【伊勢崎城】
別名は赤石城とも称します。
伊勢崎城は那波宗俊の居城として
赤石左衛門尉に築かせた城だと伝えられています。
築城当初は赤石城と呼ばれていました。
由良成繁が城主となったときに
「伊勢崎城」に改められたとのことです。
慶長6年(1601年)に
「関ケ原の戦い」の功により
稲垣長茂が入封すると城跡に陣屋をかまえました。
稲垣長茂の子である稲垣重綱が移封され、
代わって酒井忠世が入封しました。
本家である前橋藩を継いだため廃藩となり、
陣屋も破却されました。
のちに酒井忠寛によって
再立藩した際にはあらたに伊勢崎陣屋が築かれています。
現在城址は伊勢崎市図書館となっており、
遺構は一切確認することはできません。
但し、同聚院の武家門は
稲垣長茂の屋敷門と伝えられており、
伊勢崎市の重要文化財に指定されています。
【所在地】
〒372-0055 群馬県伊勢崎市曲輪町29−1
【那波氏(なわし)】
那波氏(なわし)は、日本の氏族のひとつ。
上野国那波郡(現・群馬県伊勢崎市、佐波郡玉村町)によった武士で、
藤原秀郷系と大江氏系の2流があったそうです。
赤石城(伊勢崎城)・那波城(堀口城)・今村城を築城しています。
また、秀郷流・大江氏系ともに
上野国八宮の火雷神社(玉村町下之宮)を厚く信仰していました。
【那波氏の発祥】
那波郡に先に入ったのは
藤原秀郷の子孫の那波氏とのことです。
藤原秀郷の子孫で佐貫成綱の子・季弘が祖とのことです。
保元の乱には那波太郎季弘が
源義朝軍に参加したとあります。
けれども元暦元年(1184年)、
那波弘澄(広純)が源義仲にくみして戦死し、
一族は衰亡してしまいました。
藤姓の那波氏に代わって
那波郡を領したのが大江氏系の那波氏でした。
大江広元の子、大江宗元(政弘)が祖とのことです。
「系図纂要」によりますと、
藤姓那波氏の那波弘純の子・宗澄に子がなく、
大江政弘は那波弘澄の娘婿となって
那波氏を称したとされているとのことです。
【戦国時代の那波氏】
15世紀中頃に山内上杉氏の被官となりました。
那波宗俊は那波城や今村城を築城しています。
やがて近隣の由良氏と抗争し、
那波宗俊は成田氏や厩橋長野氏・
佐野氏らと天文10年(1541年)に
由良泰繁を攻撃しています。
「那波氏系譜」・「新田伝記」ではこの戦いで
那波宗俊が戦死したと伝えています。
上杉憲政が平井城に逼塞(ひっそく)すると
那波宗俊は小田原条氏に従っています。
永禄3年(1560年)に
上杉謙信によって那波城が陥落、
那波氏は上杉氏に降伏しました。
これにより赤石城や那波氏領は
上杉方の由良氏のものとなりました。
この時の城主は「上杉家御年譜」では
那波宗俊といい、
嫡男次郎(顕宗)を人質に上杉謙信に降伏したものの、
その後死去したと伝わっています。
ただし別の説もあり、
那波氏は宗政(宗継)・宗俊と続いて
宗俊の弟・宗元のとき、那波落城で
上杉方に敗れ、宗元の長男・宗安は浪人し武田氏へ仕え、
次男の次郎は上杉方に人質となったとされているそうです。
上杉氏の人質となった次郎は元服し那波顕宗と名乗ったそうです。
この際に北条高広の妹を妻にしたそうです。
その後は小田原北条氏・上杉氏の間で復権を狙ったとみられ、
永禄9年(1566年)に由良成繁が
小田原北条側に付いたのを機に
那波顕宗が旧領に復帰したとされています。
けれども赤石城は由良方とされ、
那波氏は今村城を拠点としたとのことでした。
一方、別の説もあります。
天正2年(1574年)に上杉方が離反した
由良氏の赤石城を攻めるため、
那波顕宗を今村城に置いたのが
那波氏の旧領復帰だとする説もあります。
以後は姻戚の北条高広と行動を共にしたと見られています。
そして那波氏が小田原北条氏側になったのは。
天正11年(1583年)で、
滝川一益の上州撤退後のことでした。
このとき上杉景勝についた北条高広とは決別しました。
其の後、小田原北条氏が豊臣秀吉の小田原征伐で没落すると、
那波氏は上杉景勝につきましたが、
天正19年(1591年)に
那波顕宗は九戸政実の乱で討死して
那波家は断絶となってしまいました。
【那波氏の子孫】
ただし那波の血は後世に残っているとのことです。
那波顕宗の息子である那波俊広が、
上杉氏家臣で大江氏一族の安田能元の養子となり、
のちに安田氏を継いだとのことです。
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