平安時代

和泉式部~和歌の才能にあふれた恋多き自由奔放な女性、娘への哀傷歌が有名です。

紅梅



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【和泉式部】

和泉 式部(いずみ しきぶ、天元元年〈978年〉頃
⇒没年不詳)は、平安時代中期の歌人です。
越前守・大江雅致の娘。
中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。
生没年不詳ですが、初代住職を務めた
華獄山東北寺誠心院
(〒604-8047 京都市中京区新京極通六角下ル中筋町487)
の公式サイトでは
生年は天延2年(974年)~天元元年(978年)
の間とするのが通説、との記載があります。

【生涯と経歴】
【誕生】
越前守・大江雅致と
越中守・平保衡の娘の間に生まれました。
鎌倉期に成立した「中古歌仙三十六人伝」では、
御許丸(おもとまる)と呼ばれ
太皇太后宮・昌子内親王付の
女童だったらしいとのことです。
なお、母が昌子内親王付きの
女房であったとのこと。
が、和泉式部は「和泉式部日記」の中で
宮仕えについて
「ならひなきありさま(経験のない様)」
と述べているため、否定されています。

【和泉「式部」の由来】
父の大江雅致は、
一説には大江匡衡の兄
であるとされています。
また和泉式部の「式部」は、
父の大江雅致が
文章生出身の式部丞
だったからであるとする説が
存在しています。

母の父である平保衡は
「尊卑分脈」によりますと
平元規の子とされ、
子(和泉式部のおじ)に
平祐挙がいるとのことです。

【姉妹について】 
和泉式部には、
姉妹が何人かいたことが
歌集・「和泉式部正集(正集)」などから
判明しているとのことです。
「岩躑躅いはねばうと
しかけていへばもの思ひまさる物を
こそ思へ(正集・六九八)」の詞書には、
人に知られず物思いを
することがあった折に
「はらから」に歌を送っていることが
記されており、
相談内容から姉であると
考えられているとのことです。
姉と思しき女性は、
斎院・選子内親王の許に出仕しており、
「後拾遺和歌集」の歌人である
中将・中務姉妹の母にあたるとのことです。
また、大江匡衡と赤染衛門の間の子である
大江挙周と交際していたらしい女性が
「赤染衛門集」から判明しており、
大江挙周と女性ではなく、
和泉式部と赤染衛門が
もっぱら贈答を交わし、
恋の主導権を握っているため、
こちらは和泉式部の妹であると
考えられているとのことです。
さらにもう1人、
藤原有家に嫁した女性もいましたが、
和泉式部と年齢の開きがあるため、
異腹の妹と推測されているとのことです。




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【経歴】 
「正集」には春夏秋冬+恋に部立された
「百首歌」が見えますが、
これは橘道貞との婚姻以前の
正暦4年(993年)前後に
詠まれたと考えられています。

【結婚と「和泉式部」の女房名】
長保元年(999年)頃までに
和泉守・橘道貞の妻となりました。
この婚姻は、父である大江雅致が
計ったものであったとされています。
後の女房名「和泉式部」は
夫の任国・和泉国と
父の官名を合わせたものであるとのことです。

【娘・小式部内侍の誕生】
長徳3年(997年)~
長保元年(999年)の間には
娘の小式部内侍が誕生しています。
「正集」では、この頃に
「幼き稚児(小式部内侍)の病みけるを、
あはれと思ふべき人」に対して
歌を送っていますが、
この人物は橘道貞と見られ、
和泉式部と小式部内侍は
同居して京都におり、
夫の橘道貞のみが和泉国へ
下向していたと考えられる、とのことです。

【まだ良好だったとされる夫婦関係】
和泉国に下向した後の
橘道貞と和泉式部は、
歌を送り合っており、
また、長保元年(999年)には、
橘道貞亭で一家をあげて
太皇太后・昌子内親王の
看病に当たっていたため、
この時点では2人の夫婦関係は
良好であったと見られています。
立花道貞との婚姻は後に破綻しましたが、
小式部内侍は母譲りの歌才を示しました。
橘道貞の帰京後も
別居状態であったらしいとのことです。

