室町幕府

若狭武田氏の本拠地であった後瀬山城について、若狭武田氏の始まりと滅亡。

後瀬山城跡



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【後瀬山城】

後瀬山城(のちせやまじょう)は、
福井県小浜市にあった日本の城(山城)です。
若狭最大級の城でしたが、
比較的標高の高い山上に築かれていたため、
北山麓に水堀を廻らせた常時住まいのための
大規模な守護館(武田氏館)が設けられていました。
(現「空印寺」の付近)
東山麓の発心寺も城砦の一部と考える見方もあります。
城跡は「国の史跡」に指定 されています。

【築城・歴史】
【室町時代】
大永2年(1522年)
若狭国守護・武田元光(発心寺殿)によって築城されました。

【戦国時代】
永禄11年(1586年)越前の朝倉義景
武田家庇護と称して大軍勢を率いて後瀬山城に来訪、
武田元明を越前に連れ去りました。

【安土桃山時代】 
朝倉氏滅亡後は、
織田信長の家臣・丹羽長秀が入城、
石垣を構築するなど、
安土桃山時代の豪壮な城として
大規模に改築されました。
この時安土城にならい、
天守も造営されたと言い伝えられています。
その後、豊臣秀吉の一族である
浅野長政や木下勝俊が城主となりました。

【江戸時代】
関ヶ原の戦いの論功行賞により
若狭一国を与えられた京極高次が入ります。
高次は、町作りのため新たに
小浜城の築城に取りかかました。

近世の藩主も
麓の城(旧室町時代守護館跡地)に
常時住まいしていたので、
こと居住に関しては
後瀬山城が山城でも支障がなかったと思われます。
酒井家時代に小浜城が完成すると、
1642年に廃城となりましたが、
城割りは行われず堀や石垣などは残されました。
麓の城は京極高次の没後、
その菩提寺とされ
高次の戒名にちなみ「泰雲寺」と命名されました。
さらに藩主家が酒井家に替わると
「空印寺」と改名されて
酒井家の菩提寺として今日に至っています。
寺院に改められましたが、
なお麓の城の大規模な水堀は残され、
酒井家も有事の際には
山上の古城跡を砦として
使用する意図があったのではないかと考えられてます。




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【遺構】
国道27号を西に進み、
後瀬山トンネル手前の信号を右折し、
すぐに左折すると登山口の愛宕神社の鳥居があります。
石段を少し上がったところに案内板が設置。
ここから本丸跡まで約30分程度です。
石垣や空堀など、
城の基礎部分の遺構は良好に保存されています。
また後瀬山北麓の空印寺境内・
小浜市立小浜小学校旧校地(現在は移転)の
東西・南北120mが、武田氏居館跡だそうです。
なお、「空印寺」は八百比丘尼伝説のあるお寺で有名です。
八百比丘尼が入定したとされる洞窟があります。
また、八百比丘尼の絵巻と木像があります。

<空印寺の所在地>
小浜市小浜男山2

【山城】
山頂部の本丸から北東と北西方向の尾根伝いには
連続した曲輪(連郭)があり、
また北西側の斜面には
畝状竪堀や規模の大きな竪堀が集中しています。
さらに北東連郭の西側には
他の山城では見られない珍しい施設である
曲輪間の連絡通路(「谷の横道」と呼ばれる)が
幾筋も設けられております。
これは攻め寄せる敵に
横矢を射掛けるための機能も持っています。
昭和63年(1988年)の発掘調査では、
曲輪110、堀切・竪堀52条が確認されています。
西側(海側)の防御に重きが置かれていますが、
これは敵対関係にあった
丹後国の一色氏を意識したものと考えられています。
また、本丸南西部の大きな曲輪(二の丸)は山上御殿と呼ばれ、
建物の礎石や庭園の築山、茶入などの茶器が出土しており、
茶の湯が行われていたと推測されています。
本丸跡にある愛宕神社は、
慶長6年(1601年)の廃城後、
京極高次の妻である常高院お初)により
元和元年(1615年)勧請されたものです。

【居館】
山城普請と同年の大永2年(1522年)に、
山麓にあった日蓮宗長源寺を移設し整備された居館についても、
近年その姿が明らかになり、
平成18年(2006年)からの発掘調査で、
居館の礎石や柱穴跡、堀の石垣が検出され、
国内産陶磁器
(越前焼、瀬戸焼、美濃焼、珠洲焼など)
外国産陶磁器などが出土しています。
また、るつぼや鉱滓も見つかっており、
居館内で鍛冶が行われていたと推測されています。

