平安時代

藤原隆家~藤原道隆の四男、「刀伊の入寇」で武勇を挙げ政敵・道長も一目置いた気骨ある人物です。

ひな人形 右大臣



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【藤原隆家】

藤原 隆家(ふじわら の たかいえ)は、
平安時代中期の公卿。
藤原北家、摂政関白内大臣であった
藤原道隆の四男
高階貴子を母とする兄弟では次男)。
官位は正二位・中納言。

【生誕】
天元2年(979年)

【死没】
寛徳元年1月1日(1044年2月2日)

【改名】
阿古(幼名)⇒隆家

【官位】
正二位、中納言

【主君】
一条天皇⇒三条天皇⇒
後一条天皇⇒後朱雀天皇

【氏族】
藤原北家中関白家

【父】
藤原道隆

【母】
高階貴子

【兄弟】
道頼、頼親、
伊周、定子、隆家、
原子、隆円、頼子、
御匣殿、周家、周頼、
藤原妍子女房、好親、平重義室

【妻】
源重信の娘、藤原景斉の娘
源兼資の娘、藤原為光の娘
加賀守正光の娘

【子】
良頼、経輔、行昭、隆明、
敦儀親王妃、藤原兼経室、
季定、家房、良員、政則?

【生涯と経歴】
【急速な昇進と父の死】
一条朝初頭の永祚元年(989年)、
11歳で元服して従五位下に叙爵し、
翌年の永祚2年(990年)正月に
侍従に任官となりました。
同年7月に右兵衛権佐に任ぜられますと、
正暦2年(991年)従五位上、
正暦3年(992年)正五位下・左近衛少将、
正暦4年(993年)従四位上・右近衛中将、
正暦5年(994年)正月に正四位下と
父・藤原道隆の執政下で
武官を務めながら急速に昇進し、
同年8月には中将を帯びたまま
従三位に叙せられ(三位中将)
公卿に列しました。
長徳元年(995年)4月、
権中納言に任ぜられますが、
まもなく父である藤原道隆が亡くなります。




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【長徳の変】
同月中に道隆の弟である
藤原道兼が関白となりますが
まもなく他界し、5月に入って
執政の座は内覧・右大臣となった
藤原道長に移ります。
この状況の中で、
7月末に藤原隆家の従者と
藤原道長の従者が
七条大路で乱闘したほか、
8月初旬には藤原隆家の従者が
藤原道長の随身・秦久忠を
殺害しています。
けれども、翌年の長徳2年(996年)正月に
藤原伊周の女性関係に関連して、
藤原隆家は従者の武士を連れて
花山法皇の一行を襲い、
法皇の衣の袖を弓で
射抜くという事件を
起こしてしまいます。
このことを藤原道長に利用され、
4月になると花山法皇奉射・
東三条院呪詛・大元帥法実施の
罪状三ヶ条を以って、
藤原隆家は出雲権守に、
同母兄の内大臣・藤原伊周は
大宰権帥に左遷されたのでした。
なお、藤原隆家は出雲国までは
行かずに病気を理由に
但馬国に留まっていました。
竹藪

【官界に復帰】
長徳4年(998年)5月、
東三条院(藤原詮子)の御悩による
大赦を受けて帰京し、
10月には兵部卿として官界に復帰します。
長保4年(1002年)以前の
権中納言に復し、
寛弘4年(1007年)従二位、
寛弘6年(1009年)、
中納言に叙任されました。

【定子と伊周の死】
この間の長保2年(1000年)に
姉の定子が、
寛弘7年(1010年)には
兄の藤原伊周が没しています。
こうして、中関白家の声望は
藤原隆家の双肩にかかる中で、
藤原隆家は外甥の
敦康親王の立太子に
期待をかけたのでした。




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【敦康親王の立坊ならず】
世間からも、敦康親王が即位して
藤原隆家が政治を輔佐したなら
天下はよく治まるだろう、
との声もあったということでした。
けれども、寛弘8年(1011年)、
三条天皇の践祚に際して、
有力な後見人がいないことが理由で
敦康親王の立坊は実現せず、
藤原道長の外孫である
敦成親王(のち後一条天皇)が
春宮に立てられたのでした。

