城跡

本佐倉城~続日本100名城・国指定史跡で千葉氏の最後の拠点、下総の名族から戦国大名となった千葉氏の歴史とは?

本佐倉城




本佐倉城

本佐倉城(もとさくらじょう)は、
千葉県印旛郡酒々井町(しすいまち)本佐倉と
佐倉市大佐倉にまたがる
将門山に築かれた千葉氏後期の本拠地となった日本の城です。
文明年間(1469年-1486年)の築城で、
国の史跡に指定されています。
2017年(平成29年)4月6日、
続日本100名城」(121番)に選定されました。

本佐倉城 紹介

【スタンプ設置場所】
1.酒々井町中央公民館
<所在地>
〒285-0922 千葉県印旛郡酒々井町中央台4丁目10−1
2021年8月現在、
新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、
中央公民館は、貸館を停止しています。
従って、スタンプの受付も行っているかはわかりません。
<電話>
043-496-5321

2.京成本線大佐倉駅

【別名】
将門山城

【城郭構造】
連郭式平山城

【天守構造】
なし

【築城主】
千葉輔胤

【築城年】
文明年間か?

【主な改修者】
千葉氏、
小田原北条氏
【主な城主】
千葉氏、小笠原吉次、土井利勝

【廃城年】
元和元年(1615年)

【遺構】
空堀、土塁、虎口、郭、

【指定文化財】
国の史跡

本佐倉城 説明文

【本佐倉城の歴史】
室町時代後期に千葉宗家を倒して
家督を奪った馬加氏(まくわりし)は、
時の将軍である8代将軍の足利義政の命により
千葉実胤と千葉自胤を支援した
東常縁に討たれ滅亡しました。
また太田道灌も千葉実胤及び千葉自胤を支援し
江戸城を築城するなどしました。
けれども、馬加康胤の子(異説あり)である
千葉輔胤は、古河公方足利成氏と結んで
下総国を平定したことで宗家の地位を確保し、
文明年間に従来の亥鼻城よりも
内陸のこの地に城を築いて本拠地を移しました
なお、文明11年(1479年)に
太田道灌が千葉輔胤を攻めたときに
追い詰められた千葉輔胤の籠城先が
臼井城であったことから、
この時点ではまだ本佐倉城は
完成していなかったと推定されています。

本佐倉城 説明板など

その後、9代にわたって
戦国大名千葉氏宗家の本拠地となっていましたが、
天正18年(1590年)、
千葉氏が小田原征伐後に改易されると、
徳川氏に接収されて一旦は破却され、
代わりに城下に陣屋が設置されました。
慶長7年(1602年)12月に
5万石で松平忠輝が封じられましたが、
ひと月余後の慶長8年(1603年)2月、
信濃国川中島に移封されました。
慶長15年(1610年)、
軍事上の必要から同地に封じられた
小笠原吉次、土井利勝が
再び本佐倉城に入って
佐倉藩の藩庁が置かれました。

本佐倉城

元和元年(1615年)、
藩庁の佐倉城への移転と
一国一城制により廃城となりました。
なお、本佐倉の城下町は
酒々井宿に移設されて
成田街道の宿場町になったと
考えられています。





【城の構造】
城域は内郭と外郭に分かれています。
内郭は南方に谷が刻まれた
半島状の丘陵上に占地し、
往時は三方を湿地帯で囲まれた要害でした。
一方の外郭は内郭から繋がる
丘陵上を自然地形と空堀で
分断した広大な地積を持ち、
千葉氏の勢力が伸張したのち、
家臣団の屋敷地として整備されたと考えられています。

本佐倉城 案内図

<城山>
平成15年からの発掘調査により
主郭である城山郭では、
出入り口部である虎口から
建物群が建つ内部まで全貌が調査されました。
城主が執務や接待をする空間と考えられる主殿や
会所と推測される大型の掘立柱建物跡、
櫓跡、門跡、塀跡、庭園跡などが見つかっています。

