城跡

新田金山城跡~日本百名城~関東地方にある石垣の山城、築城主は岩松家純

大手虎口からスタンプ設置場所付近



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【新田金山城

新田金山城(にったかなやまじょう)は、
群馬県太田市のほぼ中央にそびえる
標高235.8メートルの独立峰である
全山アカマツに覆われた金山に築かれた日本の城です。
城の形態は山城です。
別名「金山城」または「太田金山城」。

<南曲輪にある石碑>
南曲輪にある石碑

<史跡 金山城跡>
史跡 金山城跡

<上記看板の場所>
金山城跡 山頂への入り口

【別名】
金山城、太田金山城
【城郭構造】
連郭式山城
【天守構造】
なし
【築城主】
岩松家純
【築城年】
文明元年(1469年)
【主な改修者】
後北条氏(小田原氏)
【主な城主】
岩松氏、由良氏、高山定重、
宇津木氏久
【廃城年】
天正18年(1590年)
【遺構】
石垣、土塁、堀、馬出し、井戸
【指定文化財】
国の史跡

<史跡 金山城址 遺構の位置>
金山城址 遺構の位置

【立地・遺構】
新田金山の頂上にある山城であり、
現在は、本丸跡とされている地点に新田神社があります。

<新田神社>
新田神社

背後の斜面には石垣の一部が遺存しており、
往時のようすを現在に伝えています。
<大手虎口>
大手虎口

関東平野を一望に収めることができ、
金山城址からの眺め

西方は一段低くなっており
西方~月ノ池方面

「日ノ池」「月ノ池」があります。

<日ノ池>
日ノ池

<月ノ池>
月ノ池

西南には二の丸跡、
三の丸跡と呼ばれる曲輪が残り、
これら曲輪につながる尾根群には堀切が設けられています。
また南曲輪には中島飛行機の創設者である
中島知久平の胸像が建てられています。
また、その胸像の向かいには
南曲輪休憩所があります。
日本100名城スタンプ設置場所は、
この南曲輪休憩所内にあります。
この休憩所は年中無休で、
下記により利用できます(夜間は施錠いたします)。
6月1日~9月30日:午前8時30分~午後6時
10月1日~5月31日:午前8時30分~午後5時

休憩所及びスタンプ設置場所

トイレも休憩所の近くにあります。




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【11月12月の日没時間】
※11月〜12月は日没が
午後4時30分前後となります。

<休憩所付近にある立体模型>
金山城址 地形立体模型

【新田金山城の特徴】
新田金山城の特徴として
戦国時代の関東の山城には
本格的な石垣普請の城はないという定説が
発掘調査で覆されたほど
多くの石が多用されています。

【石垣】
新田金山城の史跡環境整備事業に伴い、
平成4年より発掘調査を開始し、
石垣を多用した山城の姿が解明されつつあります。
大手虎口の土塁石垣において、
石垣を改修した痕跡が認められ、
計5回の改修が行われていることが判明しました。
また、「アゴ止め石」を採用した箇所が、
大手虎口を含めて広範囲に
広がっていることも判明しました。
「アゴ止め石」とは、
石垣基底部(最下部)の石を、
石垣の面より10cm~20cm
前に出して据え置く技法であり、
石垣が沈み込んで、
前へ傾くのを防ぐためのものと
考えられているとのことです。

<石垣1>
金山城址 石垣

<石垣2>
金山城址 石垣2

平成18年(2006年)には
公益財団法人日本城郭協会により、
「日本100名城」に選定されました。

【歴史】
【室町時代以前】
建武3年(1336年)に
佐野義綱が新田庄の新田城を
攻め落としたという記録があります。
この新田城が新田義貞によって
金山に建築されていたのではという説があるそうです。
けれども、最近行われている発掘調査では
その時代の遺構や遺物は検出されてはいません。
ただし城郭遺構の保護との兼ね合いのために
万全な調査ができていないという課題があるそうです。

【室町時代・安土桃山時代】
文明元年(1469年)、
新田一族であった岩松家純によって築城されます。
以降、享禄元年(1582年)に由良成繁・国繁親子、
天正12年(1584年)には小田原北条氏となりましたが
上杉謙信の攻撃を退けるなど、
関東七名城の一つとされています。
天正18年(1590年)、
豊臣秀吉小田原征伐の際攻撃を受けて落城し、
こののち廃城となりました。

【近現代】
昭和9年(1934年)12月28日に
「金山城跡」(かなやまじょうあと)として
国の史跡に指定されました。
現在は、いくつかの遺構をもとに、
公園として整備されています。
藤岡市にある平井金山城と区別して
太田金山城とも称されることがあります。
2006年(平成18年)4月6日、
日本100名城(17番)に選定されました。
2009年(平成21年)5月30日、
史跡金山城跡ガイダンス施設・
太田市金山地域交流センターが開館しました。

