織田家

逸見昌経(祖は甲斐源氏)が築いた高浜城・足利義満も訪れた「八穴の奇勝」で策を練る

高浜城 明鏡洞



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高浜城

<所在地>
福井県大飯郡高浜町事代
<遺構>
曲輪、石垣、櫓台
<築城主>
逸見昌経
<築城年>
永禄8年(1565年)頃とされています。
高浜城 看板

<廃城>
寛永11年(1634年)

【概要】
海に突き出た半島に主郭部を置き、
半島の付け根の部分に二の丸・三の丸を配置。 
三方を海に囲まれた戦国時代には珍しい
近世城郭的な縄張りの城です。
国民宿舎城山荘の脇から遊歩道を登っていくと、
濱見神社の小さな祠があります。 
この祠の後ろ手に高浜城の櫓台が残っています。
(ここに石碑と案内板がある) 
高浜城 濱見神社

<濱見神社 由緒>
濱見神社 由緒

この櫓台の西側には小さな石を積み重ねた石垣の一部が残っています。
高浜城跡は現在は城山公園となっており、
高浜町の名勝である
「八穴の奇勝」と呼ばれる8つの洞穴のひとつ「明鏡洞」、
そして南側には砂浜が続きます。
室町幕府三代将軍・足利義満も訪れたと伝えられています。

城山公園

<城山から見た城山公園と二つの海水浴場>
高浜城 城山公園

<外ケ洞?乙女ケ洞?>
高浜城 乙女ケ洞

<鋏み岩?>
高浜城 鋏み岩?

<城山海水浴場(ベビービーチ)>
高浜城 城山海水浴場(ベビービーチ)

また、城山城址から望む夕日は「日本の夕日百選」に選ばれたそうです。
小浜湾 夕陽
※写真は小浜で、イメージです。




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逸見氏

逸見氏(へみし、へんみし)は、日本の氏族。
以下の2つの流れがるとされています。
(1)源姓逸見氏:清和源氏甲斐源氏の一族。
(2)平姓逸見氏:桓武平氏房総平氏の一族。
なお、高浜城を築いた逸見昌経は
(1)の源姓逸見氏の流れ、とされています。

【起源及び鎌倉時代】
甲斐源氏は、大治5年(1130年)に
源義清(武田冠者)・清光(逸見冠者)が
常陸国より甲斐国市河荘に配流され
甲斐各地に土着した一族です。
清光は官牧の発達していた
現在の北杜市域(旧北巨摩郡域)の逸見郷へ進出し、
清光の長子光長が逸見姓を称したとされています。
『吾妻鏡』によりますと、
鎌倉時代には、建暦3年(1213年)5月6日条によれば、
同年5月の和田合戦において
逸見五郎・次郎・太郎らが
和田義盛方に属して討死したとあります。
なお、和田合戦では甲斐都留郡の古郡氏も
義盛方に属して戦っていたとされています。
また、『承久兵乱記』によりますと、
承久3年(1221年)の承久の乱では
「へん見のにうだう」が
東山道軍に属して上洛していると記されているそうです。
『尊卑分脈』によると、光長の孫にあたる惟義と
その子息・義重も承久の乱に従軍し、
惟義は摂津国三条院を与えられ、
義重は美濃国大桑郷を与えられたとそうです。
惟義は和泉国守護となり、義重の子孫は大桑氏を称したそうです。
こうして逸見氏の直系子孫は摂津や美濃など
西国のほか若狭国、上総国など武田氏
守護職を得た諸国へ移り被官化したと見られており、
一部の庶流子孫が甲斐に残留していたと推測されています。
なお光長の系統とは別に、
やはり『吾妻鏡』元暦2年(1185年)6月5日条によりますと、
平宗盛の家人である源季貞の子・宗季(宗長)が光長の猶子となり、
逸見氏を称したとも見られるそうです。
『吾妻鏡』の続きによりますと、宗季は「宗長」と改名し、
建仁3年(1203年)に比企能員の変に際して
大江広元の従者として名が見られそうですが、
その後の動向はわかっていません。
また、『一本武田系図』によりますと、
武田信義の4男・有義も一時期逸見氏を称し、
さらに『浅羽根本武田系図』によると、
光長の弟安田義定の子・定長(四郎)も逸見姓を称したとそうです。
なお、有義の子孫はその後吉田氏や
小松氏、万為氏を称したと見られています。

【南北朝・室町時代の逸見氏】
「小早川家文書」には、
南北朝時代には安芸国守護である武田信武・氏信に従い、
軍忠状を与えられている逸見有朝が見られるほか
武蔵野合戦に参加しているものもいた、とのことです。

室町時代の甲斐国では、応永23年(1416年)に
鎌倉公方の足利持氏に対し
関東管領の上杉禅秀が挙兵した上杉禅秀の乱において、
守護・武田信満が禅秀方に加担して滅亡し、
守護不在状態になります。
これにより甲斐では国人衆が台頭し、
有義系の子孫と言われる逸見有直は
室町幕府と対抗する足利持氏の支援を受け、
有直は甲斐守護の座を幕府に要求したとあります。
これに対して室町幕府では、
将軍・足利義持(4代将軍・父は3代将軍の足利義満)が
高野山に隠棲していた武田信元、
次いで武田信重を甲斐守護として派遣したそうです。




