【梶原 景季】
梶原景季(かじわら かげすえ)は、
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で、
梶原景時の嫡男です。
梶原源太景季とも。
源頼朝に臣従し、
治承・寿永の乱で活躍しました。
父とともに鎌倉幕府の
有力御家人となりましたが、
源頼朝の死後に没落して滅ぼされました。
【生誕】
応保2年(1162年)
【死没】
正治2年1月20日
(1200年2月6日)
【別名】
源太
【墓所】
梶原山公園の梶原堂
鎌倉市深沢小学校敷地内の五輪塔
【官位】
左衛門尉
【幕府】
鎌倉幕府
【主君】
源頼朝、
源頼家
【氏族】
桓武平氏良文流梶原氏
【父】
梶原景時
【兄弟】
景季、景高、景茂、景義、
景宗、景則、景連
【子】
景望
【生涯】
梶原氏は坂東八平氏の流れをくむ一族で、
源氏に従っていましたが、
平治の乱で源氏が没落すると
平家政権に仕えました。
治承4年(1180年)、
源頼朝は挙兵しますが、
石橋山の戦いで大敗を喫しました。
平家方で参戦していた父の梶原景時は
源頼朝の命を救い、
後に源頼朝が再挙して鎌倉に入り、
関東を制圧すると梶原景時は
源頼朝に臣従して御家人に列し、重用されました。
養和元年(1181年)4月、
梶原景季は源頼朝の寝所を警護する
11名の内に選ばれました。
(「吾妻鏡」養和元年4月7日条)。
養和2年(1182年)、
懐妊した御台所の北条政子の
産所への移転に供奉し、
若公(源頼家)を無事出産すると
護刀を父である梶原景時とともに献上しました。
北条政子の妊娠中に
源頼朝がひそかに愛妾・亀の前のもとへ
通っていたことが発覚し、
激怒した北条政子が牧宗親に命じて
亀の前の屋敷を打ち壊し、
激怒した源頼朝は牧宗親を罰します。
が、これを怒った北条政子の父である
北条時政が伊豆国へ
引き揚げてしまう事件が起きました。
源頼朝は北条時政の嫡男である
北条義時のもとへ梶原景季を遣わし、
戻った梶原景季は
源頼朝に北条義時は
父に従わない旨を報告しています。
寿永3年(1184年)正月、
平家を打ち破って京を支配していた
源(木曾)義仲と源頼朝が対立し、
源頼朝は弟の源範頼と源義経を
近江国へ派遣します。
梶原景時と景季父子はこれに従いました。
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【宇治川の先陣争い】
「平家物語」によりますと、
この戦いで梶原景季は佐々木高綱と
有名な宇治川の先陣争いをして
武名をあげています。
鎌倉を出発するときに梶原景季は
源頼朝に名馬・生食(いけづき)を
賜るように願いましたが、
源頼朝はこれを許さず代わりに
磨墨(するすみ)を与えました。
ところが、源頼朝は後で生食を
佐々木高綱に与えてしまいます。
軍中で佐々木高綱が生食に
乗っていることを知った梶原景季は
恥辱と考え、佐々木高綱を殺して
自害しようと決意したとのことです。
佐々木高綱が機転を利かせて、
これは賜ったのではなく
盗んだのだと言うと梶原景季は
「自分も盗めばよかった」と笑ったとか。
源義経軍と木曾義仲軍は宇治川で対陣し、
佐々木高綱は生食、
梶原景季は磨墨に乗って
一番乗りの功名を立てんと
川に乗り入れようとしました。
佐々木高綱が「馬の腹帯が緩んでいる。
絞め給え」と助言し、
梶原景季は落馬しては一大事と
馬の腹帯を締め直していると、
その隙に佐々木高綱が
川に進み入ってしまいます。
謀られたと知った梶原景季も
急いで川に乗り入れ、
川中で激しく先陣を争い、
結局、佐々木高綱が一歩早く
対岸に上陸して一番乗りを果たしたのでした。
源範頼と源義経はこの
宇治川の戦いで勝利し、
木曾義仲を討ち取ったのでした。
【源義経と梶原景時】
同年2月の一ノ谷の戦いでは
