史跡・城跡

大津城~琵琶湖の浮城~関ヶ原の戦いの前哨戦・京極高次、京極竜子

大津城



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大津城
大津城(おおつじょう)は、
安土桃山時代に近江国滋賀郡大津にあった日本の城。

【概要】
現在の滋賀県大津市浜大津、
京阪電鉄びわ湖浜大津駅周辺一帯にあった水城です。
二の丸・三の丸は内陸側にあり、
本丸は当時の琵琶湖岸に面し、
共に港の機能を担っていました、
現代の大津港はその沖側を埋め立てて建設されています。
関ヶ原の戦いでは激しい城の攻防戦が行われていました。
その騒音は連日京都にまで届き、
民の中には弁当と水筒持参で見物に行く者まで出たそうです。

関ヶ原の合戦後に廃城となり、
天守などが膳所城彦根城に移築されたと伝えられていました。
根城の天守が
かつての大津城天守の用材を転用して建てられている可能性があり、
昭和32年(1957年)に行われた彦根城天守解体修理の際に
符号、墨書きが見つかったことを根拠に示されています。
これにより大津城の天守は望楼型の4重5階であったと考えられています。

【歴史】
1586年(天正14年)、
豊臣秀吉はかつては明智光秀の居城で、
その時の城主であった浅野長政に命じ、
坂本城を廃城として新たに築城されました。
その後、城主は増田長盛、新庄直頼と代わり、
1595年(文禄4年)に
京極高次が城主となり6万石を与えられます。
1600(慶長5年)の関ヶ原の戦いで
高次は東軍に属し大津城に籠城します。
けれども大津城はもともと琵琶湖の水運を利用して
美濃、越前方面から運ばれてくる物資を
安全に保管するための城郭であり、
攻防戦には不向きでした。
9月7日より毛利元康・立花宗茂ら西軍1万5000に
城を囲まれ攻防戦が開始されました。
これに先立ち、京極軍3000は
12時間かけて城下を焼き払い、町は荒野と化します。
京極軍は家臣赤尾伊豆守、山田大炊以下、奮戦し、
7日間持ち堪えましたが、
9月13日からは近くの長等山から大砲で砲撃を受け、
砲弾は眼下に落ちるような勢いで天守その他の建築物を破壊し、
城内が混乱した間隙を縫って立花軍が二ノ丸までを占拠しました。

ここに至り、北政所の側近孝蔵主と高野山の木食応其の仲介による講和が成立。
9月14日に降伏開城した高次は園城寺に入り、剃髪して高野山に上りました。

けれども西軍1万5000を大津城に釘付けにした功績は大きく、
戦後、徳川家康は高次を召しだし、
若狭小浜城8万2000石に加増転封させました。
高次が若狭へ移ってまもなくして、家康は大津城を廃城にし、
新たに膳所崎に膳所城を築城しました。
大津城攻防戦で戦禍を免れた建築物の一部は、
彦根城、膳所城に転用、移築されました。




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<地図及び地下駐車場入り口付近(浜側入り口)>

駐車台数:151台
駐車料金:
入庫から1時間未満 :150円
以降30分単位:150円
一日最大料金 平日:800円、土日祝日:1000円
大津城跡

【京極高次】
京極高次(きょうごくたかつぐ)は、
戦国時代から江戸時代初期の武将、大名。若狭小浜藩の初代藩主です。

<出生、いきなり没落>
永禄6年(1563年)、
京極高吉京極マリア浅井久政の娘。浅井長政の姉)の長男として、
浅井氏の居城である近江国の小谷城京極丸で生まれ、
幼名は小法師と称しました。
父の高吉は足利義昭に仕えていたものの、
義昭と織田信長が対立した際に出家し、
高次は美濃国へ人質として送られ、幼少期を過ごします。
元亀4年(1573年)7月には
宇治の槇島城に篭もる義昭を攻めた信長に従い、
近江国奥島5000石を与えられます。
天正10年6月2日(1582年6月21日)、
本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、
高次は妹の竜子が嫁いでいた若狭国の武田元明と共に光秀に与し、
羽柴秀吉の居城である長浜城を攻めますが、
13日の山崎の戦いで光秀は秀吉に討たれ、
19日に元明は自害します。
高次は初め美濃国、そして若狭国の武田領へと逃れ、
一時は柴田勝家に匿われていたと伝わっています。

