鎌倉殿の13人

千葉常胤~桓武平氏の流れをくむ千葉氏の中興の祖~鎌倉幕府成立に大きく貢献した人物です。

千葉常胤




千葉常胤

千葉 常胤(ちば つねたね)は、
平安時代末期から
鎌倉時代前期にかけての武将でした。
千葉氏を地方の豪族から
御家人の地位まで登らしめた
千葉家中興の祖といわれています。
千葉常胤以降、
一族は諱に「胤」の一字を
受け継ぐことが多くなります。
鎌倉幕府成立に貢献した
有力御家人の一人でもあります。

【時代】
平安時代末期 – 鎌倉時代初期

【生誕】
元永元年5月24日(1118年6月14日)

【死没】
建仁元年3月24日(1201年4月28日)
享年84

【別名】
千葉介

【戒名】
浄春院殿貞見、涼山円浄院

【墓所】
大日寺(千葉市稲毛区轟町2-1-27)
鎌倉市扇ガ谷

【官位】
上総権介、下総権介

【氏族】
桓武平氏良文流、房総平氏、千葉氏

【父】
千葉常重

【母】
石毛政幹娘

【兄弟】
常胤、小見胤隆、椎名胤光?

【妻】
正室:秩父重弘娘

【子】
胤正、相馬師常、武石胤盛
大須賀胤信、国分胤通、東胤頼、日胤

【生い立ち】
桓武平氏良文流千葉氏の一族です。
父は下総権介・千葉常重。
上総広常とは又従兄弟です。
平安時代末期における
下総国の有力在庁官人でした。
官途名は千葉介(ちばのすけ)。

【相馬御厨】
大治5年(1130年)6月11日、
千葉氏の祖である父親の平常重は
所領の「相馬郡布施郷」を伊
勢神宮に下総相馬御厨として寄進し
その下司職となっていました。
保延2年(1136年)7月15日、
下総守の藤原親通は、
相馬郡の公田からの官物が
国庫に納入されなかったという理由で
平常重を逮捕し監禁します。そ
して平常重から相馬郷・立花郷の両郷を
官物に代わりに藤原親通に進呈するという
内容の新券(証文)を責め取られて
押領されてしまいます。
更に康治2年(1143年)に
源義朝(源頼朝の父)が介入し、
平常重から相馬郡(または郷)の証文を
責め取ったのでした。
けれども、源義朝は
伊勢神宮の神威を畏れて
天養2年(1145年)3月、
それを伊勢神宮に寄進する避文を
提出したとのことです。
それは責め取った証文が
圧状とみなされて、
伊勢神宮側から寄進の拒否をされたためでした。

なお、久安2年(1146年)の寄進状に
記された2通の証文についての記載があり、
藤原親通のものは「押書」、
源義朝のものは「圧状」と記されています。
その両者の法的効果には
大きな違いがあるとのことです。
前者は合法的な契約書類
(千葉常胤も後にこの未進分を返済している)
であったのに対して、
後者は自由意思に反した
違法な文書として
法的に無効とされるものであったそうです。
源義朝が天養2年に
相馬御厨伊勢神宮に寄進した後、
神宮側が源義朝が持つ証文
(平常重から責め取ったもの)を
「圧状」としてその有効性を否認し、
改めて権利主張の放棄の
意思表示を示す避状の提出に至ったとのことです。

こうした事態に対して平常重の跡を継いだ千葉常胤は、
久安2年(1146年)4月に、
まず下総国衙から官物未進とされた分を納め
相馬郡司職を回復し
相馬郷についても返却を実現したのでした。
千葉常胤は8月10日に改めて
その支配地域を伊勢神宮に寄進し、
その寄進状が残っていることから
その間の事情が今に知られることになったとのことです。





【千葉常胤にとって源義朝は侵略者】
すでに天養2年(1145年)の
源義朝による寄進があったのですが、
千葉常胤は「親父常重契状」の通り、
伊勢内宮神官に供祭料を納め、
加地子・下司職を千葉常胤の子孫に相伝されることの
新券を伊勢神宮へ奉じこれが承認されました。
このことについては、
源義朝の行為は紛争の「調停」であったとする
見方もありますが、
千葉常胤の寄進状には
「源義朝朝臣就于件常時男常澄之浮言、
自常重之手、康治二年雖責取圧状之文」とあり、
千葉常胤にとっては源義朝も
また侵略者の一人とみなしていることがわかります。

【保元の乱】
以後、千葉常胤は保元元年(1156年)
の保元の乱に出陣し源義朝指揮下で戦いました。
これにより、少なくともこの時点では
千葉常胤を源義朝の郎党とする見方もありますが、
保元の乱での後白河天皇側の
武士の動員は官符によって
国衙を通じた公式動員であるとのことです。

【平治の乱】
その後、平治の乱で源義朝が敗死すると、
永暦2年(1161年)には
常陸国の佐竹義宗(隆義の弟)が
前下総守・藤原親通から平常重の証文を手に入れ、
藤原親盛(親通の子・平重盛側室の養父)
とも結んで伊勢神宮に再寄進し、
これも伊勢神宮に認められ支配権を得てしまいます。

