城跡

足利学校・ザビエルも海外に伝えた日本最古の大学

足利学校




足利学校

【所在地】
〒326-0813 栃木県足利市昌平町2338

【概要】
足利学校(あしかががっこう)は、
下野国足利荘(現在の栃木県足利市)に存在していました。
創設は平安時代初期、もしくは鎌倉時代であると
伝えられる中世の高等教育機関です。
室町時代から戦国時代にかけて、
関東における事実上の最高学府でした。
創設者は諸説あり、現在の処は
足利義兼が最有力説となっています。
「坂東の学校」と称されていました。
1868年まで存続し、
明治5年(1872年)に廃校になりました。
1915年には図書館となりました。
孔子廟などわずかな建物を残すのみでしたが、
1990年(平成2年)に方丈や庭園が復元され、
公開されました。

【歴史】
足利学校の創建については、所説存在しており、
奈良時代の国学の遺制説、
平安時代の小野篁(おののたかむら)説、
鎌倉時代の足利義兼(あしかがよしかね)説
などがあります。
なお、足利義兼は足利尊氏の6代祖になります。

<小野篁像>
小野篁像

いずれにせよ歴史が明らかになるのは、
室町時代の永享11年(1439年)、
関東管領であった上杉憲実(うえすぎのりざね)が、
現在国宝に指定されている書籍を寄進し、
鎌倉円覚寺から僧・快元(かいげん)を招いて
初代の庠主(しょうしゅ=校長)とし、
足利学校の経営にあたらせるなどして
学校を再興してからでした。

【上杉憲実の再興】
室町時代の前期には衰退していましたが、
永享4年(1432年)、
上杉憲実が足利の領主になって自ら再興に尽力し、
鎌倉円覚寺の僧快元を能化に招いたり、
蔵書を寄贈したりして学校を盛り上げました。
「能化」とは校長に相当する責任者のことですが、
江戸時代には「庠主(しょうしゅ)」と呼ばれるようになり、
今日では「庠主」と呼ばれる事が一般的となっています。
その成果あって北は奥羽、
南は琉球にいたる全国から来学徒があり、
代々の庠主(能化)も全国各地の出身者に引き継がれていきました。

<上杉憲実公>
上杉憲実公

上杉憲実は文安4年(1447年)に
足利荘及び足利学校に対して3か条の規定を定めています。
この中で足利学校で教えるべき学問は
三註・四書・六経・列子・荘子・史記・文選のみと限定し、
仏教の経典の事は叢林や寺院で学ぶべきと述べており、
教員は禅僧などの僧侶でしたが、
教育内容から仏教色を排したところに特徴があります。
従って、教育の中心は儒学でしたが、
快元が「易経」のみならず、
実際の易学にも精通していたことから、
易学を学ぶために足利学校を訪れる者が多く、
また兵学、医学なども教えていたとのことです。





【戦国時代】
戦国時代には、足利学校の出身者が
易学等の実践的な学問を身に付け、
戦国武将に仕えるということがしばしばあったそうです。
学費は無料、学生は入学すると同時に僧籍に入りました。
学寮はなく、近在の民家に寄宿し、
学校の敷地内で自分たちが食べるための
菜園を営んでいました。
構内には、菜園の他に薬草園も作られていました。

ザビエルの評価】
享禄年間(1530年頃)には火災で
一時的に衰微したものの、
第7代庠主である九華が北条氏政の保護を受けて
足利学校を再興し、
学生数は3000人と記録される盛況を迎えました。
この頃の足利学校の様子を、
キリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエル
「日本国中最も大にして
最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記し、
足利学校は海外にまでその名が伝えらていたそうです。
ザビエルによれば、

国内に11ある大学及びアカデミーの中で、
最大のものが、足利学校アカデミーであり、
学校自体は、寺院の建物を利用し、
本堂には千手観音の像があり、
本堂の他に別途、孔子廟が設けられている、

とのことでした。

【小田原北条氏の滅亡後は徳川家康
天正18年(1590年)の
豊臣秀吉による小田原征伐の結果、
小田原北条氏と足利長尾氏が滅び、
足利学校は庇護者を失うことになってしまいました。
学校の財源であった所領が奪われ、
古典籍を愛した豊臣秀次によって
蔵書の一部が京都に持ち出されそうになりましたが、
当時の第9代庠主三要は
関東の新領主である徳川家康に近侍して信任を受け、
徳川家康の保護を得て足利学校を守り通しました。

<徳川幕府歴代将軍の御位牌>
徳川幕府歴代将軍御位牌

【江戸時代】
江戸時代に入ると、
足利学校は100石の所領を寄進され、
毎年の初めにその年の吉凶を占った
年筮(ねんぜい)を幕府に提出することになりました。
また、たびたび異動があった
足利の領主たちによっても保護を受け、
足利近郊の人々が学ぶ郷学として、
江戸時代前期から中期に二度目の繁栄を迎えました。