【為尊親王との熱愛】
冷泉天皇の第三皇子である
為尊親王との熱愛が世に喧伝されますが、
身分違いの恋であるとして
親から勘当を受けてしまいます。

【同母弟・敦道親王(帥宮)の求愛】
その後宮中でスキャンダルに晒された
和泉式部にさらなる追討ちがかかります。
為尊親王が病死してしまい、
為尊親王の死後、
今度はその同母弟である
敦道親王(帥宮)の求愛を受けたのでした。
敦道親王は和泉式部を邸に迎えようとし、
正妃(藤原済時の娘)が
家出する原因を作ってしまいます。

・・・現代の漫画でもよく見る
御曹司と平社員の恋愛物を
正にノンフィクションで行ったのですね。
しかも御曹司は複数で兄弟だった!




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【源雅通・源俊賢?とも恋愛関係?】
また、源雅通との交流も「正集」に見え、
歌の内容からして、
一時恋愛関係にあったと見られており、
加えて、「和泉式部日記」では
「治部卿(源俊賢か)」の存在も
噂されていたのでした。

【橘道貞とはまだ結婚状態】
為尊親王が和泉式部を伴い、
藤原公任の白川にあった別業を
訪ねていますが、
「公任集」には和泉式部を
「道貞妻」と記されており、
正式には未だ橘道貞と和泉式部が
結婚状態にあると
認識されていたとのことです。
同じく「公任集」では、
和泉式部は、
寛弘元年(1004年)に夫の
橘道貞が陸奥守となり
陸奥国に下向する際に歌を贈ったと
記されています。

【子を授かるも早世】
和泉式部は敦道親王の召人として
一子・石蔵宮永覚を授かりますが、
敦道親王は寛弘4年(1007年)に
早世しました。

藤原彰子に出仕と再婚】
寛弘年間の末(1008年⇒1011年頃)、
一条天皇の中宮・藤原彰子に
女房として出仕します。
長和2年(1013年)頃、
主人である中宮・彰子の父親の
藤原道長の家司で
武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し
夫の任国・丹後に下りました。
藤原保昌は左馬頭でもあったため、
上京している際は1人で
丹後に滞在していたとのことです。

【藤原保昌との再婚にまつわる逸話】
さて藤原保昌との再婚には逸話があります。
平安中期の豪傑と知られていた
藤原保昌は、宮仕え中の和泉式部に
一目惚れし求婚します。
が、和泉式部には一向に
相手にされませんでした。
ある日藤原保昌は
「紫宸殿の梅」を
折ってきてくれたら結婚すると、
和泉式部より伝えられます。
ちなみに紫宸殿(ししんでん)とは
帝のおわすところということです。
和泉式部は、お仕えする天子様の
庭の花を盗人せよというとてつもない
無茶ぶりなお願いしてきたのでした。
しかも梅が植わる庭は見通しが良く、
荒々しい北面の武士が
警備にあたっています。
藤原道長の懐刀として、
大江山の鬼退治にまで参戦した
誉れ高き武士である藤原保昌。
警護の者に弓を射かけられながらも
なんとか梅を手折り、
晴れて和泉式部と結婚したとのことです。




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【祇園際の山鉾「保昌山」
さて、前述の和泉式部と
藤原保昌の無茶ぶりな逸話ですが、
それを題材とした
祇園際の山鉾があります。
「保昌山(ほうしょうやま)」といい、
ものものしい鎧に包まれた武者が
抱えるのは、鮮やかな紅梅です。
元々の名前は「花盗人(はなぬすびと)」。
ただし謡曲の「花盗人」では、
花は「桜」となっています。
山の故事にちなみ、
宵山では「縁結び」の御守りが
授与されるとのことです。

<御神体>
御神体は藤原(平井)保昌の人形で、
緋縅の鎧に太刀をつけ、
紅梅を捧げる姿をしています。
鎧は明智十次郎光慶が
着用したものと
伝えられているとのことです。

<大人な二人の恋愛が後世に残る>
皇子や姫ではなく、年齢も十分な
熟年である2人の恋愛の駆け引きの様が、
歴史ある祇園祭で鉾の題材に
使われているのです。
おじさんも好きな女性のために
頑張った!!!

・・・いつから恋愛が若者至上主義になり、
現在は恋愛そのものが
すたれていってしまう世の中に
なってしまったのでしょうか?

