平安時代

藤原道長~初めは目立たずも後に政権を掌握、「一家立三后」をなし「この世をば わが世とぞ思ふ」と詠む。

内裏雛



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藤原道長

藤原 道長(ふじわら の みちなが、康保3年
〈966年〉- 万寿4年12月4日
〈1028年1月3日〉)は、
平安時代中期の公卿。
藤原北家、摂政・関白・太政大臣
藤原兼家の五男(または四男)。
後一条天皇・後朱雀天皇・
後冷泉天皇の外祖父にあたります。

【「一家立三后」】
権力を握ると栄達しますが、
五男であり 道隆、道兼という
有力な兄がいたため、
さほど目立たない存在でした。
けれどもしかし藤原兼家の死後に
摂関となった道隆が
大酒が原因と考えられる糖尿病、
道兼が伝染病により相次いで病没します。
後に道隆嫡男・伊周との
政争に勝って左大臣として
政権を掌握しました。
一条天皇に長女の彰子を入内させ
皇后(号は中宮)となします。
次の三条天皇には
次女の妍子を入れて中宮となします。
けれども三条天皇とは
深刻な対立が生じ
天皇の眼病を理由に退位に追い込み、
彰子の生んだ後一条天皇の即位を
実現して摂政となりました。
1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り
後継体制を固めます。
後一条天皇には
三女の威子を入れて中宮となし、
「一家立三后」(一家三后)と驚嘆されました。
さらには、六女の嬉子を
後の後朱雀天皇となる
敦良親王に入侍させました。
晩年は壮大な法成寺の造営に
精力を傾けました。

【生誕】
康保3年(966年)

【死没】
万寿4年12月4日(1028年1月3日)

【官位】
従一位、摂政、太政大臣、准三后

【主君】
円融天皇⇒花山天皇⇒
一条天皇⇒三条天皇⇒
後一条天皇

【氏族】
藤原北家九条系御堂流

【父】
藤原兼家

【母】
藤原時姫

【兄弟】
道隆、超子、道綱、道綱母養女、
道兼、詮子、道義、道長、
綏子、兼俊

【妻】
鷹司殿(源倫子)(源雅信娘)、
高松殿(源高明娘)、
源簾子(源扶義娘)、
源重光娘、
儼子(藤原為光娘)、
藤原穠子

【子】
彰子、頼通、頼宗、
妍子、顕信、能信、
教通、寛子、威子、
尊子、長家、嬉子、
長信

【特記事項】
従五位下への叙爵を元服とみなす。
主君は元服時の天皇からとしている。
後一条、後朱雀、後冷泉天皇の外祖父

【生涯】
【出生から青年期】
藤原道長は康保3年(966年)、
京都に生まれたとされています。
同母の兄姉として
道隆・道兼・超子(三条天皇母)・
詮子(一条天皇母)らがいます。




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【祖父・藤原師輔について】
祖父である藤原師輔は
村上天皇の治世を右大臣として
支えた実力者でした。
娘の中宮・安子が後の冷泉天皇、
円融天皇を生んだことで
外戚として立場を強化しました。
これにより、藤原師輔の家系の九条流は
本来嫡流であるはずの
兄の藤原実頼の家系(小野宮流)よりも
優位に立つことになったのでした。

【三男であった藤原兼家】
天禄元年(970年)、
摂政・太政大臣だった
藤原実頼が死去すると藤原師輔の
長男である藤原伊尹が摂政となりますが、
2年後に急死してしまいます。
後継を次男の藤原兼通と
三男の藤原兼家が争いましたが、
結局兼通に関白が宣下されました。
藤原兼通と藤原兼家は不仲で、
藤原兼家は不遇の時期を
過ごすことになるのでした。
貞元2年(977年)に
藤原兼通は病死しますが、
死ぬ寸前に藤原兼家を
降格させることまでしていたのでした。

【藤原兼家・不遇期を脱する】
藤原兼通の最後の推挙により
小野宮流の藤原頼忠が関白となりましたが、
天元元年(979年)に
藤原頼忠は藤原兼家を
右大臣に引き上げてやり、
ようやく不遇の時期を脱したのでした。
次女の詮子を円融天皇の女御に入れ、
天元3年(980年)に
第一皇子・懐仁親王を生んだのでした。

【藤原道長、元服】
同年正月、15歳にして
従五位下に初叙しました。
その後、侍従を経て右兵衛権佐となります。

【寛和の変】
永観2年(984年)、
円融天皇は花山天皇(冷泉天皇の皇子)に譲位し、
東宮には詮子の生んだ
懐仁親王が立てられました。
藤原兼家は懐仁親王の
早期の即位を望んだため、
寛和2年(986年)6月に
藤原兼家と三男の
藤原道兼が中心となって策謀を仕組み、
花山天皇を唆して内裏から連れ出し
出家退位させてしまいます。
この事件の際に藤原道長は
天皇の失踪を関白である藤原頼忠に
報告する役割を果たしたのでした。

