鎌倉殿の13人

三善康信~鎌倉幕府の初代問注所執事で母は源頼朝の乳母の妹です。問注所とは裁判機関のことです。

問注所跡(鎌倉)




【三善康信】

三善 康信(みよしのやすのぶ、
保延6年(1140年)⇒
承久3年8月9日(1221年8月27日))は、
平安時代末期から鎌倉時代初期の公家です。
鎌倉幕府の初代問注所執事。
入道の後は善信(ぜんしん)
という法名を名乗りました。

三善氏は源氏や大江氏などと同じく
氏姓の氏なので、
名前との間に「の」を入れて
読むのが正しいとのことですが、
後世には苗字化したと
見なされて「の」を省き、
「みよし やすのぶ」と読むこともあるそうです。

【生涯】
元々は太政官の書記官役を
世襲する下級貴族で、
算道(算術を研究する学科)の家柄の出身です。
父は三善康光、または康久とされています。
母が源頼朝の乳母の妹であったそうです。
但し、源頼朝の乳母は
比企尼、寒河尼、山内尼など複数おり、
いずれの乳母の妹であるかは
判明していないそうです。

【三好康信の母方の伯母は誰?】
その縁で流人として
伊豆国にあった源頼朝に、
月に3度京都の情勢を知らせていたとのことです。
(と、なるとおそらくは伊豆に所領があった
あのお方ではないでしょうか。
比企尼は伊豆に屋敷を構えていました。)

もしかしたら、
何かしらの不都合が生じて、
あえて、母、もしくは
伯母である源頼朝の乳母の名前を消した
もしくは隠したのかもしれませんね。

なお、
頼山陽
(らいさんよう、江戸時代後期の歴史家、思想家)
の「日本外史」の現代語訳
(巻之二 頼朝 死を免れる)では、
下の注釈欄に三善康信は比企の禅尼の
妹の子と書かれているとの事です。
この「日本外史」は武家の時代史でがありますが、
史伝小説の源流の一つともされているとのことです。

「吾妻鏡」によりますと、
治承4年(1180年)5月の
以仁王の挙兵の2ヶ月後、
三善康信は源頼朝に使者を送り、
諸国に源氏追討の
計画が出されているので
早く奥州へ逃げるように伝えるなど、
源頼朝の挙兵に大きな役割を果たしました。

【問注所執事として】
元暦元年(1184年)4月、
三善康信は源頼朝から鎌倉に呼ばれ、
鶴岡八幡宮の廻廊で対面し、
鎌倉に住んで武家の政務の
補佐をするよう依頼されると、
これを承諾したとのことです。
なお、この時、
中宮大夫属入道善信と呼ばれています。
同年10月には貴族の家政事務をつかさどる
役所の名を取った「公文所」の建物が新築され、
大江広元がその長官となり、
三善康信は初代問注所執事(長官)として
裁判事務の責任者となったのでした。

【十三人の合議制】
源頼朝死後、2代将軍の源頼家
独裁ぶりに不安を抱いた御家人の代表による
十三人の合議制にも参加しました。

【病を押して承久の乱の会議へ】
承久3年(1221年)の承久の乱に際しては
病身の身で会議に参加し、
大江広元の即時出兵論を支持しました。
そして同年、承久の乱が終わったのを
見届けるように死去しました。





【子供・兄弟】
子どもには三善康俊(町野氏、問註所氏祖)、
三善行倫、三善康連(三善流太田氏、椙杜氏祖)。
弟に公事奉行を務めた三善康清がいます。
三善康連は、1225年、
3代執権であった北条泰時の命にて
「御成敗式目」の条文制定を行った
中心人物になっています。
更に、三善康連の子孫には、
周防・蓮華山城主となった
椙杜弘康などがいます。

【三善氏】

三善氏(みよしし)は、日本の姓氏の1つです。
元は渡来人系の一族ですが、
実際には百済系の一族と
漢族系の一族の2系統が存在するそうです。
ただし、後世において
この2つの系統が
結び付けられているものがあるとのことです。
なお、鎌倉幕府の初代問注所執事となった
三善康信は漢族系の一族とのことです。

