【大椎城】
大椎城(おおじじょう、おおじいじょう)は、
千葉県千葉市緑区大椎町にあった日本の城です。
あすみが丘のワンハンドレッドヒルズに
隣接する場所にあり、
現在は私有地となっています。
【城郭構造】
連郭式平山城
【築城主】
平忠常?
または土気酒井氏?
【築城年】
平安時代中期?、
または16世紀半ば?
【主な城主】
千葉氏、土気酒井氏
【廃城年】
天正18年(1590年)か?
【遺構】
曲輪、土塁、空堀
【城の概要】
【千葉氏】
大椎城は平安時代中期、
平高望の曾孫にあたる平忠常により築かれ、
その後長らく千葉氏を称した
忠常の後裔が拠ったとされています。
一方、忠常の館に関する伝承は
東庄町にもあり、
「千葉実録」はその2代後となる
平常長が前九年の役の功で
大椎の地を賜り、
次の常兼の代に大友城から
大椎城に移ったように記しているとのことです。
大治元年(1126年)、
千葉常重が千葉市中心部の
千葉城に本拠を移しましたが、
その後も千葉氏の一族が入りました。
南側の城下集落には、
代々名主を務めた家があり、
千葉神社へ移されたとされる
妙見の祠があるとのことです。
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【土気酒井氏】
ただし、現在残る遺構は、
後世のものであり、
大椎から千葉氏が興ったという話は、
史実ではなく伝承の域を
出ないという指摘もあるとのことです。
現状では、土気酒井氏により
16世紀半ばに築城された
城郭ではないかと考えられているそうです。
15世紀中頃になると、酒井氏の勢力が伸張し、
大椎城は士気酒井氏の拠る所となりました。
天正18年(1590年)、
小田原征伐により酒井氏が滅亡し
廃城となったとされています。
【構造】
大椎城は村田川支流により
刻まれた谷に挟まれた
半島状台地の先端に占地し、
湧水により尾根の繋がりも
開析されている
天然の要害となっています。
城域は、この独立性の高い
台地上全体に渡っています。
城域の内部は四つの郭が
直線的に並ぶ構造となっております。
それぞれの郭の間に空堀が掘られています。
一の郭は内部が折れを伴う空堀で
更に区画されており、
戦国時代の特徴を
示しているとのことです。
また、一の郭の西側斜面には
複数の郭が存在し、
一の郭直下の郭は両谷に向けた
突出部を構成するとともに、
南側に廻り帯郭を形成しています。
城域の各郭は削平が甘く臨時性が強いです。
現在城域の南側に
大椎集落が形成されていますが、
この南麓に居館が
設けられていたものと
考えられています。
【遺構及び考古資料】
山頂部に土塁及び堀が残っています。
【所在地】
〒267-0065 千葉県千葉市緑区大椎町851
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