史跡・城跡

海蔵寺・安芸の古刹~山中鹿介次女の盛江,北条氏直,東城浅野家,江戸幕府と長州藩の談判の場所にもなりました。

海蔵寺(広島県)からの眺め



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海蔵寺

応永年間(1394~1427年)、
中国の僧慈眼禅師が創建し、
永正元年(1504年)に
曹洞宗に改宗したと伝わっています。
ご本尊は十一面観音で応永時代の
創建当時にお迎えしたとのことです。

<大内時代>
大内家家臣 草津城主 羽仁家菩提寺

<毛利時代>
毛利家家臣 草津城主 児玉家菩提寺

弘治元年(1555年)
厳島合戦では毛利方の陣中となりました。
天正16年(1588年)
毛利輝元公は上京の折、
海蔵寺に宿泊し草津港より出発しました。

<浅野時代>
浅野家第三家老で
東城を治めていた東城浅野家の菩提寺
元禄2年(1689年)
境内を整備し石組み(いわぐみ)の庭を造りました。
文政9年(1826年)
鐘楼門再建し、現在に至ります。
天保11年(1840年)
本堂を再建し、現在に至ります。
元治元年(1864年)
蛤御門の変で幕府は長州藩追討を決定します。
長州藩は広島藩に仲裁を依頼しました。
幕府と長州藩の談判が
海蔵寺で開かれました。
(五日市町史上巻より)

昭和20年(1945年)、
広島に原爆が投下されると、
本堂が傾く被害を受けています。

<東城浅野家>
広島浅野藩には、家老を務める三家がありました。
三原浅野家、
小方浅野家(現上田流茶道家元)、
東城浅野家です。

【堀田孫左ヱ門高勝】
東城浅野家の始祖である
堀田孫左ヱ門高勝は
天文7年(1538年)、
尾張国(愛知県津島市)に生まれました。
天正10年(1582年)
明智光秀に仕え、
福知山城京都市福知山市)の城代として
2500石を賜ります。
同年明智光秀は、
京都本能寺の変を起こします。
其の後明智光秀は山崎の戦い
羽柴秀吉に敗れます。
堀田孫左ヱ門高勝は、
大津(滋賀県大津市)に移り
浅野長政に召し出され、
浅野長政の子である
浅野幸長(あさのよしなが)
の守役となったのでした。
慶長元年(1596年)
主君浅野長政及び浅野幸長父子に仕え、
浅野藩の草創に尽力した功績により
浅野姓を許され
浅野孫左ヱ門高勝と名乗ります。
慶長18年(1600年)
浅野孫左ヱ門高勝は
76歳で亡くなりました。
まもなく主君である浅野幸長も
38歳で他界します。

【東城浅野家誕生】
元和5年(1619年)
浅野幸長の子である浅野長晟(ながあきら)
に従って浅野孫左ヱ門高勝の子である
浅野高英が広島に移ります。
寛永14年(1641年)
東城に配置され、1万石となり、
広島藩 家老の
東城浅野家が誕生しました。




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<石組(いわぐみ)庭園>
庫裏北側には
元禄2年(1689年)に築造された
石組(いわぐみ)庭園があります。
平成10年に修復されました。
<規模>
庭園面積
約380㎡
(東西幅 約20m  
南北奥行 約19m)
<構造形式>
池泉観賞式
<池泉>
面積66㎡の池泉で、
ほぼ三角形に近い形態とのことです。

<築山と石組>
最大の特色としては、
山畔が急であるために
土留めを兼ねて、
下の池泉護岸から
その上部にかけて
多数の石組を行っていることにあります。
また、その山畔の西寄り谷間の部分に
滝石組があり通常の滝とは
異なった造形であるとのことです。
その左手山畔は、上部にかけて、
横石を主体とした特色ある石組が
組まれているとのことです。
※随時見学可能であるかは未確認です。

【山中幸盛(山中鹿介)次女 盛江の墓】
尼子方の武将である
山中幸盛(鹿介)の次女の
盛江(八重姫)の墓が広島市の海蔵寺にあります。
山中幸盛(鹿介)は
毛利方との合戦に破れ、暗殺されましたが、
次女の盛江(八重姫)
草津城主の児玉家に預けられ、
その後、草津の商家に嫁いだと
言われています。

