城跡

女渕城址~城主は真田昌幸の策略で謀殺された沼田景義~上杉VS北条攻防の地も現在は女渕城跡公園。

女渕城・水堀




女渕城

【所在地】
〒371-0214 群馬県前橋市粕川町女渕1230−1

<案内看板>
女渕城・看板

【城の形状】
女渕城は戦国時代に赤城山南麓にあった城の一つで、
要害に広く水濠を用いた平城です。
城域は東西約200メートル、
南北約450メートルです。
北から北曲輪、帯曲輪、本丸、二の丸、御霊曲輪(三の丸)、
竜光寺曲輪とつづき、
全面岸高の河川が自然の周濠となっています。

本丸は水濠に囲まれ、東北虎口は土橋で帯曲輪に、
西南虎口は土橋で二の丸に、
西北虎口は北曲輪にそれぞれ通じていました。
西曲輪は貯水池を隔てて別に深濠をめぐらし、
さらにその西から南へかけて広い地域を囲む外堀、
やや離れて北西にも外堀がありました。

本丸を取り巻く水堀(一部は空堀)の他、
南側の公園と神社の間に土塁と空堀が残っています。
尚、本丸跡は現在は畑となっております。 
その一角に石碑が立られています。

<本丸跡の石碑>
女渕城址 本丸跡石碑 

<空堀>                              
女渕城・空堀

伝説口碑に、高野辺家成、南渕秋郷の名があり、
足利直義、新井図書允、沼田平八郎等の名と共に
古文書戦記に登場する城です。
城跡は戦国時代の平城として貴重な遺構であり、
現在は城址公園として整備されています。

女渕城跡公園
「おなぶち城跡公園」として整備され、
駐車場、多目的広場、東屋、水飲み場、
トイレなどが完備されています。
「渕」という字が表すとおりに、
最大幅90mにもなる水濠によって囲まれた水城です。
本丸の周囲にも堀が巡らされていますが、
堀に面した城塁はコンクリートで工事されています。





<女渕公園の看板>
おなぶち城址公園・看板

【交通アクセス】
上毛電気鉄道上毛線・新屋(あらや)駅から徒歩10分。

<地図>
青印は駐車場付近

【城の主な歴史】
沼田家の内乱(1560年頃と推定)で
放浪の身となった沼田平八郎景義が一時居城とした城です。
沼田景義は、上杉謙信が没した混乱のなか、
由良氏を頼って女淵城から出撃し、
沼田の奪還を計りましたが、
真田幸昌の計略に敗れてしまいます。

【上杉VS北条の最前線の舞台】
一時は北関東に大きな勢力を誇った山内上杉氏が
小田原北条氏に攻め込まれて群馬を追われ、
一帯が小田原北条方の勢力となっていた永禄2年(1559年)。
長尾景虎(のちの上杉謙信)は、
新潟に逃げ込んできた上杉憲政に頼られて、
失った群馬の奪回を計画しました。
翌年には厩橋城(後の前橋城)を取り戻し、
周辺の諸将の加勢を受けて南下を続け、
小田原北条氏を小田原まで追い戻します。
このとき攻略した女渕城は、
館林の赤井氏(城代は毛呂氏)に加増として
与えられたとのことです。

けれども永禄4年(1561年)、
赤井氏は上杉謙信に従わなかったために、
館林城を攻められ降参しました。
女渕城や館林城は、足利長尾氏の長尾景長の所領になり、
その家臣である新居与一長重が城代となります。
ちなみにこの新居与一長重は、
新井白石の先祖とのことです。

永禄12年(1569年)に長尾景長が没して、
足利長尾氏の家督を長尾顕長が継ぐことになります。
長尾顕長は、由良家から長尾家に婿入りした、
由良国繁の弟にあたる人物です。
乱世のなかで順調に勢力を保ち続けてきた由良氏は、
ここで足利長尾氏を血縁に加えて、
東群馬一帯では最大の勢力となっていました。
赤城山の南裾から栃木の西側にかけての一帯では、
この由良氏と足利長尾氏が連合し、
小田原北条派として行動していました。
それに対して、桐生氏と佐野氏の陣営は、
上杉謙信派として由良・長尾に対抗し、
しばしば戦を繰り広げていました。
両陣営ともに、上杉と小田原北条の動向を伺いながら、
自領で独立を保ち、時代が流れていきます。