<大名を目指して、そして結婚>
秀吉の側室となった妹・竜子の嘆願などにより、
高次は許されて秀吉に仕えることとなりました。
天正12年(1584年)に近江国高島郡2500石を与えられます。
翌々年には5000石へと加増されます。
さらに同年の九州平定での功により、1万石に加増され、
大溝城も与えられて晴れて大名となります。
天正15年(1587年)、
京極家の旧家臣である浅井家の娘・初(父は浅井長政)を正室に迎えます。
高次と初は従兄妹同士でした。
天正18年(1590年)、
小田原征伐の功により近江八幡山城2万8000石となり、
翌年に豊臣秀次が関白に就任すると、従五位下侍従に任ぜられます。

<近江の大名・蛍大名>
文禄4年(1595年)には近江大津城6万石へと加増されました。
滋賀郡にある南西近江の要の城でした。
羽柴の苗字公称も許され、豊臣姓を下賜され、
さらに従三位参議(宰相)に任ぜられます。
この頃の高次の出世は自身の功ではなく、
妹や妻の尻の光に拠ったといわれ、高次は陰で蛍大名と囁かれます。
けれども近江国支配を円滑に進めたい豊臣家は、
浅井家以前に大名羽柴家の草創地である
北近江の代々の領主であった京極家の名望を利用する目的がありました。

<大津城での籠城戦>
慶長5年(1600)年、
秀吉の死後、徳川家康と石田三成の対立が深まっていきます。
その中、会津の上杉景勝を討つべく大坂を発った家康は、
翌々日の6月18日に大津城へと立ち寄り、
高次は家康から上杉征伐の間のことを頼まれ、
弟の京極高知と家臣の山田大炊を家康に伴わせます。
けれども三成も家康を討つべく諸大名を誘っており、
高次は氏家行広と朽木元綱から三成の西軍へ属することを求められます。
これに対して家康の東軍からも、
再三の書状により大津城の堅守を頼まれます。
高次は大津城の守りが弱いことから一旦は西軍へ属することを決め、
大坂へ嫡子の熊麿(のちの京極忠高)を人質として送り、
大津城を訪れた三成と面会します。
けれども関ヶ原への出陣に備えつつ、西軍の動向を東軍に伝えました。

<9月1日>
高次は西軍と共に大津城を発ち、

<2日>
越前国の東野へ入りますが、ここから海津を経て船で大津城へ引き返します。

<3日>
城に兵を集め兵糧を運び込み、
籠城し西軍を抑える旨を、家康の重臣である井伊直政に伝えます。
高次の行動は即大坂へと伝えられ、
城近くの逢坂関にいた毛利元康軍が大津の町へと攻め寄せます。
(西軍総大将毛利輝元の叔父)
さらに立花宗茂軍がこれに加わります。

<7日>
西軍の寄せ手は1万5000~3万7000とも
あるいは4万とも言われる数に増していき、大砲が打ち込まれます。




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<11日夜>
家臣の山田大炊、赤尾伊豆守らは寄せ手に夜襲をかけ戦果を得るも、

<12日>
堀は埋められ、

<13日>
には総攻撃を受け、高次自身も応戦するも2ヶ所に槍傷を受け、
三の丸、続いて二の丸が落ちてしまいます。

<14日>
和平の使者が送られるが高次はこれを拒否。
けれども、北政所の使者・孝蔵主を受け、
老臣の黒田伊予の説得もあり、
高野山の木食応其の仲介のもと夜になって降伏しました。

<15日>
朝には城に近い園城寺で剃髪し、宇治へと去り、その後高野山に入山。
一方、開城したその日に関ヶ原の戦いが起こり、
正午過ぎには西軍が総崩れとなっていました。
高次の篭城により大足止めされた
毛利元康および立花宗茂らの大軍勢は移動に時間がかかったため、
関ヶ原に参陣することができなかったのでした。