【大宰権帥への任官】
長和元年(1012年)末頃より
先の尖った物による外傷を
原因とした眼病を患い、
出仕や交際もできず邸宅に
籠居するようになります。
ここで、大宰府には
眼の治療を行う唐人の
名医がいるとの話を聞きつけて、
藤原隆家は進んで
大宰権帥への任官を望みます。
この任官希望に対しては、
未だ声望高い中関白家と
九州在地勢力との結合を抑止したい
藤原道長に強く妨害されますが、
結局同じ眼病に悩む
三条天皇の隆家への同情は深く、
決定までに9ヶ月を要した末、
長和3年(1014年)11月、
ようやく大宰権帥に任ぜられました。
長和4年(1015年)には
赴任の功労により
正二位に叙せられています。

刀伊の入寇の発生】
大宰府では善政を施し、
九州の在地勢力は
すっかり心服したということです。
在任中の寛仁3年(1019年)、
刀伊の入寇が発生します。

刀伊(女真族と考えられている)が
対馬・壱岐に続いて、同年4月に
博多を襲いますが、
藤原隆家は総指揮官として
大宰大監・大蔵種材らを指揮して
これに応戦・撃退したのでした。
同年6月には高麗が
虜人送使・鄭子良を派遣し、
刀伊から奪回した
日本人捕虜259名を送還します。
藤原隆家は鄭子良に対して
朝廷の返牒を遣わし
禄物を与えるなど後処理を行ったのでした。




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【帰京後】
同年12月に大宰権帥を辞して
帰京しました。
なお後任は藤原行成となりました。
帰京後の朝廷において、
刀伊を撃退したことに対する
功績により藤原隆家の
大臣・大納言への登用を求める
声もあったとのことですが、
帰京後の藤原隆家は
内裏出仕を控えていたため
昇進の沙汰はなかったということでした。
一方で、翌年の寛仁4年には
都に疱瘡が大流行し、
刀伊が大陸から持ち込んだものが
藤原隆家に憑いて京に及んだものと
噂されてしまうほどでした。
治安3年(1023年)、
次男の経輔を右中弁に
昇任させる代わりに中納言を辞退。
その後、大蔵卿などを務めましたが、
後朱雀朝の長暦元年(1037年)、
藤原実成に代わって
再度大宰権帥に任ぜられ、
長久3年(1042年)まで
これを務めました。

【最期】
長久5年(1044年)1月1日薨去。
享年は66歳でした。
最終官位は前中納言正二位。

【人となり】
天下の「さがな者」(荒くれ者)
として有名であった藤原隆家は、
王権をかさに着る
花山院との賭け事や、
姉の中宮定子の女房である
清少納言との応酬など、
「枕草子」「大鏡」「古今著聞集」にも
多彩な逸話が伝えられているとのことです。




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【枕草子】
「九八段 中納言まゐりたまひて」
という章段で藤原隆家が登場します。
それは「くらげの骨」と
呼ばれる有名な逸話で、
枕草子に登場する藤原隆家の姿です。

藤原隆家様が
定子様のお住まいにやってきて、
お話ししています。

藤原隆家様は
「とても素晴らしい「扇の骨」を手に入れました。
その骨に紙を貼って
定子様に差し上げたいと思います。
立派な骨なので上等な紙を貼りたいのです」
扇

定子様は
「そんなに素晴らしい扇の骨とは、
一体どんなものなのですか?」

藤原隆家様
「それはもう本当に素晴らしい骨です。
僕の家来たちは
「こんな立派な骨は見たことが無い」
と口をそろえて言っています。
僕自身も、あんな立派な骨は
見たことがありませんよ!」

清少納言
「そうなのですね・・と言うことは、
その骨はきっと「くらげの骨」ですね!」

藤原隆家様
「これは一本取られた!
その言葉は僕が言ったことにしよう!!」
と、隆家様はお笑いになりました。

<説明>
清少納言が言いたかったのは
「見たこともない骨ということは、
骨の無いくらげ骨?」と言って、
「くらげには骨が無いから
誰も見たことが無い」という、
冗談を言っていたというわけです。
清少納言の機転の利いた一言を、
笑いながら自分が言ったことに
しようとしています。




