城跡

真里谷城~武田信長が築城し真里谷武田氏の本拠地となった城と云われています。

真里谷城跡 入口



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【真里谷城】

 
真里谷城(まりやつじょう/まりがやつじょう)は、
現在の千葉県木更津市真里谷にあった
日本の城(山城)です。

【本丸跡】
「千畳敷」

【別名】
真地野城

【城郭構造】
丘城

【天守構造】
不明

【築城主】
武田信長

【築城年】
康正2年(1456年)

【主な改修者】
なし

【主な城主】
上総武田氏、真里谷氏

【廃城年】
天正18年(1590年)

【遺構】
曲輪、堀切、虎口、土塁

【概要】
真里谷城址は房総丘陵の
山中の周囲の峰々と比較しても
高い位置(海抜161メートル)にあり、
現在、木更津市立少年自然の家
(キャンプ場)として利用されています。

上総武田氏の祖である
武田信長が築城したとされており、
真里谷城と庁南城(長南町)を
拠点として上総国一帯に勢力を広げ、
真里谷武田氏の政治および
軍事的拠点としての役割を果たしましたが、
天正18年(1590年)の
小田原征伐の際に廃城となりました。

【真里谷城の歴史】
康正2年(1456年)当時の上総国は
上杉政憲の支配地であったとされ、
これを敵視する古河公方足利成氏
命を受けた武田信長が上総国に進出します。
武田信長は上総国進出の足がかりとして
真里谷城と庁南城と併せて築城しました。
上総武田氏は真里谷城と
庁南城を本拠地とし、
下総国に対する備えとして
椎津城、佐是城を、
小櫃川流域支配のために
中尾城、笹子城、久留里城
南部の里見氏に対する備えとして
佐貫城、造海城といった支城を拡げていき、
上総経営に着手していきます。




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【真里谷姓に改める】
その後、武田信長の孫の中でも
真里谷城に本拠地を構える
武田信興から姓を「真里谷」に改めます。
真里谷氏は真里谷信興から信勝、
信清の3代の間に最盛期を迎え、
真里谷信清(入道恕鑑)の代には
対立する原氏が拠る小弓城を攻略し、
足利義明を迎えて(小弓公方)、
真里谷信清自身は「房総管領」を
称するようになりました。

【内争の勃発】
真里谷信興から数えて
4代目真里谷信隆の代に
異母弟真里谷信応との間で内争が発生しました。
真里谷信隆の父である真里谷信清から
家督を継いだのは庶子の真里谷信隆でしたが、
それからまもなく真里谷信清の正室が
信応を生んだことにより家臣を巻き込んだ
後継者問題が発生します。
「嫡子である信応が家督を
継ぐのが正当である」と考えた
信応派の家臣は足利義明、
一族の有力者である
真里谷全方の支持を得て、
信隆から家督を奪う事に成功し、
真里谷城に入城します。
家督を奪われた真里谷信隆は
北条氏綱庇護の下、椎津城に逃れた後、
武蔵国金沢に逃れました。

【信応の失脚】
天分7年(1538年)の
第一次国府台合戦の結果、
小弓公方方は敗北したことにより
信応は失脚し信隆がふたたび
真里谷氏当主に返り咲きましたが、
一族の争乱を収める事が出来ず
北条氏に臣従するような状況となり、
真里谷氏は上総地方の支配力を失います。
この一連の事件を契機に
真里谷氏の拠点が真里谷城から
椎津城に移ったとされています。

【上総国支配からの撤退】
以降、上総国は小田原北条氏と
里見氏の係争地となるのでした。

【廃城】
天正18年(1590年)
小田原征伐にて真里谷城は
豊臣勢に攻められ落城し、
廃城となりました。

【真里谷城の構造】
【城の地理地形】
真里谷城址は房総丘陵のほぼ中央、
小櫃川支流の武田川上流域にあり、
JR馬来田駅より南東方向へ
約5キロメートルほどの位置に存在しています。
城址周辺は、山々が連なっており
まさに天然の要塞といった様子が伺えます。
けれどもその場所は山間部にあって、
支配対象となりうる集落を
形成するような平坦な土地が無く、
農作物の生産拠点となる
小櫃川や養老川流域からも外れており、
その上交通の要所を抑えておらず、
鎌倉街道など街道から外れた
場所である事が確認できます。




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【現代でも「圏外」です】
・・・現代でも然り、です。
山間でしかも携帯電話のアンテナも
「圏外」となってしまった地域です。
さらに、「キャンプ場」は閉まっており、
中に入ることができませんでした。

【現代でも不便なところに築城した理由】
そのような辺鄙な場所に真里谷城を
築城した理由として、
築城当時の武田氏の
状況によるものと考えられています。
武田氏は敵対する千葉氏とは異なり、
古くからこの土地を支配していたのではなく
外部からの侵略者という立場がありました。
外部だけでなく地元の豪族の動向にも
気を配る必要があったのです。
その事から常に内外からの
襲撃に備える必要性があり、
転じて敵の侵攻にも優位に
働いてしまう交通の要所に
拠点を置く事よりも敢えて
平野部からそれなりに
奥にある山間部に拠点を置き、
外部からの侵攻に備えたのだろうと
考えられています。
また、この場所は
小櫃川と養老川の両川流域の
中間地点で小櫃川流域には
約3キロメートル、
養老川流域には
約4.4キロメートルの位置にあり、
必要に応じてこれら生産拠点への
進出が可能であるとのことです。
また、武田氏のもう一つの拠点である
庁南城とは約12キロメートルの距離です。

