織田家

丹羽長秀~米五郎左~及び石田三成が城主となった佐和山城跡・龍潭寺

佐和山城跡






龍潭寺

駐車場有
<地図>
青印⇒龍潭寺及び佐和山城址への駐車場入口
普通車20台・大型車5台

<龍潭寺・拝観入り口>
龍潭寺 拝観入り口

慶長6年に移建改装され、
初代彦根藩主井伊直政の建立による禅僧の専門道場として、
多数の造園学僧を輩出しました。
白砂に48の石を組んだ
方丈南庭「ふだらくの庭」と
、彦根市指定文化財である
蓬莱山の山水の庭園が知られています。
本堂には芭門十哲のひとり森川許六の襖絵があります。

<龍潭寺の園庭入り口付近>
龍潭寺 園庭前

晴れた日も良いのですが、
小雨降る日に訪れてみても、
一層風情があるかもしれません。
あと紅葉の時期ですね。

<大洞観音堂>
龍潭寺 大洞観音堂

境内に石田三成の像と佐和山城址があります。

所在地:〒522-0007 滋賀県彦根市古沢町1104
電話:0749-22-2777
JR琵琶湖線「彦根」駅下車 徒歩30分程度

拝観時間 :午前9時~午後5時(11月中旬から2月末は午後4時まで)
拝観料(庭園)大人400円・小中学生150円

大久保忠隣公幽居の跡】
大久保忠隣公幽居の跡

【大久保忠隣】

大久保忠隣(おおくぼただちか)。
相模小田原藩の初代藩主。
父は大久保忠世、母は近藤幸正の娘。
小田原藩大久保家初代。
永禄6年(1563年)から徳川家康に仕え、
永禄11年(1568年)に遠江堀川城攻めで初陣を飾り、
敵将の首をあげる武功を立てました。
其の後、家康の家臣として三河一向一揆、
元亀元年(1570年)の姉川の戦い
元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い
天正18年(1590年)の小田原征伐などに従軍し活躍。
特に三方ヶ原の合戦の折には、
徳川軍が算を乱して潰走する中、
家康の傍を離れず浜松城まで随従したことから、
その忠節を家康に評価され、奉行職に列しています。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い時(上田合戦)
東軍の主力を率いた秀忠に従い中山道を進むも、
途中の信濃国上田城に篭城する西軍の真田昌幸に対して、
攻撃を主張して本多正信らと対立しています。





慶長15年(1610年)には老中に就任し、
第2代将軍・秀忠の政権有力者となります。
慶長16年(1611年)10月10日に
嫡男の大久保忠常を病で失うと、その権勢に陰りが見え始め、
嫡男の死に意気消沈した忠隣は、
以後政務を欠席することがあり、家康の不興を買っていまいます。
そして、忠隣が謀反を企んでいると訴えられたことを理由に、
家康から突如改易を申し渡されていまいました。
忠隣は近江国に配流され、井伊直孝に御預けの身となります。
こちらはそれ以降の住まいの跡とされている場所です。
出家して渓庵道白と号し、
寛永5年(1628年)6月27日に死去。享年75。
将軍家の許しが下ることはついになかったそうです。
なお、本多正信・正純父子が、
政敵である忠隣を追い落とすための
策謀を巡らせたとする見解も江戸時代からあったそうです。

【佐和山城址】

佐和山城(さわやまじょう)は、
中世中期から近世初期にかけて、
近江国坂田郡(現・滋賀県彦根市)の佐和山に存在した日本の城(山城)です。
所在:
〒522-0007 滋賀県彦根市古沢町
佐和山城跡 看板

<佐和山城絵図など>
佐和山城絵図

【歴史】
鎌倉時代】
鎌倉時代初期、近江源氏・佐々木定綱の六男時綱が
佐和山の麓に館を構えたのが始まりと伝えられています。
その後、佐々木氏は湖南の六角氏と
湖北の京極氏に分かれて対立します。
佐和山城は両勢力の境い目の城として
攻防が繰り返されました。

【戦国時代】
湖北では京極氏に代わって浅井氏が覇権を確立し、
湖南の六角氏との間で
佐和山城争奪戦が展開されることになります。

【信長時代】
織田信長は佐和山城に重臣の丹羽長秀を配し、
織田信長自身も佐和山城を近江制圧の拠点として利用しました。

【秀吉時代】
堀秀政堀尾吉晴そして
五奉行筆頭の石田三成の入城と、
佐和山城に重きを置く姿勢は変わりませんでした。
佐和山城はしだいに整備されていきます。

【石田三成時代】
天正18年(1590年)、
石田三成が佐和山城主となってからは、
五層の天守を構え、鳥居本を大手とする城でした。
また、山上に本丸以下、
二の丸・三の丸・太鼓丸・法華丸などが連なり、
山下は東山道に面して大手門が開き、
二重に巡らされた堀の内には
侍屋敷・足軽屋敷・町屋などの城下町が
すでに形成されていました。