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【藤原道長も一目置く】
姉が生んだ敦康親王の立太子を
実現できなかった一条天皇を
「人非人」と非難したり、
権力者の叔父である
藤原道長の嫌がらせに屈せず
三条天皇皇后娍子の
皇后宮大夫を引き受けたりするなど、
気骨のある人物として知られています。
その「こころたましひ」(気概)は
政敵の藤原道長も
一目置く存在であったとのことです。
「長徳の変の黒幕」と
衆目の一致する所であった藤原道長は、
後年、賀茂詣のついでに
わざわざ藤原隆家を招いて同車させ、
その弁明に努めていたとのことです。
牛車(雛道具)

【忖度を逆手にとる】
「もし敦康親王が即位して
隆家が政治を輔佐したならば、
天下はよく治まるだろう」という
世人の密かな期待があり、
その期待に反して敦康が
立太子できなかったのは、
さすがの隆家も気落ちしているだろう、
という世間の忖度を逆手にとって、
藤原隆家は三条天皇の大嘗会では
華美な正装で煌びやかに
振る舞ったということです。

【藤原実資からは可愛がられる】
また、父である藤原道隆や
兄の藤原伊周に対しては
批判的な態度を取り続けていた
藤原実資からは可愛がられていました。
彼の日記である「小右記」には
藤原隆家が藤原実資に
悩み事を打ち明ける記事や、
藤原実資が大役に任じられた
藤原隆家の息子を気遣う記事が
見られるとのことです。
特に前者の長和2年の記事には
藤原実資が藤原隆家に対して
眼病の治療と藤原道長からの
圧迫を避けるために「遠任之案」を勧め、
それを受けた藤原隆家が
「深有鎮西之興」を抱いたことが
記されているとのことです。




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【勅撰歌人として】
「後拾遺和歌集」(2首)、
「新古今和歌集」(1首)に
和歌作品が採られている
勅撰歌人です。
文人の家系に恥じず、
漢詩も「本朝麗藻」に
七言律詩1首が残っているとのことです。

【藤原隆家の子孫】
<娘>
藤原隆家の娘は
長女が三条天皇の
皇子式部卿敦儀親王室、
もう一人が参議藤原兼経室
となっています。

<長男・藤原良頼>
藤原隆家の長男である藤原良頼は
正三位権中納言に進み、
その娘は参議源基平室となり
後三条天皇の寵愛をうけた
源基子(実仁親王・輔仁親王の生母)
を生んでいます。
藤原良頼の4代後の子孫には、
平清盛の継母として
源頼朝の助命を嘆願したという
池禅尼がいます。
池禅尼経塚 野間大坊

<次男・藤原経輔>
藤原隆家の次男である
藤原経輔(1006年⇒1081年)は、
正二位権大納言となって
水無瀬大納言と称せられました。
藤原経輔の5世孫にあたる
従三位忠隆の息女は
近衞家の祖である基実の室となって
基通を生み、その兄弟の藤原信頼
後白河上皇の寵臣で
平治の乱の首謀者として有名となりました。
同じく藤原経輔の5世孫にあたる
修理大夫信隆の息女七条院殖子
後鳥羽院生母であり、
その弟坊門信清は
内大臣の位にまで昇りました。
源義経の母の常盤御前の再婚相手で
奥州藤原氏とも関係があった
一条長成も経輔の5世孫です。

水無瀬流
隆家流は女系を伝って
皇室・摂家にその血筋を残し、
子孫は水無瀬流として後世、
水無瀬(羽林家)・七条(羽林家)・
町尻(羽林家)・桜井(羽林家)・
山井(羽林家)の五堂上家を出して
明治維新に至ったとのことです。




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<肥後国・菊地氏
なお、南北朝時代に
懐良親王を擁した
肥後国の豪族菊池氏は
藤原隆家の後裔を
称しているとのことです。
祖先たる藤原政則 (基定) を
藤原隆家の子としているとのことです。
ですが、異論もあり、
在地官人の
大宰少弐藤原蔵規という人物が
実は先祖だったろう、
との見解を示している
専門家もいるとのことです。

【刀伊の入寇】

【刀伊の入寇の経緯】
9世紀から11世紀に掛けての日本は、
記録に残るだけでも新羅や
高麗などの外国の海賊による
襲撃略奪を数十回受けており、
特に酷い被害を被ったのが
筑前、筑後、肥前、肥後、
薩摩の九州沿岸でした。

