【上総・一宮城】
一宮城(いちのみやじょう)は、
千葉県(上総国)長生郡一宮町城ノ内に
存在した日本の城です。
一宮町指定史跡。通称「城山」。
中世末期に一旦廃城となりましたが、
江戸時代後期に
一宮藩の陣屋として再建され、
一宮陣屋(いちのみやじんや)と称しました。
【城郭構造】
平山城
【主な改修者】
里見義弘
【主な城主】
正木氏、鶴見氏
【廃城年】
文禄年間(1593年~1596年)
※陣屋は明治4年(1871年)
【遺構】
曲輪
【指定文化財】
町の史跡
【城の概要】
天然の地形を利用し
標高約30mの台地上に
築かれた平山城(要害)で、
築城時期は南北朝時代から
16世紀とされていますが、
詳細は不明です。
【戦国時代の攻防】
戦国時代の天文年間
(1532年~1555年)には、
里見氏に帰属していた
正木氏の支配下にありました。
第二次国府台合戦後、
正木氏は分裂して
北条氏に内通した正木時忠は、
里見氏方の正木憲時方にあった
一宮城を攻略して
嫡男の正木時通を置きました。
永禄年間(1558年~1570年)には
里見氏・北条氏、そして分裂した
正木氏が絡んで一宮城を巡る
攻防戦が度々行われて、
城下にあった玉前神社(上総国一宮)
の宮司が社宝を持ち出して
隣国の下総国に一時疎開したと
伝えられています。
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【戦国時代後期と廃城へ】
後に正木時忠父子が
里見氏に復帰したため、
再び憲時の支配下に置かれました。
けれども、
後に正木憲時が
里見義頼によって討たれると、
里見氏が城代を直接派遣して
同城を支配したとされていますが、
この時期の経緯は不詳であり、
小田原征伐当時同城を支配していた
鶴見氏は本多忠勝の攻撃を受けて
没落したとされています。
その後、暫くは新領主となった
徳川氏の城代が設置されていたとも
言われていますが、
遅くても文禄年間
(1593年~1596年)までには
廃城となった模様です。
【一宮藩と明治維新】
その後、一宮は寛政8年(1796年)に、
伊勢八田藩の飛領とされました。
文政9年(1826年)、
八田藩主加納久儔が、
江戸湾警備の都合から、
飛領であった上総に藩庁移転を決定し、
その際に荒廃して
土塁のみが残っていた
一宮城の跡地に陣屋を設置して
周辺を整備しました。
以後、明治まで一宮藩の藩庁として
機能しましたが、
明治4年(1871年)の
廃藩置県によって再度廃城となりました。
【発掘調査】
昭和58年(1983年)から
翌年にかけて武道館建設のために
城跡の一部で発掘調査が行われ、
厚い焼土層の中から
中国製陶器や武器類などが出土しています。
出土品は町指定の有形文化財です。
【交通アクセス】
JR外房線「上総一ノ宮」駅 徒歩10分程度。
【所在地】
〒299-4301 千葉県長生郡一宮町一宮
大多喜城~築城は真里谷信清、徳川四天王の本多忠勝が城主となり今日の大多喜城となります。
万喜城~築城は上総土岐氏と伝えられており、本多忠勝が一時居城していました。
上総・笹子城~築城は室町時代に真里谷信興によって築かれ、真里谷武田氏の内紛に記されているとのことです。
真里谷城~武田信長が築城し真里谷武田氏の本拠地となった城と云われています。
勝浦城~築城は真里谷氏、後に正木氏の城で、最後の城主はお万と三浦為春の父の正木頼忠。
西願寺 阿弥陀堂(千葉県)~金色に輝いていたことから光堂の別名を持つ重文のお堂です。
平蔵城~築城は室町期に土橋氏による築城とのこと、のちに阿弥陀堂で有名な西願寺も建立しました。
大柳館~代々の上総氏居館との伝承あり、上総広常死去後は千葉氏が拝領しました。
富喜楽城~前方後円墳を取り込んだお城、すぐ近くには大柳館があり、古墳時代から人々の営みがありました。
成東城~築城は応永年間で千葉氏家臣の印東氏、比較的遺構が残っているとのことです。
坂田城~千葉氏によって築城され、周辺には支城が複数あり当時は要害の地でした。
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大友城~千葉氏の祖である平良文の居城と伝わり、平常持、常将、常長、常兼が居城したとのことです。
森山城~鎌倉時代初期に千葉常胤の子である東胤頼が築城し東氏が居城、常陸国との水運の要地でした。
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勝見城~上総広常の弟の金田頼次が築城と伝えられており、戦国期は庁南武田氏の所領となりました。
本納城~里見氏の支城から士気酒井氏が統治した中世山城の遺構が多くある貴重な城址。
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