関ヶ原、そして廃城】
その後、関ヶ原の戦いで敗れ、
三成は処刑されます。
慶長5年(1600年)、
徳川四天王の1人である井伊直政が
関ヶ原の戦いの戦功により18万石に加増され、
石田三成の居城であった佐和山城に入封して
佐和山藩を立藩します。
やがて、彦根城築城にともない廃城となり、
佐和山藩も廃藩となりました。
根城築城の際には、
石垣や建物の多くが彦根城へと運ばれました。

現在はわずかに「佐和山城跡」の看板が
往時を物語るだけとなっております。
また、山頂までのハイキングコースが整備されており、
山頂からは彦根城や琵琶湖等が一望できます。

<佐和山城跡>
佐和山城

<登城口>
佐和山城跡 登城口





【諸注意】
佐和山城跡は、清凉寺や龍潭寺などの所有する山です。
山での火の使用はやめてください。
ゴミは各自で持ち帰るなどして、大切な文化財の保全にご協力下さい。
また、団体で登山を計画される場合は、
山の所有者である清凉寺や龍潭寺の了解を得るようにしてください。
佐和山城 登城の注意事項

<山門>
龍潭寺 山門

<山門からのルート>
佐和山城 登城口

<佐和山城へ>
佐和山城 登城開始口

<野猿注意!>
佐和山城 野猿注意

<佐和山城をめぐる攻防>
佐和山城をめぐる攻防 案内

【石田三成屋敷跡】
佐和山城の途中にあります。
〒522-0007 滋賀県彦根市古沢町978−5
<地図>

<この場所??「屋敷跡」の看板が見当たらず>
佐和山城 石田三成屋敷跡

<石田三成群霊供養>
向かって右が「群霊供養」塔で、
写真のほぼ中央が「佐和山観音」です。
石田三成 群霊供養

【石田三成と佐和山城】

【城代として】
天正19年(1591年)4月に、
蔵入地の代官の資格で佐和山城に入城。
これは城を預かる城代としての入城でした。
当時の三成の所領は
美濃国内、安八郡神戸とその周辺にあったと推定されています。

【母、他界】
文禄3年(1594年)、9月3日に母・瑞岳院が死去。
兄・正澄と親交が厚かった
藤原惺窩や大村由己らが追悼の漢詩や文を送り、
三成も佐和山城下に瑞岳寺を建立しています。
また、この年に島津氏・佐竹氏の領国を奉行として検地しています。

【正式に城主】
文禄4年(1595年)7月には、
正式に佐和山城主に任じられて北近江4郡を与えられたとあります。
三成は、当時荒廃していたという佐和山城に大改修を行って
山頂に五層(三層説あり)の天守
が高くそびえたつほどの近世城郭を築き、
当時の落首に
「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」
と言わしめたという逸話も残されています。
けれども、三成は奉行の任を全うするために
伏見城に滞在することが多く、
実際に城を任されていたのは
父の正継だったと伝わっています。

【質素でお金をかけないお城】
『甲子夜話』という記述によりますと、
城内の作りは極めて質素で、
城の居間なども大抵は板張りで、
壁はあら壁のままであったそうです。
庭園の樹木もありきたりで、
手水鉢も粗末な石で、
城内の様子を見た当時の人々も
すこぶる案外に感じたと記されているそうです。





【五奉行辞めます】
慶長4年(1599年)同年閏3月3日に
前田利家が病死すると、
その直後に加藤清正福島正則黒田長政細川忠興
浅野幸長池田輝政加藤嘉明の七将が、
三成の大坂屋敷を襲撃する事件が起きます。
これを石田三成襲撃事件と称します。
七将と三成は伏見城内外で睨みあう状況となりましたが、
仲裁に乗り出した家康により和談が成立しています。
三成は五奉行の座を退き、閏3月10日、佐和山城に帰城しています。
三成は後に、
この事件の中心人物として事件直前に
家康より豊後国内に6万石を与えられていた
細川忠興の名を挙げていたそうです。