【史跡金山城跡ガイダンス施設・
太田市金山地域交流センター】

金山城跡を詳しく紹介する施設で、
金山の南麓にあります。
金山城跡の情報を映像やパネルや模型をふんだんに使用して
紹介しています。
金山城に関して更なる理解が増す施設です。
是非とも来訪されることをお勧めします。
太田市金山地域交流センター

【散策】
山頂付近にあるスタンプ設置場所までは、
山上の県道金山城址線の終点にある駐車場から、
尾根伝いに、堀切や石垣など金山城遺構をゆっくり散策しながら、
約600の道のりです。
また、平行する管理用道路(舗装路)を歩行すると、
徒歩15~20分程度(片道)です。




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【所在地】
群馬県太田市金山町40-98・長手町・東金井町

【交通アクセス】
東武伊勢崎線太田駅から徒歩約50分

【駐車場】
無料駐車場あり
<駐車場出入り口>
駐車場出入り口

<駐車場にあった看板>
金山城とハイキングコース案内

【探訪所要時間】
金山山上の金山城跡主要部の探訪に
必要な時間は、西城起点で、
1時間から1時間30分程です。
さらに詳しく散策される2~3時間が必要です。

<金山城跡主要部主要部>
 見附出丸=西城(モータープール)=
西矢倉台=馬場下通路=物見台=
馬場曲輪=月ノ池=大手虎口=
 日ノ池=南曲輪(中島記念公園・
休憩所内に日本100名城スタンプ設置)=
御台所曲輪(大ケヤキ)=
実城(本丸・新田神社・金山山頂)

<西矢倉台西堀切>
西矢倉台西堀切

<西矢倉台西堀切2>
西矢倉台西堀切2

<西矢倉台下堀切>
西矢倉台下堀切

<物見台>
物見台

<物見台2>
物見台2

<物見台虎口>
物見台虎口

<堀切>
堀切

<馬場下通路>
馬場下通路

<大手虎口南上段曲輪>
大手虎口南上段曲輪

<南曲輪からの眺め>
南曲輪からの眺め

<本城>
本城

<金山の大ケヤキ>
金山の大ケヤキ

<天主曲輪>
天主曲輪

【岩松家純】

岩松 家純(いわまつ いえずみ)は、
室町時代中期から後期の武将。
岩松氏礼部家の家祖。
関東争乱で一度は没落しましたが、
幕府の援助で復活、分裂した岩松氏を統一しました。

【生涯】
【岩松氏の分裂】
父の岩松満純は異説はありますが、
応永23年(1416年)に外祖父である
上杉禅秀の反乱に加わり、
応永24年(1417年)に
鎌倉公方足利持氏による追討を受けて処刑されています。
父の死後、祖父の岩松満国によって
9歳の岩松家純は廃嫡されたために
家督を継ぐことができませんでした。
10月20日に家臣に伴われて長楽寺で出家、
室町幕府の追討を恐れて西国に逃れ、
武田氏・土岐氏・赤松氏などの庇護下にありました。

けれども永享の乱後に、
6代将軍足利義教によって罪を赦免され、
還俗して長純と名乗りました。
これは岩松満純の死後、
岩松家を継いだ従弟(岩松満純の弟満春の子)の
岩松持国が足利持氏派であったため、
岩松長純を幕府派として擁立しようという
あ島が義教の策略だったと見られています。
このため、岩松氏は五十子に所領を持つ岩松長純(礼部家)と、
新田荘に所領を持つ岩松持国(京兆家)に分裂しました。

【幕府側として復帰】
足利持氏父子の敗死後、
関東で結城合戦が勃発しました。
岩松長純は幕府方につき、
岩松持国は結城方につきました。
嘉吉元年(1441年)に幕府方の勝利となりましたが、
のちに嘉吉の乱と呼ばれる
6月24日に足利義教が
赤松満祐に暗殺される事件が発生します。
これにより岩松長純は後ろ盾を失い帰京し、
一方、岩松持国は新田荘に返り咲きました。

【享徳の乱】
やがて鎌倉公方復興が取り沙汰され、
足利持氏の子である足利成氏は鎌倉公方に就任しましたが、
幕府派の上杉氏と対立していきます。
享徳3年(1454年)に
関東管領上杉憲忠を暗殺し、
享徳の乱が始まりました。
岩松長純は上杉氏に味方し、関東に下向しました。
同年に岩松長純の代官として出陣した横瀬貞国は、
武蔵須賀合戦で足利成氏方と戦って討死しています。

