平安時代

藤原道兼~父は藤原兼家、兄は藤原道隆、弟は藤原道長、待望の関白に就くも数日でこの世を去る。

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【藤原道兼】

藤原 道兼(ふじわら の みちかね)は、
平安時代中期の公卿。
藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の三男です。
官位は正二位・関白、右大臣、贈正一位、
太政大臣。同母の弟妹として
詮子、藤原道長らがいます。

父である藤原兼家の意を受けて
花山天皇を唆して出家・退位させました。
この出来事を「寛和の変」、としています。
一条天皇が即位すると
外祖父である藤原兼家は摂政となり、
藤原道兼も栄達しました。
藤原兼家が死去すると
藤原道兼の期待に反して
長兄である藤原道隆が関白となりました。
5年後に藤原道隆が病死すると、
待望の関白になりましたが、
その僅か数日後に病死しました。
そのため「七日関白」と呼ばれています。

【官位】
正二位、関白、右大臣
贈正一位、太政大臣

【主君】
円融天皇⇒花山天皇⇒一条天皇

【氏族】
藤原北家九条流

【父】
藤原兼家

【母】
藤原時姫

【兄弟】
道隆、超子、道綱、道綱母養女、
道兼、詮子、道義、道長、
綏子、兼俊

【妻】
藤原遠量娘、
藤原繁子(藤原師輔娘)、
藤原国光娘

【子】
福足君、尊子、兼隆、兼綱、
兼信、二条殿御方、典侍

【生涯と経歴】
永観2年(984)8月、
花山天皇が即位すると
蔵人左少弁となります。
東宮には同母妹である
詮子を母とする
懐仁親王が立てられていまいsた。
花山天皇は父である藤原兼家の
亡兄・伊尹の娘・懐子を母としており、
伊尹の子の権中納言・義懐が
天皇を補佐して朝政を執っていました。
このため、藤原兼家は
懐仁親王の早期の即位を望んでいました。
花山天皇は情緒的な性格で、
寵愛していた女御である
藤原忯子が死去すると深く嘆き、
思い悩むようになっていました。
蔵人として近侍していた藤原道兼は
元慶寺(花山寺)の厳久と共に
仏の教えを説き、出家を勧めます。
藤原道兼も出家することを
約束すると天皇も
その気になってしまったのことです。




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【騙されたと気づくも時遅し】
寛和2年(986年)6月23日丑の刻、
藤原道兼は花山天皇を密かに
内裏から抜け出させました。
藤原道兼は天皇が途中で
足を止めるのをかき口説き、
山科の元慶寺まで連れてきました。
天皇は厳久に戒を受けて剃髪しました。
ところが、藤原道兼は
「父に告げずに出家すれば
不幸になると思い立ちました。
父に別れを告げ、出家前の姿を
一目見せたいと思います」と言うや、
寺から立ち去ってしまいました。
ここでようやく花山天皇は騙されたと
知るのですが既に手遅れでした。
宮中では藤原兼家と兄の藤原道隆が
東宮即位の準備を手早く
済ませていました。
翌朝、義懐と権左中弁・藤原惟成が
元慶寺に駆けつけますが、
出家した天皇の姿を見て絶望し、
彼らも出家しました。

【一条天皇の即位】
幼い懐仁親王が即位して一条天皇となりました。
外祖父の藤原兼家は摂政に任じられました。
藤原兼家の息子らも昇進させられ、
功労者である藤原道兼は同年7月に
参議となったのを皮切りに、
10月には従三位権中納言。
11月、正三位、永延元年(987年)従二位、
永祚2年(989年)正二位・権大納言と累進しました。

【後継者は藤原道隆】
正暦元年(990年)、
父である藤原兼家が病んだのち死去。
後任の関白には長兄である
藤原道隆が任じられました。
「大鏡」によりますと、
藤原道兼は自分は父に功があったのだから、
当然に関白を継ぐべきだと望んでいたのに
兄の藤原道隆が後継に
選ばれたことを甚だ憎み、
父の喪中であるにもかかわらず
客を集めては遊興に耽ったということでした。

【右大臣へ】
藤原道隆の政権下で、
同2年(991年)内大臣、
同5年(994年)右大臣へと昇進します。

【道隆の死と自身の死】
長徳元年(995年)、
関白藤原道隆が重い病に伏しました。
藤原道隆は後継の関白に
嫡男の内大臣伊周を望むが許されず、
4月10日に死去しました。
4月27日に藤原道兼は関白宣下を受けます。
ところが、ほどなく藤原道兼は病になり、
5月8日に死去しました。
享年は35歳でした。
世に「七日関白」
(在任は7日ではなく、
一説には奏慶(宮廷に関白として初参内)
してから7日目であったからだとも。
なお、藤原道兼は関白在任中に
1度だけ陣定を開催しています)
と称されたのでした。
死後、正一位太政大臣を追贈されました。
子女には、宇都宮氏の祖となった
中納言藤原兼隆、
一条天皇の女御となった
藤原尊子がいるとのことです。




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【宇都宮氏が後裔を称する】
下野国の豪族宇都宮氏が
藤原道兼の後裔を称し、
「尊卑分脈」や「宇都宮系図」などには
そのように記されているとのことです。
しかしながらこれについては
異説も少なくないとのことです。
藤原道兼の子・兼隆より
以降公卿になった者はなく、
「大鏡」によりますと
公家としては語るべき
子孫がいないことが
記されています。
それゆえに子孫は地方に下り
在地の豪族になったともされています。

