室町幕府

興聖寺と足利庭園~朽木氏岩神館跡~室町幕府12代将軍義晴、13代将軍・足利義輝の安全地帯

朽木氏岩神館跡






興聖寺朽木氏岩神館跡)】

曹洞宗・高巌山 興聖寺(こうしょうじ)。
<所在地>
〒520-1421
滋賀県高島市朽木岩瀬374
電話・FAX:0740-38-2103
<拝観料>
300円

別名:朽木氏岩神館

<拝観入り口>
興聖寺 拝観入り口

【創建】
鎌倉時代の嘉禎3年(1237年)、
高島氏及び朽木氏の祖である佐々木信綱は
承久の乱で戦死した一族の供養で
曹洞宗の開祖である道元禅師(どうげんぜんし)を訪ねます。
そして道元禅師が、この地を訪れ、
伏見深草の興聖寺に似て絶景であるとして
建立を勧めたのが始まりとされています。
別名を朽木氏岩神館跡ともいいます。
享禄3年(1530年)に
朽木稙綱(くちきたねつな)<戦国時代>をたよってこの地に滞在します。
朽木稙綱は義晴のために岩神館を造ったとされています。
更に、13代将軍の足利義輝は、
家臣である細川藤孝を従えて、
約6年半程滞在しています。
其のころに藤孝は熊川城主の沼田氏の娘である
沼田麝香姫と結婚し、
嫡男である細川忠興を産んでいます。

西側の背後には今でも土塁や空堀などの遺構があるそうです。
<興聖寺>
興聖寺

<遺構>
土塁・空堀

<朽木氏岩神館跡 説明看板>
朽木氏岩神館跡

<興聖寺・本殿>
興聖寺 本殿

<興聖寺・本尊釈迦如来像>
平安時代後期の後一条天皇の皇子が幼少のときに亡くなられ、
天皇の叔父頼道がその供養のために三仏を彫らせたうちの一体であると
伝わっています。
桧の寄せ木作りで作者は不明ですが定期様式と言われ、
国・重要文化財に指定されています。
興聖寺 本尊
※撮影禁止とは特に言われませんでした。

<興聖寺・縛り不動明王坐像>
朽木時経が北条高時の命により千早城焼き討ちの際に
楠木正成の念仏寺である不動明王が兵火にあいそうになるところを
捧持し帰館しました。
以後、興聖寺の鎮守として祀られています。
興聖寺 縛り不動明王坐像
※撮影禁止とは特に言われませんでした。





【足利庭園】

興聖寺の中にあり、国の特別名勝を受けている庭園です。
相次ぐ武将たちの反乱で京を追われた12代将軍である足利義晴が、
三好松永の反乱を避け、享禄3年(1530年)に
朽木稙綱(くちきたねつな)<戦国時代>をたよってこの地に滞在します。
(江戸時代に大名に取り立てられた朽木稙綱(くちきたねつな)の曽祖父 (そうそふ))
義晴だけではなく、奉公衆・奉行衆・女房衆・昵懇公家衆など
幕府を支えた人々の多くは朽木に従っています。
そうした中、義晴を慰めるために、
佐々木一族・京極高秀・浅井亮政・朝倉孝景の協力で
管領細川高国に依頼して、京都銀閣寺の庭園をもとにして、
旧秀隣寺庭園(足利庭園)を作庭献上しました。
現在、国の名勝指定となっています。
細川高国はその後の享禄4年(1531年)、
中嶋の戦い及び大物崩れで敗れて自害していまいます。

