノ浦の合戦後、
源範頼は源頼朝の命により、
九州に残って、戦後処理にあたりました。
5月の源頼朝からの伝令では、
従っている御家人達に問題があっても、
自分で勝手に判断するのではなく、
必ず源頼朝を通すように注意がきています。
こうして
源頼朝の意に背かず何事も
千葉常胤や奉行として付けられた
和田義盛に相談した源範頼。
けれどもそうした源範頼に対して、
平家追討の道中、言いつけを守らず
独自に行動する源義経の専横や越権行為が
源頼朝の怒りを買っていたのでした。
源範頼が九州の行政に当たっている間に、
鎌倉では源頼朝と源義経は対立したのでした。





源範頼は9月に源頼朝に帰還の手紙を出し、
海が荒れたため到着が遅れる旨を報告しています。
源範頼のこうしたこまめな報告ぶりも、
源頼朝に忠実であるとして評価され、
源義経の独断をより際だたせたということです。
10月、鎌倉へ帰還した源範頼は、
父である源義朝の供養のための
勝長寿院落慶供養で
源氏一門の列に並び出席しています。

【源義経、自害】
源義経は源頼朝追討の挙兵に失敗し、
同年11月に都落ちしました。
その際、養父であった藤原範季の実子で
源範頼と親しかった藤原範資は、
源範頼から兵を借りて源義経追討に加わっています。
が、藤原範季は潜伏中の源義経を匿った事で
源頼朝の要請により解官されました。
源義経は奥州へ逃げ延びたのち、
文治5年(1189年)閏4月30日、
源頼朝の圧力を受けた藤原泰衡による
討伐軍の襲撃を受け、自害しました。

【奥州討伐】
文治5年(1189年)7月、
源頼朝自ら出陣し、奥州藤原氏を滅ぼした
奥州合戦においては、
源頼朝の中軍に従い出征しました。
これが源範頼とっては最後の参戦となったのでした。

【源範頼と公家】
建久元年(1190年)6月28日、
都の院庁官・中原康貞が、
源範頼を通じて院伝奏・藤原定長と、
関東申次・吉田経房を訴えました。
けれども源頼朝は訴えを殆ど聞き入れず、
両者ともに公武での務めをよく果たしており、
この事は口外しないよう、
源範頼に言い含めたとあります。

頼朝挙兵に参じた頃の郎党は
わずかな数であったそうですが、
其の後の源範頼の実績、
三河守補任や所領の獲得などによって
私的な主従関係を結んだ
武士の数も増えていったと見られています。
また、源範頼と京との結びつきの強さから、
直属武力なる武士たちには
朝廷の武官職を持つ者が多かったのでした。
事実、養父であった藤原範季は
九条兼実の家司であり、
西国遠征の際には
養父との接触にも慎重だった
源範頼が公家の争いに関わったのは、
何らかの事情があったものと考えられています。
・・・そうした動きも、
もしかしたら源頼朝や北条氏に
警戒され、疑念を持たれ、
或いは邪魔・・・だと思われていったのかもしれません。

建久元年(1190年)11月、
源頼朝上洛に従い、
頼朝任大納言の拝賀で前駆をつとめました。

曽我兄弟の仇討】
建久4年(1193年)5月28日、
曾我兄弟の仇討ちが起こり、
源頼朝が討たれたとの誤報が入ります。
その誤報を真に受けて嘆く政子に対して
源範頼は
「後にはそれがしが控えておりまする」と述べたそうです。
この発言が源頼朝に謀反の疑いを招いたとされています。
最も政子に謀反の疑いがある言葉をかけたというのは
「保暦間記」のみに記されており、
また曾我兄弟の事件と起請文の間が
二ヶ月も空いている事から、
政子の言いがかりや陰謀であるとする説もあります。





【流罪で伊豆国へ】
「吾妻鏡」によりますと、
8月2日、源範頼は
源頼朝への忠誠を誓う起請文を源頼朝に送ります。
けれども源頼朝はその状中で源範頼が
「源範頼」と源姓を名乗った事を
過分として責めて許さず、
これを聞いた源範頼は狼狽したといいます。

10日夜、源範頼の家人である当麻太郎が、
源頼朝の寝所の下に潜みます。
気配を感じた源頼朝は、
結城朝光らに当麻を捕らえさせます。
当麻太郎は
「起請文の後に沙汰が無く、嘆き悲しむ参州(範頼)の為に、
形勢を伺うべく参った。全く陰謀にあらず」と述べたそうです。
次いで源範頼に問いただすと、
源範頼は覚悟の旨を述べたそうです。
疑いを確信した源頼朝は、
17日に源範頼を伊豆国に流したとのことです。
当麻太郎につきましては、
源頼朝と政子の娘である大姫の病のため、
恩赦があり、死罪を免れ、薩摩へ流されたとの事です。

【最期】
8月17日、伊豆国修善寺に幽閉されました。
「吾妻鏡」ではその後の
源範頼の消息については不明となっています。
「保暦間記」や「北條九代記」などによると
誅殺されたことになっていますが、
誅殺を裏付ける史料が無く、
子孫が御家人として残っていることから
異説が存在しています。

