明智家

福知山城~初代城主は明智光秀~領民に慕われた証の御霊会、城代は婿で重臣の明智秀満

福知山城






福知山城

福知山城(ふくちやまじょう)は、
京都府福知山市字内記一丁目周辺
にある日本の城(平山城)跡です。
江戸時代には福知山藩の居城でした。

1965年10月14日、
市の史跡に指定されました。
2017年には、
続日本100名城」(158番)に選定されています。
スタンプ設置場所⇒福知山城天守閣・入り口

【別名】
横山城、臥龍城、八幡城、福智山城、掻上城
【所在地】
京都府福知山市字内記
【城主】
明智光秀
【築城年】
1579年(天正7年)
【主な改修者】
有馬豊氏
【主な城主】
明智氏、朽木
【廃城年】
1873年(明治6年)
【形態】
連郭式平山城
【遺構】
曲輪、石垣、井戸、移築番所・門

【城のあらまし】
現在のような縄張りは明智光秀が行いました。
畿内を押さえた織田信長は、
豊臣秀吉と明智光秀に中国攻めを命じます。
豊臣秀吉は山陽道から進軍したのに対して、
明智光秀は山陰道側より進軍しました。
丹波国を平定した明智光秀が築城し、
娘婿である明智秀満を城主としました。

現在は、福知山城公園として整備されています。
天守は三重三階の大天守と
二重二階の小天守が
1986年(昭和61年)に復元されています。
福知山市郷土資料館の施設でもあります。
公園入口には、
隅櫓風城郭建築様式の
福知山市佐藤太清記念美術館があります。





【場所や地形】
市街地を一望する福知山盆地の中央に
突き出た丘陵の先端地にあります。
その地形の姿から臥龍城の別名を持っています。
東から西に流れる由良川が天然の堀となっており、
北側には土師川と合流する標高40mの台地に
築かれ眺めが実によく、見晴らしがあります。
東、北、西は断崖で要害の地でもありました。
国道9号走行中や
JR福知山線の列車内からうかがえ、
夜間はライトアップもされ
市のシンボルともなっています。
また多数の桜が城周辺に植林されており、
春には満開となって綺麗です。

<天主閣からの福知山市街>
福知山市街

【城のあゆみ】
【中世(室町時代)】
小笠原長清の末裔とされる
福知山地方の国人である塩見頼勝が、
朝暉ヶ丘に空堀と土塁だけの、
簡素な掻上の城を築いて
龍ヶ城(福知山城)としたのが
始まりとされています。
塩見頼勝は後に姓を横山に改め、
さらに城主はその息子である
塩見信房へと代替わりして、
城名も横山城となります。

【中世後期(横山城の戦い)】
明智光秀は、
織田信長の命をうけ
丹波国征討戦を開始します。
敵対したのは赤井直正波多野秀治連合軍で、
塩見信房は
赤井・波多野連合軍に加担していました。
第一次の黒井城の攻防戦では、
赤井・波多野連合軍は
「赤井の呼び込み軍法」
と呼ばれる戦術で
明智光秀軍を撃退及び大敗させましたが、
第二次黒井城の戦いのさなか、
赤井直正が
天正6年(1578年)3月9日に病死します。
そして、波多野秀治の居城である八上城が
翌年の天正7年(1579年)6月1日に落城します。
赤井直正の居城であった黒井城も、
同年8月9日に落城しました。

ここに至る少し前、
明智光秀は丹波国征討戦に際して、
金山城を築き、矢島刑部、朽木久兵衛、
加上弥右衛門らが城代となっていました。
そして、丹波国の掃討戦が開始されたのでした。
同年8月20日より四王天政春、
林半四郎らが加わり
横山城を攻めたとされています。
塩見信房とその弟塩見信勝は
共同で防戦しましたが、
破れて自刃して死去しています。
また山家城の城主である
和久利明も火を放たれ、
攻められて敗れています。
猪ノ崎城の城主である塩見利勝は、
自ら火を放ち、
落ち延びている途中に
林半四郎らに川北周辺で討死しています。
これを期に、
福山地方に属していた国人衆は皆、
明智光秀に降伏し
福知山平定となったのでした。