のちに三斎と称した細川忠興が千利休をこの庭園に案内しています。

<足利庭園>
足利庭園

<足利庭園2>
足利庭園

<場所>
駐車場辺りです。
興聖寺(朽木氏岩神館跡)へは駐車場脇にある
小道を上がった先にあります。
水洗トイレ有り。

【朽木稙綱 (戦国時代)】

朽木稙綱(くつき たねつな、生没年不詳)は、
戦国時代の武将。近江国朽木谷の国人。
将軍足利義晴・義輝父子が朽木谷へ逃亡した際の朽木氏当主であり、
12代将軍・義晴の時代
(天文初期~中期、1530年代~1540年代)には、
将軍の側近集団であった内談衆の1人として
幕府の政治的な決定にも関与しています。
また、13代将軍・義輝の代には将軍の御供衆に任命されていました。
朽木文書中で最後に登場するのは天文18年(1549年)ですが、
永禄5年(1562年)の史料にも登場するという説もあり
1560年代まで生存していた可能性もあるそうです。

【足利義晴】

足利 義晴(あしかがよしはる)は、
室町時代後期(戦国時代)の
室町幕府第12代将軍(在職:1521年~1546年)。
第11代将軍足利義澄の長男。

【生まれてすぐに父他界】
母は日野永俊の娘で日野富子の姪とされていますが、
永俊娘は永正2年(1505年)に義澄と離縁しているため、
義晴の生母としては疑問視されています。
これに対して将軍家で御末を務めていた
「阿与」という女性が母親であるとの説もあり、
母親の身分が低くて記録に残さなかった可能性もあるそうです。
永正8年(1511年)3月5日に、義澄の長男として生まれました。
けれども同年8月14日、父は死去しました。

『高代寺日記』『武家昇譜日記』によりますと、
誕生直後に、義晴丸は義澄派であった
播磨守護・赤松義村の元に送られて庇護下で養育されています。

【11歳で第12代将軍】
永正18年(1521年)元服が行われ、
12月25日に義晴は第12代将軍となりました。
この時11歳の義晴には実際の政務を行うには未熟で、
細川高国や政所執事(頭人)の伊勢貞忠、
飯川国信や大舘常興に代表される
父・義澄を支持していた幕臣らが政務の運営にあたっていたとあります。

【細川高国は運命共同体】
大永6年(1526年)、
高国が家臣の香西元盛を殺害して
細川氏で内紛が起こると、
細川高国と対立していた細川六郎(後の晴元)は、
三好元長の援助を受けて
義晴の弟・足利義維を擁立して高国と戦います。
さらに元盛を殺したことで元盛の2人の兄である
波多野稙通柳本賢治らが高国から離反し、
大永7年(1527年)2月に桂川原の戦いで高国が破れると、
三好元長や細川六郎らが入京し、
義晴は高国や武田元光を伴い近江に逃れました。
其の後、六郎と義晴の間で交渉が行われ、
10月には義晴が京都に帰還し、
翌年1月には三好元長が義晴と面会しています。

【朽木稙綱の元へ逃れる】
享禄元年(1528年)に入ると状況が一転して悪化し、
義晴は朽木稙綱を頼って興聖寺(岩神館)に落ち延び、
若狭の武田元光らの軍事力を背景に、
三好元長らが擁立した堺公方・足利義維と対立します。
寝返る幕臣もおりましたが、
奉公衆・奉行衆・女房衆・昵懇公家衆など、
幕府を支えた人々の多くは朽木に従い、
朝廷も享禄3年(1530年)に義晴を権大納言に昇進させ、
地方の大名も義晴との関係を維持していたそうです。
細川高国は中嶋の戦い及び大物崩れで敗れて自害しました。