【佐竹義宗との争い】
これを知った千葉常胤も翌月に再度
伊勢神宮に寄進の意向を示しました。
このため、伊勢神宮側では
千葉常胤側の窓口となった
禰宜・荒木田明盛と
佐竹義宗側の窓口となった
禰宜・度会彦章の対立が生じました。
その後、佐竹義宗が伊勢神宮に
供祭料を負担して寄進状の約束を
果たしたことが評価され、
長寛元年(1163年)に
佐竹義宗の寄進を是とする宣旨が出されます。
続いて永万2年(1166年)6月18日に
荒木田明盛か度会ら彦章に契状を提出し、
仁安2年(1167年)6月14日付で
和与状が作成されました。
当時、和与による権利移転は
悔返を認めない法理があったのでした。
これによって度会彦章及び佐竹義宗の
勝訴が確定したのでした。
以後、千葉常胤は佐竹義宗と
激しく争うことになってくのでした。

<和与>
「和与」は、元来は合意に基づく所領や
所職等権利の譲与を指していました。
けれども鎌倉時代頃より
裁判における和解(合意)の意味を
持つようになったとされています。

【源頼隆】
この頃、平治の乱で敗れた源義朝の
大叔父にあたる源義隆の生後間もない
子が配流されてきたため、
千葉常胤は流人としてこれを監督しつつも、
源氏への旧恩から、
この子を密かに源氏の子として育てたとされています。
これが後の源頼隆です。

源頼朝の挙兵】
治承4年(1180年)、
伊豆国で挙兵した源頼朝が
石橋山の戦いに敗れた後に
安房国へ逃れますと、
源頼朝は直ちに千葉常胤に
加勢を求める使者として
安達盛長を送ったのでした。
なお、安達盛長が挙兵前に一度、
千葉常胤らの下に派遣されたという
記述も存在しています。





【感涙のあまり言葉も出ない】
「吾妻鏡」(治承4年9月9日条)によりますと、
千葉常胤は千葉胤正と東胤頼以下の子息と
これを丁重に迎え入れて、
安達盛長の言伝を聞いたものの
何の反応も示さなかったそうです。
そこで千葉胤正と東胤頼が
早急の返事を進めたところ、
「自分の心中は勿論その積りだ。
ただ、頼朝殿が源氏中絶の後を
興されたことを考えると、
感涙が眼を遮り、言葉も出ないのだ」
と言って、安達盛長に
相模国鎌倉を根拠にすることを
勧めたとのことです。

【上総広常と相談したい】
一方、「源平盛衰記」では、
千葉常胤が
「一旦上総介(上総広常)と相談したい」
と述べ、安達盛長が館を出ます。
すると鷹狩から戻る途中の千葉胤正に出会い、
千葉胤正は安達盛長を館に連れ戻します。
その後千葉常胤に
「上総介(広常)の家臣ではないのだから、
相談する必要は無い」と述べ、
千葉常胤も参陣の意を述べたとされています。

【千葉常胤と相談したい】
一方、「吾妻鏡」の9月6日条では
使者である和田義盛と会った上総広常も
「千葉介(常胤)と相談したい」
と述べたとあります。
「吾妻鏡」と「源平盛衰記」の記事の違いは
2回の訪問の際の出来事が
混同されていると考えられているとのことです。

9月13日、常胤は東胤頼の勧めに従って、
東胤頼と嫡孫である千葉成胤(千葉胤正の子)
に命じて平家に近いとされた
下総の目代を下総国府(現在の市川市)
に襲撃してこれを討っています。

【結城浜の戦い】
ところが、匝瑳郡に根拠を置き
平氏政権によって
下総守に任じられていた
判官代である藤原親政(親通の孫)が、
源頼朝討伐に向かう途中で
この知らせを聞いて急遽千葉荘を攻撃したのでした。
9月14日に急遽引き返した
千葉成胤と藤原親政は戦いに及んで
藤原親政を捕縛することに成功しています。

【源頼朝との最初の会見場所】
「吾妻鏡」では9月17日に
千葉常胤は一族300騎を率いて
下総国府に赴き源頼朝に
参陣したとされています。
ただし、源頼朝が途中、
千葉常胤の本拠である
千葉荘を通過して
千葉妙見宮などを参詣したと
伝えられており、
現在では最初の会見は
上総国府(現在の市原市)
もしくは結城ノ浦
(現在の千葉市中央区寒川神社付近)
で行われたと考えられています。

【「吾妻鏡」の美談の裏に】
なお、この時に源氏の子として
育ててきた源頼隆を伴って参陣したとされ、
源頼朝から源氏軍への参陣への
労いの言葉を受けるとともに、
源頼隆を源頼朝に対面させて
源氏の孤児を育ててきたことを
深く謝されており、
「司馬(司馬は掾の唐名であり、
下総の在庁官人である常胤のことを指します)
を以て父となす」と述べたといわれています。
もっとも、千葉常胤の参陣の背景には
国府や親平氏派(下総藤原氏・佐竹氏)
との対立関係や、
かつての相馬御厨を巡る
千葉常胤と源義朝との間のいきさつを
考慮すると、
源頼朝の決起に感涙したという
「吾妻鏡」のような美談を
そのまま事実とすることは出来ない、
ということになります。