明智光秀は丹波国を平定すると、
これを福智山城と改名します。
そして近世城郭へと修築し、
城代には藤木権兵衛と
娘婿である明智秀満を置きました。

<福知山城への道>
福地山城への道

【光秀の死去】
天正10年(1582年)6月、
本能寺の変となり
明智秀満は一度は武功を立てました。
そのころ、明智秀満の父が
福智山城が
留守居役となっていたとのことです。
そこへ、豊臣秀吉軍が
福智山城に押し掛け、
明智秀満の父を捕え、
京に連行し同年7月2日に
粟田口で処刑してしまいます。
明智光秀は
本能寺の変では勝利しましたが、
山崎の戦いでは敗北し
後に暗殺されました。
明智光秀の福知山在城期間は
わずか3年間で幕を閉じました。

【中世末期(安土桃山時代)】
福知山城はその後、
丹波亀山城を居城とする
羽柴秀勝が城主となり、
次いで杉原家次が城主となりましたが病没後、
小野木重勝が城主となりました。
豊臣秀吉の没後、
関ヶ原の戦いでは小野木重勝は西軍に属し、
東軍に属していた細川幽斎らが
立て篭もる田辺城を攻めました。
この時細川忠興は関東に出陣中で、
細川幽斎が留守居役で
田辺城の戦いとなり必死に防戦した結果、
どうにか和議にこぎつけています。
関ヶ原の戦いの勝敗がはっきりすると、
徳川家康の許しを得た細川忠興が
福知山城を攻め、
小野木重勝は敗れ、
亀山城下の寿仙院で切腹させています。

【近世(江戸時代)】
関ヶ原の戦いの論功行賞により、
福知山城に入城したのは有馬豊氏でした。
そして現在のような城郭や城下町は
この時代に完成となったとのことです。
はじめが6万石で入国しましたが、
間もなく2万石
(飛び地で三田・父の遺領の継承が許される)
の加増を受け8万石の城主となりました。

山陰道を押える要衝地にあるこの城を、
有馬豊氏は近世城郭として
大改修を行い、
現在残る華麗な姿としたそうです。
けれども、元和6年(1620年)12月、
武功を重ねた有馬豊氏は
久留米藩に加増転封されます。
翌年の元和7年(1621年)8月、
岡部長盛が亀山城から移ります。
3年後には、
その岡部長盛も大垣藩に転封すると、
稲葉紀通が摂津国中島藩より移ります。
その稲葉紀通も
福知山城の城主となった24年目の
1648年(慶安元年)、
宮津藩の京極高広と争いとなり、
乱心し自殺したのではないかと
伝わっているそうです。
翌慶安2年(1649年)2月、
刈谷藩から松平忠房が入部してきました。
20年程統治しましたが、
島原藩へ転封となりました。





寛文9年(1669年)6月、
土浦城の朽木稙昌が入部、
幕末の1869年(明治2年)まで
約200年の長きにわたって、
朽木氏が13代世襲し当地域を統治しました。

<城内にある朝暉(あさひ)神社>
福知山城・朝暉神社

【現代】
廃藩置県後の明治4年(1871年、廃城。
明治6年(187年)
の廃城令によって解体されました。
建物は払下げとなり
二の丸の台地は
埋め立てられてしまいました。
二の丸の建物は、
明治20年(18877年)に取り払われ、
建物一部の瓦は寺院や民家に
使用されたそうです。
二の丸の台地は削り取られ、
城門は観瀧寺、正眼寺、法鷲寺、明覚寺の
山門になったと伝わっています。
現在、これらの山門は、
福知山市重要資料に
指定されているそうです。
最後に残っていた二ノ丸の
登城路付近にあった銅門番所は、
大正5年(1916年)
に天守台に移築されました。