佐和山城の戦い
慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで
三成を破った徳川家康は、
小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を攻撃しました。
城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、
守備兵力は2800人程度であったそうです。
城主不在にもかかわらず城兵は健闘しましたが、
やがて城内で長谷川守知など一部の兵が裏切り、
敵を手引きしたなど起きたため、同月18日、
奮戦空しく落城し、父・正継や兄の正澄、
皎月院(三成の妻)など一族は皆、
戦死あるいは自害して果てたそうです。
江戸時代の『石田軍記』によりますれば、
佐和山城は炎上したとされてきましたが、
本丸や西の丸に散乱する瓦には焼失した痕跡が認められず、
また落城の翌年には井伊直政がすぐに入城している事から、
これらのことから落城というよりは
開城に近いのではないかとする見解もあるとのことです。
『慶長年中卜斎記』によりますと、
家康に従軍した板坂卜斎は
陥落した佐和山城に金銀が少しもなく、
三成は殆んど蓄えを持っていなかったと記しているそうです。

【江戸時代へ、三成の呪い?】
石田氏滅亡の後、徳川四天王の一人である井伊直政がこの地に入城。
井伊家が、このまま佐和山城を利用すると、
領民は井伊家が石田家を継承したような錯覚を抱き、
領民達の前領主への思慕を断ち切ることができないので、
新たに彦根城築城を計画したとのことです。
けれども、直政は築城に着手できないまま、
関ヶ原合戦での戦傷がもとで慶長7年(1602年)に死去。
直政の早すぎる死は、巷では「三成の呪い」と囁かれたとも。
また、他にも不思議な逸話が、
佐和山城跡に建つ「清涼寺」の「七不思議」として今日まで伝わっています。

【さらば、佐和山城】
彦根城築城計画は嫡子の直継が引き継ぐこととなり、
大津城・佐和山城・小谷城観音寺城などの築材を利用しつつ、
天下普請によって彦根城を完成させました。
佐和山城は慶長11年(1606年)、
完成した彦根城天守に直継が移ったことにともない、
廃城となり、鎌倉時代からの城の歴史に幕を閉じたのでした。
なお、彦根城の城下町までを含めた
全体の完成はそれから16年後の元和8年(1622年)でした。

【遺構】
佐和山城の建造物は彦根城へ移築されたもののほかは
徹底的に城割されたため、城址には何も残っていません。
それでも、石垣の一部、土塁、堀、曲輪、
千貫井戸跡や西ノ丸にある焔硝櫓跡・塩櫓跡などの施設が
一部に現存しています。

<石田三成公>
石田三成公





【清涼寺・七不思議<一部>】
【洗濯井戸】
島左近が茶の湯に使用した井戸。
汚れものを浸しておくと、
一晩で真っ白になったと伝わります。
清涼寺 井戸

【木娘】
本堂前のタブノキは佐和山城築城以前からある
樹齢数百年のものであり、夜な夜な女性に変化しては
参拝者を驚かせていたと伝わっています。
清涼寺 タブノキ

丹羽長秀

丹羽長秀(にわながひで)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。
織田氏の宿老。
朝廷より惟住(これずみ)の姓を賜ったので惟住長秀とも称します。
羽柴越前守とも称していました。

【織田信長の信頼厚く】
なお、織田信長からは後に「米五郎左」と呼ばれました。
「米五郎左」の意味は、
非常に器用でどのような任務でもこなし、
お米の様に織田家になくてはならない存在、という意味でした。

丹羽長秀は織田信長の養女桂峯院を妻に迎え
(信長の兄・織田信広の娘で姪)、
嫡男の長重も織田信長の五女を娶っています。
2代に渡って織田信長の姻戚となった例は、
他の家臣には一切無いなく、丹羽長秀だけです。
丹羽長秀は信長から
「長秀は友であり、兄弟である」
と呼ばれるという逸話が残るほど
厚く信頼されていたそうです。
更に、長秀は信長から
「長」の字の偏諱を受け、
親しい主従関係であったそうです。

ちなみに武田家滅亡後、
丹羽長秀は織田信長の計らいにより休暇を与えられ、
堀秀政、多賀常則とともに草津温泉(群馬県)で湯治したと伝わっています。

【生い立ち・桶狭間の前から仕えていました】
天文4年(1535年)9月20日、
丹羽長政の次男として
尾張国春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に誕生。
丹羽氏は元々斯波氏の家臣でしたが、
長秀は天文19年(1550年)から織田信長に仕えています。
天文22年(1553年)、梅津表の合戦にて19歳で初陣。
弘治2年(1556年)の稲生の戦いでは信長方に付き、
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにも
今川義元の攻撃部隊には入ってはいませんでしたが、
従軍はしていたとあるそうです。