【藤原道長の昇進】
速やかに幼い懐仁親王が即位(一条天皇)して、
外祖父の藤原兼家は摂政に任じられました。
藤原兼家は息子らを急速に昇進させ、
藤原道長も永延元年(987年)には
従三位に叙し、左京大夫を兼ねました。
翌永延2年(988年)正月、
参議を経ずに権中納言に抜擢されました。

【藤原道長の結婚】
これより以前に、藤原道長は
左大臣・源雅信の娘である
源倫子と結婚し、永延2年(988年)には
長女である彰子が雅信の土御門殿で誕生しています。
続いて安和の変で失脚した
左大臣・源高明の娘・源明子も妻としました。

【藤原道隆の娘・定子の立后】
正暦元年(990年)正月、
正三位に叙せられました。
7月、父である藤原兼家が死去し、
長男の藤原道隆が後を継いで
関白、次いで摂政となりました。
同年10月、摂政道隆の娘である
定子が前代未聞の四后として
世の反感を買い立后。
藤原道隆は父である
藤原兼家の喪中に
立后を行ったため
藤原実資は「驚奇少なからず」
と記しているとのことです。
(「小右記」)
中宮大夫に任ぜられた藤原道長は、
喪中の件と強引な兄・藤原道隆の
やり方を良しとせず
中宮定子のもとに参らず、
世間から賞賛されました。
翌正暦2年(991年)、
権大納言、次いで正暦3年(992年)、
従二位に叙せられました。




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【藤原道隆の嫡男・伊周】
一方、藤原道隆の嫡男である藤原伊周は、
正暦3年、正三位権大納言、
正暦5年(994年)には
藤原道長を凌いで内大臣に任じられ、
父の権力への執着の現れ
として強引に後継者に
擬されていました。
(「小右記」)

【相次ぐ兄たちの死】
長徳元年(995年)4月、
都で赤斑瘡(「あかもがさ」。今でいう「はしか」)
が猛威をふるい、公卿たちも次々に死去しました。
その最中に関白藤原道隆も病に倒れますが、
これは疫病ではなく
普段の大酒が原因で藤原道隆は
天皇に後継の関白として
伊周を請いますが許されず、
病中の内覧のみが許されました。
藤原道隆が死去すると
その弟である藤原道兼に
関白宣下されましたが、
藤原道兼は就任僅か数日で
病で死去し「七日関白」と呼ばれたのでした。

【伊周と道長、どちらがふさわしいか】
「大鏡」などによると藤原伊周は自らが
関白になりたいと欲し、
一条天皇の意中も
藤原伊周にあったとのことです。
これは藤原道隆の死後、
後ろ盾を失った定子への配慮でもあり、
藤原道長の登用には
難色を示していたとのことです。
一方、藤原道長は藤原伊周が
政治を行えば天下が乱れると考え、
自らが摂関になろうとしたとのことです。

【姉・詮子の思惑と行動】
一条天皇の母后である東三条院(詮子)は
かねてより弟たちの中では
藤原道長のみに
目をかけていたため
藤原道隆や藤原伊周との関係が悪く、
また藤原道兼の死後は
弟の藤原道長が関白になるのが
道理であると藤原道長を
強く推したとのことです。
なかなか聞き入れない
一条天皇の寝所にまで
押しかけ涙を流して訴えかけ、
このために遂に天皇も
藤原道長の登用を決めたという
人事介入の逸話が伝わっています。

【藤原道長、右大臣】
道長と伊周の対立は続き、
同年7月24日(旧暦。8月22日)には
陣座で諸公卿を前に激しく口論し、
その3日後には2人の従者が
都で集団乱闘騒ぎを起こしたとのことでした。
天皇は詔して藤原道長に内覧を許し、
次いで9月に右大臣に任じ
藤原氏長者となったのでした。
左近衛大将をも兼ねたとのことです。

【長徳の変】
長徳2年(996年)正月、
藤原伊周とその弟である
藤原隆家は女性関係が原因で
花山法皇に矢を射かける事件を
引き起こしてしまいます。
また藤原伊周は「女院詮子を呪詛」、
「太元師法」を行った三つの罪で左遷。
「小右記」はこれを
「積悪の家天譴を被る」と
藤原伊周のこれまでの
所行の報いであると評しているとのことです。

【伊周・隆家、失脚】
藤原伊周は大宰権帥、
藤原隆家は出雲権守に
左遷されて失脚となりました。
なお、伊周、隆家を左遷の命が出た後も
二条宮でかくまい続けた
中宮定子は髪を切って尼となりましたが、
後に天皇の命で宮中に戻ります。
けれども出家した身で
中宮職(神事)は行えず、
世間からひややかな目を向けられるのでした。

【廟堂の第一人者】
7月には藤原道長は左大臣に昇進し
名実ともに廟堂の第一人者となります。
次席の右大臣には
藤原兼通の子の顕光が任じられましたが、
藤原顕光は当時から無能者と
軽んじられている人物だったとのこと。