<山中幸盛(山中鹿介)次女 盛江の墓>
山中幸盛(山中鹿介)の次女、盛江の墓

父親である山中幸盛(鹿介)が
毛利氏によって暗殺された時、
盛江(八重姫)はまだ14歳であったとの事です。
安芸草津城主の
児玉就方(こだま なりかた)に預けられ、
養女となった盛江は養育を受けたとのことです。
やがて、児玉就方
将来性を見込んでかねてより
目をかけていた
草津鵜鷲山の旧家である
吉和義兼(吉和孫左衛門義兼)に、
1579年3月、嫁いだとされています。
尚、吉和義兼(吉和孫左衛門義兼)は
源義家の19代末裔と伝えられている御用商人です。
一説では武家に嫁がせなかったのは
毛利家に復讐することを恐れていたためとも
云われています。
吉和義兼(吉和孫左衛門義兼)は、
その後、醸造業を営むなどして
大変な資産家になったとのことです。

児玉さんはいい人だ!

なお、もともと盛江の墓は
草津・浄教寺にありましたが、
昭和12年(1937年)に
旧家・吉和家が海蔵寺に改葬したとのことです。

【山中幸盛(鹿介)の頭蓋骨】
山中幸盛(鹿介)の首塚は、
鞆の浦の静観寺門前にあります。
けれども盛江(八重姫)の願いを受けて、
児玉就方の子供で
跡を継いで安芸草津城の城主となった
児玉周防守就英(こだま なりひで)が
「浄教寺」に頭蓋骨を改葬したと
伝えられています。
この話が、旧家・吉和家に伝わっており、
先祖代々の墓を海蔵寺に改葬する際に、
盛江(八重姫)の五輪塔近くから、
壺に納められた頭蓋骨が
発見されたとのことです。
そして、海蔵寺の盛江の墓から
斜めうしろにある松の大木
(残念ながら現在は枯れています)
の根元に、その骨壺を丁重に葬ったとのことです。




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北条氏直の墓】
北条氏直の墓があります。
小田原北条氏の最後の当主です。
父親である第4代当主である
北条氏政小田原攻めで敗北した後に
自害しましたが、
北条氏直は徳川家康の娘婿の為、
助命され高野山に謹慎させられました。
後に豊臣秀吉のお側衆となり
1万石を領していました。
しかし、それから僅か3ヶ月後に
大阪で病死したとされています。

小田原北条氏の菩提寺である箱根湯本の
早雲寺に北条氏直の墓がありますが、
何故、北条氏直の墓が
この地にあるのかはナゾに包まれています。

地元の伝承では、
草津城主の児玉就英(児玉周防守就英)が匿っていて、
この地で生涯を終えたとされているとのことです。

<北条氏直の墓>
北条氏直の墓(海蔵寺・広島)

【海蔵寺の所在地】
〒733-0851 広島県広島市西区田方1丁目1−3

【交通アクセス】
◆広島電鉄宮島
「草津駅」下車山側徒歩3分

◆バス
西広島バイパス経由
田方バス停より徒歩13分
(目印は古田中学校です。)

◆自動車
(1)
山陽自動車道五日市IC⇒西広島バイパスへ
田方陸橋渡りすぐ左折⇒(車で2分)⇒
50m先を右折(目印は古田中学校)

(2)
宮島街道から山側(旧国道)⇒
海蔵寺駐車場より徒歩2分

鞆の浦~万葉集にも登場する古代からの潮待ちの港です。

安芸草津城~古代から水運の重要拠点であり、児玉氏が城代となって毛利水軍の基地となった城です。

月山富田城~出雲国守護の城、170年間尼子氏6代の本拠地で別名は天空の城、日本五大山城です。

通化寺~天野隆重夫妻の墓・天野元嘉の墓・繁沢元氏の墓(毛利元氏の墓)及び天野氏館跡

北条氏直~小田原北条家最後の当主~30年の短き人生は戦国後期、激動の関東と共に。

福知山城~初代城主は明智光秀~領民に慕われた証の御霊会、城代は婿で重臣の明智秀満

明智光秀について~駆け足で手短にわかる明智光秀の生涯~

広島城~日本100名城で三大平城~毛利氏、福島氏、浅野氏、そして明治~昭和の戦争・復興・平和を体感した城。

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