【晩年】 
詳しい晩年の動静は不明です。
が、「誓願寺縁起」によりますと、
万寿2年(1025年)に
和泉式部は娘である
小式部内侍を失ってしまいます。
藤原公成の子(頼忍阿闍梨)を
出産した際に20代で死去してしまったのでした。
そして、和泉式部は娘の菩提を弔いつつ
自らの往生も考えるようになり、
播磨国書写山圓教寺の性空上人を
訪ねることとしたとのことです。
そこで女人往生のすべを乞うたということです。

【娘への哀傷歌】
娘を亡くした愛傷歌は
胸を打つものがあるとのことです。

とどめおきて誰をあはれと思ふらむ
子はまさるらむ子はまさりけり

— 「後拾遺和歌集」哀傷

<現代語の意味>
「亡くなった後、娘は誰のことを
思い出しているのだろう、
それは母親の私のことではなく、
自分の子どものことだろう、
だって、私も今、
娘のあなたを失って
ひたすら悲しく思っているのだから」。

・・・親より子が先に他界するのは
何よりも辛いのです・・・。
河津桜

【性空上人】
暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき
遙かに照らせ 山の端の月

<現代語の意味>
私は暗い道をより暗い道へと歩いています。
山の上に月が出て明るく照らしてほしいものです。

<意訳>
深い暗闇からさらに深い暗闇の道へと
入っていきそうです。
山の上に出た月が夜の闇を照らすように
どうかわたしを悟りの道へと導いてください。




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上記の歌も和泉式部有名な歌の一つです。
伝承によりますと
性空上人への結縁歌とされており、
和泉式部の勅撰集(拾遺集)初出歌です。
歌の返しに性空から
袈裟をもらっているとのことです。
京都に戻った和泉式部は、
性空上人の教えをもとに誓願寺に入ると、
本尊の阿弥陀如来に帰依して出家し、
専意法尼という戒名を授かった、
ということです。

【誠心院の寺伝】
次に誠心院(せいしんいん)
の寺伝によりますと、
万寿4年(1027年)に
専意法尼(和泉式部)が
長年仕えてきた上東門院(藤原彰子)が、
父の藤原道長に
専意法尼のために
一宇を建立するように勧め、
藤原道長は法成寺の塔頭・東北院の一角
(現・京都御所の東、荒神口辺り)に
お堂・小御堂を建立して
「東北院誠心院(じょうしんいん)」
と名付け、専意法尼を初代住職とさせ、
これが誠心院の起こりであるということです。

その後、専意法尼(和泉式部)は
性空から貰った袈裟を着用し、
命を終えたということです。

ただしいずれの伝承においても
性空は万寿以前の寛弘4年(1007年)
に遷化しており、
あくまで伝承である、とのことです。

【3人目の子供について】 
「正集」に集首されている、
「この世には いかがさだめん 
おのづから 昔をとはん 
人にとへかし(正七九七)」の歌は、
とある人物に
「どの男の子供であったと決めましたか」
と尋ねられた際の返事とのことですが、
小式部内侍が生まれた
時のものとする説が存在しているとのことです。
けれども、和泉式部の子として
確認できるのは小式部内侍と
石蔵宮の2人ですが、
2人とも父親がわからないような
状況で生まれた子ではないため、
2人以外にも子供を産んだ機会が
あったと推察できるとのことです。
時期は、橘道貞と別れ帥宮と付き合う前か、
帥宮の死後、藤原保昌との関係が
安定する前であると考えられているとのことです。




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【和泉式部の和歌の特徴】 
「古今和歌集」では、
「恋し」「恋す」などの
恋の感情・行為の主体は
男性であると決まっており、
「後撰和歌集」や「拾遺和歌集」でも
それは変わらなかったとのことです。
対して「万葉集」では、
額田王や大伴坂上郎女のように、
女性も恋する自己を自由に詠んでいます。
けれども、以上のような
平安和歌世界において、
突出していたのが和泉式部でした。
題詠においても、贈答歌においても、
「恋し」「恋す」などの
恋愛における主体的な
言葉を多く用いており、
男性中心の言葉を自在に詠みこなす点が、
突出した女流歌人であったと言える
理由の一つであるとのことです。

