平安時代

大弐三位(紫式部娘・藤原賢子)~母からは和歌や文才を、父からは明朗で自由快活な気性を受け継ぎ、行動力溢れ長寿を全うしました。

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【大弐三位】

大弐三位(だいにのさんみ、
長保元年(999年)頃?⇒
永保2年(1082年)頃?)は、
平安時代中期の女流歌人。
女房三十六歌仙の一人。
藤原宣孝の娘で、母は紫式部です。
本名は藤原賢子(ふじわら の かたいこ/けんし)。
藤三位(とうのさんみ)、
越後弁(えちごのべん)、
弁乳母(べんのめのと)とも呼ばれていました。

【生涯と経歴】
長保3年(1001年)、
3歳のころに父である藤原宣孝が急死。
父の顔を知らずに育ったとのことです。
けれども性格は父の自由で明るい所を
受け継いだようです。
母の紫式部は新しい夫を
持とうとしなかったので、
祖父である藤原為時のもとで
成長しました。数年後、
母の紫式部は中宮彰子に出仕しましたが、
娘を深くいつくしみ、
学問や教養を身につけさせました。
ところが、15歳の時に母は他界し、
長和6年(1017年)18歳ごろ、
母の後を継ぐように
彰子のもとに出仕します。
ちなみに紫式部は
寛弘8年(1012年)頃まで
宮仕えをしていたとされており、
大弐三位と紫式部の
宮仕え時期はかぶってはいないとのことです。




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【宮中で人気者となる】
宮仕えをした大弐三位ですが、
和歌が巧みで、
さすがあの紫式部の娘だと
評判をとったとのことです。
母の紫式部が何事も慎重で、
感情を表に出さないタイプだったと
いわれていますが、娘の藤原賢子は明るく、
情熱的で、細かいことに
こだわらない性格であったとのことです。
文才に恵まれ、そうした性格であったゆえか
宮中でも人気者になっていったとのことです。

【最初の結婚】
藤原道長の次男である藤原頼宗や
藤原公任の長男・定頼ら、
摂関家の貴公子に愛され、
また、定頼の後任として
蔵人頭(くろうどのとう)になった
源中将朝任とも交際がありましたが、
20代後半に関白・藤原道兼の次男である
藤原兼隆と結婚し、
一女の源良宗室を授かりました。
この娘は醍醐源氏の源良宗との間に
源知房をもうけます。
中右記に、
「源知房は大弐三位の孫」
という記述があるとのことです。

【親仁親王の乳母】
万寿2年(1025年)、
親仁親王(後冷泉天皇)の誕生に伴い、
その乳母に任ぜられました。
即位にあたり、女房としては
最高の三位典侍(さんみのすけ)に
昇叙されました。
一方、乳母になったことにより
藤原兼隆とは疎遠になり離婚します。

高階成章との結婚】
それから約10年後に
二度目の結婚をします。
30代半ばに太宰大弐正三位である
高階成章(たかしなのしげあきら・なりあき)
と再婚したので、
夫の官位から大弐三位と呼ばれました。
高階家は藤原家に比べると格が低く、
しかも高階成章自身、
大弐三位(藤原賢子)より
10歳も年上であったとのことです。
結婚に至るまでのいきさつは
残念ながら史料がありません。
長歴2年(1038年)、
男児(高階為家)を産み、
女児も授かっています。
娘の方は歌人として
有名な大弐の母とのことです。
天喜2年(1054年)、
後冷泉天皇の即位とともに
従三位に昇叙し、
夫である高階成章も
大宰大弐に就任しました。




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【文才・和歌の才能に恵まれる】
母親ゆずりの文才に恵まれており、
一説によりますと
「狭衣物語」や「源氏物語」の
「宇治十帖」の作者では
ないかという推測もされているそうです。
彼女の歌は、「後拾遺集」以下の勅撰集に
37首の歌が入集しています。
家集に「大弐三位集」があります。
歌壇での活躍も多く、
承暦2年(1078年)には、
内裏後番歌合で、我が子の
高階為家の代詠をつとめています。
藤原兼隆との間にもうけた娘や
孫の源知房、高階成章との間にもうけた
高階為家の世話を受け、
平穏な晩年を送ったものと
見られています。

【80歳を超えての大往生】
永保2年(1082年)頃に
他界したと言われており、
母である紫式部の享年を
はるかに超えた長寿(83歳頃とも)
で亡くなったとされています。

【子孫】
高階為家に関しては、
彼が大弐三位(藤原賢子)
の息子であるという確かな史料は
実は残念ながら確認できないとのことです。
けれども高階為家は
後冷泉朝になってから
出世の昇進が速くなっており、
後冷泉天皇の乳母子だと
考えられることや、
為家の「為」の字が
曾祖父の為時から
とられているのではという推測などから、
彼は紫式部の娘である
藤原賢子の子と見て
差し支えないのでは
ないかという結論とのことです。
このように彼女とその母の
紫式部の血筋は高階氏を通じて
源平両氏、果ては摂関家や
皇室にも伝わっているとのことです。