本佐倉城 城山(下)

<城山虎口>
本佐倉城 城山 虎口

<奥ノ山>
千葉氏の氏神である妙見尊を祀る郭で
儀式や儀礼のための場所でした。
発掘調査によって
郭の西側に妙見宮と考えられる
一辺約15mの方形の基壇が見つかっています。

<大堀切>
城山と奥ノ山を分ける堀切です。
本佐倉城 大堀切

<倉跡>
古くから倉址と呼ばれている場所で、
かつて炭化した米が見つかったと伝わっています。
大きな郭で上段と中段、下段に分かれています。
上段からは大型の掘立柱建物が

広範囲に分布する事が分かりました。
また陶磁器や鍛冶道具なども
多く見つかっていることから、
倉庫だけではなく
人の生活する空間も存在していたことが
考えられています。

<Ⅳ郭>
郭の名前についての伝承はありません。
虎口と主要郭をつなぐ位置にあり大型の内升郭です。
「捨郭」に相当すると考えられています。
郭の東側に主要郭への道が通り、
大型の門が発掘調査で見つかっています。

<矢盾(復元)>
本佐倉城 矢盾(復元)

<東山>
本佐倉城の内郭への玄関口です。
2つの門と蛇行した狭い坂の通路、
内枡形の長方形の空間によって
非常に厳重に守れるよう造られています。

<東山>
東西に細長く、
この郭自体が内側の主郭「城山」を守る
巨大な防塁としての機能を
有していたと考えられています。
また、東山の真中あたりから
北側に突き出す先端には物見台があります。

<東山馬場>
搦め手口の内側に位置しています。
その名の通り馬場と考えられています。
広い面積を有しており、
2区画に分かれていることが
確認調査においては分かっていますが、
建物跡などは見つかっていません。

<東山ビョウ>
城の北側にあり、
北側に突出する2つの物見台
によって守られた広大な空間です。

<セッテイ山>
その名から「接待郭」、
またはその郭の形状
(厳重な虎口の形態・土塁無し・大規模な空堀)
から「人質郭」とも考えられています。
確認調査において、建物跡存在が分かっており、
供膳具や調理具、貯蔵具や、
他の郭ではあまり見られない
碁石、茶壷、火箸などが見つかっています。

<中池>
この場所は以前、中池と呼ばれる池と中島があり、
中島には弁天様が祀られていました。
戦国時代には城内部の
貴重な水源となっていたことと推測されます。
現在、弁天様は根古谷の館の脇にあります。





<水ノ手>
すり鉢形の郭で井戸郭としての
役割をはたしていました。
今でも水が湧き、水神様が祀られています。
中池と同じく、城の貴重な
水源だったと考えられています。
なお、私有地なので中には入らないでください。

<向根古谷>
本佐倉城の外郭の一つです。
内郭群の南側にあり、
突出した台地を2重の空堀で切断して
郭が形成されています。
虎口構造は徳川氏入封時のものと考えられています。

<荒上>
本佐倉城の外郭の一つです。
内郭群の西側にある
最大の面積を有する郭で、
700mに及ぶ長大な
空堀・土塁に囲われています。
大手口にあたる郭で
掘立柱建物跡群や空白地が交互に存在し、
家臣屋敷地や馬場施設の存在が
考えられています。

<佐倉根小屋>
本佐倉城の外郭の一つで
根小屋と呼ばれています。
内郭群の南西側に位置し
大手口にあたります。
発掘調査は行われていませんので
詳細は不明であるとのことです。

【国史跡に指定されている本佐倉城跡】
現在でも城の土塁や空堀などの遺構が
ほぼ完全な姿で遺存しています。
1998年(平成10年)9月11日に
「本佐倉城跡」の名称で、
千葉県内の城郭としては初めて
国の史跡に指定されました。
なお2019年(令和元年)9月現在、
本佐倉城以外に千葉県内の城郭で
国の史跡に指定されているのは、
館山市の稲村城と
南房総市の岡本城があります。
(「里見氏城跡 稲村城跡・岡本城跡」)