【嫡子について】
京都で生まれた子の岩松明純は父に同行せず、
在京のまま幕府に出仕し、
政所蜷川親当(にながわ ちかまさ)の娘を娶って
岩松顕純、岩松尚純をもうけます。
後に岩松明純も岩松尚純を連れて
文明3年(1471年)に関東に下向します。
これは越後守護上杉房定が
嫡男の上杉定昌を関東に残して越後に帰還したため、
幕府から上杉房定と共に関東に出陣せよと
命じられたからであったそうです。
尚、蜷川親当は、
アニメ「一休さん」に登場する蜷川新右エ門のモデルですが、
実際の一休と交流があったのは出家後の晩年であったそうです。

【岩松家純に改名】
長禄2年(1458年)に
堀越公方足利政知が関東に下向すると、
家臣の横瀬国繁(横瀬貞国の子)の協力で
古河公方足利成氏に属した岩松持国を誘って
味方につけるなど活躍しました。
また、発給文書よりこの年に岩松長純から
岩松家純に改名していることが判明しています。




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【岩松氏統一】
長禄3年(1459年)の太田庄の戦いでは
岩松持国と共に上杉方として参戦していましたが、
2年後の寛正2年(1461年)には、
岩松持国・次郎父子を暗殺しています。
この事件については岩松持国が
再び足利成氏に寝返ろうとした為に
岩松家純が討ち取ったと見なされていますが、
8代将軍足利義政が
岩松家純に宛てた書状以外に記されていない為、
真相は不明となっているそうです。
これ以降、上杉側は文明元年(1466年)に
長尾景人を下野足利荘代官として派遣したり、
応仁2年(1468年)の綱取原合戦で勝利するなど、
上野において優位に立つことになりました。

文明元年、関東管領上杉房顕が五十子で死去。
上杉房顕には娘しかいなかったので、
家宰の長尾景信は後継者に上杉房顕の従弟にあたる
上杉房定の次男である上杉顕定を擁立する事に決めました。
上杉房定は初めは反対していましたが、
長尾景信に頼まれた岩松家純が
上杉房定の陣に居座ったので
上杉房定も承諾したと言われているそうです。

文明元年(1469年)、
岩松持国の子で京兆家を継いだ
三郎成兼(後閑氏祖)を追って新田荘に入り、
長年分裂していた岩松氏を統一しました。
同年、金山城を築いています。
こうして、岩松家純は52年ぶりに
本領の新田荘へ復帰したのでした。

文明3年(1471年)、
古河公方軍が伊豆堀越御所を襲撃しました。
上杉軍はこの機を捉えて下野に出陣し、
古河城を奪いましたが、
翌年には足利成氏に奪い返されました。
一時的にせよ足利成氏の本拠地を奪取できたのは
岩松家純と長尾景人が
北関東に地歩を築いたからだとされています。

文明5年(1473年)、
自分を引き立ててくれた
足利義教の三十三回忌を機に再出家し、
道建と称しています。

【嫡男勘当と晩年について】
【長尾景春の乱】
文明8年(1476年)、
関東管領上杉顕定に不満を抱いた長尾景春は
上杉顕定に反旗を翻し、
古河公方と結んで五十子陣を攻撃しました。
五十子陣に上杉勢とともに出陣していた岩松家純は、
長尾景春の攻撃を受けて金山城へ帰陣しました。

ところが翌年5月、
上杉顕定は岩松明純に参陣と引き換えに
領土を与えると約束しました。
この岩松明純の独断に岩松家純は怒り、
金山城に一族被官を集めて神水3ヵ条を誓約させ、
壁書の執行者として横瀬国繁を指名し
岩松明純を勘当しました。
この一件をきっかけとして、
岩松家純は古河公方の陣に加わりました。
また、壁書の執行者に指名されたことで、
横瀬国繁は岩松家執事としての地位が確立しました。
以後、横瀬国繁は岩松氏に代わって
政を左右するようになるのでした。

岩松家純に勘当された
岩松明純と岩松尚純は金山城を去り、
上杉顕定の居城である鉢形城に身を寄せていました。
年代は不明ながら、岩松尚純は
横瀬国繁・成繁父子の奔走で金山城に戻っています。
初め岩松家純は岩松尚純に会おうとしなかったそうですが、
横瀬国繁の協力の元、足利成氏の了解で
岩松尚純と対面し、岩松尚純は後継者となりました。

明応3年(1494年)4月22日死去。
遺体は金山の麓に葬られたと伝わっているそうです。

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