織田家

織田信長・天下の奇祭「左義長まつり」がある日牟禮八幡宮、近江八幡の古社

日牟禮八幡宮






日牟禮八幡宮
日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)は、滋賀県近江八幡市にある神社。
祭神は誉田別尊(ほんたわけのみこと)、
息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、
比賣神(ひめかみ)の三柱。
古くから近江商人の信仰を集め、
二大火祭の「左義長まつり」と「八幡まつり」は
国の選択無形民俗文化財です。
境内地は八幡伝統的建造物群保存地区の構成要素になっています。

<ご祭神>
誉田別尊
応神天皇の神霊
息長足姫尊
神功皇后の神霊
比賣神
田心姫神・湍津姫神・市杵島姫神と三姫神の神霊
日牟禮八幡宮 拝殿

<ご利益>
商売繁盛・出世開運
厄除、火除

【創建】
伝承によれば、西暦131年、
成務天皇が高穴穂の宮に即位の時、
武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神を祀ったのが草創とされています。
大嶋大神を大国主命と見る説もあるそうですが、
実は「大国主命」となったのは、明治以降との説もありす。
江戸時代までは大嶋大明神または両神と称していたという説もあります。
(この大嶋大神を祀ったのが、現在の大嶋神社奥津嶋神社なのか、
境内社の大嶋神社なのかは定かではありません)。
日牟禮八幡宮 鏡池

275年、応神天皇が奥津嶋神社から還幸の時、
社の近辺に御座所が設けられ休憩しました。
その後、その仮屋跡に日輪の形を2つ見るという不思議な現象があり、
祠を建て、日群之社八幡宮と名付けられたという伝承があります。
691年、藤原不比等が参拝し、
詠んだ和歌に因んで比牟禮社と改められたと云われています。
(「天降りの 神の誕生の八幡かも ひむれの杜に なびく白雲」)。

正暦2年(991年)、一条天皇の勅願により、
八幡山(法華峰)上に社を建立し、
宇佐八幡宮を勧請して、上の八幡宮を祀りました。
さらに、寛弘2年(1005年)、遥拝社を山麓に建立し、
下の社と名付けました(現在の社殿は下の社に相当します)。
日牟禮八幡宮





<中世以降>
天正13年(1585年)に豊臣秀次八幡山城を築城するため、
上の八幡宮を下の社に合祀しました。
その替地として日杉山に祀りなおすこととなりましたが、
天正18年(1590年)に
秀次が自身の居城を尾張国清州城に移したため、
移転作業は行われませんでした。
次に八幡山城の城主となったのは京極高次ですが、
文禄4年(1595年)に前城主であった秀次が
高野山で自害したことにより
秀次ゆかりの八幡山城は廃城となり、
高次も大津城に移ってしまい、
日杉山への社殿の移転は結局全面中止とされ、
現在のように一社の姿となりました。
八幡山城は廃城とはなりましたが、
城下町は近江商人の町として発展し、
当社は守護神として崇敬を集めたのです。
八幡山城

慶長5年(1600年)9月18日、
徳川家康関ヶ原の戦い後、
武運長久の祈願を込めて参詣し、
御供領五十石の地を寄附しました。
後に、家光や家綱も御朱印を残しています。
明治9年(1876年)に郷社、
大正5年(1916年)には県社に列せられす。
昭和41年(1966年)、神社本庁別表神社に加列し、
神社名を日牟禮八幡宮と改称します。

<鏡池>
日牟禮八幡宮 鏡池

【「左義長まつり」】
毎年3月14・15日に近い土・日曜には
左義長まつりという祭礼が行われます。
この近江八幡の左義長まつりは、
元々は「信長公記(しんちょうこうき)」にも記されているとおり、
織田信長安土城下で毎年正月に盛大に繰り広げ、
自ら異粧華美な姿で躍り出たと天下の奇祭です。
信長亡きあと豊臣秀次が八幡山城を築き、
それにつれて安土から移住した人々を中心に八幡町が開町されました。
日牟礼八幡宮例祭「八幡まつり」の荘厳さに驚いた町民は、
開町による新進気鋭の喜びを込め厄除け
防火の由緒ある御神徳を仰ぎ、
左義長を八幡宮に奉納したと伝えられています。
現在の左義長まつりは、近江商人の隆盛によって、
商売繁盛を祈願するまつりとしての意味合いの方が強いようです。
また、本来は正月の行事である「左義長まつり」の開催を
3月に行うこととなった由来ですが、
4月に開催している「八幡まつり」に対抗して
始めたのがきっかけ、という説があるそうです。

<現在の左義長まつり>
左義長は、
新藁で美しく編んだ約3メートルの三角錐の松明の上に数メートルの青竹を立て、
細長い赤紙や薬玉、巾着、扇などで飾られます。
これはかつて織田信長が安土城で派手ないで立ちで踊った姿を模しているそうです。
左義長の中心には意匠をこらした「だし」が据え付けられます。
そしてその周りには、踊り子と呼ばれる
女装した若衆たちの「チョウヤレ、マッセマッセ」の
かけ声も勇ましく渡御(巡行)に出発します。
この女装した若衆の姿も、
女ものの長襦袢を身にまとい、
化粧を施すといった異粧華美な姿で躍り出た信長からの
由来であるそうです。
信長がなぜこのような姿で踊った理由は、
身分を隠したためだと言われています。





【信長公記(しんちょうこうき)】
信長公記には、安土城における左義長についての指示などが
細かく記されています。
【信長公記 巻14 1  天正9年】にあります。

安土城での左義長祭りは毎年正月15日に開催される火祭りの行事でした。
信長は、家臣たちに対して馬周りには爆竹を装着し、
身にまとう装束についても細かく指示を出していました。
更には爆竹を命じる人員やにも配置も指示がありました。
そして行事の進行も指示がありました。