【所在地】
〒285-0926 千葉県印旛郡酒々井町本佐倉781
千葉県佐倉市大佐倉

【交通アクセス】
<電車>
京成「酒々井」駅より徒歩25分
JR「酒々井」駅より徒歩30分
京成「大佐倉」駅より徒歩15分
<車>
東関道佐倉ICより10分程度(6km)

【駐車場】
有り

本佐倉城 駐車場 トイレ

【トイレ】
男女別のトイレ有り。
とても綺麗です。

【千葉氏】

千葉氏(ちばし、ちばうじ)は、
坂東八平氏・関東八屋形の一つに数えられる
下総の豪族で、
守護大名・戦国大名となった一族です。
桓武平氏良文流。通字は「胤」です。

桓武天皇のひ孫高望王(後に平高望)は
上総介(かずさのすけ)となって関東に下向しました。
その子の国香(くにか)、良正(よしまさ)、
良兼(よしかね)、良持(よしもち)、
良文(よしぶみ)などは、
高望の所領を継承するとともに
関東各地に土着し、勢力を広げていきました。
平高望の末子とされる平良文は、
当初は、相模国村岡(現神奈川県藤沢市)
を拠点としていましたが、
平将門の乱の前後に
下総国の相馬郡
(現在の柏市、我孫子市、茨城県北相馬郡など)
を獲得し、以後この地を中心として
活躍するようになります。

【平忠常の乱】
平良文の孫である平忠常は、
香取郡東庄町の大友城などを
拠点として上総下総に
勢力をふるっていましたが、
官物の納入などをめぐる争いから、
長元元年(1028年)、
安房国司を焼き殺すという事件が起こります。
朝廷は平忠常の追討を命じますが、
平忠常は上総国の国衙を占領し、
周囲の国人たちを味方に付け、
さらに後任の安房の国司を
追放するなどして抵抗し、
反乱は長期化しました。
その後、甲斐国司源頼信に
追討が命じられると、
長元4年(1031年)、
平忠常は降伏しました。
平忠常は都に連れて行かれる途中で
この世を去りましたが、
その子孫は処罰を免れました。
平忠常の子の平常将や
孫の平常長は長い戦いで荒廃した
この地方の再開発に着手し、
房総全体に勢力を広げていきました。





【大椎権介常兼】
平忠常のひ孫である平常兼(つねかね)は、
上総国大椎の地(現緑区大椎町)
を拠点として
大椎権介(おおじいごんのすけ)と称しました。
これは後になって千葉大夫と呼ばれるようになります。
大椎は鹿島川を経由して
印旛沼・利根川に至ることができ、
村田川を利用すれば、
容易に上総国府(市原市国分寺台)
に至ることができました。
また、陸上交通については
東部の丘陵地帯を抜ければ
太平洋沿岸の匝瑳郡海上郡に至り、
西部に下れば、東京湾に面する
千葉郷に至るなど
水上交通、陸上交通の要衝の地でした。

現在、大椎集落の北側丘陵上に残る
連郭式の中世城郭は、
遺構から16世紀後半の築城と考えられており、
土気酒井氏の出城だったのでは
ないかといわれており、
平常兼が拠点とした
城(館)との関係は明らかになっていません。

【千葉への移住と千葉氏】
大椎常兼の子である平常重(つねしげ)は、
大治元年(1126年)、
大椎から千葉に移住し、
千葉介常重と称しました。
千葉介常重は長男でありながら惣領ではなく、
ここに房総平氏は千葉氏と
上総氏の2つの流れに
分かれることになりました。
さらに大椎から
下総国千葉郡にあった千葉荘へ移り、
現在の千葉市中央区亥鼻付近に
館を築いたとされています。
また下総権介となり
千葉介を名乗りました。
以降、千葉氏の惣領は
千葉介を名乗ることになるのでした。