<地図>
赤印⇒後瀬山城跡の頂上
青印⇒登山口である「愛宕神社」の社務所付近

<空印寺>
青印は駐車場付近

<後瀬山城と小浜市街と海>
後瀬山城と小浜市街




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若狭武田氏

若狭武田氏は、安芸武田氏4代武田信繁の嫡男である武田信栄が、
室町幕府第6代将軍・足利義教の命を受けて
永享12年(1440年)に一色義貫を誅殺した功績により
若狭守護職を任命されたことから始まるとされています。
足利将軍家および細川京兆家の信任が厚く、
歴代の多くが始祖武田信光(安芸武田氏)以来の
・武田伊豆守の名乗りを許されていたこと
・武田氏一門の中で一番高い官職に任じられていたこと
・丹後守護を兼ね幕府のある畿内周辺で二ヶ国もの守護に任じられていた
以上のことなどから、武田氏の本流という見解もあるそうです。

信繁の嫡男である信栄は、
一国守護となったのを機会に
安芸から若狭に武田氏の本拠地を移しました。
ゆえに安芸武田氏の嫡流は若狭武田氏と見なされています。
信栄は永享13年(1441年)に、
28歳で病死し、跡を弟の武田信賢が継ぎます。
信賢は安芸国と平行して若狭国経営に乗り出しました。
なお、信栄の墓所は本拠地のあった大飯郡高浜に現存するそうです。
(「長福寺」小浜市高浜町若宮3-18-1)

<長福寺>

信賢は若狭国内の一色氏残党や一揆を
次々に鎮圧して国内を固める一方、
応仁元年(1467年)からの応仁・文明の乱では
東軍に属して丹後国に侵攻するなど活躍し、
室町幕府からの信頼も厚く、また文化人とも積極的に交流していたそうです。
信賢以後、武田家は分裂し、
安芸武田氏は信繁四男・武田元綱が継ぎ、
若狭武田氏は信繁三男・武田国信が継ぎました。

国信の子・武田元信と孫・武田元光の代に
武田氏は最盛期を迎えます。
けれども、徐々に国内の勢力を失っていき、
元光の孫・武田義統の時代には
家督争いも加わりさらに弱体化が進行してきます。
そして武田義統の子である武田元明は、
越前朝倉氏の若狭進攻によって領国を失います。
朝倉氏によって一乗谷城居住を強いられましたが、
天正元年(1573年)に
織田信長によって朝倉氏が滅亡すると元明は若狭に帰国しました。

けれども若狭国を任されたのは
織田信長の家臣である丹羽長秀で、
元明は大飯郡南部の
石山3000石のみの領有を許されただけでした。
天正10年(1582年)の6月の本能寺の変では、
旧領回復を狙って丹羽長秀の居城・佐和山城を陥落させ、
織田信長を滅ぼした明智光秀に加担しましたが、
光秀に勝利した羽柴秀吉・丹羽長秀によって自害を命じられ、
若狭武田氏は滅亡となりました。
子の義勝は津川姓、のち佐々姓(佐々)を名乗り、京極高次に仕えました。

<小浜湾>
小浜湾

【武田元光】

武田 元光(たけだ もとみつ)は、戦国時代の大名。
武田元信の次男。若狭国守護。若狭武田氏6代当主。
明応3年(1494年) 、武田元信の次男として誕生
永正16年(1519年)11月に父の元信が出家したため、
家督を継承して若狭守護となります。

【細川高国側につく】
永正18年(1521年)3月に
足利義稙が管領・細川高国と対立し
堺に出奔(後に阿波国に下向)すると、
同年7月に細川高国は
足利義晴を12代将軍として奉じため、武田元光は上洛しました。
同年末に父の没後に領国支配を固めるため若狭へ下向し、
遠敷郡の最西端に堅固な後瀬山城を築き本拠地としました。
武田元光は、近江守護六角定頼らと共に
高国派として晴元派の諸将と争いましたが、
武田軍の苦戦を知った若狭の海賊衆が
一色氏や細川晴元と結んで蜂起したために本国に帰国します。
享禄3年(1530年)元光は出家しました。
なお翌年の享禄4年(1531年)6月、
細川高国はに播磨国守護赤松政祐に裏切られて討ち死しました(大物崩れ)。

【晩年】
天文8年(1539年)元光は病を発し、
まもなく家督を子・信豊に譲り山麓の郭に隠居しました。
(屋敷は後に発心寺となる)
高国の死去後も将軍義晴からの信任は厚かったそうですが、
度重なる隣国への出兵は本国を疲弊させ、
従弟の武田信孝や被官である粟屋元隆や逸見氏が反乱を起こすなど、
若狭の支配は安定しませんでした。
天文20年(1551年)、死去となります。
没後に従三位を追贈されています。
墓は「発心寺」にあります。




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<発心寺>
〒917-0054 福井県小浜市伏原45−3
青印は駐車場付近。