【瓦一枚運動】
1984年(昭和59年)、
再建(郷土資料館建設)期成会が発足しました。
1口3000円の寄付を募る
「瓦一枚運動」などで
5億円以上の寄付金を集めました。
一般寄付金1億6000万円、
国庫補助1億4000万円、
京都府補助230万円などを合わせて、
総事業費は8億1372万円でした。
福知山市の一般財源には
ほとんど頼っていないとのことです。
1985年(昭和60年)には
小天守と続櫓が完成しました。
1986年(昭和61年)には
大天守(郷土資料館)が完成。
同年11月9日に竣工式を行って
11月10日に郷土資料館が開館しました。

2017年(平成29年)には
続日本100名城(158番)に選定されています。

【城の構造】
福知山城は、明智光秀が築造後、
その後多少の修築は行われたものの、
有馬豊氏時代に完成したものと
推定されています。

丘陵の最先端部の一番高い所、
標高35m、比高約25mに本丸を置き、
その西に二ノ丸、更に西に伯耆丸、内記丸と続く
四つの連郭式城郭を形成していました。
全体として
東西約600m×南北約150-300mです。
かつては本丸と二ノ丸は繋がっていました。
その他曲輪として北側には
左門丸、対面丸、侍屋敷、大膳丸、
南側には、泉水、蔵屋敷、馬屋、
鷹部屋、庭園などを設け、
周囲に二重、三重の堀を巡らしていたそうです。
城下町としては、北方に鍛冶町、紺屋町、鋳物師町、
呉服町、京町などの町家、
川沿いには寺町、南方に侍屋敷を配し、
東北には斜めに由良川が流れ、
西、南に外堀が巡らされています。
これは、いわゆる惣構えと呼ばれる造りでした。
福知山城・隅櫓風城郭建築

【天守】
「平面古図」によると、天守は
三重四階建ての大天守で、
北側に二重二階階建の小天守、
南側には現存していない櫓門を介して
二重二階建の菱櫓と
連結した建物があったそうです。
大天守には、トコと棚をしつらえた
八畳の上段ノ間、水流し、厠、
小天守にもトコと棚をしつらえ
住居施設を備えていました。
大天守と小天守の連結部には
縁側をとって座敷風な造りだったそうです。





復元天守は、大天守(3層4階)、
続櫓、小天守が連結された形で、
近世初期の望楼型とのことです。
外観は忠実に再現されていますが、
構造は鉄筋コンクリート造です。
福知山城・天守

【石垣】
遺構としては天守台と本丸の石垣が
残されるのみとなりました。
石垣は、「野面積み」「乱石積み」「穴太積み」
と呼ばれる自然石をそのまま
利用する方法で積まれています。
石材の加工と用い方は「野面積み」、
角部の積み方は「算木積み」、
勾配としては、基底部は傾斜が緩やかで
段々傾斜を増していき、
上部はほぼ垂直になる
扇の勾配」と呼ばれています。
また宝篋印塔、五輪塔などの
石造物が大量に使用されており、
これらは「転用石」とも呼ばれています。

<石垣>
福知山城・天守

<転用石>
転用石・説明

<石垣にある転用石>
石垣にある転用石

【石落とし】
石落としは攻城戦に攻城軍が接近した場合に、
門・櫓・天守などに設けてある隙間から
直下の敵に向けて攻撃を行う防御施設です。
石落としの幅は8寸とされ、
福知山城では大天守の虎口の上、
大・小天守の2階の隅に設置されており、
1階が1ヵ所、2階が9ヵ所の合計10ヵ所あります。
なお、2階の石落としは、
1階の張り出した屋根で隠されています。

【豊磐井(とよいわのい)】
本丸、天守の東側に
「豊磐井」(とよいわのい)と
呼ばれている大型の井戸が残っています。
この井戸は江戸時代の城主であった
朽木稙昌の父である朽木稙綱の神号
「豊磐稙綱命」にちなんだものであるそうです。
井戸の深さは50mあり、
海面下7mに達しています。
高所に関わらず水深37mもあり、
現在も満々と水をたたえているとのことです。
伝承ではこの井戸に抜け穴があり、
二ノ丸の北側の対面所裏にあった
横穴に通じていると言い伝えがあるそうです。
第二次世界大戦前まで
二ノ丸の北側に深い洞穴があったそうですが、
奥が行き詰っており
氷室であったという指摘もあるとのことです。