【近江幕府・その下地は朽木】
戦後、今度は六郎と元長が対立し、
元長が六郎と手を組んだ一向一揆によって討たれた後(享禄・天文の乱)、
京都より近江の観音寺城山麓桑実寺境内に約3年にわたり幕府を移しました。
朽木の時とは違い、奉公衆・奉行衆を引き連れた本格的な幕府の移転でした。
ただし、朽木の段階でかなりの幕臣が同行しており、
その人々を基盤としていたとする説もあります。
また、この頃、義晴は京都を離れていても
京都と強いつながりをもっていたのは義晴の強みでした。
また、「享禄」「天文」の改元を行う際に
改元を要請する武家執奏と
そのための費用献上を行ったのは義晴でした。
そして、足利義維を強く支持した大名は細川晴元(六郎)のみで、
他に関係を持ったのは
畠山義堯と大内義隆および摂関家の九条稙通くらいでした。
細川氏の家臣(内衆)の中でも
柳本賢治や松井宗信のように
義晴との和解を主張する者もいたとのことです。
そして、何よりも義維は細川晴元が京都の実権を握った後も
治安の悪化によって上洛できませんでした。
義維は、義晴を解任して将軍宣下を受けることが出来ず、
堺公方に留まった程度であったのが最大の要因でした。
朽木陣屋跡 駐車場

【義晴・晴元体制の成立】
天文3年(1534)中には
六角定頼・義賢父子の後援を得て六郎と和解し、9月に帰京。
6月に近衛尚通の娘を妻に迎えました。
尚通の正室の実家である徳大寺家と細川高国が縁戚関係でした。
高国亡き後も、
足利将軍家と近衛家の利害の一致から婚姻が実行されました。
尚通の娘が将軍の御台所としては
日野富子以来となる男子
(義輝・義昭(後の15代将軍)・周暠)を儲けたので、
血縁的な後ろ盾が乏しかった
義晴にとっては大きな力となったのでした。
けれども、この頃の義晴は体調を崩していたらしく、
天文3年の前半にはほとんど政務活動がを停止し、
天文5年(1536年)8月には
将軍職を嫡男の菊幢丸(後の足利義輝)に譲る意向を示しています。
その際に菊幢丸に代わって公事を行う「年寄衆」をも指名していました。
その後、義晴は引退を撤回しましたが、
その8名
(大舘常興・大舘晴光・摂津元造・細川高久
海老名高助・本郷光泰・荒川氏隆・朽木稙綱)の年寄衆は、
後に内談衆と呼ばれて
義晴政権の政権運営を支える側近集団となったとのことです。

その後、天文10年(1541年)10月に
細川六郎改め晴元と木沢長政が対立すると、
義晴は双方の支援要請を断るも、
最終的には晴元側として近江坂本に逃れ、
天文11年(1542年)の太平寺の戦いで長政が戦死すると、
3月に京都に帰還して新しい御所の造営に着手します。
天文12年(1543年)には
細川氏綱が晴元打倒の兵を挙げるも、
義晴は晴元支持の姿勢を変えなかったとのことです。





【将軍職譲渡と最期】
天文15年(1545年)、
畠山政国が氏綱方につき、9月には晴元は丹波国に落ち延び、
義晴は京都郊外の東山慈照寺(銀閣寺)に入りました。
一方、畠山政国の重臣である遊佐長教は
秘かに使者を義晴に派遣して氏綱への支持を求めています。
晴元の苦境をみた義晴は晴元を排斥しようと画策しますが、
晴元の重臣・三好長慶の弟である三好実休安宅冬康(鴨冬)らが
四国から軍勢を率いて渡海し上洛すると一気に形勢は不利になり、
11月に北白川の瓜生山城に入城したものの
晴元と対立して敗れ(舎利寺の戦い)、
近江坂本に避難しました。
この時の12月19日に嫡男菊童丸を元服させて
翌20日には菊童丸改め義輝に将軍職を譲りました。
(『光源院殿御元服記』『足利季世記』
『続応仁後記』『長享年後畿内兵乱記』)

ところが、この際に2つの大きな出来事が
発生してしまったとのことです。
1つ目は、当時の室町幕府の慣例で、
将軍または後継者が元服する際には、
父である将軍もしくは管領が烏帽子親を務めるのが習わしでした。
ところが、義晴は三管領の家ではない六角定頼を管領代に任じて
義輝の烏帽子親としたのでした。

