平安時代

那須神田城~那須氏最初期の居城であり、那須与一宗隆の生誕の地とされています。

那須神田城



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【那須神田城】

 
那須神田城は源義経に従い、
屋島合戦で扇の的を射抜いた
弓の名人として知られる
那須与一宗隆の生誕の地とされる
城(居館)です。
那須氏の祖とされる
首藤権守貞信によって築かれた、
那須氏最初期の居城で、
6代・那須宗資のときに
稲積城を築いて移りました。
この宗資の子にあたる
7代である那須資隆が与一の父親です。
現在城址は「那須神田城趾公園」として
整備されており、
土塁や空堀などの遺構が
良好な状態で残っているとのことです。

【構造について】
城郭は単郭の平城で郭内は
南北117m、東西66mで、
その外側を幅10m高さ5mの土塁で
囲まれています。
さらにその外側に幅10mの水堀によって
囲まれていました。
保存状態も平安時代末期に
築城された武士の館として極めて良好であり
土塁や水堀の一部、大手門の跡などが
良好に見ることが出来るとのことです。
那須神田城は中世の平城の遺構として
大変貴重な事から
昭和55年(1980)に
国指定史跡に指定されています。
那須神田城

【輪構成】
単郭式

【縄張形態】
居館(平城)

【築城主】
藤原資家

【築城年】
天治2年(1125年)

【主な城主】
須藤氏、那須氏

【遺構】
曲輪、土塁、空堀、水堀

【指定文化財】
国史跡

【再建造物】
石碑、説明板

【交通アクセス】
(電車)
JR宇都宮線「西那須野」駅東口から
関東自動車バスに乗り
G90 西那須野駅東口・馬頭車庫「小川中学校入口」
バス停下車、徒歩約20分

(車)
東北自動車道・矢板ICから約30分

<駐車場>
那須神田城趾公園駐車場、
とありますが
駐車場を見付けることが
できませんでした。
仕方なく道路に停車して
城の説明板のみ撮影しました。

※荒れているとの情報あり。
実際に公園?どこ?という状態でした。

城の案内板が風化して読めず、
しかも倒れかけて横に置いてあり、
案内板の役目を果たしていませんでした。
国の史跡であるのに非常に残念でした。




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晩秋から冬季、早春で積雪のない時に
訪れるのがよいかもしれません。

【所在地】
〒324-0502 栃木県那須郡那珂川町三輪13

【藤原 資家】

藤原 資家(ふじわら の すけいえ)は、
平安時代後期の武将。那須氏の祖とされています。
藤原北家藤原道長の後裔とされています。
藤原道長の六男で歌人として著名な
藤原長家(母は源明子、後に源倫子の養子)の孫となります。

藤原道家(下野守、従五位下)の子として
誕生しました。

陸奥国白河郡八溝山に潜伏していた
「岩獄丸」という賊を征伐する際に、
資家は三和神社に戦勝を
祈願したとされています。
その後、賊を討った功により、
下野国那須郡を賜り同地に下向し、
須藤権守貞信と称したとのことです。

築地館の完成を見ずに、
天治2年(1125年)頃に
神田城を築城し、居城としました。
資家以降、代々土着したということです。

【那須氏】

那須氏(なすし)は、
武家・士族だった日本の氏族のひとつです。
下野国那須郡を本貫とします。
治承・寿永の乱
源義経軍に加わって
屋島の戦いで活躍した
那須与一で著名です。
鎌倉時代以降
烏山の那須氏を宗家として
支流を那須衆として束ね、
戦国時代まで下野東北部を統治しました。
豊臣秀吉の関東平定で除封され、
関ヶ原の戦い後には
小大名の那須藩主となりましたが、
烏山藩主時代の
貞享4年(1687年)に
改易されました。
その後交代寄合として
わずかに家名を残し、
維新後士族に列しました。

【出自】
藤原北家の後裔(こうえい)を称し、
各種系図によりますと
藤原道長の6男・藤原長家の
孫資家(貞信)を祖とし、
元は須藤氏を称していましたが、
那須資隆(太郎)の時、
那須氏を称したとされています。

一般には屋島の戦いで
扇の的を射落とした
那須与一(資隆の子)で知られていますが、
「吾妻鏡」によって明確に
存在が確認されるのは
鎌倉時代初期の那須光資からです。
与一の存在も含めそれ以前の系図や
事跡・伝承には謎の部分も多く、
出自は必ずしも
明らかではないとのことですが、
阿倍(安倍)氏の一族で
那須国造家である
那須氏(姓は直)の
後裔とする説があるとのことです。




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【那須氏のあゆみ】
鎌倉幕府成立後は御家人となりました。
室町時代には最盛期を迎え、
結城氏や佐竹氏と並んで、
関東八屋形のひとつに数えられています。
けれども15世紀前半に
上那須家と下那須家の二つに
分裂して衰退したとされています。
その後上那須家は室町幕府を、
下那須家は鎌倉公方古河公方を頼って
勢力争いを繰り返します。
永正11年(1514年)、
上那須家が内紛により滅亡し、
下那須家の那須資房が
那須氏を統一しますが、
その後は宇都宮氏や
佐竹氏との抗争に明け暮れます。
天正18年(1590年)、
那須資晴が豊臣秀吉の
小田原征伐に遅参したため
所領を没収されてしまいますが
家臣・大田原晴清の陳謝で
資晴の子・那須資景に5千石を宛てがわれ、
かろうじて改易は免れたのでした。

関ヶ原の戦いでは東軍に属しました。
江戸時代には下野那須藩1万4千石の
大名となりました。
3代藩主那須資祗の時、
2万石に加増され同下野国烏山藩に転封。
けれどもその養子那須資徳が
お家騒動(烏山騒動)により改易され、
以後1000石の交代寄合として
那須資穀の代で明治維新を迎えました。
2023年現在、現当主の方がいらっしゃいます。

烏山城~下那須氏が築城した北関東有数の巨大城郭で国の史跡、蛇姫伝説があります。

早乙女坂古戦場~那須氏と宇都宮氏が争い那須氏が勝利した古戦場跡です。

古河公方館跡~古河公方の存在とは?関東における戦国時代の幕開けの存在でした。

源義経~戦略家且つ戦術家であった若き天才~その悲運な生き様はやがて伝説となった。

藤原道長~初めは目立たずも後に政権を掌握、「一家立三后」をなし「この世をば わが世とぞ思ふ」と詠む。

源明子(源高明の娘)~藤原道長の妾妻で源俊賢の異母妹、明子の家系はやがて五摂家に繋がっていくのです。

白旗城(本城山)~「白旗」の地名は源頼義の前九年の役の戦揃えが由来、築城者の大関氏について。

黒羽城~大関高増が戦国期に築城し、黒羽藩として明治まで存続、松尾芭蕉も城下に滞在しました。

大田原城~武蔵七党・丹党の一族である大田原氏が築城、326年間外様城主大名として存続。

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