梶原景時・景季・景高父子は
源範頼の大手軍に属ました。
「平家物語」によりますと、
弟の梶原景高は一騎駆けして敵中に突入。
これを救わんと梶原景時と梶原景季も
敵陣へ攻め入り敵陣を打ち破り後退しますが、
梶原景季が深入りしすぎて戻りません。
梶原景時は涙を流して、
再び敵陣に突入して奮戦し、
梶原の二度駆けと呼ばれる奮戦をしました。
「源平盛衰記」によりますと、
この戦いのときに梶原景季は
箙に梅の花の枝を挿して奮戦し、
坂東武者にも雅を解する者がいると
敵味方問わず賞賛を浴びたとのことです。
この戦いで梶原景季は
庄高家(あるいは庄家長)と共に
平重衡を捕える手柄を立てています。
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一般に父の梶原景時は源義経を陥れた
大悪人とされてしまっていますが、
その子の梶原景季は軍記物語では
華やかに活躍しています。
梶原景時も一ノ谷の戦いで
東国武士らしく大いに奮戦しています。
その後は父の梶原景時とともに
源義経軍に属しました。
源義経は屋島の戦い、
壇ノ浦の戦いで平家を連破し、
元暦2年(1185年)3月に
平家を滅ぼしました。
「平家物語」「源平盛衰記」などによりますと、
この際に梶原景時は逆櫓論争や
先陣争いで源義経と
ことごとく対立して
深く遺恨を持ったとされています。
「吾妻鏡」の合戦後の報告で
梶原景時は源義経の傲慢と
独断専行を厳しく非難しており、
対立があったのは確かであります。
【源頼朝の大激怒】
源義経は捕虜を連れて京へ帰還。
後白河法皇はこれを賞して
源義経と主だった武士たちに官位を与えました。
この際に梶原景季は左衛門尉に任じられています。
この無断任官を鎌倉の源頼朝は激怒し、
任官した24人ひとりひとりを
口を極めて罵り、鎌倉への帰還を禁じました。
その罵倒文が「吾妻鏡」に記されています。
【悪口書かれていない梶原景季】
兵衛尉に任じられた弟の梶原景高は
「人相が悪く、痴れ者と思っていたが、
任官は誠に見苦しい」と
言われているのに対して、
梶原景季は名前が挙がっているだけで
何も悪口が書かれていませんでした。
【源義経失脚】
梶原景季らは後に許されて
鎌倉へ帰還できましたが、
源義経は許されることはなく
鎌倉近辺の腰越で足止めされ
その後は京へ追い返されてしまいます。
同年9月、梶原景季は義勝房成尋とともに
源頼朝の使者として上洛します。
目的は勝長寿院供養の道具を求め、
併せて平家残党の配流を朝廷に促すためでしたが、
同時に源義経へ叔父の源行家を追討するよう
源頼朝の命を伝えることになっていました。
梶原景季は源義経の邸を訪ねましたが、
源義経は病であるとして面会を断られてしまいます。
一両日待って再び訪れると面会を許され、
源義経は脇息にもたれて
衰弱した様子で病が癒えるまで
源行家追討はできないと
梶原景季に伝えたとの事です。
梶原景季が鎌倉へ帰還して
源頼朝へこの旨を伝えますと、
父の梶原景時は面会一両日待たせたのは
不審である、食を断って
衰弱して見せたのに相違なく、
源義経と源行家は既に
同心していると言上しました。
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その後、源義経と源行家は挙兵するも失敗。
源義経は奥州藤原氏のもとへ逃れましたが、
文治5年(1189年)に
藤原泰衡の軍勢に襲撃され
平泉衣川館で自害しました。
【奥州合戦】
同年7月、源頼朝は奥州藤原氏討伐のため
大軍を率いて鎌倉より出陣しました。
梶原景季は父や弟たち
一族とともに従軍しました。
白河関で梶原景季は召されて
和歌を献じています。
源頼朝は大勝して、
奥州藤原氏は滅びました。
文治6年(1190年)、
源頼朝が上洛すると