2つ目は、義晴自身が右近衛大将に昇進していることでした。
足利将軍は将軍在任中に権大納言と右近衛大将を兼務してから
内大臣に昇進することを慣例としていました。
義晴は将軍と権大納言の地位から久しく経つにも関わらず、
一向に右近衛大将就任の意向を示さなかったのでした。
ところが、義晴が突然将軍職を幼い義輝に譲ることを知った
後奈良天皇や近衛稙家(義晴の義兄)は
義晴がこのまま政務や
京都警固の任を放棄することを憂慮しました。
そこで、引き留めの意図を含めて
義輝の将軍宣下の翌日に
義晴を急遽右近衛大将に任じます。
義晴自身は官位への関心を示すことなく、
天文16年1月26日に義輝とともに
任官の御礼の参内をしているものの、
慣例であった大将拝賀の儀式も
その後の内大臣任命もありませんでした。
以後は大御所として幼少の義輝の後見人となり、
義輝と共に慈照寺に帰りました。

『続応仁後記』によりますと、
天文16年(1547年)3月29日、
瓜生山城に入って氏綱になおも味方することを表明します。
けれども、義晴方だった六角定頼が離反して晴元に味方し、
摂津でも義晴方の薬師寺元房ら諸将が晴元に降伏しました。
7月12日、細川・六角連合軍が瓜生山城を攻撃し、
義晴は7月19日に城を焼いて近江坂本に逃走したとあります。
(『御湯殿上日記』『足利季世記』『続応仁後記』『長享年後畿内兵乱記』)。
その後、晴元と和睦して
義輝と共に閏7月1日に京都に戻りました。
六角定頼は瓜生山城攻撃中の7月15日に
秘かに義晴に使者を送って
晴元との和平の仲介を行っていたそうです。
定頼は義晴の支援者であると同時に晴元の舅でもあり、
義晴による晴元切り捨ては容認できなかったと見られています。
足利将軍の一貫した支持者であると同時に、
六角氏と晴元との同盟を堅持する定頼の存在は
義晴の対細川京兆家の方針を拘束することになり、
細川氏綱や後の三好長慶が細川晴元と敵対することで、
本人の意思と関わりなく
足利将軍とも敵対してしまう
構造となってしまったということです。

天文18年(1549年)には
晴元と三好長慶が三好政長の処遇をめぐって対立。
この際、義晴は晴元に協力したため、
6月に政長が戦死して晴元が敗れると(江口の戦い)、
義晴は義輝や晴元、近衛稙家と共に
再び近江朽木谷に逃れていきます。
義晴は京都を奪回するため、10月18日に
慈照寺の裏山の地蔵山に中尾城の築城を開始します。
けれども病がちになり、
天文19年(1550)3月7日には
坂本から穴太(現滋賀県大津市穴太)に移動するも、
病が重くなり動く事が出来なくなったとの事です。
そして5月4日、穴太にて死去し、享年40でした。
死因は悪性の水腫だったと
『言継卿記』『厳助大僧正記』『長享年後畿内兵乱記』
らには記されているとの事です。

比叡山からの琵琶湖

【足利義輝】

足利義輝(あしかがよしてる)は、
室町時代末期および戦国時代の室町幕府第13代征夷大将軍
(在職:天文15年(1546年)~ 永禄8年(1565年))。
足利宗家第20代当主。

【生い立ち及び少年期】
天文5年(1536年)3月10日、
第12代将軍・足利義晴の嫡男として東山南禅寺で生まれました。
幼名を菊童丸。誕生直後に外祖父・近衛尚通の猶子となったそうです。
将軍と御台所の間に生まれた男子は足利義尚以来であり、
摂関家出身の女性を母に持つ
将軍家の男子も菊童丸が初めてだったそうです。