【和泉式部の和歌の源流】 
和泉式部は、後に紫式部(『紫式部日記』)に
「口に任せたることどもに、
必ずをかしき一節の、
目にとまる詠み添へ侍り」
と言われているため、
「天才肌の歌人」というイメージが
定着しているとのことです。
けれども一方で、
和泉式部は先行詩歌から表現や歌材、
詠出手法を学んでいた
痕跡も窺えるとのことです。

「正集」の冒頭には
春夏秋冬+恋という部立が設けられた
「百首歌(実際には欠損が生じ97首)」
が見られるように、
和泉式部は
「曽禰好忠や源重之、源重之女の
「百首歌(いわゆる「初期百首」)」
を学んでおり、彼らの歌に類似しながらも、
詠まれた世界は異なるという
彼女の力量を著した歌を「正集」
に残しているとのことです。
和泉式部は「百首歌」によって、
百首歌人の「先行歌に対し、
ある時は歌材やその境地を共有し、
ある時は新たな要素を付加して
展開させ、ある時は反発してみせる」
という作歌手法や、
「万葉集」以降の先行歌を
徹底的に学ぶ姿勢の影響を
受けているとのことです。

更に和泉式部は「後撰和歌集」
も学んでおり、天智天皇の
「秋の田のかりほのいほの苫をあらみ
我が衣手は露にぬれつつ」の歌を基にした
「秋の田の庵にふける苫を
あらみもりくる露のいやは寝らるる」
を詠んでいます。
千枚田

【詩歌の世界でも歌学び】
和泉式部の歌学びは
詩歌の世界にも及んでおり、
「紫式部日記」に
「その方の才ある人、
はかない言葉の匂ひも見え侍るめり」
とあるように、
和泉式部は漢詩文の教養もあり、
詩的な世界を下敷きにして
作歌してもいるとのことです。
例えば、「岩躑躅折りもてぞ見る
背子が着し紅ぞめの衣に似たれば(正集・十九)」
という歌がありますが、
躑躅は「白氏文集」や「千載佳句」、
「和漢朗詠集」などで
取り上げられており、
漢詩の世界では一般的な景物です。

【「万葉集」や「伊勢物語」】
この他にも和泉式部は、
「万葉集」や「伊勢物語」も学んでいました。
「和泉式部続集(続集)」には、
ある人から
「万葉集しばし(「万葉集」を少しの間お借りしたい)」
と申し出があったことが
記されているそうです。
この時、和泉式部は「万葉集」を
所有していなかったようですが、
返答として
「かきのもととめず(書き留めていません)」
と述べているとことから、
「「万葉集」を一旦は手元に置き勉強したこと」、
「柿本人麻呂を連想させる返答をしていること」
がわかるとのことです。
「袋草子」には、
「伊勢物語」の伝本の中に
「泉式部本」があったことが
記されているとのことです。




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【交流のあった歌人】 
和泉式部には、
若い頃から歌人達との交流が見られます。
例えば大江嘉言。
大江嘉言の歌集である「嘉言集」の中に、
「花心静かならず(嘉言集・一一四)」、
「春の小松、緑をます(嘉言集・一一五)」
という題を持つ歌がありますが、
「正集」にも
「春の時静かならず、
雨の中に松緑をます(正集・四五〇)」
のように、同題と思しき詠歌が見えるとのこと。
これらがいつの時点の詠歌なのか、
同席していたのかいないのかは
不明明ですが、
大江嘉言と和泉式部との
交流が想定されるとのことです。

更に大江嘉言や和泉式部の歌と
同題と思しき和歌は、
大江嘉言と交流のあった
源兼澄の「兼澄集」にも見られており、
3人が同時に同題を詠みあうことも
あったと考えられています。