梶原景季もこれに供奉しています。
【安田義資の死】
建久4年(1193年)、
甲斐源氏の安田義定の子である
安田義資が上皇の女房へ
艶書を投げ込む事件が起きたとのことです。
女房所は後難を恐れて
これを秘匿していましたが、
梶原景季の妾の龍樹の前がこれを語り、
梶原景季が梶原景時へ伝えます。
梶原景時は源頼朝に言上し、
安田義資は斬首され、安田義定も所領を没収されます。
【有力御家人として】
梶原景季は有力御家人として活動し、
鎌倉幕府の諸行事に参列したり、
奉行を務めるなどしばしばその名が見えます。
父である梶原景時は源頼朝に重用され、
侍所別当に任じられて権勢を振るいました。
【梶原一族の滅亡】
正治元年(1199年)正月に
源頼朝が死去すると梶原一族の運命は暗転します。
同年11月に梶原景時は
三浦義村、和田義盛ら御家人
66人の連名の弾劾を受けて、
鎌倉から追放され、
所領の相模国一ノ宮へ退きました。
正治2年(1200年)正月、
梶原景時、梶原景季は
一族とともに
相模国一ノ宮を出て上洛を企てました。
けれども途中、
駿河国清見関で在地の武士と諍いになり、
弟たちは次々と討ち死にしてしまいます。
梶原景季は梶原景時とともに
山中に退いて戦い、
ここで一族とともに自害したのでした。
享年は39歳でした。
【墓所・神社】
墓所は鎌倉市に有る
深沢小学校裏のやぐら五輪塔、
梶原景時館址の墓石群、
梶原山の墓石群があります。
「深沢小学校裏のやぐら」内にある
四基の五輪塔は、梶原景時一族の墓と伝えられ、
梶原景時と梶原景季・景高らの
五輪塔が四基並んでいます。
しかしながら小学校の敷地内にあるため
一般の人は事実上見学は出来ません。
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寒川町にある
梶原氏一族郎党(七士)の墓として
伝えられる「梶原景時館址の墓石群」は
梶原景時一族郎党を一宮館で
留守をしていた家族、
家臣が弔ったものと伝えられています。
静岡県にある梶原景時父子の終焉の地、
梶原山の墓石群、宝篋印塔は
梶原景時、景季、景高の墓で
一番右は不明であり、五輪塔は供養塔となります。
梶原景季が御祭神として祀られる
梶原神社は宮城県気仙沼市唐桑町にあり、
梶原景時の兄、梶原景実(専光房良暹)が、
梶原一族の没落後、鎌倉を離れ、
藤原高衡(本吉四郎高衡)ゆかりの地である
気仙沼市唐桑町石浜にたどり着き、
源頼朝、梶原景時、梶原景季の御影を安置し、
一族の冥福を祈り梶原神社を建立したとのことです。
梶原景実はその後、早馬神社を創建し、
以来、連綿と梶原氏直系子孫が宮司を務めています。
【源太塚】
討たれた梶原景季の片腕は鎌倉に送られ、
鎌倉市笛田3丁目29の佛行寺(仏行寺)の
源太塚に埋められているということです。
【関連作品】
先述の戦功や箙の梅の挿話などにより、
後世には源平合戦期における
代表的な色男として伝説化されました。
ひらかな盛衰記
人形浄瑠璃・歌舞伎作品
(江戸時代元文年間)
2022年NHK大河ドラマ
「鎌倉殿の13人」では
柾木 玲弥(まさき れいや)さんが演じられます。
梶原景時~鎌倉ノ本体ノ武士~文武両道で実務能力の高さ故に疎まれやがて滅ぶ。
梶原景時一之宮館跡(寒川)、鎌倉幕府の重臣である梶原景時の最初と最後の住まいでした。
梶原山公園~梶原景時及び梶原一族の終焉の地、現在は大パノラマと夜景が素晴らしい静岡きっての眺望の地です。
羽黒城~梶原景時の孫である梶原景親が築城し尾張梶原氏として存続するも「本能寺の変」にて殉じ、滅亡しました。
御城~梶原景時の六男である梶原景則が築城したとの伝承、近くには梶原氏の菩提寺があります。
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