【父と同じ11歳で13代将軍へ】
天文15年(1546年)12月、菊童丸(義輝)は11歳にして、
父から幕府将軍職を譲られ、朝廷からも認められます。
このときの将軍就任式は
亡命先である近江坂本の日吉神社(現日吉大社)だったそうです。
天文19年(1550年)5月、父・義晴が穴太にて死去しました。
足利義輝は父が建設を進めていた中尾城で、
三好軍と対峙します(中尾城の戦い)。
けれども、戦局が好転しないまま
11月に中尾城を自焼して堅田へ逃れ、
天文20年(1551年)1月には
伊勢貞孝が足利義輝を強引に京都に連れ戻し、
三好方との和睦を図ろうとするも失敗し、
これを知った六角定頼の勧めにより2月に朽木へ移りました。
これに反発した伊勢貞孝は
奉公衆の進士賢光らを連れて京都に戻って三好方に離反しました。

【度重なる失敗】
天文20年(1551年)3月、
義輝は京都の伊勢貞孝の屋敷に三好長慶が呼ばれるとの情報を得ると
先に貞孝と共に帰京した進士賢光を伊勢邸に潜入させ、
三好長慶を暗殺しようと目論みますが失敗に終わります。
進士賢光による暗殺劇は三好長慶に軽い傷を負わす程度に終わってしまい、
進士賢光はその場で自害したとのことです。
また、5月5日に親長慶派の
河内守護代・遊佐長教が暗殺された事件も
足利義輝の仕業とされ、畿内に不穏な空気が漂ったそうです。
7月には三好政勝・香西元成を主力とした幕府軍が
京の奪回を図って侵入しましたが、
松永久秀とその弟の松永長頼(内藤宗勝、丹波守護代)
により破られます(相国寺の戦い)。

天文21年(1552年)1月、
六角定頼が急逝して足利義輝は三好長慶と和睦し、京都に戻ります。
伊勢貞孝は赦免されましたが、細川晴元は京都を脱出しました。
2月には三好長慶が御供衆として幕臣に列せられ、
三好長慶が推す細川氏綱が京兆家、
弟の細川藤賢が典厩家を相続することが認められました。
ところが、足利義輝の側近である奉公衆の上野信孝が台頭し、
これに反発する幕臣との確執が強まります。
特にこの年の6月に足利義輝が伊勢貞孝らの反対を押し切って
山名氏や赤松氏の守護職を奪って尼子晴久
8か国守護に任じたことで
幕府内に動揺が生じたと伝わっているそうです。

【次々と奉公衆が離れていく】
天文22年(1553年)閏1月、
上野信孝など側近の奉公衆らは三好長慶排除のために細川晴元と通じ、
2月には親三好派の伊勢貞孝が信孝らの追放を諫言を行い、
これに長年に渡って足利義晴・義輝に従って
三好氏と戦ってきた大舘晴光や朽木稙綱も同調しました。
3月には足利義輝自身が三好長慶との和約を破棄して
東山の麓に築いた霊山城に入城し、
細川晴元と協力して三好長慶との戦端を開きます。
足利義輝は細川晴元と三好長慶が
芥川山城を包囲している最中に連合して入京を目論むも、
7月に三好長慶が芥川山城に抑えの兵を残し上洛すると、
8月に幕府軍が籠城する霊山城が攻め落とされてしまいました。
(東山霊山城の戦い)。
同月、足利義輝は伯父である前関白・近衛稙家らを伴い、
朽木元綱を頼って再び近江朽木谷に逃れ、
以降5年間を朽木岩神館で過ごします。
三好長慶は将軍に随伴する者は知行を没収すると通達したため、
随伴者の多くが足利義輝を見捨てて帰京したそうです。
やがて、伊勢貞助や結城忠正のように奉公衆でありながら、
三好氏の家臣に準じた立場で
活動する者も現れるようになったとのことです。

天文23年(1554年)2月12日、
義輝は朽木谷(朽木岩神館)に滞在中に、名を義輝に改めています。
なお、年号が永禄に改元された際、
朽木谷(朽木岩神館)にいた義輝は改元を知るのに3か月かかり、
それまで古い年号の弘治を使用し続けることとなったため、
朝廷に抗議しています。





