城跡

越生館(越生神社)と高取山城~武蔵七党の一つ児玉党の一族であった越生氏が築城。 

越生氏館と高取城



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【越生館(越生神社)】

越生神社は、入間郡越生町越生にある神社です。
越生神社の創建年代等は不詳ですが、
武蔵七党児玉党の一族である
越生氏が高取山に居館を構えた際に
鎮守として文治年間(1185年⇒1190年)に
琴平社として創建したといいます。
平時の居館(越生氏館)は
現在の越生神社の位置にあった模様です。

越生神社と高取城跡 説明

明治42年(1909年)になって
大字越生字町に鎮座していた村社八幡神社、
その境内社日吉神社、
大字黒岩字堂前の村社八坂神社、
大字越生字町の無格社稲荷社及び八坂社、
大字越生字岡崎の無格社稲荷神社、
大字越生字稲荷の無格社稲荷社、
大字越生字関ノ上の無格社稲荷社の八社を合祀、
社号を越生神社と改めて
高取山麓の当地に遷座したといいます。

越生神社

なお越生氏館は、
もう少し法恩寺寄りだったのではないか?
との地元の方の情報があるようです。
「絹会館」の一角といわれています。
(〒350-0416 埼玉県入間郡越生町越生717)

【ご祭神】
大物主命

【相殿】
誉田別命・大山咋命・素盞嗚命・倉稲魂命

【境内社】
日吉神社、稲荷神社

【祭日】
越生まつり:毎年七月の中・下旬

越生神社境内

【所在地】
〒350-0416 埼玉県入間郡越生町越生1015

【高取山城】 
高取山城は武蔵七党のひとつ、
児玉党から派生した越生氏の
詰め城または物見台であると
考えられています。
平時の居館(越生氏館)は
現在の越生神社の位置にあったようです。

<越生子ノ権現>
越生子ノ権現

<越生子ノ権現・説明>
越生子ノ権現・説明

越生氏は源頼朝に従軍し、
越生一帯の地頭に
任じられたことから
この地に居を構えました。
南北朝時代には
越生四郎左衛門が
南朝方の北畠顕家
討ち取る手柄をあげました。
現在城址には空堀や土塁などの
遺構が残っており、
遺構の状態から室町後期から
戦国時代まで機能していたと
推定されますが、詳細は不明です。

高取山城(遠景)

【縄張形態】
山城

【標高(比高)】
170m(80m)

【築城主】
越生氏

【築城年】
鎌倉時代

【主な城主】
越生四郎左衛門

【遺構】
曲輪、土塁、空堀、竪堀




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【交通アクセス】
(電車)
JR八高線・東武越生線
「越生」駅から徒歩約10分

(車)
関越自動車道「坂戸西スマートIC」から約30分
関越自動車道「鶴ヶ島」ICから約35分

【駐車場】
越生神社に若干のスペースあり

【児玉党】

児玉党(こだまとう)は、
平安時代後期から鎌倉時代にかけて
武蔵国で割拠した武士団の一つです。
主に武蔵国最北端域全域
(現在の埼玉県本庄市・児玉郡付近)
を中心に入西・秩父・上野国辺りまで
拠点を置いていました。

【概要】
武蔵七党の一つとして
数えられる児玉党は
諸々の武士団の中では
最大勢力の集団を形成していました。
本宗家の家紋(紋章)は、
軍配団扇紋ですが、
随身・随兵して行くことで
諸氏による派生紋・続葉紋が生まれました。
その後、時代の流れと共に
各地へ散らばっていきます。
児玉党をはじめとする
武蔵七党の各武士団・諸氏族は
蒙古襲来(元寇)に備えるため
鎌倉幕府の命により
西方遠くは、安芸国・九州
(最西は、小代氏の肥後国・野原荘)まで及び
その防備につくため下向し土着していきました。

【始祖】
祖は、藤原北家流・藤原伊周の
家司だった有道惟能が
藤原伊周の失脚により
武蔵国に下向し、
その子息の有道惟行が
神流川の中流部にあった
阿久原牧を管理し、
ここに居住して
児玉党の祖となった有道氏です。
また「有」とは、
有道氏の略称として伝わります。
子孫の多くは神流川の扇状地に広がって、
猪俣党と共に児玉の条里地域を分けていました。
牧に発し、子孫が条里地域に広がっています。

【児玉党の本宗家】
初めは児玉氏(平安時代後期から末期)、
次に庄氏(平安時代末期から鎌倉時代初期)、
そのあとを本庄氏
(鎌倉時代前期から室町時代)が継ぎました。
この3氏族の内、庄氏は戦国時代の
備中国で華々しい活躍をしました。
また、本庄氏は東国における
戦国時代の遠因となった五十子の戦い、
その最前線地に立つこととなりました。

【本拠地の移り変わり】
児玉(遠峰)氏は
児玉郡の阿久原牧を
運営しながら河内庄(河内村)を
本拠地とていました。
庄氏の時代となると、
北方へ移り、
児玉庄(栗崎村)を本拠地としました。
本庄氏は北堀村を
拠点としながらも
児玉庄を引き継いだと
考えられています。




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【規模と存続の長さ】
集団の規模が大きかったために
滅びにくかったとこともあり、
負け戦も少なくはなかったのでした。
最も、他の武蔵国の
中小武士団と比較すると、
長続きしたのも事実でした。

同じく武蔵七党の一つであった
横山党は建暦3年(1213年)の
和田合戦で、歴史の表舞台から消えています。
横山党本拠地であった横山荘は
大江広元に与えられました。

が、南北朝以降は弱体化し、
党の本宗家たる本庄氏も
小田原征伐で没落し、
事実上解体しています。
弱体化の遠因は
南朝廷側についたことと、
本庄氏の拠点が
武蔵国北部の国境付近、台地上であり、
戦国時代ではその地理上、
激戦区の一つと化してしまったことが
挙げられます。

金子家忠~大剛勇の強者として活躍した武蔵七党・村山党の金子一族で入間に墓と屋敷跡があります。

武蔵・村山城~福正寺の境内は武蔵七党・村山党の城跡・推定地、最後の当主村山土佐守義光。

毛呂山城跡(毛呂氏館跡)と毛呂一族の墓~源頼朝に仕えた在地領主で、戦国時代まで存続しました。

中山家範館~武蔵七党の丹党、中山家範は八王子城で戦死、子の中山信吉は水戸藩附家老に出世。

真下城(上野国)~平将門伝説がありますが、確定しているのは天文年間に児玉党系統の真下氏が築城したことです。

花園城~築城は平安末期、猪俣党の一族で山内上杉氏の重臣を代々務めた藤田氏の居城です。

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