他にも、藤原長能や
源道済との交流も「長能集」や
「道済集」、「正集」に見られます。

【人物評】
恋愛遍歴が多く、
藤原道長から「浮かれ女」と
評されたとのことです。
また同僚女房であった紫式部には
「恋文や和歌は素晴らしいが、
素行には感心できない」
と批評されていました。
(「紫式部日記」)
真情に溢れる作風は
恋歌・哀傷歌・釈教歌に
もっともよく表され、
殊に恋歌に情熱的な秀歌が
多くみられます。
才能は同時代の大歌人である
藤原公任にも賞賛され、
赤染衛門と並び称されています。
敦道親王との恋の顛末を記した
物語風の日記
「和泉式部日記」がありますが、
これは彼女本人の作であるかどうかは
疑わしいとのことです。
ほかに家集「和泉式部正集」
「和泉式部続集」や、
秀歌を選りすぐった
「宸翰本和泉式部集」が
伝存しています。
「拾遺和歌集」以下、
勅撰和歌集に246首の和歌を採られ、
死後初の勅撰集である
「後拾遺和歌集」では
最多入集歌人の名誉を得ています。

【受容史】
和泉式部は、
あらかじめ決められた
歌題について和歌を詠む、
12世紀初頭の
題詠成立以前の歌人でした。
和泉式部が活躍した
10世紀後半から11世紀前半は、
源融の旧宅であった
河原院という場に、
和泉式部の実家である
大江氏を始めとして、
清原氏、平氏などという
中下級貴族が集う
和歌のサロンが形成されていました。
このような和歌サロンの中で、
後の題詠へと繋がっていく
文芸性を重んじる和歌が
形作られていきます。
曽根好忠は河原院の
和歌サロンの代表的な歌人ですが、
身分が低い曽根好忠は
上級貴族の歌会に参加することが難しく、
勅撰和歌集の撰者と
なることもなかったのでした。
その一方でそのような公共性が強く、
制約の多い立場から
自由に歌を詠むことに繋がっていきました。
和泉式部はこのような
和歌サロンの流れを受けて
和歌を詠むようになって
いったとのことです。




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【紫式部による評価】
和泉式部は同時代の紫式部から、
優れた歌人として評価を受けつつも、
多くの男性と浮名を流した
好色な女性という風評を踏まえ、
人の道を外しているところがあると
批判されています。
高名な紫式部による
和泉式部評は、後世に
和泉式部の好色な女性像を
広めることに繋がっていきました。
この好色なイメージは
平安時代の後期になると
より強化されたとのことです。

【仏教的な説話でも】
中世前期から室町時代にかけて、
仏教的な説話が
和泉式部像に強く
反映されるようになります。
中世の説話では
和泉式部が遊女であると
捉えられているものがあり、
そのような中で、
法華経の教えを踏まえながら、
仏教的な救済を求める女性として
和泉式部が描かれるようになるのでした。

【与謝野晶子による評価】
近世に入ると、与謝野晶子が
「情熱的な」歌人として
和泉式部を高く評価し、
その評価が定着していった
との説があります。
けれども実際には、藤岡作太郎が、
与謝野晶子が和泉式部に
関する著作を発表する以前に
情熱的な歌人として評価しており、
また、与謝野晶子による評価も
情熱を全面に押し立てるような
ものではなく、和泉式部の作品には、
多情であるばかりではなく純情、
愛欲とともに哀愁、
そして奔放でありながら寂寥という
相反した感情が詠み込まれていることを
指摘したものであったのでした。

和泉式部伝説~遺跡・逸話】
<岩手県北上市>
和賀町竪川目に墓所があります。
付近が出生地あるいは
没地と伝えられ、
ここが和泉式部伝説の北限とされています。
早世した小式部を哀れんだ隣人が
五輪塔を建てたという
伝説に準えて明治2年に奉建された
五輪塔などがあるそうです。

<福島県石川郡石川町>
この地方を治めた豪族、
安田兵衛国康の一子
「玉世姫」(たまよひめ)が
和泉式部であるとの言い伝えが残っています。
和泉式部が産湯を浴びた湧水を
小和清水(こわしみず)、
13でこの地を離れた
和泉式部との別れを悲しんだ
飼猫「そめ」が
啼きながら浸かり
病を治したといわれる霊泉が
猫啼温泉として現存しています。

<岐阜県可児郡御嵩町>
旧中山道の途中に和泉式部の廟所と
言われる石碑が存在しています。
同地に伝わる伝承によると
晩年は東海道を下る旅に出て、
寛仁3年(1019年)にここで病を得て
亡くなったとされているそうです。
碑には
「一人さへ 渡れば沈む 浮橋に
あとなる人は しばしとどまれ」
という一首が刻まれているとのことです。