【坂本へ、三好長慶の動き】
永禄元年(1558年)5月、
足利義輝は六角義賢(承禎)の支援で晴元とともに坂本に移り、
京の様子を窺います。
翌月、幕府軍が如意ヶ嶽に布陣して、
三好長逸らの軍と北白川で交戦しています(北白川の戦い)。
一時期は六角義賢の支援を受けた義輝側が優勢でしたが、
長慶の弟・三好実休の反攻を受け、
さらに六角義賢からも支援を打ち切られたために
戦況は思うように展開しなかったそうです。

三好長慶はなおも権勢を高め、幕府の御相伴衆に加えられ、
さらに修理大夫への任官を推挙されましたが、
同時に足利義輝の臣下として幕府機構に組み込まれることになります。
ただし、三好長慶も足利義輝の権威に自らが取り込まれる危険性や
長年対立してきた自身と足利義輝の和解が難しいことは理解しており、
永禄2年(1559年)12月に嫡男・孫次郎が
義輝から偏諱を拝領して義長(後に義興)と名乗り、
永禄3年(1560年)1月に義長が
三好氏代々の官途であった筑前守に任ぜられると、
三好長慶は三好氏の家督と本拠地である摂津国芥川山城を義長に譲って、
河内国飯盛山城に移りました。
三好長慶は自身は足利義輝との一定の距離を置きつつ、
三好氏の新当主となった義長(義興)と足利義輝の間で
新たな関係を構築することで
関係の安定化を図ったと考えられています。
なお、三好長慶が御相伴衆になると同時に
嫡男の義興と重臣の松永久秀が御供衆に任ぜられています。

【将軍親政】
足利義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、
諸国の戦国大名との修好に尽力しています。

伊達晴宗と稙宗(天文17年(1548年))、
里見義堯と北条氏康(天文19年(1550年))、
武田晴信と長尾景虎(永禄元年(1558年))、
島津貴久と大友義鎮、毛利元就と尼子晴久(永禄3年(1560年))、
松平元康と今川氏真(永禄4年(1561年))、
毛利元就と大友宗麟 (永禄6年(1563年))、
上杉輝虎(長尾景虎改め)と北条氏政と武田晴信(永禄7年(1564年))

など、大名同士の抗争の調停を頻繁に行っていました。

また、足利義輝は諸大名への懐柔策として、
大友義鎮を筑前・豊前守護、毛利隆元を安芸守護に任じ、
三好長慶・義長(義興)父子と松永久秀には桐紋使用を許しています。
さらに自らの名の偏諱(1字)を家臣や全国の諸大名などに与えました。
例えば、「藤」の字を細川藤孝(幽斎)や筒井藤勝(順慶)、
足利一門の足利藤氏・藤政などに、
「輝」の字を毛利輝元伊達輝宗・上杉輝虎(謙信)などの諸大名や
足利一門、藤氏・藤政の弟である足利輝氏などに与えています。
また、朝倉義景島津義久武田義信などのように
足利将軍家の通字である「義」を偏諱として与える例もありました。

永禄年間には信濃国北部を巡る甲斐国の武田信玄
越後国の長尾景虎との川中島の戦いが起きており、
足利義輝は両者の争いを調停し、
永禄元年(1558年)には武田信玄を信濃守護に補任しました。
けれども、武田信玄はさらに長尾景虎の信濃撤退を求めたため、
足利義輝は長尾景虎の信濃出兵を認め、
永禄4年(1561年)には
武田信玄に駆逐され上方へ亡命していた
前信濃守護・小笠原長時の帰国支援を命じています。
また、長尾景虎の関東管領就任の許可、御相伴衆を拡充し、
毛利元就、毛利隆元、大友義鎮、斎藤義龍
今川氏真、三好長慶、三好義興、武田信虎らを任じています。