【一条天皇と藤原道長】
当初、一条天皇は内覧の宣旨のみを
藤原道長に与えました。
これは藤原伊周への配慮であると同時に、
藤原道長が未だに権大納言でしかなく、
大臣の地位では無かったために
関白の資格に欠けていた事情も
あったとのことでした。
けれども直後に
右大臣・藤原氏長者に補されたにも
関わらず、藤原道長は依然として
関白に就任せず、
内覧と一上の資格を有した
右大臣(後に左大臣)の
地位に留まり続けていました。




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【関白の職権について】
関白の職権そのものには
決裁権はないとのことです。
あくまでも最高決裁権者である
天皇の後見的存在でした。
このため、天皇との
関係次第によってその権限は
左右される性質のものでした。
現に藤原道長と三条天皇とは疎遠でした。
また公式な政府の最高機関である
太政官には摂政・関白は
大臣兼任であったとしても
関与出来ない決まりでした。

【孫が天皇に即位するまでは】
藤原道長の息子はまだ若く、
大臣に就任して藤原道長の立場を
代理することはできなかったのでした。
そこで藤原道長は自らの孫が
天皇に即位して外祖父となるまでは
摂政・関白には就かず、太政官の事実上の
首席である左大臣(一上)として
公事の執行にあたると同時に
関白に近い権限を持つ内覧を
兼任することによって
最高権力を行使しようとしたとのことです。

【重い病と復帰】
長徳4年(998年)、
藤原道長は大病に陥り、
出家を天皇に願い出る程に
深刻だったとのことです。
天皇がこれを再三慰留し、
やがて平癒して政務に復帰しています。

【娘・彰子の入内】
長保元年(999年)11月、
一条天皇のもとへ長女彰子を
女御として入内させます。
その入内は盛大なもので
豪華な調度品が用意され、
その中には参議源俊賢を介して
公卿たちの和歌を募り
能書家の藤原行成が
筆を入れた四尺の屏風歌もあり、
花山法皇までもが彰子の入内のために
和歌を贈ったとのことです。
その中で唯ひとり中納言藤原実資だけは
歌を献じるのは拒んだとのことです。
実資は小野宮流(実頼の家系)の継承者で
当時では有職故実に通じた
一流の学識者で、
権勢におもねず筋を通す態度を貫いたのでした。

【彰子、中宮に】
翌長保2年(1000年)2月、
藤原道長は彰子を皇后(号は中宮)としました。
先立の后に定子がいましたが、
定子は一度出家しており
中宮職は行えず、一帝二后が成立。
先例がないことでしたが、
定子立后時の四后を先例とし、
また東三条院の後援と
蔵人頭・藤原行成の論理武装が
説得の大きな手助けとなったとのことです。

【説得するにあたっての論理】
現在の藤原氏出身の后妃は、
東三条院(藤原詮子)・
皇太后(藤原遵子)・
中宮(藤原定子)と
何れも出家しており
神事を勤めることはできません。
后位に対する納物には
神事に用いるべき
公費が含まれていますが、
神事が行われず全て
私用に費やされています。
藤原氏出身の皇后が所掌する
大原野祭について、
現在は氏長者・藤原道長が
代行していますが、
これも神の本意に叶わぬ
「神事違例」で、
藤原行成自身も
藤原氏の末葉の身として
氏の祭のことを心配しているとのこと。
諸司(神祇官・陰陽寮か)より
「神事違例」の卜占が出ている。
既に永祚年間に二后並立の前例あり。
(円融皇后・藤原遵子と一条中宮・藤原定子)。
中宮(藤原定子)は正妃ですが、
既に出家して神事を勤めず、
天皇の私恩によって
職号を止めず封戸も納めています。
従って重ねて彰子を
皇后に立て神事を
掌るようにさせるのがよいのでは?




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【藤原道長の職務・徐目の執筆】
藤原道長の首席の大臣としての
職務の中に、除目の際に
儀式を執り行って
決定した人事を
大間書に記載する執筆の
職務がありました。
けれども、藤原道長は
長保2年(998年)の
秋の除目の執筆を
病後を理由に辞退して
次席の藤原顕光を譲り、
その後も除目の際に
障りがあるとして
度々出席の辞退を
申し入れる藤原道長に対して、
一条天皇は除目への奉仕を厳命し、
どうしても不都合ならば
除目の日程の方を変えるように
命じています。
(「御堂関白記」寛弘2年正月23日条・
同4年正月26日条)。

【執筆辞退の理由と皇子誕生】
これは関白の不在という状況に
自ら積極的に政務を遂行する
意思を見せる天皇に対し、
藤原道長が不満を
抱いていた可能性が
指摘されているとのことです。
そして、不思議なことに
彰子に皇子が生まれて
以降の藤原道長は
除目の執筆を滞りなく
行うようになっているとのことでした。

【皇子誕生と道長の狂喜ぶり】
寛弘5年(1008年)9月、
入内後10年目にして彰子は
藤原道長の土御門殿において
皇子となる敦成親王を出産し、
翌年にはさらに年子の
敦良親王も生まれました。
待望の孫皇子が誕生した時の
藤原道長の狂喜ぶりは
紫式部日記」に詳しいとのことです。