平清盛の正室】
特に曾孫高階基章の娘は
平清盛に嫁ぎ
平重盛基盛兄弟を
うんでいます。
そして平重盛の息子である
平維盛・資盛にもつながっていきます。
なお、平清盛は
平治の乱の頃は
大宰大弐だったのでした。

【大弐三位(藤原賢子)の行動力】
【夫が大宰府へ単身赴任】
夫の高階成章の転勤が決定しました。 
夫である高階成章は天喜2年(1054年)、
大宰府の大宰大弐という職に就任し、
赴任することになりました。
一方、妻の藤原賢子は、
即位した後冷泉天皇の典侍という
側近の職についていたので、
同行することはできませんでした。
夫の単身赴任となります。
高階成章が大宰府に転勤になった
理由は定かではないとのことです。

【天皇の許可を取って関門海峡を渡る】
夫を送り出した藤原賢子ですが、
心配であった模様です。
そこで夫に逢うために
大宰府まで旅をしようと
思い立ったとのこと。
細かいことを気にせず、
おおらかな性格とはいえども、
典侍という要職を
一時離れるので、
これは大胆な決断となります。
後冷泉天皇に拝謁して
許可を得たとされています。
なお、2回にわたって
大宰府へ出かけています。

当時の船旅は都から関門海峡まで、
おおよそ20日程度
かかったと考えられています。
2回目の往路、
関門海峡にさしかかったとき、
潮の激しさに対して、
次の和歌を詠みました。
1行目が詞書(ことばがき)。
2行目が和歌となります。

後のたび 筑紫にまかりしに 門司の関の波の荒ふたてば
ゆきとても おもなれにける 舟路に 関の白波 こころしてこせ

<現代語の意味>
二回目の旅だが、
やはり関門海峡の潮流はほんとうに激しい。
往路もだいぶ慣れてきた船旅だが、
関門海峡の荒い白波だけは
心して越えるのだ。




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【平清盛と藤原賢子】
後世において
平清盛は、高階成章が就任した
大宰大弐に就任して
日宋貿易の実権を掌握して、
成り上がっていきます。

そして
大弐三位と高階成章の間に産まれた
高階為家の孫となる高階基章の娘が
平清盛に嫁ぎ、正室となります。
そして平清盛の子である
平重盛や平基盛をうむのです。

【イメージ像】
歌や実生活から、
母の紫式部と比べて、
恋愛の駆け引き上手という
イメージを持たれることが
あるとのことです。

【娘たちが出仕】
清少納言の娘「小馬命婦」、
和泉式部の娘「小式部内侍」らも、
大弐三位と同時期に宮廷出仕しています。

【大弐三位の和歌】
有馬山 猪名の笹原 
風吹けば いでそよ人を 忘れやはする

(ありまやま ゐなのささはら かぜふけば
いでそよひとを わすれやはする)

<現代語の意味>
有馬山から猪名の笹原に風が吹くと、笹が そよそよと鳴る。
そうですよ。私があなたを忘れるものですか。

この和歌は、百人一首に選出されている大弐三位の和歌です。

 梅花にそへて大弐三位につかはしける        権中納言定頼
来ぬ人によそへてみつる梅の花 散なん後のなくさめそなき

<現代語の意味>
花の香に、
いつまで待っても来ない人を
偲びながら、我が家の梅を眺めていました。
花が散ってしまったら、
後はもう何も慰めがありません。

 返し                               大弐三位
春ことに心をしむる花の枝に たかなをさりの袖かふれつる

<現代語の意味>
春が来るたびに
私が深く思う梅の枝に、
どなたがいい加減な袖を
お触れになり、その移り香を
移されたのでしょう。

— 「新古今和歌集」 巻第一 春歌上

【作品】
歌人としては「後拾遺和歌集」、
「新古今和歌集」、
そして「小倉百人一首」にも
歌が収められています。
「源氏物語」宇治十帖の作者、
という説もあるとのことです。

<勅撰集>
後拾遺和歌集:9
金葉和歌集:1
詞花和歌集:1
千載和歌集:4
新古今和歌集:6
新勅撰和歌集:3
続古今和歌集:1
続拾遺和歌集:1
玉葉和歌集:2
続千載和歌集:2
続後拾遺和歌集:1
風雅和歌集:2
新千載和歌集:1
新拾遺和歌集:1
新後拾遺和歌集:1
新続古今和歌集:1

<定数歌・歌合>
上東門院菊合:
長元元年(1028年)
内裏歌合:
永承4年(1049年)
祐子内親王家歌合:
永承5年(1050年)
内裏後番歌合:
承暦2年(1078年)
80歳近い高齢で出席、
子である高階為家の代詠を務める。