<愛知県豊川市小坂井町平口>
報恩寺境内に和泉式部の墓との
伝承がある和泉式部供養塔があります。




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<三重県四日市市曽井町>
「和泉式部化粧の水」があり、
和泉式部がここで顔を洗ったら
顔のあざが消えたと
言われているそうです。

<大阪府堺市西区平岡町>
居宅跡である「和泉式部宮」があります。

<大阪府岸和田市>
阪和線下松駅周辺の
大阪府道30号
大阪和泉泉南線沿いには
和泉式部にまつわる池、
塚などが存在しているとのことです。

兵庫県伊丹市に
和泉式部の墓所があります。

<京都府京都市右京区太秦>
太秦和泉式部町という地名があります。

<京都府亀岡市>
称名寺に和泉式部の
墓所があると伝えられています。

<山口県山陽小野田市>
和泉式部の墓所があります。

<佐賀県白石町/嬉野市>
白石町の福泉禅寺で生誕し、
嬉野市の大黒丸夫婦に
育てられたとされる
言い伝えがあるそうです。
寺には故郷を偲んで
詠んだとされる
和歌の掛け軸が伝わっており、
境内には歌碑と供養塔が
建立されているそうです。

<長野県温泉寺 (諏訪市)> 
和泉式部の墓があります。
下諏訪宿が、
和泉式部の出身地という説が
あるそうです。

<島根県仁多郡奥出雲町郡>
亀嵩駅の近くに
和泉式部の墓所があるそうです。
 
以上のようにこれらの逸話や墓所と
伝わるものは全国各地に存在していますが、
いずれも伝承の域を出ないものも多いです。
柳田國男は、このような伝承が
各地に存在する理由を
「これは式部の伝説を語り物にして歩く
京都誓願寺に所属する女性たちが、
中世に諸国をくまなく
めぐったからである」と述べている、とのことです。

一条天皇~「叡哲欽明」と評された賢王は笛の名手で皇后との「純愛」を育み、やがて平安王朝文化が開花。

藤原彰子~真面目で努力家で控えめな少女は成長して国母となり政治力を発揮し「賢后」となりました。

藤原道長~初めは目立たずも後に政権を掌握、「一家立三后」をなし「この世をば わが世とぞ思ふ」と詠む。

藤原頼通~藤原氏の栄華の象徴である平等院鳳凰堂を造営、摂関政治から院政と武士が台頭する時代へ。

藤原教通~同母兄の頼通への卑屈なまでの従順と確執、やがて藤原摂関家の衰退を招いていきます。

源倫子~6人の子供に恵まれ、夫である藤原道長の外戚政権を 実質的に完成させた女性です。

紫式部~世界最古の長編小説とされる「源氏物語」を執筆した女流小説家で平安時代きっての才女。

大弐三位(紫式部娘・藤原賢子)~母からは和歌や文才を、父からは明朗で自由快活な気性を受け継ぎ、行動力溢れ長寿を全うしました。

赤染衛門~理知的で優美な諷詠の女流歌人、おしどり夫婦であり良き妻良き母、「栄花物語」正編の作者とも。

伊勢大輔~「小倉百人一首」にもある「いにしへの」の歌が有名な平安時代の女流歌人です。

藤原公任~藤原北家小野宮流で政治的・芸術手的にも名門の出で「お坊ちゃま」、藤原道長とは同い年で四納言。

藤原斉信~藤原道長の従兄弟で当初は道隆に仕えるも後に道長の腹心へ、清少納言との交流があり「枕草子」に登場します。

藤原行成~世尊寺流の祖、実務に高い能力を発揮し人徳高く当代の能書家として後世「権蹟」と称されました。

源俊賢~一条朝の四納言の一人、父の源高明が政変で失脚するもバランス感覚に優れ権大納言まで昇進します。

藤原道綱~藤原道長の異母兄で母は「蜻蛉日記」の作者、おっとりとした性格で才に恵まれず。

藤原寧子(藤原道綱母)~藤原兼家の妻の一人で、女流日記の先駆けと評されている「蜻蛉日記」の作者です。

清少納言~末娘で父親からとても可愛がられて育ち、定子に仕え世界最古の随筆である「枕草子」を執筆します。

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