千葉城

千葉常重が名字の庄園とした千葉庄は、
ほぼ同時期に八条院に寄進され
成立したと見られています。
千葉庄は下総国内では
最大級の庄園で、
陸海の交通の拠点でもありました。

千葉常重の所領は、
千葉庄の他に相馬郡、
立花郷(後の橘庄、香取市、香取郡東庄町)、
麻績郷(香取市)などでした。
千葉常重は継承した所領の拡充に努め、
大治5年(1130年)には
相馬郡内の所領を
伊勢神宮に寄進して
相馬御厨(そうまみくりや)を成立させ、
この永代下司権(土地の支配権)を獲得しました。
千葉常重は、千葉移住の九年後となる
保延元年(1135年)、
家督を嫡子の千葉常胤に譲りました。

【千葉常胤の活躍】
千葉常胤が家督を継承した
翌年の保延2年(1136年)、
下総国国司藤原親通(ちかみち)は
公田官物の未進(税金の滞納)を
理由に千葉常重を捕え、
相馬御厨と立花郷の割譲を要求してきました。
同時にこの事件を知った
源義朝も相馬御厨の割譲を要求してきました。

千葉常胤は一旦、
相馬御厨と立花郷を譲ることに同意し、
後で滞納分を弁済して
相馬郡司に任命されました。
また、源義朝に対しては、
主従関係を結ぶことで、
御厨の下司権を確保しました。
けれども、平治の乱(1159年)で
源義朝が平清盛に敗れると、
この所領は国に没収されてしまいました。
こうして千葉常胤は継承した相馬御厨と
橘庄の権利を全て失うこととなり、
20年余りにわたる努力は
無駄になってしまったのでした。

源頼朝と千葉常胤】
けれども、治承4年(1180年)、
源義朝の子である源頼朝が伊豆で挙兵し、
平家方との戦いに敗れて
房総に逃れてくるといち早く
これに味方する意向を示し、
さらに源頼朝に対して
鎌倉に本拠を構えることを
進言するなど鎌倉幕府の創設に
重要な役割を果たしました。
その後、源平合戦・奥州合戦などにも参戦し、
この功績で千葉常胤は失った
相馬御厨と橘庄を取り戻し、
下総国・上総国の2か国をはじめ、
東北地方、九州地方など
全国で20数カ所といわれる
広大な所領を獲得し、
千葉氏は幕府の中でも
屈指の御家人に成長しました。

【千葉六党】
なお獲得した所領は、その後、
千葉常胤の6人の子、
千葉胤正(たねまさ、千葉介)、
相馬師常(もろつね)、
武石胤盛(たねもり)、
大須賀胤信(たねのぶ)、
国分胤通(たねみち)、
東胤頼(たねより)が
それぞれ分割して受け継ぎ、
それぞれの中心となる
所領の地名を名乗りました。
これを千葉六党(ちばりくとう)といい、
惣領である千葉介を中心に
一族が強固に団結していました。





【宝治合戦と千葉氏】
ところが、千葉常胤の孫の
千葉成胤の没後、
千葉氏に幼少の当主が相次いだのに対して、
早くから兄とともに幕府に出仕していた
弟の千葉常秀の系統が
房総平氏の惣領的な地位に立つことになります。
さらにその子である千葉秀胤は
鎌倉幕府の評定衆に任じられ、
幼少の千葉氏当主である
千葉頼胤の後見としたため、
千葉氏の一族の多くも
千葉秀胤に従うことになりました。
ところが宝治合戦で、
縁戚である三浦氏に連座した
千葉秀胤は北条氏に攻め滅ぼされ、
千葉秀胤に従った房総平氏の多くも
処分されたのでした。
けれども千葉頼胤は罪を問われることなく、
名ばかりであった
千葉氏の当主としての
主導権を回復させたものの、
一族の多くを失った打撃は大きかったのでした。