【図書館としての役目】
しかし江戸時代には
京都から関東に伝えられた朱子学の官学化によって
易学中心の足利学校の学問は時代遅れになり、
また平和の時代が続いたことで
易学、兵学などの実践的な学問が好まれなくなっていきました。
そのため足利学校は衰微していったのです。
学問の中心としての性格ははやくに薄れ、
江戸時代の学者たちは
貴重な古典籍を所蔵する図書館として
足利学校に注目していたのみになってしまいました。





【明治維新後】
明治維新後、
足利藩は足利学校を藩校とすることで
復興を図りましたが、
明治4年(1871年)、
廃藩置県の実施により
足利藩校である足利学校の管理は
足利県(のち栃木県に統合)に移り、
明治5年(1872年)に至って廃校となりました。

【廃校後の足利学校】
廃校後、方丈などがあった敷地の東半分は
小学校に転用され、建物の多くは撤去されました。
また、栃木県は足利学校の蔵書の一部を
県に払い下げようとしたので、
足利学校の建物と蔵書は散逸の危機に瀕しました。
けれども、旧足利藩士田崎草雲らの活動により、
蔵書は地元に返還され、
孔子廟を含む旧足利学校の西半分とともに
県から地元に返還されたのでした。

【保存に向けて】
地元足利町は明治36年(1903年)、
足利学校の敷地内に、
栃木県内初の公共図書館である
足利学校遺蹟図書館を設立しました。
そして足利学校の旧蔵書を保存するとともに
一般の図書を収集して公開したのでした。
また大正10年(1921年)、
足利学校の敷地と孔子廟や
学校門などの現存する建物は
国の史跡に指定され、
保存がはかられることになりました。

【再現】
1980年代になり、
小学校の移転、
遺蹟図書館の一般図書の
県立足利図書館への移管が行われ、
史跡の保存整備事業が始められました。
平成2年(1990年)、
建物と庭園の復元が完了し、
江戸時代中期のもっとも栄えた時分の様子が再現されました。

【日本遺産の認定】
2015年(平成27年)4月24日、
国の日本遺産審査委員会によって
「近世日本の教育遺産群 ~学ぶ心・礼節の本源~」
のひとつとして日本遺産に認定されたのでした。

<裏門>
裏門

<入徳門>
入徳門

<学校門>
学校門

<字降松(かなふりまつ)>
詠めない字や意味の分からない言葉などを紙に書いて
この松の枝に結んでおくと
翌日には注釈がついていたことから
「かなふり松」と呼ばれるようになったとの伝説の松。
字降松

<方丈(ほうじょう)・庫裡(くり)>
手前が方丈で奥が庫裡です。
方丈は学生への講義や学習、学校行事や接客の座敷。
庫裡は学校の台所です。
方丈・庫裡

<南庭園>
池と築山からなる築山泉水式庭園。
南庭園は鶴がはばたくように見える水際。
南庭園

<衆寮(内部)>
学生が勉強したり生活した場所。
衆寮

<衆寮(外)>
衆寮(外)

<北庭園>
亀の様に見える水際。
北庭園

<孔子坐像>
孔子廟は2019年12月現在、
修繕工事中です。
孔子坐像

<木小屋>
木小屋

<書院(裏)>
庠主の書斎。
書院

【参観料(消費税を含む)】
大人:420円(団体350円)
高校生:220円(団体170円)
※団体は20人以上です
※中学生以下無料
※障がい者の方は障がい者手帳の提示で無料です。
(付添の方1名も無料となります)。
※Suica(スイカ)、Pasmo(パスモ)が利用できます。

【受付時間】
4月~9月⇒午前9時~午後4時30分
10月~3月⇒午前9時~午後4時





【交通アクセス】
◆JR両毛線「足利駅」より徒歩10分
◆東武伊勢崎線「足利市駅」より徒歩15分
◆北関東自動車道「足利インターチェンジ」より車で15分
◆足利市生活路線バスの最寄り停留所
 ・行道線、名草線「足利学校前」「通一丁目」
 ・中央循環線「足利学校前」
 ・富田線「通一丁目」
<リーフレットより>
足利学校案内図

【駐車場】
【太平記館 観光駐車場】
【利用時間】 
午前9時~午後5時
【駐車台数】 
乗用車40台
大型バス10台 (予約は受け付けておらず)
【料金】 
無料
【その他】 
隣接する太平記館(足利市観光協会)には土産処、
休憩所、観光案内所、トイレなどがあります。

【たかうじ君広場・駐車場】
【利用時間】 
終日開放
【駐車台数】 
乗用車35台(うち、軽自動車11台)
【料金】 
無料 

【通二丁目駐車場】 
※2019年12月現在、工事中のため使用できません。
【利用時間】 
24時間
【駐車台数】 
乗用車39台
【料金】 
30分以内100円(以後、30分ごとに100円)

所要時間:30分程度 

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