【妻の官位が上】
なお、敦成親王が誕生したときに、
一条天皇は藤原道長に
従一位へ進める意向を示しましたが、
藤原道長本人は加階を辞退して
妻子や家司の叙位を求めました。
その結果、藤原道長と同じ
正二位であった妻の倫子が
先に従一位に叙され、
以降10年余りにわたって
その状態が続くことになるのでした。

【一条天皇、崩御】
寛弘8年(1011年)6月、
病床に臥した一条天皇は
東宮居貞親王(冷泉天皇の皇子)に譲位し、
剃髪出家した後に崩御しました。
一条天皇と藤原道長・彰子は
信頼関係にありました。
(「権記」)。
その一方で後世の記録で
「古事談」や「愚管抄」には、
藤原道長・彰子が
天皇の遺品を整理している際、
「王が正しい政を欲するのに、
讒臣一族が国を乱してしまう」
という天皇の手書を見つけ、
藤原道長が怒って
破り捨てたという逸話が
記載されていますが、
平安同時期の書物には
一切みられないことから、
信憑性は薄いとのことです。

【次期東宮擁立に関する記述】
同時代の記録である
藤原行成の日記「権記」には、
一条天皇が死の直前に
側近の藤原行成に
定子が生んだ
敦康親王の次期東宮擁立の
相談を行いましたが、
天皇に、藤原道長の外孫である
彰子が生んだ敦成親王の
次期東宮擁立を認めさせたという経緯や、
その一方で彰子自身も
一条天皇の意を尊重して、
定子亡き後、我が子同然に養育した
敦康親王の次期東宮擁立を
望んでいたが、父である
藤原道長がそれを差し置いて
敦成親王の立太子を
後押しした事を怨んだと言う
経緯等が記述されているとのことです。

【三条天皇との対立】
三条天皇は東宮に
4歳の敦成親王を立てました。
長和元年(1012年)1月、
三男・顕信の突然の出家に
衝撃を受けています。
同年2月、藤原道長は
東宮時代の三条天皇に
入内させていた次女の妍子を
皇后(号は中宮)としました。
当初、天皇は藤原道長に
関白就任を依頼しましたが、
藤原道長はこれを断り、
続けて内覧に留任。
藤原道長は三条天皇とも
叔父・甥の関係にありましたが、
早くに母后超子を失い
成人してから即位した天皇と
藤原道長の連帯意識は薄く、
天皇は親政を望んだとのことです。
妍子が禎子内親王を
生んだこともあり、
天皇との関係は次第に
悪化していったのでした。




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【女御娍子の立后】
天皇には妍子とは別に
東宮時代からの女御娍子
(藤原済時の娘)が
第一皇子敦明親王始め
多くの皇子女を生んでおり、
天皇は娍子も皇后(号は皇后宮)
に立てることとしたのでした。
ところが立后の儀式の日を
藤原道長は妍子の参内の日として欠席し、
諸公卿もこれにおもねって
誰も儀式に参列しようと
しなかったとのことです。
実資が病身をおして
意を決して中納言・隆家とともに
参内し儀式を取り仕切りましたが、
寂しい儀式となったとのことです。
翌年の娍子参内の行賞として
娍子の兄の通任を
叙任しようとした際に、
藤原道長は本来は
長年娍子の後見をしたのは
長兄の為任であるとして
通任を叙位しようとした
天皇の姿勢を批判して、
最終的に為任を昇進させたのでした。

【三条天皇の孤立と眼病】
三条天皇と藤原道長との確執から
政務が渋滞し、大勢は
藤原道長に有利であったとのことです。
これに対して三条天皇は
密かに実資を頼りとする意を
伝えますが、実資も物事の筋は
通しますが権勢家の
藤原道長と正面から
対抗しようとはしなかったとのことです。
孤立した天皇は長和3年(1014年)、
失明寸前の眼病にかかり、
いよいよ政務に支障が出て
これを理由に藤原道長は
しばしば譲位を迫ったとのことです。
藤原道長が敦成親王の即位だけでなく
同じ彰子の生んだ敦良親王の
東宮を望んでいるのは明らかで、
天皇は藤原道長を憎み
譲位要求に抵抗し
眼病快癒を願い、
しきりに諸寺社に
加持祈祷を命じたとのことです。

【道長に屈した三条天皇】
長和4年(1015年)10月、
譲位の圧力に対して天皇は
藤原道長に准摂政を宣下して
除目を委任し、自らは与らぬことを詔します。
11月、新造間もない内裏が
炎上する事件が起こりました。
これを理由に藤原道長はさらに強く
譲位を迫り眼病も全く治らず
三条天皇は遂に屈してしまいます。
自らの第一皇子敦明親王を
東宮とすることを条件に譲位を認めたのでした。