【県指定有形文化財】
なお、発心寺の所蔵する、元光肖像3点
(絹本著色武田元光像、紙本著色武田元光像(犬追物検見之像)、
木造武田元光像が、
平成19年4月20日付けで、
福井県指定有形文化財に指定されました。

【武田元明】

武田 元明(たけだ もとあき)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。
諱は元次(もとつぐ)とも。
武田義統の子。若狭国守護。
若狭武田氏9代及び最後の当主。
後瀬山城(旧・若狭小浜城)主。

【生い立ちと現状】
永禄5年(1562年)または天文21年(1552年)、
若狭武田氏の当主・武田義統(義元)の子として誕生します。
応仁の乱では副将を務めた若狭武田氏も既に衰退し、
若狭守護代・内藤氏の内藤筑前守は若狭天ヶ城、手筒山城(天筒山)に割拠し、
有力被官の逸見昌経(昌清)は高浜城に割拠し、
粟屋勝久国吉城(佐柿)に割拠し、
熊谷直澄は大倉見城(井崎城)に割拠して、
それぞれ守護大名家の支配下より離反し独立していました。

【最後の当主へ】
永禄10年(1567年)4月に父が死去したため、
家督を継いで当主となりますが、
国内の状況は不安定な状態が続いていました。
永禄11年(1568年)、朝倉義景が若狭に侵攻。
朝倉勢は国吉城、手筒山城などを落とし、
朝倉景恍(太郎左衛門)、
半田又八郎らが兵を率いて後瀬山城を囲むと、
元明は自害しようとしましたが、
和を講じると説得され、
親族であるから身柄を保護するという名目で、
一乗谷朝倉館に強制的に移住させられました。

【朝倉氏の支配】
朝倉氏は元明を傀儡として
若狭を間接支配したので、
実質上若狭は朝倉氏の支配下に入ったと見なされます。
若狭武田氏は朝倉氏に従属し、
国人衆は朝倉氏に臣従しながら
武田家再興の機会を待つことになりました。

【織田信長の台頭】
武田氏より独立していた
逸見・栗屋・熊谷氏などは完全には従わず、
織田氏の勢力が近江国の湖西地域に及ぶと
織田信長に通じていきます。
元亀元年(1570年)、
織田信長が突如として越前に侵攻します。
すると、若狭の粟屋勝久や松宮玄蕃らは
これを迎えて、越前口に案内します。
織田信長は丹羽長秀に守護を任命します。
この後、織田信長は浅井の裏切りや金ケ崎でいったん撤退します。
元明は越前国内に留め置かれたままでした。

【朝倉滅亡するも若狭守護ならず】
天正元年(1573年)8月に朝倉氏が滅亡すると、
粟屋氏の活躍などもあって元明は解放されましたが、
若狭一国は丹羽長秀に任せられ、
若狭衆(逸見昌経、内藤越前守、香川右衛門大夫、
熊谷直澄、山県下野守、白井光胤、粟屋勝久、
松宮玄蕃、寺井源左衛門、武藤景久)はその与力とされたのでした。
天正9年(1581年)3月、
大飯郡高浜城8000石の領主である逸見昌経が死去すると、
織田信長はこれを後嗣なしとして逸見氏の所領を没収し、
その一部、大飯郡佐分利の石山城3000石を
武田元明に与え、以後は若狭衆の1人として丹羽長秀の与力となったのでした。

【ラストチャンス・本能寺の変】
天正10年(1582年)6月に本能寺の変が起こると、
若狭守護だった頃の勢力の回復する好機と思った武田元明は、
若狭国衆を糾合して蜂起し、明智光秀や
義兄である京極高次(元明の正室は高次の妹(姉)の京極竜子)と通じて、
近江へ侵攻して丹羽長秀の本城・佐和山城を陥落させます。
けれども、山崎の戦いで明智光秀が羽柴秀吉に敗死し、
状況は一転してしまいます。
恭順の意を示そうとした元明は、丹羽長秀のいる近江海津(貝津)に招かれて、
7月19日に海津の法雲寺で謀殺されたとも、秀吉が殺したとも、
また自害したともいわれています。
享年は21もしくは31歳でした。
こうして名門・若狭武田氏は滅亡となりました。

お墓は滋賀県高島市マキノ町海津1381
「法幢院(ほうどういん)」にあるそうです。

<法幢院・場所>

【子孫】
元明の継嗣である義勝は、武田姓を憚り津川姓を称し、
親族である京極高次に仕えたと伝わっています。
のちに京極高次が関ヶ原の戦いの功により
若狭一国の主となると大飯郡高浜城5000石を与えられ、
また佐々木姓(佐々)を称することが許され、京極家重臣に列します。
また、江戸時代の丸亀藩家老の佐々家はこの末裔といわれているそうです。

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