真里谷城跡 入口

上総武田氏は上総国の
ほぼ中間地点に当たる
この地に拠点を置き、
支城との連携を密にする事で
不測の事態にいつでも
対応できるような
領土経営を行ったと考えられています。

【別の城説】
ただし、この真里谷城が
武田氏の拠点であった真里谷城とは
別の城であるとする見解があるとのことです。
その説によりますと、
「快元僧都記」に登場する
真里谷氏の内紛の際に
信隆派が築かれた
「新地」の城であるとして、
より小櫃川に近い要害城を
武田氏の真里谷城に比定する説があるそうです。

【城の構造】
真里谷城の構造は、
房総丘陵の尾根上に
築かれた丘陵城郭で、
中世日本で見られる山城の特徴を持っています。
日本国内が戦国時代に入るより
前の時代の関東争乱期に築城され、
戦国末期に登場する城と比較すると
古いタイプの城郭となります。
城の規模は東西400m、
南北700m程の規模で、
縄張は多郭雑形形式で
最南部に主郭があり、
主郭から北西方向の尾根上に
曲輪群が二の郭、三の郭、四の郭と
展開されているそうです。

主郭は城の最南部に位置し、
通称「千畳敷」とも呼ばれる
詰の曲輪と城山神社社地を主とし、
その周囲を腰曲輪で囲んだ
曲輪群で構成されているそうです。
千畳敷は主郭の中心位置にあたり、
長方形型の東西50m、
南北70m程度の広さの平坦な曲輪で、
土塁で囲って防御性が高められています。
特に東側には約7m程の高さの
大土塁が設置されています。
主郭北の土塁の下に城山神社が鎮座しています。




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二の郭は主尾根から南西方向に
張り出した支尾根上に設けられており、
主郭と二の郭は大堀切で隔てられています。
さらに二の郭は堀切によって
北東と南西の2つの曲輪に分断されています。
この堀切は三の郭と大堀切とを結ぶ
堀底道として使用されていたと考えられており、
ここに主郭に入る手前の防御施設として
木戸口を設置していたと考えられているとのことです。

三の郭は主尾根から西南西方向に
張り出した支尾根上に設けられ、
二の郭と三の郭、三の郭と四の郭との間は
支谷で区切られています。
三の郭は四の郭との中間にある支谷を登る
大手道を防御する役割を有しています。
四の郭は城址の北端に位置し、
出郭的なものであったと考えられています。

【所在地】
〒292-0201 千葉県木更津市真里谷5439

キャンプ場が閉まっていたので、
中に入ることができませんでした。
この辺りは、携帯電話の電波が「圏外」でした。
(docomo)

上総・笹子城~築城は室町時代に真里谷信興によって築かれ、真里谷武田氏の内紛に記されているとのことです。

大多喜城~築城は真里谷信清、徳川四天王の本多忠勝が城主となり今日の大多喜城となります。

峰上城~真里谷氏が築いた歴戦の城で登城するには高難度、七つ堀切が有名です。

造海城~真里谷氏が築城、里見水軍の拠点として活用、灯籠坂大師の切通しトンネルは必見です。

国府台城~下総国の大激戦の地~国府台合戦、里見氏VS小田原北条氏

北条氏綱~小田原北条2代目~北条氏を名乗り、小田原北条氏の礎を築き、先進的な領国経営をした当主。

勝浦城~築城は真里谷氏、後に正木氏の城で、最後の城主はお万と三浦為春の父の正木頼忠。

古河公方館跡~古河公方とは?関東における戦国時代の幕開けの存在

西願寺 阿弥陀堂(千葉県)~金色に輝いていたことから光堂の別名を持つ重文のお堂です。

平蔵城~築城は室町期に土橋氏による築城とのこと、のちに阿弥陀堂で有名な西願寺も建立しました。

大柳館~代々の上総氏居館との伝承あり、上総広常死去後は千葉氏が拝領しました。

富喜楽城~前方後円墳を取り込んだお城、すぐ近くには大柳館があり、古墳時代から人々の営みがありました。

成東城~築城は応永年間で千葉氏家臣の印東氏、比較的遺構が残っているとのことです。

坂田城~千葉氏によって築城され、周辺には支城が複数あり当時は要害の地でした。

桜井城~千葉常胤の六男・東胤頼の最初の居城と伝わる城跡で廃城は江戸時代初期でした。

大友城~千葉氏の祖である平良文の居城と伝わり、平常持、常将、常長、常兼が居城したとのことです。

森山城~鎌倉時代初期に千葉常胤の子である東胤頼が築城し東氏が居城、常陸国との水運の要地でした。

小見川城~千葉氏の一族である粟飯原氏の居城、現在は小見川城山公園となっています。

勝見城~上総広常の弟の金田頼次が築城と伝えられており、戦国期は庁南武田氏の所領となりました。

一宮城(上総国)~築城は南北朝との伝承で戦国期には正木氏の支配下でした。

本納城~里見氏の支城から士気酒井氏が統治した中世山城の遺構が多くある貴重な城址。

大椎城~築城主と築城時期は二通りあり、平安中期の千葉氏と室町期の士気酒井氏となります。

東金城~上総酒井氏の祖とされる酒井定隆が築城し三男の酒井隆敏が継ぎました。

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