<私家集>
「大弐三位集」(一名『藤三位集』)
最古の伝本は、
伝大弐三位筆「端白切」(はたじろぎれ)。
断簡のみ残り、
京都国立博物館(手鑑「藻塩草」)、
徳川美術館(手鑑「玉海」)、
五島美術館、サンリツ服部美術館など
諸家に分蔵されているとのことです。

<百人一首>
58番
  かれかれなるおとこのおほつかなくなといひたりけるによめる 大弐三位
ありま山ゐなの篠原風吹は いてそよ人をわすれやはする

— 「後拾遺和歌集」 第十二 恋二




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【「鎌倉殿」につながる可能性】
紫式部のおばの子孫は、
源氏や北条氏とつながっている
可能性があるとのことです。
紫式部の父である藤原為時には、
為頼・為長の他、
二人の姉妹が確認できるとのことです。
そのうちの一人の姉妹は、
桓武平氏の平維将の妻となりました。
二人の間には娘が二人おり、
紫式部と「姉君」「中の君」
と呼び合っていたのは
このうちの妹娘だったとのことです。
また平維将には息子の維時がいました。
「平安時代史事典」によりますと、
この平維時の母は藤原雅正の女、
紫式部と親しかった娘と
同母ではないかとの見方があるとのことです。
紫式部と平維時はいとこ同士、
という可能性があるとのことです。

更に平維時の子である直方は
清和源氏源頼義を婿とし、
鎌倉の所領を譲ることとなります。
源頼義と直方女との間に生まれたのが
源義家となります。
源義家や彼の子孫である
源頼朝や義経は、
紫式部のいとこの子孫、
という可能性が出てきます。
そしてのちに鎌倉幕府の執権となる
北条氏は直方の子孫を称しており、
これが本当であるならば、
この血統は北条時政・義時・政子へも
つながっている可能性があるとのことです。

紫式部~世界最古の長編小説とされる「源氏物語」を執筆した女流小説家で平安時代きっての才女。

藤原宣孝~性格も女性関係も華やかで20歳以上も年上であった紫式部の夫。

藤原為時~漢詩の才能に長け、人格形成で紫式部に影響を与えたとされており、子らに先立たれる。

ちやは(藤原為信の娘)~紫式部の生母、藤原為時との間に一男二女を授かりますが若くして亡くなります。

さわ~紫式部(まひろ)の友人、史実では平維将の娘である従姉妹の筑紫の君の可能性あり。

藤原惟規~紫式部の兄弟で和歌の才能があったが、越後にて父より先に亡くなる。

藤原彰子~真面目で努力家で控えめな少女は成長して国母となり政治力を発揮し「賢后」となりました。

一条天皇~「叡哲欽明」と評された賢王は笛の名手で皇后との「純愛」を育み、やがて平安王朝文化が開花。

藤原道長~初めは目立たずも後に政権を掌握、「一家立三后」をなし「この世をば わが世とぞ思ふ」と詠む。

藤原頼通~藤原氏の栄華の象徴である平等院鳳凰堂を造営、摂関政治から院政と武士が台頭する時代へ。

藤原教通~同母兄の頼通への卑屈なまでの従順と確執、やがて藤原摂関家の衰退を招いていきます。

源倫子~6人の子供に恵まれ、夫である藤原道長の外戚政権を 実質的に完成させた女性です。

藤原道兼~父は藤原兼家、兄は藤原道隆、弟は藤原道長、待望の関白に就くも数日でこの世を去る。

和泉式部~和歌の才能にあふれた恋多き自由奔放な女性、娘への哀傷歌が有名です。

清少納言~末娘で父親からとても可愛がられて育ち、定子に仕え世界最古の随筆である「枕草子」を執筆します。

赤染衛門~理知的で優美な諷詠の女流歌人、おしどり夫婦であり良き妻良き母、「栄花物語」正編の作者とも。

伊勢大輔~「小倉百人一首」にもある「いにしへの」の歌が有名な平安時代の女流歌人です。

藤原道隆~藤原道長の長兄、容姿端正、明朗で豪快、気配り上手な優れた跡継ぎでしたが病で急逝します。

藤原伊周~藤原道隆の嫡男、急速に出世するも叔父・道長との政争に敗れ失意のうち世を去る。

藤原隆家~藤原道隆の四男、「刀伊の入寇」で武勇を挙げ政敵・道長も一目置いた気骨ある人物です。

藤原公任~藤原北家小野宮流で政治的・芸術手的にも名門の出で「お坊ちゃま」、藤原道長とは同い年で四納言。

藤原実資~藤原北家嫡流の小野宮流の家領を継ぎ「賢人右府」と呼ばれ、貴重な資料である「小右記」を残す。

藤原斉信~藤原道長の従兄弟で当初は道隆に仕えるも後に道長の腹心へ、清少納言との交流があり「枕草子」に登場します。

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