【頭角を現す】
信長公記』などによりますと、
斎藤龍興との美濃国における戦いで台頭したと見なされ、
永禄11年(1568年)に
足利義昭を奉じて信長が上洛した際、
観音寺城の戦いで、
南近江の六角氏征伐で箕輪城を攻めるなど武功を挙げています。

【佐和山城主へ、そして大名へ】
姉川の戦いの直後から織田信長は
8ヶ月におよぶ近江佐和山城の包囲を続けていましたが、
元亀2年(1571年)2月24日に
城将の磯野員昌が開城勧告を受けて退城すると、
代わって丹羽長秀が佐和山城主となりました。
天正元年(1573年)9月、
丹羽長秀は信長より若狭一国を与えられ、
織田家臣で最初の国持大名となりました。
若狭国内での当初の大まかな知行宛行は遠敷郡が長秀、
三方郡が粟屋氏、大飯郡が逸見氏であり
各領主は所領内に独立した支配権を持っていました。
この頃の丹羽長秀の家臣として
溝口秀勝長束正家・建部寿徳・山田吉蔵・沼田吉延などがおり、
与力としては織田信長直臣となった
若狭衆(武田元明粟屋勝久・逸見昌経・
山県秀政・内藤・熊谷等の若狭武田氏及び旧臣)が他国への出兵時に
丹羽長秀の指揮下として軍事編制に加えられることになりました。
更に軍事の他に
若狭の治安維持や流通統制などの
一国単位の取りまとめについても長秀が担っていたのでした。

【武功も政治的手腕もマルチに活躍】
なお、大飯郡は逸見昌経の死によって、
溝口秀勝が長秀家臣から信長直臣に取り立てられ、
独立した知行を受けています。
本能寺の変に際して若狭では
若狭武田氏・最後の当主であった武田元明が
明智光秀方について没落したのに対し、
粟屋・熊谷・山県・寺西の与力各氏は
丹羽長秀の支配下に入り、家臣となったのでした。
その後も丹羽長秀は高屋城の戦い、
長篠の戦いや越前一向一揆征伐など、
各地を転戦して更なる功を挙げていきます。
また長秀は軍事だけではなく、
政治面においても優れた手腕を発揮し、
安土城普請の総奉行を務めるなど多大な功を挙げているのです。





【謀も得意】
天正9年(1581年)には、
越中木舟城主の石黒成綱を
信長の命令で近江で誅殺しています。
越中願海寺城主・寺崎盛永父子も、
信長の命令で、
長秀が城主をつとめる近江佐和山城で幽閉の後、
切腹となります。

【織田家の双璧】
同年の京都御馬揃えにおいても、
一番に入場するという厚遇を与えられています。
家老の席順としては、
筆頭格の佐久間信盛失脚後、
この位置に繰り上がった柴田勝家に続く
二番家老の席次が与えられ、
両名は織田家の双璧と称されたと言います。

本能寺の変後・秀吉の家臣でも構わず】
天正10年(1582年)6月、
三好康長・蜂屋頼隆と共に
織田信孝の四国派遣軍(長宗我部征討軍)の副将を命じられます。
長秀は信孝を補佐し、
逆臣・明智光秀の娘婿にあたる
津田信澄を共謀者とみなして殺害しています。
その後、信孝と共に
羽柴秀吉の軍に参戦して
山崎の戦いで明智光秀を討ちました。

本能寺の変の直後には丹羽長秀の佐和山城は
明智光秀方についた荒木氏綱父子に入城されましたが、
山崎の戦いの後に取り戻しています。
清洲会議で長秀は池田恒興と共に
秀吉が信長の後継者に推す信長の嫡孫・三法師を支持しています。
秀吉と勝家とが天下を争った一戦である
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護し、
約123万石の有数の大名となりました。

天正13年(1585年)4月16日、
積寸白(寄生虫病)のために死去しました。
享年51でした。

【信長四天王】
「明智光秀」「丹羽長秀」「柴田勝家」「滝川一益」の4人。
このうち、ラストまで残ったのは、
後輩である秀吉に従い、実を優先させた
「丹羽長秀」だけでした。

羽柴秀吉と石田三成の運命の出会い・光秀と三成の接点とは?~三成の縁の地~

若狭武田氏の本拠地であった後瀬山城~若狭武田氏の始まりと滅亡~

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石田三成を巡る旅~龍潭寺及び佐和山城跡・大原観音寺・出生屋敷跡・供養塔~

朝倉義景の墓~義景清水~孤独を纏う朝倉家最後の当主・戦よりも芸事と内政が得意

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