<信長公記>
北方東一番
平野土佐 多賀新左衛門 後藤喜三郎 蒲生氏郷 
京極高次 山崎片家 山岡景宗 小河孫一郎

南方
山岡景佐 池田孫次郎 久徳左近 永田刑部少輔 
青池千代寿 阿閉貞征 進藤山城守

爆竹の行事の場となる馬場にはまずは小姓衆がたち、
次いで信長が入場します。
行事の際の信長のいで立ちも記されています。
「黒の南蛮傘に描き眉、赤色の礼服に唐錦の側次、虎皮のむかばき」
「騎乗する芦毛の馬は優れた駿馬でその速きことは飛鳥の如く。」

其の後
近衛前久 伊勢兵庫

続いて御連枝衆

織田信雄(おだのぶかつ)(信長の次男。母は吉乃) 織田信包(おだのぶかね)弟 
織田信孝(おだのぶたか)(信長の三男。実際は次男との説有り) 
織田源五郎長益(おだげんごろうながます)(弟・後の有楽) 
織田信澄(おだのぶずみ)
(織田信勝(信行)の嫡男で信長の甥。
 信勝は謀反の企てを起こしたとして伯父・信長によって暗殺された)

馬場にはこの他にも歴々の衆が集まり、
いずれもみな美しきいで立ちで思い思いに頭巾を被り、
装束を飾り建てていたという事です。
そして、早馬10騎、20騎ずつに分かれて騎乗して、
爆竹に火をつけて囃し立てながら馬を駆けさせていった、と記されています。
更に町に繰り出し、そののち馬を納めました。
この盛事に見物人は群れをなして集まり、
貴賤とも耳目を驚かせたものであった

とのこと。

そしてこの盛事の評判が京にも届き、
左義長を正月23日に京都で御馬揃を行うことが決まったのでした。
信長はこれを明智光秀に命じます。
そして「各々存分に華美を装い罷り出るべし」と
朱印状をもって分国中に触れさせました。
そして2月19日、織田信雄と織田信忠が上洛して二条妙覚寺に宿を決めます。
翌20日には信長自身が入京して本能寺に座を移します。

<弥介の事も記す>
そして2月23日、切支丹国より黒人の坊主が参上します。
年のころは26~27で、その身の黒き事牛の様であったと記されています。
また壮健な身体をもち、剛力は10人に優れていた、と。

2月24日には、北国加賀より、
柴田勝家 柴田勝豊 柴田勝政が上洛し珍奇の品々の数を尽くして
進上して信長公へ御礼した
、と記されています。

(参考元:「信長公記 巻十四 天正九年」より)

御馬揃えは正親町天皇も臨席のうえ盛大に行われ、
明智光秀はその手腕を存分に発揮し、
家臣団で最も重要なポストへと駆け上がっていったとされています。





≪用語≫
<左義長(さぎちょう)>
小正月に行われる火祭りの行事。
地方によって呼び方が異なります。
1月14日の夜または1月15日の朝に、
刈り取り跡の残る田などに長い竹を3、4本組んで立て、
そこにその年飾った門松や注連飾り、
書き初めで書いた物を持ち寄って焼きます。
その火で焼いた餅を食べます。
(三色団子、ヤマボウシの枝に刺した団子等地域によって違いがある)
また、注連飾りなどの灰を持ち帰り自宅の周囲にまくと
その年の病を除くと言われています。
また、書き初めを焼いた時に炎が高く上がると
字が上達すると言われていまる。
道祖神の祭りとされる地域も多く、
また、とんど(歳徳)、とんど焼き、どんど、どんど焼き、
どんどん焼き、どんと焼き、さいと焼きとも称されることもありますが、
歳徳神を祭る慣わしが主体であった地域ではそう呼ばれ、
出雲方面の風習が発祥であろうと考えられている説もあります。
とんどを爆竹と当てて記述する文献もある、とのことです。

<連枝衆(れんししゅう)>
貴人の兄弟を指した敬称。
根幹を同じくする枝々が連なっている様子を表した「連枝」がその語源です。
歴史的には以下の意味を持ちます。

<側次(そばつぎ)>
武家時代の衣服の一種。
袖や衽(おくみ)がなく、脇明(わきあけ)で
前身と後身(うしろみ)の外側の裾をつないだもの。
上級武士の常服でしたが、
鎧の上に羽織ったり能装束として用いたりもしたそうです。

<むかばき>
遠行の外出・旅行・狩猟の際に両足の覆いとした布帛(ふはく)や毛皮の類。
中世の武士は騎馬遠行の際の必需品とし、
本来はシカの皮を正式として腰から足先までを覆う長いものを着用しました。
現在も流鏑馬(やぶさめ)の装束に使用。

【「八幡まつり」】
4月14・15日には八幡祭り(松明(たいまつ)祭り・太鼓祭り)が行われます。
(275年、応神天皇が母神功皇后の生地・近江国
(後の息長村、現在の米原市)を訪問する途中、
大嶋大神を参詣するため琵琶湖から上陸しました。
その際、湖辺の葦で松明を作り、
火を灯して天皇一行を八幡まで道案内したのが、祭の始めと伝えられています。)

<交通アクセス>
所在地:〒523-0828 滋賀県近江八幡市宮内町257

JR西日本・東海道本線(琵琶湖線)「近江八幡駅」で下車、
北口から近江鉄道バス(長命寺行)で大杉町停留所下車、徒歩5分

<地図>
大祭以外は参道が無料駐車場になるそうです。
青印は⇒八幡堀一望スポット

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