<「豊磐井」(とよいわのい)>
「豊磐井」(とよいわのい)

【埋納遺物】
1986年(昭和61年)の天守再建に伴う
送電線敷設工事時に偶然検出された埋納遺物です。
出土物は以下の5件です。

<丹波壺>
口径16.6cm、高さ41.6cm。
茶褐色で一部緑色の自然釉が薄くかかっている。
この壺の中に他の出土遺物が入っていました。

<銅鏡>
直径は9.43cm。
紐は亀形で、縁は垂直に立ちあがっている。
一対の鳥と菊花をモチーフとした双雀菊花文鏡。

<竹筆>
19本出土。

<小刀>
錆びついており、詳細は不明。
現存部分の長さ19.3cm、
刃部分の幅は2.6cm。

<銅銭>
総数は約936枚。

【福知山城天守閣(旧:郷土資料館)】
【開館時間】
午前9時-午後5時
(入館は午後4時30分まで)
【休館日】
毎週火曜日(祝日の場合は翌日)
12月28日~12月31日、1月4日~1月6日
【入館料】
大人320円(団体:290円)
こども(小・中学生)100円(団体:90円)
福知山城天守閣(郷土資料館)
※続日本100名城スタンプ設置場所※

【交通アクセス】
【電車】
JR西日本・福知山線「福知山」駅
京都丹後鉄道・宮福線「福知山」駅
徒歩15分
【車】
舞鶴若狭自動車道 
福知山IC⇒国道9号⇒京都府道55号
お城の道路を挟んだ向かい側に駐車場有り。
60台分。

<場所>
青印は駐車場入り口付近

【明智光秀の福知山統治時代】

福知山城と空

【御霊会(ごりょうえ)】
明智光秀がこの地に入ると、
善政を敷き、良君として
領民にとても慕われたとのことです。
明智光秀が山崎の戦いで死去した後も、
福知山の領民は
光秀の善政を語り継いできたそうです。
そして・・・・
「本能寺の変」から100年以上経過した後、
当時の福知山城主である
朽木稙昌(先祖は近江の高島七頭)は、
宇賀御霊大神を祀る祠に
明智光秀の御霊を合祀し、
御霊神社を創建しました。
光秀を慕って語り継いできた
民たちは大いに喜び、
光秀公のための「御霊会(ごりょうえ)」は
盛大になったとのことです。





【家中軍法(かちゅうぐんぽう)】
家中軍法は明智光秀が定めたとされる
軍団の規律や軍役の基準を記した
全18条からなる軍法です。
軍の管理・統制を目的としたルールは
当時の織田家中にはまだ存在せず、
それは先進的なものであったそうです。

18条からなる家中軍法は、
明智光秀が本能寺の変の1年前に、
福智(知)山城で制定したものといわれています。
1条から7条までは、
軍団の秩序と規律について記し、
8条から18条までは、
100石単位の禄高に応じた
軍役の基準を明確にしています。
また、「定家中法度」では、
武具の置場所から
織田家中の他の部将への挨拶の仕方まで
記してあるとのことです。
それまで織田家中には
軍法は存在していなかったこともあり、
他の部将もこれに倣って、
家中軍法を作ったとのことです。

この家中軍法は、明智光秀自身を
軍団長にまで引き上げた織田信長への感謝と
敬意が込められたものです。

ですが、制定のちょうど一年後に、
本能寺(京都市)で信長を討つこととなるのです。

【地子銭の免除】
西国への要衝となる福知山を発展させるため、
明智光秀は地子銭(宅地税)を免除しました。
また楽市楽座を設けるなど、
福知山の経済発展に力を入れたとされています。