三浦泰村とその一族の墓(鎌倉)

【妙見信仰と千葉氏】
千葉氏が妙見菩薩を
千葉氏宗家(千葉成胤とその子孫)および
一族の守護者であることを強調する
主張(“妙見説話”)を完成させたのは、
千葉頼胤の時代であるとする説があるとのことです。

【九州千葉氏】
千葉氏は九州の北部(今の佐賀県)に
領地を持っていました。
そのため蒙古襲来の時、
幕府の命令で千葉頼胤と千葉宗胤の親子が
元と戦うために九州へと出陣しました。
けれども、千葉頼胤は
戦いでうけた傷がもとで九州で没し、
千葉宗胤は、元が三度攻めてくる
可能性があったため九州から
離れることができませんでした。
そこで、千葉氏の本家は
弟の千葉胤宗が継ぐことになり、
ここで千葉氏は九州千葉氏と
下総千葉氏に大きく
分かれることとなりました。

【一族の分裂】
室町時代以後、
千葉一族は次第に分立や
独立することによって
衰退していきました。
やがて室町幕府の出先機関である
鎌倉府の内部において
鎌倉公方足利氏と
関東管領上杉氏の間に
内紛が生じると千葉一族も
その争いに巻き込まれて
両派に分かれて争うようになったのでした。

そして康正元年(1455年)、
筆頭家老である原氏の勢力が
千葉氏の当主より強大化します。
公方派であった千葉一族の馬加康胤や
原胤房は、上杉派であった
千葉介胤直の居城、千葉城を攻めました。
この戦いで千葉城は落城し、馬加康胤は、
多古に逃れた千葉介胤直一族を追いつめます。
千葉介胤直の子である千葉胤宣が自刃し、
千葉介胤直も自害しました。
更に千葉介胤直の弟である
千葉胤賢も討たれます。
ここに千葉氏宗家は滅亡したのでした。

【室町幕府の反撃】
これに対して室町幕府の命を受けた
太田道灌や東常縁(千葉氏支流の東氏出身)らは、
嫡流の千葉胤賢の子供である
千葉実胤と千葉自胤を擁立して下総に侵攻。
千葉氏を奪った馬加氏を滅ぼすことに成功します。
けれども、原氏をはじめとする家臣団は
古河公方の支援を受けて、
馬加康胤の庶子もしくは
千葉氏胤の曾孫にあたる
千葉(馬加)輔胤を擁立して
領国内を掌握したのでした。
その後、千葉実胤と千葉自胤は
市河城(現在の市川市市川)に入り、
市河城へは将軍足利義政によって
派遣された東常縁も合流しましたが、
古河公方足利成氏の派遣した
簗田持助らに敗れ、
康正2年(1456年)1月19日、
市河城も陥落しさらに武蔵まで
落ちのびることとなったのでした。
以後2人は扇谷上杉家の
保護を受けて馬加康胤・原胤房らに
対抗していったのでした。

江戸川

【武蔵千葉氏と下総千葉氏】
千葉胤賢と千葉輔胤の系統は
互いに千葉氏の宗家を名乗りました。
前者を武蔵千葉氏、
後者を下総千葉氏と呼称することがあります。
けれども千葉輔胤の系統(下総千葉氏)が
古河公方の支援を受けて
下総本国を掌握していったのに対して、
千葉胤賢らを支援してきた
室町幕府が古河公方との和議に
踏み切って享徳の乱による
古河公方主導の再編を黙認したため、
武蔵千葉氏が下総へ帰還する望みは失われ、
石浜城(現在の浅草)を中心とした
小領主に転落することになったのでした。
以後、下総千葉氏の当主が
千葉氏歴代当主として
系譜に記載されることになったのでした。