【後一条天皇の即位】
長和5年(1016年)正月、
三条天皇は譲位し、
東宮敦成親王が後一条天皇として
即位しました。
藤原道長は摂政の宣下を受けます。
東宮には約束通り、
敦明親王が立てられました。
けれども、敦明親王と藤原道長には
外戚関係がなく、
母の娍子の生家は後ろ盾にならず
親王の舅は右大臣顕光ですが、
人望がなくまるで頼りに
ならなかったとのことです。
この年の7月、土御門殿が火災で焼失。
諸国の受領は藤原道長の好意を得るために
1間ごとに分担して資財をもって
その再建に尽くしたとのことです。
特に伊予守であった源頼光は
建物の他に藤原道長一家に
必要な生活用品全てを献上。
受領に私邸を造らせ、
あたかも主君のように振舞う
藤原道長の様には
政敵であった藤原実資でさえ
呉の太伯の故事を引用しながら、
「当時太閤徳如帝王、世之興亡只在我心
(今の太閤(=道長)の徳は帝王のようで、
世の興亡はその思いのままである)」
と評しています。
(「小右記」寛仁2年6月20日条)
その一方で、前年に焼失した
内裏の再建は土御門殿の再建を
優先する受領たちによって
疎かにされ、実資を嘆かせています。
(「小右記」寛仁2年閏4月27日条)。

【晩年】
翌寛仁元年(1017年)3月、
藤原道長は摂政と藤原氏長者を
嫡男の藤原頼通に譲り、
後継体制を固めました。
5月に三条上皇が崩御し、
8月、敦明親王は自ら東宮辞退を申し出ます。
藤原道長は敦明親王を
准太上天皇とし(院号は小一条院)、
さらに娘の寛子を嫁させ優遇しました。
東宮には藤原道長の望み通りに
敦良親王が立てられました。
12月、従一位太政大臣に
任じられ位人臣を極めますが、
程なくこれを辞しました。
藤原道長が太政大臣に任じられたのは、
翌寛仁2年正月に行われた
後一条天皇の元服で加冠の役を
奉仕するためであるとのこと。
天皇の元服の際には
太政大臣が加冠を務める例でした。
一応、政治から退いた形になりますが
その後も摂政となった
若い藤原頼通を後見して指図しています。
藤原頼通や一上である藤原実資も
重大な案件に関しては出家後も
藤原道長に判断を仰いでいましたが、
藤原道長の意見が摂関や太政官の方針に
異論を挟んだ場合でも藤原頼通らが必ずしも
その意見には従っていなせんでした。
引退後の藤原道長は強力な影響力を
持っていたものの、
宮廷の政策決定の枠から
外れているために
在任中のような
絶対的な権力は
持っていなかったとみられています。

【一家立三后】
寛仁2年(1018年)3月、
後一条天皇が11歳になった時、
藤原道長は三女の威子を
女御として入内させ、
10月には中宮となしました。
藤原実資はその日記「小右記」に、
「一家立三后、未曾有なり」と
感嘆の言葉を記したとのことです。




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【この世をば わが世とぞ思ふ】
威子の立后の日(10月16日(11月26日))に
藤原道長の邸宅で
諸公卿を集めて祝宴が開かれ、
藤原道長は藤原実資に向かって
即興の歌「この世をば わが世とぞ思ふ 
望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば」
(「この世は 自分(道長)のために
あるようなものだ 望月(満月)のように 
何も足りないものはない」というふうに
解されているとのことです。)
を詠んだとのことです。
「小右記」、原文漢文)。
藤原実資は丁重に返歌を断り、
代わりに一同が和してこの
「名歌」を詠ずることを提案し、
公卿一同が繰り返し何度も詠ったとのことです。
この歌は藤原道長の日記
「御堂関白記」にある
この宴会についての記述の中には
記されていませんが、
藤原道長に批判的な
藤原実資の日記に書き残されており、
後世に伝えられることに
なったということです。

【出家】
寛仁3年(1019年)3月、
病となり剃髪して出家します。
半年後に東大寺で受戒しました。
法名は行観(後に行覚)。

【末娘も入侍するも早世】
寛仁5年(1021年)、
藤原道長の末女である嬉子も
将来の皇妃となるべく尚侍となり、
東宮敦良親王に入侍となりましたが、
嬉子は親仁親王を産んで
万寿2年(1025年)に早世しました。

【権力を行使して法成寺を建立】
晩年は法成寺の建立することに
心血を注ぎこみました。
造営には資財と人力が注ぎ込まれ、
諸国の受領は官へ納入を
後回しにしても、権門勢家の
藤原道長のために争って
この造営事業に奉仕したとのことです。
更に藤原道長は公卿や僧侶、
民衆に対しても役負担を命じたのでした。
藤原道長はこの造営を通じて
彼らに自らの権威を知らしめると同時に、
当時の末法思想の広がりの中で
「極楽往生」を願う彼らに
仏への結縁の機会を与えるという
硬軟両面の意図を有していたとのことです。
「栄花物語」には藤原道長の
栄耀栄華の極みとしての
法成寺の壮麗さを伝えているとのことです。
藤原道長はこの法成寺に住みましたが、
寛子・嬉子・顕信・妍子と
多くの子供たちに先立たれ、
病気がちで安らかとはいえなかったとのことです。