厩橋城から膳城にかけて、
上毛電鉄と県道3号線に沿って4~5キロおきに、
上泉城、大胡城、女渕城、膳城と、横一列に並んでいます。
上杉方では厩橋(前橋)城が磐石の拠点なのに対して、
小田原北条方は金山城の由良氏の勢力が優勢であったため、
このラインで上杉・後北条の両勢力が拮抗していました。
たびたび厩橋に軍勢を率いてきた上杉謙信のみならず、
小田原北条も時には当主自らが軍を率いて、
これらの城を奪い合う戦が行われていました。

真田昌幸の策略に破れる】
女渕城はその後由良氏の管轄となり、
由良一族の傍流である矢場氏を城主に、
その娘婿・沼田景義を城代に配置しました。
沼田景義は沼田城主沼田顕泰の末子でしたが、
領主の座や上杉・北条の帰属をめぐる内紛に敗れ、
父とともに会津に敗走していました。
其の後、由良国繁の手引きで、
矢場氏に婿入りして女渕城に戻っていたのでした。
 
天正9年(1582年)、
沼田景義は、前年の天正8年に
真田昌幸の手に落ちた沼田を奪還しようと、
由良氏、矢場氏らの助けを得て挙兵しました。
沼田景義の一行が赤城山を回りこみ
旧領の沼田に進軍すると、
元の領主を慕って駆けつけた武士たちも加わり、
一大軍勢となって沼田城に迫りました。
これに対して真田昌幸は、
沼田景義の実の伯父であり、
沼田衆として真田に仕えて
城内にいた金子泰清と計略をめぐらせます。





金子泰清は城を出て、
攻めてきた沼田景義に直接面会すると
「城をあけわたし、城主として迎える」
と告げたと伝わります。
沼田景義は、伯父であり、
沼田家の家老だった金子泰清の言葉を疑うことなく、
その申し出を喜んだとのことです。
沼田景義は武装を解き
、金子泰清とともに沼田城内へ入ります。
金子泰清の配下の将たちは、
出迎えの礼を行うそぶりから、
いきなり抜刀して沼田景義に切りかかったのでした。
金子家清は間髪入れずに沼田景義の左の脇を、
三度にわたり刺し貫いたそうです。
この事件によって、
源頼朝にも従った
沼田家の嫡流は途絶えてしまいました。

その事件の翌年、
武田信玄・上杉謙信も信長も没した後の
天正10年(1583年)になると、
群馬一帯は沼田の真田氏を除いては
全域が小田原北条氏の勢力圏になります。
天正18年(1590年)、
小田原の役によって小田原北条氏が滅びると、
女渕城も開城し、廃城となったとのことでした。

【沼田景義】

沼田 景義(ぬまた かげよし)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
摩利支天の再来といわれた勇将。
沼田氏は上野国利根郡を治めた国人です。

【生誕】
天文21年(1552年)
【死没】
天正9年(1581年)2月
【別名】
平八郎

【経歴など】
庶子でしたが、父である沼田顕泰に寵愛され、
隠居の地である天神城に同行しました。
永禄12年(1569年)、
沼田顕泰による異母兄である
朝憲の殺害に端を発する沼田氏の内紛に敗れ、
父である沼田顕泰と共に家臣に追放されたと伝わります。
けれども、近年の考証によって沼田氏の内紛は
永禄4年(1561年)以前のことで、
沼田へ進出してきた小田原北条氏への対応を巡り、
旧主である上杉憲政を支持する沼田顕泰と、
小田原北条氏へ帰属しようとする
沼田朝憲らの対立だったと見られています。
この内紛には朝憲室の実家で北条方となった
厩橋城主の長野氏が介入し、
沼田顕泰は越後へ逃亡したとみられ、
沼田氏の名跡は北条方の沼田康元が継ぎました。
永禄4年(1561年)、
長尾景虎(後の上杉謙信)が上杉憲政を奉じて
沼田城へ進攻してくると沼田康元は敗れ、
沼田顕泰は上杉方で沼田衆をまとめる立場に復権しました。
けれども、沼田城は上杉の城代支配となり、
以後の沼田顕泰の動向は不明となっています。
この間、沼田景義は父である沼田顕泰と同じく
越後へ逃亡のち沼田へ復権したとみられていますが、
彼の名は「加沢記」などの後世史料以外にみられず、
その生涯ははっきりとはわかっていません。

【明確な事柄】
景義の行動で明確なのは、
由良氏方の上野女淵城主でみえることです。
沼田景義は由良国繁の援助を受け、
天正9年(1581年)2月に
旧領への復帰を目指して沼田城へ兵を進めています。
な、沼田お景義が由良方に入った時期は不詳です。
けれども、甲斐武田氏より
沼田の地を任されていた真田昌幸が
沼田氏旧臣であり沼田城将・金子泰清
(沼田景義の母方の伯父、又は祖父とされています)に
沼田景義の謀殺を命じ、沼田景義は金子泰清らに
沼田城に誘い出され城内で殺害されています。
これにより沼田氏は断絶となりました。