【堤防:明智藪】
かつて福智(知)山を流れる由良川が
土師川と合流する地点は、
たびたび氾濫を起こし、
其のたびに大きな被害が出ていました。
天正8年(1580年)、
明智光秀は福智(知)山城下の建設に伴って、
河川の氾濫を防ぐために、
由良川の流れを大きく
北に付け替えるという
大規模な治水工事を施しました。
その際築かれた堤防は「明智藪」と呼ばれ、
領国経営の根幹をなした
この工事の功績により、
明智光秀は丹波衆に、
よく慕われる事となったのでした。

【石垣】
福知山城の石垣には、
「転用石」と呼ばれる
宝篋印塔、五輪塔などの石造物が
大量に使用されています。
これらの石は、
福智(知)山城以前の横山城時代の山城や
その関係寺院、
三岳山周辺の寺院を始めとする、
近隣の寺院から集められたものです。
その理由には諸説ありますが、
この地の旧勢力の象徴であった寺院を破壊し、
石垣に組み込むことで
支配を示そうとしたものであると
考えられています。
福知山城と石垣

けれども明智光秀は、
石材を集める一方で
その補償として
代用になる石を配ったという伝承があります。
新たな統治者に対する
民衆の抵抗を和らげるべく
心配りを忘れなかったことが
うかがわれます。
福知山城本丸下の石垣と光秀のぼり

【明智秀満】

明智秀満(あけちひでみつ)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将です。
織田家家臣の明智光秀の重臣。
娘婿または異説として
従弟(明智光安の子)とも言われていますが、
真偽の程は定かではありません。

<明智秀満の画>
(江戸後期の歌川国芳・城のパンフレットより)
明智秀満

【生誕】
天文5年(1536年)?
【死没】
天正10年6月14日(1582年7月4日)
【改名】
三宅弥平次⇒明智秀満(異説あり)
【別名】
光春、光遠、秀俊、光俊、光昌





【生い立ち】
【名前】
同時代史料に出る実名(諱)が秀満で、
当初は三宅弥平次と称しており、
後になって、明智弥平次と名乗っています。
俗伝として光春の名でも知られ、
明智光春や満春の名でも登場しています。
左馬助(左馬之助)の通称もとても有名です。
俗伝では幼名は岩千代、
改名して光俊とも称されていたそうですが、
その他にも複数の別名が流布しています。

【1.三宅氏説】
明智秀満は当初、
三宅氏(三宅弥平次)と名乗っていました。
三宅氏は明智光秀の家臣として
史料から複数の名前が確認されています。
また俗伝では、明智光秀の叔父とされる
明智光廉が三宅氏を
名乗ったとも言われています。
一説には父の名を三宅出雲、
あるいは美濃の塗師の子、
児島高徳の子孫と称した
備前児島郡常山の国人である
三宅徳置の子という説もあります。

【2.明智氏説】
「明智軍記」などによると、
明智秀満(同史料では「光春」)は
明智氏の出身とされています。
明智光秀の叔父である
明智光安の子
(「明智氏一族宮城家相伝系図書」によると次男)
であり、明智光秀とは
従兄弟の関係にあったと推察されています。
別号として三宅氏を名乗った時期も
あるとされているそうです。

【3.遠山氏説】
明智光春(秀満)の父である明智光安が
美濃国明知城主である遠山景行
同一人物との説があります。
そこから、
遠山景行の子である遠山景玄が
明智光春と同一人物、
そして明智光春が秀満ではないかとの説が
唱えられているそうです。
遠山景玄は元亀3年(1572年)、
上村合戦で戦死したことになっていますが、
この説によると史料の不整合が見受けられ、
誤伝であるとのことです。