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【戦国時代・近世の逸見氏】
また、戦国時代には武田一族の今井氏が逸見姓を称しています。
他の戦国時代の逸見一族としては、
小弓公方足利義明の家臣逸見祥仙や、
高浜城を築城した逸見昌経などが知られています。
また逸見氏の一族として
甲斐武田家重臣の飯富虎昌
武田信虎・信玄に仕える。武田二十四将の一人で赤備えの先駆け)
の飯富氏や、安土桃山時代に活躍し、
昌経の没後にその遺領の一部を継承した溝口秀勝がおります。

【江戸時代以降】
江戸時代、逸見四郎義年(1747年~1828年)は
多摩3大流派の1つ甲源一刀流を興しています。
(多摩3大流派とは、甲源一刀流・天然理心流・柳剛流の総称)
逸見四郎義年は甲斐源氏の逸見家19代目当主にあたるそうでした。

【逸見昌経】

逸見 昌経(へんみ まさつね・へみまさつね)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
若狭武田氏⇒三好氏織田氏の家臣でした。
駿河守と称しました。

【若狭武田氏家臣時代】
高浜城を築城した逸見氏は、
代々甲斐源氏嫡流である武田氏の家臣であり、
昌経も初めは
若狭国守護の武田信豊(若狭武田氏第7代当主)に仕えていました。
主である信豊は、
室町幕府の管領で丹波国守護でもあった細川晴元の要請により、
丹波で松永長頼と戦うこととなったので
昌経も武田軍の一翼を担い
武田信豊に従って丹波各地で戦ったとされます。

けれども、丹波守護代の内藤氏を継承した
松永長頼の調略により武田家中の戦意は低下し、
武田氏に離反する者も出始めたため
信豊は丹波から若狭に帰国し隠居します。
弘治2年(1556年)、
隠居した武田信豊が現若狭守護である子の武田義統と対立します。
昌経は隠居した信豊に味方し現守護に敵対します。
信豊方が義統に大敗戦し近江国に下った後も
昌経は、隣国丹波の松永長頼の援軍を得て、
武田義統に反抗を続けます。

【三好氏家臣時代】
昌経は三好長慶政権勢力下の武将となり、
朝倉・武田連合軍と争いを続けます。
永禄4年(1561年)6月19日に
越前国の朝倉義景の援軍を得た武田義統の軍勢と、
松永逸見軍は戦うも敗れ、
居城である砕導山(さいちやま)城を去ります。
同年、武田信豊・義統親子は和睦します。

永禄8年(1565年)、
丹波守護代内藤氏(松永長頼)の
大規模な援軍により再び高浜に入り
武田方となっていた城を攻略し、
若狭武田家初代である
武田信栄の菩提寺である長福寺を移転させ
その地に高浜城を築きました。

高浜城 遊歩道




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【織田家臣時代】
松永長頼(三好方)に代わって
織田信長の勢力が高浜に及ぶと、
その家臣となり朝倉・武田軍との戦いに越前へ従軍します。
その後も織田氏の家臣団の一つである
若狭衆の筆頭として織田氏に仕えました。
武田元明が若狭に帰国した後も
織田信長から高浜城5000石の城主として認められ、
のちに武田方の武将武藤友益が改易されると
領していた石山3000石を加増されました。

【昌経の最期】
天正9年(1581年)2月28日に
京都で開催された馬揃え
(今でいう軍事パレード。奉行を任されたのは明智光秀
に参加しましたが、
天正9年(1581年)3月26日に死去しました。
その後は、信長に高浜領を改易されてしまいます。
(逸見家からの領地召し上げ・逸見家臣団の解散)

【逸見家のその後】
逸見家の領地の約半分はその後、
逸見家の本来の主であった
旧若狭守護である武田家に返されました。
残りの高浜城を含む主要部分は、
尾張以来の織田家忠臣である溝口家のものとなりました。

豊臣期の領主は、山内一豊⇒木下利房
と変遷しましたが
関ヶ原後、家康の論功行賞により京極氏の兄弟が
それぞれ若狭、丹後の国持大名となりました。
そして京極高次が若狭国主となり、後瀬山城に入城すると、
高浜城には京極氏の重臣である佐々義勝が城代となりました。
其の後、京極高次は小浜城を築城し始めます。

この時期に小浜城主京極高次の弟、
宮津城京極高知の娘婿、八条 皇子が丹後・若狭を遊覧し
青葉山にちなむ和歌を詠みます。
「はちじょう の みこ」とは八条宮智仁親王のことで、
京都八条通りに有名な桂離宮を造営した人物です。
歌人であった親王は親族の領国であった
丹後・若狭の名所をめぐり多数の歌を残しました。
(嫁の実家の宮津にある天橋立の歌が中でも多い。)
高浜城跡と明鏡洞

江戸時代中期以降は小浜藩の一部となり、
酒井氏が京極氏の後に若狭に入封すると、
一国一城令により高浜城は廃城となり、
和田に代官所が置かれたということです。

<地図>
青印は城山公園の駐車場付近(無料)。
城跡は海に突き出た部分。




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【三好 長慶】

三好長慶(みよし ながよし)は、
戦国時代の武将。畿内・阿波国の戦国大名
室町幕府の摂津国守護代、相伴衆。

【人物】
細川政権を事実上崩壊させて、
室町幕府将軍・足利義晴足利義輝共々京都より放逐し、
三好政権を樹立しました。
その後は足利義輝、六角義賢、畠山高政らと時に争い、
時に和議を結び、それを繰り返しながら
畿内の支配者として君臨した人物です。

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