【沼田氏】

沼田氏(ぬまたし)は、日本の氏族。
主な流れとして次の一族が判明しています。

<相模沼田氏>
相模国足上群(足柄上郡・南足柄市)を
本領とした藤原秀郷流波多野氏一族の氏族

<上野沼田氏>
本姓不詳で上野国を本拠とした一族

<若狭沼田氏>
上野沼田氏の庶流で若狭国に土着し、
沼田祐光を出した一族。
沼田祐光の兄弟として細川藤孝正室の沼田麝香がいます。

<越中沼田氏>
藤原姓秀郷流波多野氏を称した一族

【上野沼田氏】
中世に上野国利根郡沼田(現・群馬県沼田市)周辺を領した武士の一族。
居城は沼田城。

【出自】
先祖は諸説あって不詳。
「沼田町史」によりますと、
鎌倉時代に大友氏の一族である太郎実秀
(大友能直の母方の叔父)が
沼田氏を名乗りましたが、その後、
三浦氏系の沼田氏が入り、
以後戦国時代まで続いたということです。
三浦氏系の沼田氏は、
三浦泰村の次子・景泰が宝治合戦で自害せず逃亡し、
沼田氏の祖となったということです。

このほかにも緒方氏説と山科氏説があるそうです。
前者は緒方惟秀の子・惟泰を、
後者は鎌倉氏の一族・山科景正の子・景泰を沼田氏の先祖としています。

【上野沼田氏の歴史】
「吾妻鏡」に初出するのは沼田太郎で、
文治元年(1185年)10月24日の
源頼朝随兵として登場しています。
沼田太郎は建久元年(1190年)11月にも随兵としています。
その後、沼田氏は和田合戦に参加しています。
どちらの陣営だったかは不明です。
この戦いで沼田七郎・次郎が戦死したと記載されています。
承久の乱では幕府方として参加したとあります。

「沼田市史」によりますと、
鎌倉時代後期には大友氏が沼田を支配しており、
大友一族が入っていたと見られています。
そののちに三浦氏後裔(こうえい)を自称する
沼田氏が登場しています。





【鎌倉時代以降】
鎌倉末期以降は、
沼田氏は元弘3年(1333年)、
千早城・赤坂城攻めに鎌倉方として見え、
結城合戦では沼田荘を本領とする沼田上野三郎が
上州白旗一揆の成員だったそうです。
文明3年(1471年)5月30日、
沼田彦三郎の子が足利義政から感状を得ており、
一揆構成員から独立した武家になっていたとみられています。

【室町時代~戦国時代】
享禄・天文年間には沼田中務大輔顕泰がいました。
沼田顕泰は享禄4年(1531年)に同族の発智氏と争っています。
沼田城を築城し幕岩城から移って居城としていました。
山内上杉憲政が小田原北条氏に敗れると、
沼田顕泰はこれを迎え越後国へ落ち延びさせましたが、
隠居していた沼田顕泰と
当主である弥七郎(顕泰次男または三男)との間で内紛が勃発しました。
弥七郎は北条氏側につき、
顕泰は上杉氏側で家中が分裂しました。
この内紛は、弥七郎が顕泰によって討たれ、
その顕泰も北条方の厩橋長野氏によって攻められ
越後に逃亡してしまいました。
そうして沼田領を小田原北条氏が手に入れ、
沼田氏が没落して終わりました。
沼田氏の名跡は永禄2年(1559年)8月以前に
北条綱成次男・北条康元が沼田城に入って継承しています。
けれども永禄3年(1560年)、
越後の上杉謙信が越山してくると、
沼田康元は敗れ、沼田顕泰は復権して
上杉配下で沼田衆を率いる立場になりました。
しかし要衝・沼田城は上杉謙信家中の
城代支配とされてしまいました。

【沼田氏の滅亡】
その後、沼田城は御館の乱の混乱で
小田原北条氏側に奪回され、
次いで武田勝頼配下の真田昌幸により調略されました。
一方、沼田顕泰の子・平八郎景義は
小田原北条氏方となった由良氏について
上野女淵城に復権していましたが、
天正9年(1581年)、
由良氏の支援を得て
武田方となった沼田城の奪還を図ります。
けれども、沼田景義は
真田昌幸の意を受けた金子泰清により
沼田城で謀殺されてしまい、
これによって沼田氏は滅亡しました。

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