鎌倉殿の13人

中原親能~朝廷と幕府の交渉役のエキスパート~実務官吏でありながら戦にも従軍する

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中原親能

中原 親能(なかはら の ちかよし)は、
平安時代末期から
鎌倉時代初期にかけての下級貴族及び
鎌倉幕府の文官御家人でした。
十三人の合議制の一人でもあります。
中原氏庶流貞親流の広季の実子
または養子で弟には大江広元がいます。

【中原親能とは】
鎌倉幕府初代将軍源頼朝の側近であり、
源頼朝の代官として東西に奔走し、
朝廷と幕府の折衝に努め、
幕府の対公家交渉で
大きな功績を果たした人物です。
また、大友氏が九州に確固たる
地盤を築き上げることができたのも、
その初代大友能直の養父である
中原親能からの相続に
起因しているという説があるそうです。

【時代】
平安時代末期 – 鎌倉時代前期

【生誕】
康治2年(1143年)

【死没】
承元2年12月18日(1209年1月25日)

【改名】
親能⇒寂忍(じゃくにん・法号)

【別名】
掃部頭入道寂忍など

【官位】
<朝廷>
正五位下、明法博士、斎院次官、
美濃権守、式部大夫、掃部頭、穀倉院別当
<鎌倉幕府>
公文所寄人、京都守護、公事奉行人、
十三人の合議制

【主君】
源雅頼⇒源頼朝

【氏族】
(藤原北家御子左流)?⇒中原氏貞親流

【父】
中原広季(藤原光能?)

【兄弟】
親能、大江広元
【妻】
源兼忠・三幡の乳母(波多野経家娘)?
【子】
季時、
大友能直(養子・大友氏初代)

【出自について】
「尊卑分脈」によりますと、
明経道の家系である
中原氏出身の中原広季の実子で、
大江広元とは兄弟とされています。

一方、「大友家文書録」によりますと、
実父は参議・藤原光能でありますが、
藤原光能は「尊卑分脈」及び
「公卿補任」によると1132年生まれです。
従って1143年生まれの中原親能の
実父であるかは年齢的に疑問とのことです。

母が前・明法博士の
中原広季の娘だったので、
外祖父の養子になったのだということです。

なお、第4代将軍九条頼経の
側近である大外記中原師員
(幕府の高級官僚摂津氏の遠祖)は、
従兄弟の中原師茂の子であるとのことです。

【中原親能の生涯】
康治2年(1143年)に誕生しました。

治承4年(1180年)、
権中納言である源雅頼の家人として
在京していましたが、
源頼朝挙兵から4ヶ月後の
12月6日早朝に平時実(平時忠の子)が
中原親能を尋問するために
源雅頼の邸宅を捜索しました。
中原親能は前夜に宿直をしていましたが
すでに出奔しており、
父の中原広季にも使者を送りましたが、
見つけることはできなかったとのことです。
捜索の理由は、中原親能幼少期に
相模国の住人に養育されて成人し、
源頼朝と「年来の知音」
であったことだということです。
(「玉葉」治承4年12月6日条)。




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【中原親能は何処?】
次に中原親能の消息が分かるのは
「玉葉」寿永2年(1183年)9月4日条で、
源雅頼の元に中原親能から飛脚が届き、
源頼朝の使者として
上洛する旨の内容だったそうです。
この記事によりますと、
中原親能の妻は源雅頼の子である
源兼忠の乳母であり、
中原親能は源頼朝とは
「甚深の知音」で当時同宿していたとのことです。

源義経と京へ】
10月、源頼朝は弟の源義経
代官として京へ出立させ、
中原親能もこれに同行しました。
源義経と中原親能は11月に近江国に達しました。
九条兼実は11月7日の記事に
「次官親能(広季の子)并びに頼朝の弟(九郎)」
と中原親能の名を先に記しており、
この時点では中原親能の方が
都での知名度は高かったと思われています。

【京にて公家との交渉に活躍す】
寿永3年(1184年)1月20日、
源範頼(頼朝の異母弟)及び源義経軍は
源(木曽)義仲を破って入京しますが、
中原親能は源雅頼の邸に入って
源頼朝代官として万事を奉行し、
公家との交渉に活躍しました。
その後は京に留まり、
平氏追討の謀略を土肥実平と共に画策しました。
2月16日、後白河法皇の使として
源頼朝の上洛を促すため鎌倉に下り、
続けて4月、
今度は平氏追討軍の奉行として上洛するなど、
東西に奔走したのでした。