【侵攻の主体】
刀伊に連行された
対馬判官長嶺諸近は賊の隙をうかがい、
脱出後に連れ去られた
家族の安否を心配して
密かに高麗に渡り情報を得たのでした。
長嶺が聞いたところでは、
高麗は刀伊と戦い撃退したこと、
また日本人の捕虜300人を救出したこと、
けれども長嶺の家族の多くは
殺害されていたこと、
侵攻の主体は高麗ではなく
刀伊であったことなどの
情報を得たとのことです。
日本海

【10~13世紀までの女真族】
「刀伊の入寇」の主力は
女真であったと考えられています。
女真とは、12世紀に金を、
後の17世紀には
満洲族として後金を経て
清を建国する民族とのことです。
近年の発掘によりますと、
10世紀から13世紀初頭にかけて、
アムール川水系および
特に現在のウラジオストクおよび
その北側にかけての沿海州の
日本海沿岸部には
女真族の一派が進出していた時期でした。
女真系の人々はアムール川水系と
日本海北岸地域から
オホーツク海方面への交易に
従事していたものと
考えられています。
10世紀前後に資料に現れる東丹国や
熟女直の母体となった人々とされ、
当時ウラジオストク方面から
日本海へ進出した集団のうち、
刀伊の入寇を担った女真族と
思われる集団は
日本海沿岸を
朝鮮半島づたいに南下して来た
集団であったと考えられています。




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【大真国の建国】
13世紀初頭に蒲鮮万奴は
中国東北部に大真国を建てましたが、
これら日本海沿岸部に
進出していた女真も
これに加わっており、
この時期にウラジオストク周辺や
沿海州周辺の日本海側には
多数の山城が建設されたとのことです。

【モンゴル帝国軍に陥落される】
けれども、日本海側沿岸部に進出した
山城群は1220年代に
モンゴル帝国軍によって
ことごとく陥落したようで、
近年の発掘報告によれば
13~14世紀は
沿海州での山城跡や
住居址などの遺構は
その後使用された形跡が
ほとんど確認できず、
これによって日本海沿岸部に
進出していた女真集団は
実質壊滅ないし大幅に
減衰したと考えらえれています。
替わってモンゴル帝国に
早期に従属したアムール川水系の
女真系が明代まで発展し、
13世紀半ば以降の
北東アジアからオホーツク海方面の
交易ルートの主流は、
日本海沿岸部から内陸のアムール川水系へ
大きく転換したものと考えられています。

【元寇(文永・弘安の役)前後】
また、いわゆる元寇(文永・弘安の役)前後に
日本側は北方からの蒙古の来襲を
警戒していたことが知られていますが、
これに反して元朝側の資料で
アムール川以東の地域の地理概念上に
日本は含まれていなかったと見られています。
この認識の差異も
内陸のアムール水系への
交易路の転換が大きく
原因していることが
推測されているとのことです。

【刀伊の入寇までの北東アジア情勢】
926年に契丹によって
渤海が滅ぼされ、
さらに985年には
渤海の遺民が鴨緑江流域に
建てた定安国も
契丹の聖宗に滅ぼされました。
当時の東北部にいた
靺鞨・女真系の人々は
渤海と共存・共生関係にあり、
豹皮などの産品を渤海を通じて
宋などに輸出していたとのことです。
10世紀前半の契丹の進出と
交易相手だった渤海が
消失したことで女真などが
利用していた従来の交易ルートは
大幅に縮小を余儀なくされてしまい、
さらに991年には契丹が
鴨緑江流域に三柵を設置し、
女真から宋などの西方への
交易ルートが閉ざされてしまいました。
女真による高麗沿岸部への襲撃が
活発化するのはこの頃からであるとのことです。




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【女真による海賊活動】
1005年に高麗で初めて
女真による沿岸部からの
海賊活動が報告されるようになりました。
1018年には
鬱陵島にあった于山国が
これらの女真集団によって
滅ぼされたとのことです。
1019年に北九州に
到達・襲撃するようになった
いわゆる「刀伊の入寇」に至る
女真系の人々の活動は、
これら10世紀から11世紀にかけて
北東アジア全体の
情勢の変化によって
もたらされたものと考えられています。