【死去と死因】
万寿4年12月4日(1028年1月3日)、
病没しました。
享年は62歳であったとのことです。
死の数日前から背中に腫れ物ができ、
苦しんだとされております。
病気は、癌または、持病の糖尿病が
原因の感染症ではないかと
いわれています。

【往生の様子】
死期を悟った藤原道長は、
法成寺の東の五大堂から
東橋を渡って中島、
さらに西橋を渡り、
西の九体阿弥陀堂(無量寿院)に入り
九体の阿弥陀如来の手と
自分の手とを糸で繋ぎ、
釈迦の涅槃と同様、
北枕西向きに横たわったとのことです。
僧侶たちの読経の中、
自身も念仏を口ずさみ、
西方浄土を願いながら
往生したといわれています。

【墓所は現在は不明】
藤原道長の亡骸は12月7日に
鳥辺野にて火葬に付され、
遺骨は他の藤原北家の
人々と同様に現在の京都府宇治市木幡の
「宇治陵」と称される墓地群に
葬られたとのことです。
生前の藤原道長は
一族の菩提を弔うために
現地に浄妙寺という寺院を
創建していたとのことです。
けれども浄妙寺は中世末期には廃絶し、
宇治陵も現在では一部を除いて
住宅街や茶畑と化してしまい、
藤原道長を含めた
ほとんどの人々の葬地は
不明となっているとのことです。
平等院鳳凰堂

【お墓の場所の可能性】
子供である藤原頼通が
父である藤原道長の墓参をした際に
随従した平定家の日記によりますと、
藤原道長の墓は
浄妙寺の東にあったと
記されているとのことです。
浄妙寺の跡地は現在
宇治市立木幡小学校の
敷地となっていることから、
それが正しいとすれば
小学校の東側の茶畑から
修道院の敷地に存在していた
可能性が高いとされています。
なお、茶畑から出土したとされる
青磁水注(五代もしくは北宋初期?)が
京都国立博物館に
所蔵されていますが、
その場所と水注そのものの大きさから、
これを藤原道長の
骨壺とする説もあるということです。




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【藤原北家のその後】
藤原道長は藤原北家の全盛期を築き、
摂関政治の崩壊後も彼の子孫(御堂流)のみが
摂関職を代々世襲し、
本流から五摂家と九清華のうち
三家(花山院・大炊御門・醍醐)を輩出しました。
その一方で藤原頼通の異母弟・能信は
摂関家に疎んじられた
即位前の後三条天皇をほぼ独力で庇護し、
それが摂関政治の凋落・院政へと繋
がっていったとのことです。

【御堂関白記の一部】
道長の33歳から56歳にかけての日記は
「御堂関白記」(「法成寺摂政記」)
と呼ばれており、
自筆本14巻、書写本12巻が
京都の陽明文庫に保存されています。
誤字・当て字が随所に散らばり、
罵言も喜悦の言葉も
素直に記してあるとのことです。
当時の政治や貴族の生活に関する
超一級の史料として、
昭和26年(1951年)に
国宝に指定されました。
また、2011年5月、
ユネスコの「世界の記憶」への推薦が決定しました。

【「御堂関白」の名の由来】
巨大な「法成寺」を建立しましたが、
これが「京極御堂」(きょうごくみどう)
と呼ばれたことから、
藤原道長も「御堂関白」と
称されたとのことです。

【人となり・逸話】
豪爽な性格であったとされており、
「大鏡」には次のような逸話が
残されているとのことです。

<面を踏んでやる!>
若い頃の話として父である
藤原兼家が才人である
関白頼忠の子の公任を羨み、
息子たちに「我が子たちは遠く及ばない、
(公任の)影を踏むこともできまい」
と嘆息したとか。
道隆と道兼は言葉もなく
恥ずかしそうにしていたのに対し、
道長のみは「影をば踏まで、面をやは踏まぬ。
(影などは踏まない、その面を踏んでやる)」
と答えたそうです。

<肝試しも何のその>
また花山天皇が深夜の宮殿をめぐる
肝試しを命じた際には、
同様に命ぜられた
道隆と道兼が
逃げ帰ってしまったのに対し、
道長一人大極殿まで行き、
証拠として柱を削り取ってきたということです。

<源頼光>
父である藤原兼家の葬儀の際、
藤原道長の堂々たる態度を見た
源頼光は将帥の器であると
感嘆して、
自ら従うようになったということです。

<願掛けは命中・弓射>
弓射に練達し、後に政敵となる
兄・道隆の嫡男の伊周と弓比べをし、
「道長が家より帝・后立ち給ふべきものならば、
この矢当たれ。」と言って
矢を放つと見事に命中し、
臆した伊周は外してしまいました。
続いて道長が
「摂政・関白すべきものならば、
この矢当たれ。」と言って放つと
やはり命中したとか。
道隆は喜ばず、
弓比べを止めさせたということです。
(「大鏡」)。