【人となり】
容姿は顔色が悪く毛深く醜かったとか。
雄傑(才知に長 (た) け、勇ましいこと。)で
鬚(ひげ)が多く、
狷介(けんかい)な性格だったとか。
狷介とは自分の意志をまげず、
人と和合しないこと、とのことです。
また非常に冷酷な面を持っており、
人々から恐れられていたとされています。
面倒で意地が悪く、長幼の順序もわきまえずに、
兄である藤原道隆をいつも
諭しているようなところがあったとか。
が、見方を変えれば、
老成して男らしい人物という
評価もあるとのこと。

何かあまり良いところがないみたいな感じですが
・・・天皇を騙して出家させた
実行役であったし、
「七日関白」と称されているので、
関白として実績がないまま他界し、
その後は弟の藤原道長
取って代わられてしまったので
より評価が下がって
後世に伝えられてしまったいるのかも
しれませんね。
それほど兄弟間の権力争いが
熾烈だったのでしょうね。

2024年NHK大河ドラマ
光る君へ」では
玉置玲央(たまおき れお)さんが
演じられます。

藤原兼家~熾烈な権力闘争に勝ち、のちの藤原氏最盛期を築いた人物です。

藤原時姫~藤原兼家の妻で藤原道隆・道兼・道長・超子・詮子の生母、一条・三条両天皇の祖母です。

花山天皇~藤原氏の策略で19歳で出家、独創的な発想の持ち主で好色、観音巡礼が後に「西国三十三所巡礼」として継承。

藤原忯子(弘徽殿の女御)~花山天皇の寵愛を受けた女御、懐妊するも夭逝し寛和の変の引き金となる。

一条天皇~「叡哲欽明」と評された賢王は笛の名手で皇后との「純愛」を育み、やがて平安王朝文化が開花。

藤原道隆~藤原道長の長兄、容姿端正、明朗で豪快、気配り上手な優れた跡継ぎでしたが病で急逝します。

藤原道長~初めは目立たずも後に政権を掌握、「一家立三后」をなし「この世をば わが世とぞ思ふ」と詠む。

藤原詮子~藤原道長の姉、国母となりやがて日本最初の女院となって、権力を握り政治に介入する。

藤原義懐~花山天皇の外叔父として権勢を振るうが寛和の変後に出家し引退する。

藤原道綱~藤原道長の異母兄で母は「蜻蛉日記」の作者、おっとりとした性格で才に恵まれず。

藤原寧子(藤原道綱母)~藤原兼家の妻の一人で、女流日記の先駆けと評されている「蜻蛉日記」の作者です。

藤原定子~朗らかで才気に満ち華やかで美しい女性、父道隆の死で状況は一変し若くして散る。

藤原伊周~藤原道隆の嫡男、急速に出世するも叔父・道長との政争に敗れ失意のうち世を去る。

藤原隆家~藤原道隆の四男、「刀伊の入寇」で武勇を挙げ政敵・道長も一目置いた気骨ある人物です。

藤原彰子~真面目で努力家で控えめな少女は成長して国母となり政治力を発揮し「賢后」となりました。

藤原頼通~藤原氏の栄華の象徴である平等院鳳凰堂を造営、摂関政治から院政と武士が台頭する時代へ。

藤原教通~同母兄の頼通への卑屈なまでの従順と確執、やがて藤原摂関家の衰退を招いていきます。

源明子(源高明の娘)~藤原道長の妾妻で源俊賢の異母妹、明子の家系はやがて五摂家に繋がっていくのです。

源倫子~6人の子供に恵まれ、夫である藤原道長の外戚政権を 実質的に完成させた女性です。

源雅信~皇室の血筋で源倫子の父、藤原兼家にとっては邪魔な存在、宇多源氏の始祖で子孫は近江源氏・出雲源氏へと繋がっていく。

藤原穆子~源倫子の母親で藤原道長の才能を見抜き結婚を勧めた女性で紫式部とは遠縁です。

藤原頼忠~従兄弟の兼通とは親しく兼家とはライバル、天皇の外戚になれず失意のうちに世を去る。

藤原公任~藤原北家小野宮流で政治的・芸術手的にも名門の出で「お坊ちゃま」、藤原道長とは同い年で四納言。

藤原実資~藤原北家嫡流の小野宮流の家領を継ぎ「賢人右府」と呼ばれ、貴重な資料である「小右記」を残す。

藤原斉信~藤原道長の従兄弟で当初は道隆に仕えるも後に道長の腹心へ、清少納言との交流があり「枕草子」に登場します。

藤原行成~世尊寺流の祖、実務に高い能力を発揮し人徳高く当代の能書家として後世「権蹟」と称されました。

源俊賢~一条朝の四納言の一人、父の源高明が政変で失脚するもバランス感覚に優れ権大納言まで昇進します。

高階貴子~身分は高くないが和歌と漢詩に秀でた才媛で藤原道隆の嫡妻、百人一首54番の情熱的な和歌が有名。

清少納言~末娘で父親からとても可愛がられて育ち、定子に仕え世界最古の随筆である「枕草子」を執筆します。

春日大社~藤原氏の氏神を祀る全国の春日神社の総本社で世界遺産に登録されています。

紫式部~世界最古の長編小説とされる「源氏物語」を執筆した女流小説家で平安時代きっての才女。

大弐三位(紫式部娘・藤原賢子)~母からは和歌や文才を、父からは明朗で自由快活な気性を受け継ぎ、行動力溢れ長寿を全うしました。

藤原為時~漢詩の才能に長け、人格形成で紫式部に影響を与えたとされており、子らに先立たれる。

藤原宣孝~性格も女性関係も華やかで20歳以上も年上であった紫式部の夫。

ちやは(藤原為信の娘)~紫式部の生母、藤原為時との間に一男二女を授かりますが若くして亡くなります。

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