また、諸大名の任官斡旋には力を尽くしたものの、
足利義輝自身は将軍就任翌年に
従四位下参議・左近衛権中将に任ぜられてから
実に18年間にわたって昇進をせず、
また内裏への参内も記録に残るのはわずか5回でした。
信長公記』によりますれば、
後に織田信長は義輝の朝廷軽視が
非業の死の原因であると述べていたとあるそうです。





【復活に向けての政治活動】
永禄元年(1558年)の足利義輝の帰京以降も
三好長慶の権勢は続いていましたが、
それに反発する畠山高政と六角義賢が畿内で蜂起し、
三好実休が戦死する(久米田の戦い)と、
三好氏に衰退の兆しが見え始めました。

こうした中、永禄5年(1562年)に
三好長慶と手を結び幕政を壟断していた
政所執事の伊勢貞孝が長慶と反目すると、
足利義輝は長慶を支持してこれを更迭し、
新しく摂津晴門を政所執事とします。
これに激怒した伊勢貞孝は反乱を起こしましたが、
9月に三好長慶の手で討たれました。
これによって、
かつての3代将軍・足利義満の介入すら不可能だった
伊勢氏による政所支配は歴史に幕を閉じ、
幕府将軍による政所掌握への道を開いたのでした。

永禄2年(1559年)、
大友義鎮を九州探題に任命し、九州の統治を委ねます。
もともと、九州探題は足利氏一族の渋川氏が世襲していましたが、
少弐氏と大内氏の抗争に巻き込まれてすでに断絶していたので、
これを補うための補任だったとのことです。
大友家は九州において、
足利将軍家に最も親しい有力守護大名でした。
この時、大友義鎮は豊後・豊前・筑後・筑前・肥後・肥前の守護
および日向の半国守護を兼ねていました。

永禄7年(1564年)7月に三好長慶が病死します。
足利義輝はこれを機に幕府権力の復活に向けて
さらなる政治活動を行なおうとしました。

【義輝の最期・永禄の乱へ】
一方、傀儡としての将軍を擁立しようとする
松永久秀と三好三人衆にとっては、
将軍家の直接統治に固執する義輝は
邪魔な存在でしかありませんでした。

久秀の長男・松永久通と三人衆は
足利義稙の養子・足利義維(義輝の叔父)と組み、
義維の嫡男・義栄(義輝の従兄弟)を
新将軍にと朝廷に掛け合いましたが、
朝廷は耳を貸さなかったそうです。
一方で足利義輝が頼みとする近江六角氏は
永禄6年(1563年)の観音寺騒動以降、
領国の近江を離れられなくなっていました。

【永禄の乱(えいろくのらん)】
永禄8年(1565年)5月19日、
久通と三好三人衆は主君・三好義継(長慶の養嗣子)とともに
清水寺参詣を名目に集めた約1万の軍勢を率い二条御所に押し寄せ、
将軍に訴訟(要求)ありと偽り、取次ぎを求めて御所に侵入しました。





剣豪として名を馳せていた塚原卜伝の直弟子でもあった足利義輝は、
自ら薙刀を振るい、その後は刀を抜いて抵抗しましたが、
敵の槍刀で傷ついて地面に伏せられたところを
一斉に襲い掛られて殺害されてしまったと伝わります。
或いは、最期は寄せ手の兵たちが四方から畳を盾として
同時に突きかかり殺害したとも、または槍で足を払われ、
倒れたところを上から刺し殺されたとも諸説伝わっているそうです。
事件の際に在京していた山科言継の『言継卿記』によりますれば、
義輝が「生害」したと記されており、
討死したとも自害したとも解釈できるそうです。
後世には、松永貞徳の『戴恩記』などの御所を囲まれて切腹したというものや、
『常山紀談』の「散々に防ぎ戦ひて終に自害有ける」
などの自害したという明確な記述も見られるようになりました。

享年30(満29歳没)の若さでした。

2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」
では、向井理(むかいおさむ)さんが演じられることが決定しました!

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