【鎌倉幕府の中枢へ】
元暦元年(1184年)10月6日、
公文所が設置されると、
5人の寄人の1人に選ばれました。
別当は大江広元で、
他の寄人は
二階堂行政、
足立遠元、
藤原邦通、
大中臣秋家です。

文治元年(1185年)には、
源範頼の参謀として各地を転戦し、
源頼朝から感状を受けています。
その後鎌倉に戻り、
幕府の中枢で活躍となり、
建久2年(1191年)1月15日、
政所の公事奉行人に任じられています。

【度々の朝廷と幕府の折衝役】
この後もたびたび上洛と鎌倉下向を繰り返し、
朝廷と幕府の折衝役を務めたことから、
京都守護と称されました。
鎌倉幕府で補任されていた職には、
天野遠景後任として
鎮西奉行に任じられたとする説、
豊後国や肥後国、
筑後国の守護職等にもあったとする説などがあります。

【日本各地に膨大な所領】
鎌倉では亀谷に邸宅を構えていました。
日本各地に膨大な所領所職を持ち、
伊勢国・駿河国・越後国・近江国・
美作国・阿波国・長門国・相模国・
豊後国・筑前国・筑後国・肥前国・
日向国・大隅国・薩摩国
などに関連する荘園があったとのことです。

亀谷(鎌倉市扇ケ谷)

【十三人の合議制】
正治元年(1199年)には、
源頼家が源頼朝の跡を継ぐと、
十三人の合議制の1人となりました。

【源頼朝の次女・三幡の乳母夫】
また、中原親能の妻は、
文治2年(1186年)に誕生した
源頼朝の次女である三幡の乳母となっていました。
けれども、正治元年(1199年)6月25日、
三幡が危篤となったため、
中原親能は京から鎌倉へ駆け戻りました。
三幡は30日に死去し、
遺体は中原親能の屋敷がある
鎌倉亀谷堂の傍らに葬られたとのことです。
同日出家し、寂忍の法名を得て
「掃部頭入道寂忍」と名乗りました。

亀谷 岩船地蔵堂

【中原親能の最期】
それから約10年後の
承元2年12月18日(1209年1月25日)、
数え66歳で京都で卒去しました。




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【大友氏との関係】
大友氏の初代である大友能直の出自は
様々な議論がありますが、
相模国愛甲郡古庄郷司であった
近藤(古庄)能成の子とされています。
中原親能の妻と近藤能成の妻は
いずれも波多野経家の娘で姉妹であり、
その関係で中原親能の
猶子になったと考えられています。
また、中原親能は鎮西(九州)に
莫大な所領と権限を有していました。
さらに、大友氏の豊後国(大分県)
における所領は、
中原親能から相続したものという説もあるそうです。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
川島潤哉(かわしま じゅんや)さんが演じられます。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

大江広元~四男の毛利季光は毛利氏の祖となりやがて戦国大名の毛利氏へと続きます。

足立遠元~十三人の合議制のメンバー、平治の乱で活躍し、東国武士ながらも文官の素養を持つ人物でした。

源範頼~ひそやかに育てられ、兄の源頼朝のために尽力するも嵌められて消えてゆく

源義経~戦略家且つ戦術家であった若き天才~その悲運な生き様はやがて伝説となった。

北条義時~鎌倉幕府2代執権~冷酷無情・現実を客観視して行動できる理想家なのか?

比企能員~源頼朝を支え有力御家人として権勢を握るも北条氏に嵌められ1日で滅ぶ。

三善康信~鎌倉幕府の初代問注所執事で母は源頼朝の乳母の妹です。問注所とは裁判機関のことです。

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後白河院(後白河院天皇)(後白河法皇)「治天の君」の地位を保持した「日本一の大天狗」の異名をとる人物。

丹後局(高階栄子)~中流官僚の妻から後白河法皇の寵愛を受け、政治家として権勢を振るった美女

梶原景時~鎌倉ノ本体ノ武士~文武両道で実務能力の高さ故に疎まれやがて滅ぶ。

三浦義澄~源頼朝を支えた宿老の一人で13人の合議制のメンバーで相模守護。三浦一族の栄枯盛衰。

北条時政~先見性を持ち才腕を振るって幕府の実権を掌握するが暴走して寂しく去る。

北条政子~いちずに恋した乙女は幾多の悲しみと困難を乗り越え尼将軍となった。

三幡(乙姫)~源頼朝と北条政子の次女、父親と同じ年に14歳にて早世した姫

土肥実平とその妻~武士団「中村党」の中心であり頼朝から厚い信頼を受けた宿老~小早川家の祖。

鎌倉幕府の政所跡について

相模国大友郷~和田義盛の和田屋敷跡があり、戦国大名の大友氏の発祥の地です。

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