【日本の取り組み】
けれども、当時の女真族の一部は
高麗へ朝貢しており、
女真族が遠く日本近海で
海賊行為を行うことは
ほとんど前例がなかったとのことです。
また日本側に捕らわれた捕虜3名が
すべて高麗人だったことから、
権大納言源俊賢は、
女真族が高麗に
朝貢しているとすれば、
高麗の治下にあることになり、
高麗の取り締まり責任が
問われるべきであると主張したのでした。
さらに「小右記」でも
海賊の中に新羅人が
居たと述べられているとのことです。

【対馬への襲撃】
寛仁3年3月27日
(ユリウス暦1019年5月4日)、
刀伊は賊船約50隻(約3千人)
の船団を組んで突如として
対馬に来襲し、
島の各地で殺人や放火、
略奪を繰り返しました。
対馬の被害は36人が殺され、
346人が拉致されたとのこと。
この時、国司の対馬守遠晴は
島からの脱出に成功し
大宰府に逃れています。

【壱岐への襲撃】
賊徒は続いて、壱岐を襲撃します。
老人子供を殺害し、
壮年の男女を船にさらい、
人家を焼いて
牛馬家畜を食い荒らしたとのこと。
賊徒来襲の急報を聞いた、
国司の壱岐守藤原理忠は、
ただちに147人の兵を率いて
賊徒の征伐に向かいましたが、
3千人という大集団には
敵わず玉砕してしまったとのことです。

藤原理忠の軍を打ち破った賊徒は
次に壱岐嶋分寺を焼こうとしたとのこと。
これに対し、嶋分寺側は、
常覚(島内の寺の総括責任者)の指揮の下、
僧侶や地元住民たちが抵抗、応戦しました。
そして賊徒を3度まで撃退しましたが、
その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれず、
常覚は1人で島を脱出し、
事の次第を大宰府に報告へと向かいました。
その後寺に残った僧侶たちは
全滅してしまい嶋分寺は陥落し、全焼しました。
島民148名が虐殺され、
女性239人が拉致され、
生存者はわずか35名とのことでした。

【筑前・肥前への襲撃】
その後、刀伊勢は
筑前国怡土郡、志麻郡、早良郡を襲い、
4月9日には博多を襲いました。
博多には警固所と呼ばれる
防御施設があり、この一帯の要衝でした。
刀伊勢は警固所を焼こうとしましたが、
大宰権帥藤原隆家と
大蔵種材らによって
撃退されました。
博多上陸に失敗した刀伊勢は
4月13日(5月20日)に
肥前国松浦郡を襲いましたが、
源知(松浦党の祖)に撃退され、
対馬を再襲撃した後に
朝鮮半島へ撤退したとのことです。




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【高麗沿岸への襲撃】
藤原隆家らに撃退された
刀伊の賊船一団は高麗沿岸にて
同様の行為を行ったとのことです。
「小右記」によりますと、
長嶺諸近と一緒に帰国した
女10名のうち、
内蔵石女と多治比阿古見が
大宰府に提出した報告書の内容が
記されていました。
それによれば、高麗沿岸では、
毎日未明に上陸して略奪し、
男女を捕らえて、
強壮者を残して
老衰者を打ち殺し
海に投じたということです。
が、賊は高麗の水軍に
撃退されたとのこと。
このとき、拉致された
日本人約300人が
高麗に保護され、
日本に送還されたとあるとのこと。

【高麗との関係】
上述の内蔵石女と多治比阿古見は、
高麗軍が刀伊の賊船を襲撃した時、
賊によって海に放り込まれてしまい、
高麗軍に救助されたとのこと。
金海府で白布の衣服を支給され、
銀器で食事を給されるなど、
手厚くもてなされて
帰国したとのことです。
けれどもこうした厚遇も、
却って日本側に警戒心を
抱かせることとなったそうです。
さらに「小右記」では
「刀伊の攻撃は、高麗の所為ではないと
判ったとしても、新羅は元敵国であり、
国号を改めたと雖もなお
野心の残っている疑いは残る。
たとえ捕虜を送って来てくれたとしても、
悦びと為すべきではない。
勝戦の勢いを、便を通ずる好機と偽り、
渡航禁止の制が崩れるかも知れない」と、
無書無牒による渡航を戒める
大宰府の報告書を引用しているとのことです。

