城跡

高久田~二階堂氏の家臣だった高久田氏の館跡~南高久田館・ 鏡石鹿嶋神社(南高久田館)・鹿島舘    

鏡石鹿嶋神社(南高久田館)




【南高久田館】

高久田氏
須賀川城に籠城した武将に
高久田矢部紀伊守(藤)がいました。

南高久田館付近の川

このまま読めば、高久田は在名で
本姓矢部氏ということになります。
高久田で区切られ、
あるいは高久田氏と
矢部氏は別々の可能性もあるかもしれません。

南高久田館(鏡石町)

鹿島館(岩瀬郡鏡石町鏡田字東鹿島)主を
矢部紀伊守とする説があり、
その他に南高久田館(鏡石町鏡田字南高久田)
もあることから断定はできません。
高久田氏は岩瀬郡高久田村(鏡石町鏡田字高久田)
を発祥とすることは確かであるようです。

南高久田館(やや遠景)

また常松氏系図に、
常松義清の四男義兼が
高久田館主・高久田主殿の
養子となったとあるそうです。

【所在地】
〒969-0401 福島県岩瀬郡鏡石町南高久田

【鏡石鹿嶋神社(南高久田館)】

<ご由緒>
元亀2年(1571年)に
高久田村総鎮守として創建されました。
陸奥国の岩瀬郡を支配していた
二階堂氏の家臣で、
高久田村の館主だった
箭部紀伊守公為(とめため)公は、
鹿島神宮を篤く崇敬しており、
戦国の世にあって
領地の平安と敵軍を撃破のために、
この地に鹿島神宮の御分霊を
勧請したと云われています。

鏡石鹿嶋神社(南高久田館)

五大院が別当(宮司代行者)となり、
その後、二階堂氏が没落すると
館主箭部紀伊守も滅び、
社領は廃地となり社運も衰退しました。

<鏡石鹿嶋神社(南高久田館)・鏡石>
鏡石鹿嶋神社(南高久田館)・鏡石

しかし、廃地後も村民の赤誠によって守られ、
安永7年(1776年)には
新たに別当となった覚宝院から
社殿再建のための「鹿島社再修願文」が出され、
社殿が再建されました。
文化元年(1804年)に記された届書によりますと、
当時の境内の様子は、
本殿は四尺四方内法(〇・四四坪)、
拝殿は二間に三間(七・五坪)、
社地は、数百五十間四方だったと記されています。
例祭日は、7月10日と9月9日だったようです。
明治時代になると神仏分離令によって、
覚宝院は鹿島神社と分離し、
明治2年(1869年)、
覚宝院の僧侶は神職に復飾(還俗)
することとなりました。
明治35年(1902年)9月28日の
暴風雨によって社殿が倒壊しました。
しかし、翌年4月には
氏子たちが力を合わせて現在の社地に担いで遷し、
復興されました。
奉納されている「遷宮絵馬」には
その時の遷宮の様子が描かれているとのことです。





旧社地には高さ3m、周囲6mの巨石があり、
ほかひ石と呼ばれています。
この霊石の由来は定かではありませんが、
古代から続く巨石信仰のひとつと考えられます。
ほかひ石の頂上には石灯籠があり、
毎年水神がこの神社の御祭神に
お供物を捧げる台と伝えられます。

鏡石鹿嶋神社(南高久田館)

例祭日は10月15日でしたがその後、
農繁期と重なることから現在の
10月1日に改められました。
明治22年(1889年)には、
鏡田村・久来石村・笠石村・成田村が合併し、
鏡石町の前身である鏡石村が誕生しました。
これは旧村名を合わせた名称ですが、
鹿島神宮の本殿奥にある鏡石と呼ばれる
霊石に通じる名称でもあり、
当社との由来の共通点が
「鏡石」の地名誕生の一因だったとも
云われているとのことです。

現在の社殿は、本殿一坪の流造、
拝殿は七・五坪の入母屋造で、
天満神社、熊野神社、水神社、
稲荷神社、若木神社、金比羅神社、
松尾神社、八坂神社、弁天様、
大山祇神社の十社の末社があります。
平成十三年には、参集殿が建設されました。

ご祭神:武甕槌命
(たけみかづちのみこと)

【所在地】
〒969-0401 福島県岩瀬郡鏡石町鹿島379

【交通アクセス】
<公共交通機関>
鏡石駅よりバス(6分)⇒
「高久田」バス停より徒歩4分
鏡石駅より車で7分
須賀川駅よりバス(15分)⇒
高久田バス停より徒歩4分
須賀川駅より車で12分程度
※バス(福島交通)の本数が少ないので
事前にご確認下さい。

<車>
鏡石スマートICより車で6分
須賀川ICより車で6分

【駐車場】
正面右側に第一駐車場があります。
神社向(池の奥側)に
第二駐車場(30台)があります。

鏡石鹿嶋神社(南高久田館)・駐車場への道

<御朱印>
御朱印はいただけるようです。
詳細はお問い合わせください。
電話:(0248) 62-1670

【鹿島舘】

高久田館(鹿島館)
鹿島館とも呼ばれ、
200m×200mほどの規模の平山城でした。
高久田館は下の川(栗谷沢)の
上流に位置していました。
日本城郭大系では所在地が
「鏡石町高久田字前田」とあり、
明治年間による採石により
保存状態は悪いと書かれています。
白河風土記では
「村より寅卯の方、11丁余りにあり、
山の高さ4丈あまりの畑となる」と記載。
大正時代の岩瀬郡誌では
「大字高久田の東北方、
11町あまりなる字前田の丘の上に在りて、
草野となり石材採掘により大部分が破壊された」
と記されていたそうです。
高久田館の城主は
二階堂氏重臣の箭部(矢部)紀伊守と
されていますが、
居住していたのは家臣の
鹿島八郎、須田大蔵、高久田義兼らと
考えられています。
須賀川城落城の1589年に
廃城したと考えられています。

鹿島館跡 高久田地区

「高久田の東北に位置しする丘の上」
ということですが、現在の地図では
丘らしい地形はありませんが、
川沿いの場所で該当する場所に
わずかにこんもりとしている場所があります。
高久田に隣接する鹿島、
または南高久田には丘があります。
鹿島館と呼ばれることから、
鏡石鹿島神社がやはり目安となります。
川沿いに城館が置かれるケースが多いので、
鏡石鹿島神社の東の丘の可能性があります。

<鹿島舘沿いの川>
鹿島舘跡の傍を流れる川

<岩瀬山城の川>
南高久田館及び鹿島舘沿いを流れている川は
やがて岩瀬山城に辿り着きます。
川で物資や人を運んでいたのかもしれません。
岩瀬山城の川

【所在地】
福島県岩瀬郡鏡石町鹿島





【廃城後の高久田氏】
須賀川の市街地にある「いげた屋魚店」を
経営する高久田家のご先祖様は
二階堂為氏の家臣「高久田四郎義兼」で、
高久田境にあった高久田館に居住し
須賀川城の南口を守衛していたということです。
伊達政宗により須賀川城が落城すると
家臣団は散り散りになりましたが、
高久田家は町人となったとのことです。
元禄初期には本町に移り肴屋を営んだとのことです。

須賀川城跡~二階堂氏が室町時代に築城、やがて伊達氏と争い去っていきます。

岩瀬山城(愛宕山城)~鎌倉時代に築城され、須賀川城が移るまで二階堂氏の本拠地でした。

保土原館跡(福島県須賀川市)、二階堂氏の平時の居館跡で現在は須賀川市立博物館です。

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