【漢族系三善氏】
「類聚符宣抄」によりますと、
元は漢の東海王の末裔であった
波能志(はのし)の子孫で
錦部村首、後に錦宿禰を名乗りました。
貞元2年(977年)頃に
三善朝臣の姓が授けられ、
その1人であった三善茂明が
主税頭兼算博士に就任し、
その子孫は代々算博士を継いだとのことです。
三善茂明の孫である三善為長は、
越中国出身の門人である
射水為康を養子に迎えたとのことです。
この三善為康は算道・紀伝道に
通じた学者として
多くの著作を残しているとのことです。
その子孫である三善長衡以後、
代々西園寺家家司を務めていました。
地下官人の今小路家は
その子孫とされています。

また、鎌倉幕府の初代問注所執事となった
三善康信もこの一族とされています。
その子孫として
町野氏・太田氏・
飯尾氏・布施氏らが挙げられます。
彼らは鎌倉幕府引付衆
あるいは室町幕府奉行衆として活躍しました。

【問注所】

問注所(もんちゅうじょ、もんぢゅうしょ)は、
日本の鎌倉幕府・室町幕府に
設置された訴訟事務を所管する機関です。
「問注」とは、訴訟等の当事者双方から
審問・対決させること、
あるいはその内容を
文書記録することを意味し、
「問注所」とは問注を行う場所を意味してます。
平安期には問注を行うための
特定の場所は定められていませんでした。
鎌倉幕府においては
問注を行う場所として問注所を設置されました。

【創設】
元暦元年(1184年)10月20日、
鎌倉に問注所が設置されました。

当時、日本は国内を二分する
大規模内乱(治承・寿永の乱)の最中でした。
この内乱の中でも(又は内乱に乗じて)
訴訟事案は多数発生しており、
非公式に発足した
関東軍事政権(後の鎌倉幕府)にとって、
これらの訴訟を迅速かつ円滑に
処理していくことが、
確固たる政権として
認められる条件の一つとなっていました。

初代問注所執事には、
三善康信が任命されました。
三善康信は三善清行の子孫に当たり、
代々算道を家業としていました。
三善康信は有能な役人として既に
知られていましたが、
親類には源源頼朝の乳母がいた縁もあり、
初代執事として京から鎌倉へ招かれました。
以降、問注所執事は
鎌倉・室町期を通じて
三善氏が世襲することとなったのでした。





【機関としての位置づけ】
なお、「武家名目抄」には
「問注所は政所の別庁にて、
ともに政事を沙汰する中にも、
訴訟の裁判を本務とする所なり」
(職名部(ハ)上)と記されており、
更に「吾妻鏡」建久2年(1191年)
正月15日条に書かれた職制においても、
政所と侍所については行を改めて
別当以下を記載しているのに対して、
問注所については政所の項目の最後に
「問注所執事」と1行で記されているのみでした。
従って初期の問注所は政所に属する1機関であり、
後に政所から分離して
独立した機関となったとする説もあるそうです。

鎌倉時代の問注所】
当初、問注所は訴訟に対する
裁判事務は行わず、
武家棟梁である源頼朝へ
訴訟事案を進達することを
任務としていたそうです。
「吾妻鏡」には、
源頼朝邸内の東西にある
小さな建物を問注所と号したとあります。
やがて源頼朝邸内に多数の訴人が集まり、
怒号・喧噪が飛び交ったため、
源頼朝はそれにうんざりし、
問注所の移転を命じたとのことです。
その結果建久10年(1199年)4月1日、
問注所は別の場所へ移転されましたが、
その直前に源頼朝は死去していました。