日本は宋との関係が
良好になっていたため、
外国の脅威をあまり
感じなくなっていたとのことです。
日本と契丹(遼)は
ほぼ交流がなく、
密航者は厳しく罰せられたのでした。

【対馬の被害】
人的被害は、対馬で殺害されたものは36人、
連行されたもの346人
(うち男102人、女・子供244人)
であったとのことです。
またこの時連行された人の内、
270人ほどは高麗に救助され、
対馬に帰還したとのことです。

物的被害としては
対馬銀山が焼損したとのことです。

【壱岐の被害】
壱岐守藤原理忠も殺害され、
島民の男44人、僧侶16人、
子供29人、女59人の、
合計148人が虐殺されたとのことです。
さらに、女性は239人が
連行されたとのことです。
壱岐に残った民は、諸司9人、
郡司7人、百姓19人の
計35人であったそうです。
なおこの被害は壱岐全体でなく、
壱岐国衙付近の被害とみられる、とのことです。

記録されただけでも
殺害された者365名、
拉致された者1289名、
牛馬380匹、家屋45棟以上。
女性や子供の被害が目立ち、
壱岐島では残りとどまった住民が
35名に過ぎなかったということです。

【朝廷の対応】
権帥藤原隆家は4月7日と4月8日に
報告書を送り、京都に届いたのは10日後、
4月17日のことでした。
4月18日には恩賞を約した勅符が
発給されていますが、
主要な戦闘はすでに終結していたとのことです。

【恩賞を与える決議】
6月29日に行われた陣定では、
恩賞が約された勅符が
出されたのは戦闘の後だったため、
藤原行成・藤原公任
恩賞不要の意見を述べたとのことです。
これに対して藤原実資は
寛平6年(894年)の
新羅の入寇の際の例を上げ、
今後のことを考え、
約束がなくても
恩賞を与えるべきと述べたのでした。
これを受け、本来与える必要はないが
恩賞を与えることが
決議されています。
恩賞を受けた例としては、
戦闘で活躍した大蔵種材が
壱岐守に叙任されています。
またこの際には、
「刀伊に捕らえられた」
という高麗人捕虜の証言についても
検討されている、とのことでした。




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【賊の主体の判明】
賊の主体が高麗人でないと
判明したのは、7月7日(8月10日)、
高麗に密航していた
対馬判官代長嶺諸近が帰国して
事情を報じ、9月に高麗虜人送使の
鄭子良が保護した日本人270人を
送り届けてきてからでした。
高麗使は翌年2月、
大宰府から高麗政府の下部機関である
安東護府に宛てた返書を持ち、
帰国したとのことです。
藤原隆家はこの使者の労をねぎらい、
黄金300両を贈ったということでした。

【藤原隆家と九州武士団】
九州武士団および、
東国から派遣された武士団のうち、
討伐に活躍したと
記録に見える主な者としては、
大蔵種材・光弘、
藤原明範・助高・友近・致孝、
平致行(致光?)、
平為賢(為方・大掾為賢・伊佐為賢)・
為忠(為宗)、財部弘近・弘延、
紀重方、文屋恵光(忠光)、
多治久明、源知、僧常覚らが
いるとのことですが、
寄せ集めに近いもので
あったといわれているそうです。
なお源知はのちの松浦党の
先祖の1人とみられており、
その地で賊を討って
最終的に逃亡させる
活躍をしたとのことです。

<鎮西平氏>
九州・東国武士団は
鎮西平氏とも呼ばれています。
このうち伊佐為賢(平為賢)が
肥前国鹿島藤津荘に土着し
肥前伊佐氏となったとのことです。
薩摩平氏はその後裔と称しているそうです。

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一条天皇~「叡哲欽明」と評された賢王は笛の名手で皇后との「純愛」を育み、やがて平安王朝文化が開花。