【補説として】
また遠山景行の妻が、
三河国広瀬城主三宅高貞の娘であるため、
遠山景玄の母に相当する
三宅氏の跡を継いだという
補説もあるそうです。

結局、真相は霧の中ということでしょうか。
意図的に消された部分や、
災害などで史料が紛失して、
探そうと思っても出来ない事も
多々あると思います。

【前半生】
明智秀満の前半生は
俗書でのみ伝えられていますが、
明智秀満の出自を明智氏としています。

明智氏説では、
明智嫡流だった明智光秀の後見として、
長山城にいた父親である
明智光安に従っていましたが、
弘治2年(1556年)に、
斎藤道三斎藤義龍の争いに敗北した
齋藤道三方に加担したため、
齋藤義龍方に攻められ落城します。
その際に父は自害しましたが、
明智秀満は明智光秀らとともに
城を脱出し浪人となったとされています。

【後半生】
天正6年(1578年)以降に
明智光秀の娘を妻に迎えています。
彼女は荒木村重の嫡男である
荒木村次に嫁いでいましたが、
荒木村重が織田信長に謀反を起こしたため
説得の上離縁の形をとって、
実家へ戻ってきていました。
その後、明智秀満は明智姓を名乗りますが、
それを史料などで確認できるのは、
天正10年(1582年)4月のことです。

時は少し戻って、天正9年(1581年)、
丹波福知山の城代として、
天正10年まで在城したとされています。
天正9年10月6日、
丹波天寧寺に出した諸色免許状には
「明智弥平次秀満」という
署名をしているのが確認できます。
同年12月4日付の明智光秀の年貢請取状に、
明智秀満と読める文字の黒印が
捺してあるそうです。





【本能寺の変以降】
天正10年(1582年)6月、
明智光秀が織田信長を討った
本能寺の変では先鋒となって、
京都の本能寺を襲撃しています。
その後、安土城の守備に就き、
13日の夜、
羽柴秀吉との山崎の戦いで
明智光秀が敗れたことを知ります。
そこで14日未明、
安土を発して
坂本に向かったとされています。
大津で羽柴秀吉方の堀秀政と遭遇するも、
戦闘は回避したらしく、
坂本城に入ったとされています。

【坂本城へ】
14日、
堀秀政は坂本城を包囲し、
明智秀満はしばらくは防戦。
天主に篭り、
国行の刀・吉光の脇指・虚堂の墨蹟などの
名物がなくなることをおそれて、荷造りし、
目録を添えて堀秀政の一族の
堀直政のところへ贈ったとされています。
このとき堀直政は、
目録の通り請取ったことを返事しましたが、
明智光秀が秘蔵していた
郷義弘の脇指が目録になく、
これはどうしたのかと尋ねたそうです。
すると明智秀満は、
この脇指は光秀秘蔵のものであるから、
死出の山で明智光秀に渡すため、
明智秀満自ら腰に差すと
答えたとされています。

14日の夜、明智秀満は、
明智光秀の妻
(煕子は既に他界し、継室と思われる)と
息子2人を刺し殺し、
自分の妻も刺殺し、
自分は腹を切り、
煙硝に火を放って
自害したと伝承されています。
明智秀満の父は、
明智秀満が死去した後に間もなく
福知山城を退城したすぐに捕らえられ、
7月2日、
粟田口で磔刑にされたとあります。
この父の年齢は享年63歳とも、
65歳とも言われています。

【主君・光秀が一番先に相談した重臣】
明智光秀が織田信長を討つ際に、
真っ先に相談した重臣が
明智秀満と言われています。
その際には「思いとどまる様に」と
留意したともいわれております。
其の後、他の重臣たちに相談すると、
やはり皆、同じ意見だったそうです。
そのため明智光秀は躊躇し、
さらに明智秀満にそのことを告げたところ、
明智秀満は、
すでに四人にも語ったからには、
いずれ織田信長の耳にも入るのは
時間の問題であるから、
もはや躊躇すべきではないとし、
一転として謀反を起こさせたとされています。

【安土城を焼いたのは織田信雄
安土城退去の際、
明智秀満軍が天主や本丸に放火したと
長らくされてきました。
けれども、フロイスの書状によると
安土城は織田信雄が焼いたと述べています。
織田信雄は、蒲生氏郷らと
明智秀満の去った安土にすぐに入り、
安土城の焼失を15日であると考えると、
安土城を焼いたのは明智秀満ではなく
織田信雄であろうとされています。
安土城 天主跡