<光源氏のモデルかも>
文学を愛好した藤原道長は
紫式部和泉式部などの
女流文学者を庇護し、
内裏の作文会に出席するばかりでなく
自邸でも作文会や歌合を催したりしました。
源氏物語」の第一読者であり、
紫式部の局にやってきては
いつも原稿の催促をしていたと
いわれています。
最も自分をモデルとした
策略家の貴族が登場していることから
それを楽しみにしていたとも言われています。
また、主人公光源氏のモデルの
ひとりとも考えられているとのことです。




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<勅撰歌人、でも漢詩の方が得意>
歌集「御堂関白集」を残し、
自ら拾遺以下の勅撰歌人でもありました。
また、花山天皇時代に
行われた寛和二年内裏歌合に
召人として参加しています。
もっとも藤原道長本人は
和歌より漢詩の方を
得手としていたようであったとか。

<社会政策に取り組みました!>
政治家としては、
長保元年(999年)に
新制(長保元年令)を発令し、
過差(贅沢)の禁止による
社会秩序の引締や
估価法の整備などの
物価対策などにも取り組みました。
ただし藤原道長や藤原実資が死ぬと
公卿が社会政策に取り組む事はなくなり、
院政や武家政権に
政治の実権を奪われる遠因となったのでした。

<祇園天神会>
「本朝世紀」長保元年6月14日条によりますと、
藤原道長が前年の祇園天神会の行列で
出された山鉾が、
天皇の大嘗祭で
用いられるものに
激似であったため
藤原道長が同年の祭りの
停止を命じたところ、
天神が怒って報復を示唆する
詫宣をしたために
藤原道長がやむなく
祭りを許したことが
記されているとのことです。

<糖尿病を発症したかも>
晩年はかなり健康を害していました。
50歳を過ぎたあたりから
急激に痩せ細り、
また水をよく飲むようになり、
そうした症状などから
糖尿病が発症したと
考えられています。

<合併症かも>
さらに視力も年々衰えて、
目の前の人物の顔の判別も
できなくなった事から、
糖尿病の合併症としての
視力低下と考えられています。

<ほかにも持病あり>
それれに加えて
胸病(心臓神経症)の持病もあったとか。

<仏教への厚い信仰心>
仏教(特に浄土教)に対して信仰心が厚く、
最期は自らが建てた
法成寺阿弥陀堂本尊前で
大勢の僧侶に囲まれ
極楽浄土を祈願する儀式の中で
臨終の時を迎えたとされています。
法成寺を建立したことから
御堂関白とも呼ばれていますが、
実際に関白になったことはありません。

【平安貴族の社会はまさに異世界】
この世は自分のためにあるようなもの、
と詠み、権力を掌握し、意のままに
この世を操り謳歌した藤原道長。
けれどもその一方で社会的な政策に取り組み、
政治家としてやるべきことは
きちんと行っていたのですね。
現代の政治家たちを見たら
彼はどんな風に思うのでしょうか?

娘たちを権力掌握の道具の駒として
朝廷に送り込み入内させていきますが、
当の本人たちはそんなシステムに
どう思ったのでしょうか?
あたり前なこととして何の疑問も
もたなかったのでしょうか?




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【紫式部や和泉式部の凄さ】
自分には平安貴族の感覚は理解しがたいです。
結婚・出産は権力の掌握で
恋愛するにもまず相手の身分ありきで
これではそもそも純粋に
恋愛などできないですね・・。
だから「源氏物語」ができたのかと・・。
そうした貴族社会でも
情熱的な恋愛の歌を詠んだ
和泉式部の感性も凄いと
納得してしまいます。
紫式部や和泉式部の凄さに
改めて感服します。

【女流文学者たちを庇護した結果】
そしてこうした女性たちを庇護した
藤原道長のこうした姿勢が
ただの権勢家だけではなく、
素晴らしいと称賛できるところです。
そこが現代の権力者と
異なるところですね。
そして庇護された女性たちが
生み出した作品は
1000年を経た今でも
鮮やかに残っており、
その作品に触れることが出来、
ながい時を超えて、今を生きる者に
共感を与えることができるのです。

1000年先のことまで
結果として彼は思いを馳せていた、
というわけですね。
そりゃすごい!!