花山天皇~藤原氏の策略で19歳で出家、独創的な発想の持ち主で好色、観音巡礼が後に「西国三十三所巡礼」として継承。

藤原忯子(弘徽殿の女御)~花山天皇の寵愛を受けた女御、懐妊するも夭逝し寛和の変の引き金となる。

藤原道隆~藤原道長の長兄、容姿端正、明朗で豪快、気配り上手な優れた跡継ぎでしたが病で急逝します。

藤原定子~朗らかで才気に満ち華やかで美しい女性、父道隆の死で状況は一変し若くして散る。

高階貴子~身分は高くないが和歌と漢詩に秀でた才媛で藤原道隆の嫡妻、百人一首54番の情熱的な和歌が有名。

藤原伊周~藤原道隆の嫡男、急速に出世するも叔父・道長との政争に敗れ失意のうち世を去る。

藤原道長~初めは目立たずも後に政権を掌握、「一家立三后」をなし「この世をば わが世とぞ思ふ」と詠む。

藤原頼通~藤原氏の栄華の象徴である平等院鳳凰堂を造営、摂関政治から院政と武士が台頭する時代へ。

藤原教通~同母兄の頼通への卑屈なまでの従順と確執、やがて藤原摂関家の衰退を招いていきます。

藤原兼家~熾烈な権力闘争に勝ち、のちの藤原氏最盛期を築いた人物です。

藤原義懐~花山天皇の外叔父として権勢を振るうが寛和の変後に出家し引退する。

藤原彰子~真面目で努力家で控えめな少女は成長して国母となり政治力を発揮し「賢后」となりました。

源倫子~6人の子供に恵まれ、夫である藤原道長の外戚政権を 実質的に完成させた女性です。

藤原道兼~父は藤原兼家、兄は藤原道隆、弟は藤原道長、待望の関白に就くも数日でこの世を去る。

藤原詮子~藤原道長の姉、国母となりやがて日本最初の女院となって、権力を握り政治に介入する。

藤原時姫~藤原兼家の妻で藤原道隆・道兼・道長・超子・詮子の生母、一条・三条両天皇の祖母です。

藤原道綱~藤原道長の異母兄で母は「蜻蛉日記」の作者、おっとりとした性格で才に恵まれず。

紫式部~世界最古の長編小説とされる「源氏物語」を執筆した女流小説家で平安時代きっての才女。

大弐三位(紫式部娘・藤原賢子)~母からは和歌や文才を、父からは明朗で自由快活な気性を受け継ぎ、行動力溢れ長寿を全うしました。

伊勢大輔~「小倉百人一首」にもある「いにしへの」の歌が有名な平安時代の女流歌人です。

藤原公任~藤原北家小野宮流で政治的・芸術手的にも名門の出で「お坊ちゃま」、藤原道長とは同い年で四納言。

藤原実資~藤原北家嫡流の小野宮流の家領を継ぎ「賢人右府」と呼ばれ、貴重な資料である「小右記」を残す。

藤原斉信~藤原道長の従兄弟で当初は道隆に仕えるも後に道長の腹心へ、清少納言との交流があり「枕草子」に登場します。

藤原行成~世尊寺流の祖、実務に高い能力を発揮し人徳高く当代の能書家として後世「権蹟」と称されました。

春日大社~藤原氏の氏神を祀る全国の春日神社の総本社で世界遺産に登録されています。

源俊賢~一条朝の四納言の一人、父の源高明が政変で失脚するもバランス感覚に優れ権大納言まで昇進します。

源明子(源高明の娘)~藤原道長の妾妻で源俊賢の異母妹、明子の家系はやがて五摂家に繋がっていくのです。

清少納言~末娘で父親からとても可愛がられて育ち、定子に仕え世界最古の随筆である「枕草子」を執筆します。

後白河院(後白河院天皇)(後白河法皇)「治天の君」の地位を保持した「日本一の大天狗」の異名をとる人物。

後鳥羽院(後鳥羽上皇)、承久の乱を起こし文武両道多芸多能で怨霊伝説もあるスゴイ人物。

大御堂寺野間大坊~真言宗豊山派の寺院で野間美浜で最期を遂げた源義朝の墓があります。

百舌彦~藤原道長の従者、平安時代中期以降の貴族に仕える家臣・従者について

多気城 (常陸国)~伝承では大掾氏の平維幹が築城した「多気の山城」、現時点は戦国時代に築城とされる謎の城。

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