そして、千葉氏は本拠地を
現在の千葉市からやがて
佐倉市及び酒々井町の一帯に
移すことになったのでした。





【本佐倉城へ】
千葉介胤直一族を滅ぼした
千葉(馬加)康胤は、
千葉氏本宗を継承しましたが、
その子孫は千葉城を放棄し、
文明年間に印旛郡大佐倉に
新たな城となる本佐倉城を築き移りました。
本佐倉城は印旛沼の南岸に位置し、
印旛沼・利根川の水運を
掌握する絶好の地であり、
馬加系千葉氏が属した
古河公方とも水運で繋がっていました。

本佐倉城

【戦国時代の千葉氏】
戦国時代に入ると、
常陸国の佐竹氏、小弓公方足利義明や
安房国の里見氏の侵攻を受けるようになります。
そして北条氏康と姻戚関係を結ぶことで、
小田原北条氏の支援をもとに所領を守ります。

千葉氏内部においても、
第26代当主を継いだ千葉親胤は、
原親幹によって暗殺されてしまい、
続いて第29代当主を継いだ
千葉邦胤が天正13年(1585年)に
家臣の手で暗殺されるなどの混乱が続きました。

【千葉氏の滅亡】
その後、第1次国府台合戦、
第2次国府台合戦を経て
古河公方が衰えると
戦国時代後期には
小田原城を本拠とする
小田原北条氏に従うこととなりました。

天正18年(1590年)、
豊臣秀吉が小田原城を攻めると、
千葉氏の当主であった千葉重胤(しげたね)は
一族とともに小田原城に入城しました。
その後、小田原北条氏が
百日余の籠城の末、
豊臣秀吉に降伏すると小田原北条氏に
従った千葉氏も所領を没収され、
ここに関東の名族といわれた
千葉氏は滅亡することとなり、
約470年にわたる下総国を中心とした
房総半島北部の支配に
終止符が打たれたのでした。

【その後の千葉氏一族】
天正18年(1590年)、
戦国大名としての千葉氏は滅亡しました。
千葉重胤は徳川家康に仕えましたが、
後に浪人となりました。
他には仙台藩や一関藩に仕えた者もいました。

千葉氏一族は奥州でも活躍しました。
改姓した相馬氏や、
千葉氏からの養子を迎えたとされる
葛西氏は特に有名です。
このほか大崎氏や伊達氏に仕えた一族もあります。
けれども奥州仕置と葛西大崎一揆
九戸一揆の過程で主だった者は
相次いで戦死、あるいは一揆首謀者として
処刑、改易されました。
奥州の千葉一族も
相馬氏などを除いてこうして
歴史の表舞台から姿を消したのでした。
浪人となった一族は
仕官を求めて東日本各地へ離散していきました。
帰農した者も多く、
奥州仕置で他の没落した諸氏と同様、
奥州各地で庄屋、豪農などの
上級農民層を形成しました。

相馬氏は近世大名として明治維新を迎えています。

(千葉市:千葉氏ポータルサイトより、ほか)

千葉常胤~桓武平氏の流れをくむ千葉氏の中興の祖~鎌倉幕府成立に大きく貢献した人物です。

上総広常~房総平氏の惣領家で源義朝の郎党~平家政権の打倒よりも関東の自立を目指し殺される

三浦義村~鎌倉幕府の創設期から執権政治の確立まで仕え権謀術数に優れた策略家

石浜城跡~武蔵千葉氏の拠点の城~所在地候補は二つあります。

古河公方館跡~古河公方とは?関東における戦国時代の幕開けの存在

国府台城~下総国の大激戦の地~国府台合戦、里見氏VS小田原北条氏

北条氏康~小田原北条3代目~相模の獅子 ・関東八州にその名を轟かした猛将は戦国随一の民政家。

北条氏政~小田原北条4代目~最大の領土を築くも、生きた時代と合わなかった慎重派で愛妻家で家族思い。

比企能員の妻~渋河刑部丞兼忠の娘・「鎌倉殿の13人」では道、二つの渋河氏、比企氏と源氏の深い関係と安房国

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