2024年NHK大河ドラマ
光る君へ」では
柄本 佑(えもと・たすく)さんが
演じられます。

紫式部~世界最古の長編小説とされる「源氏物語」を執筆した女流小説家で平安時代きっての才女。

一条天皇~「叡哲欽明」と評された賢王は笛の名手で皇后との「純愛」を育み、やがて平安王朝文化が開花。

大弐三位(紫式部娘・藤原賢子)~母からは和歌や文才を、父からは明朗で自由快活な気性を受け継ぎ、行動力溢れ長寿を全うしました。

源倫子~6人の子供に恵まれ、夫である藤原道長の外戚政権を 実質的に完成させた女性です。

藤原彰子~真面目で努力家で控えめな少女は成長して国母となり政治力を発揮し「賢后」となりました。

藤原頼通~藤原氏の栄華の象徴である平等院鳳凰堂を造営、摂関政治から院政と武士が台頭する時代へ。

藤原教通~同母兄の頼通への卑屈なまでの従順と確執、やがて藤原摂関家の衰退を招いていきます。

藤原穆子~源倫子の母親で藤原道長の才能を見抜き結婚を勧めた女性で紫式部とは遠縁です。

源雅信~皇室の血筋で源倫子の父、藤原兼家にとっては邪魔な存在、宇多源氏の始祖で子孫は近江源氏・出雲源氏へと繋がっていく。

藤原兼家~熾烈な権力闘争に勝ち、のちの藤原氏最盛期を築いた人物です。

円融天皇~政治に関与し兼家と疎隔・対立するも、藤原詮子との間に後の一条天皇が誕生します。

花山天皇~藤原氏の策略で19歳で出家、独創的な発想の持ち主で好色、観音巡礼が後に「西国三十三所巡礼」として継承。

藤原義懐~花山天皇の外叔父として権勢を振るうが寛和の変後に出家し引退する。

藤原忯子(弘徽殿の女御)~花山天皇の寵愛を受けた女御、懐妊するも夭逝し寛和の変の引き金となる。

源俊賢~一条朝の四納言の一人、父の源高明が政変で失脚するもバランス感覚に優れ権大納言まで昇進します。

源明子(源高明の娘)~藤原道長の妾妻で源俊賢の異母妹、明子の家系はやがて五摂家に繋がっていくのです。

藤原公任~藤原北家小野宮流で政治的・芸術手的にも名門の出で「お坊ちゃま」、藤原道長とは同い年で四納言。

藤原斉信~藤原道長の従兄弟で当初は道隆に仕えるも後に道長の腹心へ、清少納言との交流があり「枕草子」に登場します。

藤原行成~世尊寺流の祖、実務に高い能力を発揮し人徳高く当代の能書家として後世「権蹟」と称されました。

和泉式部~和歌の才能にあふれた恋多き自由奔放な女性、娘への哀傷歌が有名です。

赤染衛門~理知的で優美な諷詠の女流歌人、おしどり夫婦であり良き妻良き母、「栄花物語」正編の作者とも。

伊勢大輔~「小倉百人一首」にもある「いにしへの」の歌が有名な平安時代の女流歌人です。

藤原時姫~藤原兼家の妻で藤原道隆・道兼・道長・超子・詮子の生母、一条・三条両天皇の祖母です。

藤原道隆~藤原道長の長兄、容姿端正、明朗で豪快、気配り上手な優れた跡継ぎでしたが病で急逝します。

藤原道兼~父は藤原兼家、兄は藤原道隆、弟は藤原道長、待望の関白に就くも数日でこの世を去る。

藤原詮子~藤原道長の姉、国母となりやがて日本最初の女院となって、権力を握り政治に介入する。

藤原道綱~藤原道長の異母兄で母は「蜻蛉日記」の作者、おっとりとした性格で才に恵まれず。

藤原寧子(藤原道綱母)~藤原兼家の妻の一人で、女流日記の先駆けと評されている「蜻蛉日記」の作者です。

高階貴子~身分は高くないが和歌と漢詩に秀でた才媛で藤原道隆の嫡妻、百人一首54番の情熱的な和歌が有名。

藤原伊周~藤原道隆の嫡男、急速に出世するも叔父・道長との政争に敗れ失意のうち世を去る。

藤原隆家~藤原道隆の四男、「刀伊の入寇」で武勇を挙げ政敵・道長も一目置いた気骨ある人物です。

藤原定子~朗らかで才気に満ち華やかで美しい女性、父道隆の死で状況は一変し若くして散る。

藤原頼忠~従兄弟の兼通とは親しく兼家とはライバル、天皇の外戚になれず失意のうちに世を去る。

藤原実資~藤原北家嫡流の小野宮流の家領を継ぎ「賢人右府」と呼ばれ、貴重な資料である「小右記」を残す。

春日大社~藤原氏の氏神を祀る全国の春日神社の総本社で世界遺産に登録されています。

那須神田城~那須氏最初期の居城であり、那須与一宗隆の生誕の地とされています。

藤原為時~漢詩の才能に長け、人格形成で紫式部に影響を与えたとされており、子らに先立たれる。

藤原惟規~紫式部の兄弟で和歌の才能があったが、越後にて父より先に亡くなる。

藤原宣孝~性格も女性関係も華やかで20歳以上も年上であった紫式部の夫。

百舌彦~藤原道長の従者、平安時代中期以降の貴族に仕える家臣・従者について

清少納言~末娘で父親からとても可愛がられて育ち、定子に仕え世界最古の随筆である「枕草子」を執筆します。

ちやは(藤原為信の娘)~紫式部の生母、藤原為時との間に一男二女を授かりますが若くして亡くなります。

絵師~平安時代に登場した「大和絵」、源氏物語は後に絵巻となりそれはコミカライズの原点とも言われています。

直秀~町辻で風刺劇を披露する散楽の一員、散楽とは奈良時代に大陸から移入された大衆芸能の起源

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