【問注所移転の真相として】
けれども、源頼朝が移転を命じた
きっかけとされる事件は
6年前の出来事とされる
熊谷直実と久下直光の訴訟の時とされており、
武家棟梁の命令が6年も
実行されなかったのは不自然であると考え、
源頼朝の命令とする記述は
「吾妻鏡」の曲筆であり、
実際には親裁の継続を望む
武家棟梁の源頼朝と
それに不満を抱く御家人との間に
意見対立が存在し、
源頼朝の死によって
初めて将軍御所の外への
移転が実現できた、
とする説があるそうです。

【問注所跡】
なお現在、移転後の地(現御成小学校前)には
「問注所旧蹟碑」が立てられています。
また由比ガ浜から問注所へ向かう道筋に、
「裁許橋」があり、
さらに、訴訟の結果、
由比ガ浜で処刑された者の
供養のための六地蔵などがあります。

<所在地>
鎌倉市御成町8
(御成小学校の対面)

<交通アクセス>
JR「鎌倉」駅(西口)より徒歩5分程度。

<行き方>
鎌倉駅西口を出てまっすぐに進み、
市役所の交差点を左折します。
御成小学校の対面に碑があります。

【引付衆の新設】
問注所は当初、訴訟・裁判事務全般を所管していました。
けれども訴訟事案の増加に伴い、
次第に事案が滞り始め、
事務処理の迅速化が求められました。
そこで、建長元年(1250年)12月9日、
引付衆が新設されたのでした。
引付衆は御家人の所領関係訴訟を扱い、
(所務沙汰)
問注所ではその他の民事訴訟
(雑務沙汰)
及び訴訟雑務
(主に訴状の受理)
を扱うという役割分担がされました。

【侍所】
ちなみに刑事事件の取扱いは
(検断沙汰)
侍所が所管していました。

【西国の所管】
上記の引付衆・問注所・侍所の所管地域は
東国に限られており、
西国については京の六波羅探題等が所管していました。
すなわち問注所は、
東国の一般民事訴訟を
取り扱っていたということになります。
但し、そのうち鎌倉市中の
一般民事訴訟については
問注所ではなく政所が所管していたとのことです。





【建武の新政期の窪所】
建武の新政期においては
「窪所(くぼどころ)」が設置されています。
宮中警備のための
武力機関であったとの説もありますが、
史料が少なく活動内容の不明な役所です。
実質上は問注所を引き継ぐ
訴訟受付機関であったと見られています。
伊賀兼光・結城親光・高師直などが任命されています。

【室町期の問注所】
室町幕府も当初は訴訟処理機関として
問注所を設置していました。
やがては記録文書の管理や
簡易訴訟のみを取り扱うにとどまりました。
訴訟一般は、評定衆の下に置かれた
引付が担当することとなっていきました。

三善氏一門の町野氏・太田氏が評定衆に任じられています。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
小林隆(こばやしたかし)さんが演じられます。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

源頼家~悲劇の2代目~北条VS比企、時々朝廷、そして東国武士の権力闘争が渦巻く時期。

比企尼~源頼朝の乳母~ずっと支え続けた偉大なゴッドマザーで鎌倉幕府創立の陰の功労者。

北条政子~いちずに恋した乙女は幾多の悲しみと困難を乗り越え尼将軍となった。

大江広元~四男の毛利季光は毛利氏の祖となりやがて戦国大名の毛利氏へと続きます。

中原親能~朝廷と幕府の交渉役のエキスパート~実務官吏でありながら戦にも従軍する

梶原景時~鎌倉ノ本体ノ武士~文武両道で実務能力の高さ故に疎まれやがて滅ぶ。

北条時政~先見性を持ち才腕を振るって幕府の実権を掌握するが暴走して寂しく去る。

比企能員~源頼朝を支え有力御家人として権勢を握るも北条氏に嵌められ1日で滅ぶ。

北条義時~鎌倉幕府2代執権・冷酷無情なリアリスト?現実を客観視して行動できる理想家なのか?

北条泰時~第3代執権で道理の人~北条執権政治の中興の祖で御成敗式目を制定した人物

蓮華山城 ~毛利家臣となった椙杜氏の本拠地、 ご先祖様は初代問注所執事の三善康信です。

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