【源頼朝、武蔵国へ】
10月2日には源頼朝が
太日河・墨田川を越えて武蔵国に入っています。
豊島清元・葛西清重父子に
迎えられていますが、
この際に船を用意したのは
千葉常胤と上総広常とされています。

【豊島氏と千葉氏の連携】
また、葛西清元は治承元年(1177年)の
香取神宮造営の際の
雑掌を務めており、
この時在庁官人であった
千葉常胤とも造営を通じて関係を持ち、
畠山氏などの平家方勢力が残る中での
源頼朝の武蔵入国に際しては
両岸の千葉氏と豊島両氏が
連携を行ったとみられています。





【鎌倉の町づくりに献策か】
また、千葉常胤当時の
千葉の推定図と
源頼朝時代の鎌倉の推定図が
ともに北端に信仰の中核になる寺社
(千葉の尊光院と鎌倉の鶴岡八幡宮)
を設けてそこから伸びる
南北の大路を軸として
町が形成されていることから、
鎌倉の都市計画に千葉常胤の
献策があった可能性を指摘する
研究者もいるとのことです。

【源氏の与力として】
源氏軍の与力として活躍しました。
富士川の戦い後、
上洛を焦る源頼朝を宥めたと言われています。
佐竹氏討伐を進言して
相馬御厨の支配を奪還しました。

【上総広常の誅殺】
寿永2年(1183年)には
源頼朝に疎まれた上総広常が誅殺され、
房総平氏の惣領の地位は
千葉常胤に移ることになりました。
もっとも、上総広常の誅殺は
源頼朝の身内的存在であった
北条氏・比企氏の台頭と
並行して行われ、
誅殺の結果として
源頼朝を支える基盤が
千葉常胤を含む房総平氏から
北条氏・比企氏に移り、
源頼朝の「義父」としての立場を失った
千葉常胤は鎌倉政権中枢から
御家人の一人に転落することになったと
する見方があるとのことです。

源範頼軍に属する】
元暦元年(1184年)には、
源範頼軍に属して一ノ谷の戦いに参加しています。
その後は豊後国(大分県)に渡り軍功を上げました。
文治3年(1187年)洛中警護のため上洛。

【奥州合戦では大将の一人】
文治5年(1190年)の
奥州藤原氏討伐のための
奥州合戦に従軍して
東海道方面の大将に任じられて
活躍し、奥州各地に所領を得ました。

【香取社地頭へのきっかけ】
建久4年(1193年)には
香取社造営雑掌を務め、
後に千葉氏が香取社地頭として、
社内への検断権を行使する権利を
獲得するきっかけとなりました。

【長寿】
建仁元年(1201年)に死去しました。
享年は84歳の長寿でした。

【6人の子供と日胤】
子に跡を継いで千葉介氏惣領となった千葉胤正、
相馬師常(相馬氏祖)、
武石胤盛、
大須賀胤信、
国分胤通
(大須賀氏、国分氏は後の千葉氏の有力家臣団となる)、
東胤頼(東氏祖)がいます。
彼ら6兄弟は「吾妻鏡」に
源頼家誕生の際に
揃いの水干を纏って
馬、鎧、弓、剣を献上するなど
存在が知られています。
このほかに園城寺の僧となっていた
日胤がいたとされています。
日胤は以仁王の挙兵に加勢し
平家に討たれています。
千葉常胤が源頼朝に加勢したのは
日胤の仇をとるのが
目的であったとする見解もあるとのことです。

【墓所】
【大日寺】
<所在地>
千葉県稲毛区轟町2-1-27
千葉氏累代の墓碑があります。

<交通アクセス>
JR「西千葉」駅より徒歩10分

【鎌倉市扇ケ谷2丁目付近】
鎌倉市扇ガ谷にある浄光明寺の西側丘陵部には
千葉常胤の次男である
相馬 師常(そうま もろつね)
と伝わるお墓があります。
(鎌倉市扇ケ谷2丁目9-10)
この相馬師常の墓がある一帯には
相馬相馬師常墓やぐら群と称される
13基のやぐらがあります。
その山上の一角に伝千葉常胤の墓と
されているやぐらと石塔があるとのことです。
残念ながら付近は落石による危険性が高いことと、
私有地であるため、完全非公開とのことです。

<交通アクセス>
JR「鎌倉」駅より徒歩15分~20分程度

<相馬師常の墓>
相馬師常の墓
宝篋印塔が中にあるとの事です。

2018年(平成30年)に、
千葉常胤の生誕900年を迎えています。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
岡本 信人(おかもと のぶと)さんが演じられます。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

石橋山の戦い~源頼朝旗揚げの地!300VS敵3000!大敗するも真鶴から安房へ逃れて再挙を図る。

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