<若狭国主、小浜城へ>
関ヶ原の戦いの後、徳川家康は西軍の軍勢を大津に引きつけ、
関ヶ原へ向かわせなかった高次の功績を高く評価しました。
高次は井伊直政からの使者を受け、
早々に高野山を下りるように伝えられます。
初め高次はこれを断りますが、
更に山岡道阿弥を送られ、
それに弟の高知も加わった説得を受けて下山します。
高次は大坂で家康に会い、
若狭一国8万5000石へ加増転封され、後瀬山城に入ります。
慶長5年10月に小浜に入り、
翌年には近江国高島郡のうち7100石が加増されます。

<小浜城下町整備、そして永眠>
大坂の陣を控えた徳川家康の命により、
高次は新たに日本海と北川と南川に囲まれた雲浜に、
二条城に似た小浜城を築き始めました。
また、後瀬山の麓に残った城跡と武家の屋敷を町屋として街路を整備し、
新たな街区を設けるなど、小浜の城下町を整備していきます。
慶長14年(1609年)5月に47歳で没し、
長男・忠高(母は側室)が跡を継ぎました。

なお高野山奥の院には、
大津城で討死した22名の家臣を供養する石碑が、
慶長5年9月13日の日付と共に残っています。

京極竜子
京極 竜子(きょうごくたつこ)。
初めは武田元明の正室となり、寡婦となった後に豊臣秀吉の側室となります。

呼称は、大坂城の西の丸に屋敷を与えられたことから西の丸殿、
次いで伏見城に移ったことから松の丸殿)、
あるいは京極殿(京極様)などと呼ばれたそうです。
秀吉の死後は出家して寿芳院(じゅほういん)と号します。

<生い立ち>
父は京極高吉、母は浅井久政の娘(京極マリア)。
兄(弟という説もある)に京極高次、弟に京極高知です。
浅井長政は叔父、浅井三姉妹淀殿・初・江)は従妹にあたります。
京極氏は浅井氏の主筋に当たり、
近江の湖北地方の本来の領主であったため、
血筋の上では淀殿(茶々)よりも、竜子の方が名門の出身となります。

<最初の婚姻、夫は光秀につく>
初め若狭守護である若狭武田氏の武田元明に嫁ぎ、2男1女を生みます。
夫・元明は越前国一乗谷から帰還し、
遠敷郡神宮寺を経て、
大飯郡石山において3000石の支配を織田信長から許されたので、
竜子も若狭国大飯井郡(現福井県おおい町)
の石山城において夫とともに暮らしていました。
けれども、元明は本能寺の変後、
若狭国の全域支配を望んで明智光秀の味方に就き、
丹羽長秀・羽柴秀吉の連合軍に討たれます。
秀吉の領国である北近江の
旧守護家・京極氏出身の竜子は捕らえられた後、秀吉の側室となります。

<名門の出で容姿端麗>
小田原城や名護屋城に秀吉が伴っていったり、
醍醐の花見でも3番目の輿を使ったり、
京極家旧家臣の浅井家出身である淀殿と
杯の順番を争ったことが知られています。
京都の誓願寺に肖像画が伝わっており、
年齢40歳前後と見られる法体の像ですが、
その肖像画からも、容姿の端麗さを窺うことができるそうです。

<秀吉の死後、江戸時代へ>
秀吉の死後、兄・京極高次の住む大津城に身を寄せます。
関ヶ原の戦い後、寿芳院と号して出家し、西洞院に居を構えます。
慶長9年、高台院杉原氏や豪姫と豊国神社に参詣し、
湯立の祈祷を大原の巫女に依頼(『舜旧記』)。
京都の妙心寺塔頭『慈照院文書』には、
7月8日付で豊臣秀頼が松の丸殿に
品物を贈ったことに対する礼状である書状があります。
この礼状の返し書に、「やがて御下待入申候」とあるから、
慶長年間に、松の丸殿が京都から秀
頼の御機嫌伺いに大坂城に赴いたことが知られています。
大坂夏の陣の後は、淀殿の侍女(菊)を保護し、
また六条河原で処刑された
秀頼の息子・国松の遺体を引き取り、誓願寺に埋葬します。
寛永11年(1634年)9月1日に京都西洞院の邸で死去。
墓所は誓願寺(京都市中京区)でしたが、
現在の墓所は豊国廟とのことです。

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