修禅寺にて自害したとも
殺害されたという説もあります。

伊豆 修禅寺

幽閉された翌日の18日、
源範頼の家人らが館に籠もって
不審な動きを見せたとして
結城朝光、梶原景時父子、
仁田忠常らによって直ちに
討伐されたということです。
また20日には曾我兄弟の同腹の兄弟である
原小次郎(北条本「吾妻鏡」や
「曽我物語」では「京の小次郎」)
という人物が源範頼の縁座として処刑されています。

伊豆 修禅寺 竹

【源範頼の生存説】
源範頼の死去には異説があります。
源範頼は実は修禅寺では死なず、
越前へ落ち延びてそこで生涯を終えた説や
武蔵国横見郡吉見(現埼玉県比企郡吉見町)
の吉見観音に隠れ住んだという説などがあります。
吉見観音周辺は現在、
吉見町大字御所という地名であり、
吉見御所と尊称された
源範頼にちなんでいるとのことです。
「尊卑分脈」「吉見系図」などによりますと、
源範頼の妻の祖母で、
源頼朝の乳母でもある比企尼の嘆願により、
子の範圓及び源昭は助命され、
その子孫が吉見氏として続いたとされています。

<息障院 説明板>
息障院 説明板

<吉見観音(安楽寺)>
吉見観音(安楽寺) 山門

【追浜の地名の由来】
神奈川県横須賀市追浜の地名の由来として
鎌倉方から追われた源範頼が
ここに上陸した為と言われております。
更にはその際に現地の者たちに匿ってもらった礼に
自分の蒲の字を与えて「蒲谷」
と名乗らせたという言い伝えも残っています。

横須賀の海岸(長者ケ崎)

【武蔵野の石戸蒲ザクラ】
このほかに、
武蔵国足立郡石戸宿(現埼玉県北本市石戸宿)には
源範頼は殺されずに岳父である
安達盛長の手引きによって石戸に逃れたという伝説があります。

<石戸神社>
石戸神社(埼玉県北本市)

<石戸神社 説明板>
石戸神社 説明板
息女「亀御前」は妻の誤記?

なお、源範頼の伝説に由来する
息障院 説明板は大正時代に
日本五大桜の天然記念物に指定され、
日本五大桜と呼ばれているとのことです。

石戸蒲ザクラ

<石戸蒲ザクラ 駐車場>
石戸蒲ザクラ

2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では
迫田孝也(さこだ たかや)さんが演じられます。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

北条政子~いちずに恋した乙女は幾多の悲しみと困難を乗り越え尼将軍となった。

比企尼~源頼朝の乳母~ずっと支え続けた偉大なゴッドマザーで鎌倉幕府創立の陰の功労者。

源義経~戦略家且つ戦術家であった若き天才~その悲運な生き様はやがて伝説となった。

阿野全成~源頼朝の異母弟で源義経の同母兄~妻の実家側について甥の源頼家とやがて対立する。

源行家~平治の乱から熊野に隠れて20年、交渉力はあるが戦下手で、武将よりも別の才能があった人物。

源頼家~悲劇の2代目~北条VS比企、時々朝廷、そして東国武士の権力闘争が渦巻く時期。

大姫~源頼朝と北条政子の長女~生涯をかけて愛を貫いた儚くも一本気な姫、静御前と心を通わせる

木曾義仲(源義仲)河内源氏の一族で源頼朝とは従兄弟、美男子で信義と情を備えていたが武骨で公家文化には疎かった

指月殿~伊豆で最古の木造建築~北条政子が我が子である源頼家の菩提所として建立。

十三士の墓~源頼家の家臣たちの眠る場所

河津三郎祐泰と血塚・伊東祐親の嫡男で曽我兄弟の父親であり曽我兄弟の仇討はここから始まりました。

仁田館跡~慶音寺に今も残る土塁と堀。仁田忠常とは?

加藤景廉~頼朝挙兵以来の側近で承久の乱まで生き残る。長男は遠山氏の祖で有名となった子孫あり!

大見城跡(伊豆)~鎌倉御家人の大見氏はやがて越後に行き、水原氏から杉原氏となる。

梶原景時~鎌倉ノ本体ノ武士~文武両道で実務能力の高さ故に疎まれやがて滅ぶ。

和田義盛と和田合戦~三浦一族~鎌倉幕府創始の功臣だが北条義時に嵌められる

安達盛長~源頼朝を流人時代から支え続け厚い信頼を得た人物。

千葉常胤~桓武平氏の流れをくむ千葉氏の中興の祖~鎌倉幕府成立に大きく貢献した人物です。

伊東佑親~源頼朝の配流地の監視役で八重姫の父であり、北条義時・曽我兄弟・三浦義村の祖父。

土肥実平とその妻~武士団「中村党」の中心であり頼朝から厚い信頼を受けた宿老~小早川家の祖。

中原親能~朝廷と幕府の交渉役のエキスパート~実務官吏でありながら戦にも従軍する

平清盛~平家の黄金期を築いた棟梁~先見性と革新的思考で時代を切り開き後世に託す。

平宗盛~最後の平家の棟梁~偉大なる父の跡はいばらの道だらけ、イクメンで家族思いのパパでもありました。

安楽寺(吉見観音)、比企三山の一つで源範頼が身を隠したと伝わる名刹です。

修善寺温泉~伊豆最古の湯治湯で歴史・文学・豊かな自然が調和よくブレンドされた処です。

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