【明智左馬助の湖水渡り】
琵琶湖の湖上を馬で越えたという
「明智左馬助の湖水渡り」という
有名な伝説が残されています。
主君の明智光秀の敗死を知った明智秀満は、
坂本に引き揚げようとしましたが、
大津で堀秀政の兵に遭遇してしまいます。
明智秀満は名馬に騎して
湖水渡りをしたという内容です。
狩野永徳が墨絵で雲竜を描いた羽織を着用し、
鞭を駒にあてて
琵琶湖を渡したというものもあります。
騎馬で湖水を渡ったという逸話の初出は
「川角太閤記」ですが、真偽は不明です。

実際は、
大津の町と湖水との間の陸地を
騎馬で走り抜けたとも言われています。
また、琵琶湖の水軍を使って、
馬を船に乗せて運んだとも言われています。
琵琶湖近景





【武士は虚しい生き方と説く】
坂本城に一番乗りしようとした
入江長兵衛という武士がいて、遭遇します。
明智秀満は入江長兵衛と知己がありました。
入江は一番乗りを目指していました。
その入江に対して明智秀満は、
末期の一言として
聞いてもらいたいと言います。
内容としては、
かつては自分も一番乗りを
常に目指していたが、
その果てが今、貴殿の目の前にいると。
今日の我が身は明日の貴殿の身だと、
一番乗りの功名を挙げても武士とは空しいもの、
という事を言ったとされます。
そして明智秀満は話を聞いてくれた餞別として
黄金300両の入った革袋を
投げ与えたとされています。
明智秀満の死後、
入江長兵衛は武士を辞め、
もらった黄金で商人となり、
財を成したそうです。

【茶道にも知識有り】
明智光秀が津田宗及を招いて
茶会を2度ほど催していますが、
その際に饗応役を務めていたのが明智秀満でした。
文化人としての知識もあったと見られています。

【佩用(はいよう)した刀は歴史資料】
明智秀満が佩用していたとされる刀が、
「明智拵」として東京国立博物館にあります。
刀身は無銘であり簡素な拵ながら、
この時代の実用の打刀様式を伝える
数少ない品として、
貴重な歴史資料とされています。

【光秀は後継者と考えていた?】
明智光秀は、一説によると、
明智秀満を自分の後継者と
考えていたともされています。
自分の嫡男はまだ幼く、
自分は高齢でしかも
丹波平定のために健康を害し、
実年齢はさておき、
見た目は既に老齢だったとも
いわれていた程です。
娘婿となり、明智姓を名乗り、
最も信頼しできる家臣でありました。
福知山城は
山城(京都南部)、丹後(京都北部)、
但馬(兵庫北部)へと繋がる道が広がっている
交通の要衝であり、その城の城代として、
明智秀満に任せたことは
その証でしょうね。
恐らくは、長年、美濃を追われた時代から
共についていったのだと
ここから推察されるのです。

また羽柴秀吉が本能寺の変後に家臣に書かせた
「惟任(これとう)退治記」
という史料があります。
「惟任(これとう)」は明智光秀の別名で、
朝廷より賜った姓です。
この史料の中に「明智光遠」
という名前が出てきます。
これは明智秀満の実名とのことです。
そしてこの「遠」という字が
土岐氏二代守護の
「土岐頼遠」からきているとも
唱えている説があります。

「土岐頼遠」は、生まれ順は七男でしたが、
土岐氏二代目守護となり、
次の三代守護で土岐氏は最盛期を迎えています。
土岐氏再興という志も
掲げていたとされる明智光秀。
自分が初代、三代目を嫡男とするならば、
初代と三代を繋ぐ重要な二代目を
明智秀満に託した、という説です。

<明智秀満書状>
(福知山城のパンフレットより)
内容は贈答品に対するお礼や
由良川での鮭漁に対しての指示などが
記載されているそうです。
天正8~9年(1580~1581年頃)だと
推定されているそうです。
明智秀満の書状

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