明智光継(あけち-みつつぐ)は、明智頼尚の子として1468年に生まれました。
母は揖斐基春の娘です。
この明智家は、土岐氏の一族で、美濃・明智城(明智長山城)主でした。
1342年、美濃源氏の土岐一族である土岐頼兼(とき-よりかね)が、美濃国可児郡明智庄を知行して「明智」と改名したことから始まります。
室町時代になると、明智氏は足利将軍に直接仕えた奉公衆になっていました。
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明智光継は、明智頼典とされる武将と同一人物と考えられており、正室は武田信豊の娘とされます。
1508年には、従五位下駿河守になっていますので、家督を継いだのかも知れません。
斎藤道三が美濃の守護大名・土岐頼芸のもとで実力をつけてくると、明智光継は、いち早くその斎藤道三に臣従したようです。
そのため、娘・小見の方を斎藤道三に預けました。
まあ、明智氏に関しては、詳しくわかっていないため、年代に関しても、話に関しても、諸説あると言う事はご理解願います。
明智光継は、1525年に、出家して明智一関斎宗善と号しています。
1535年に、斎藤道三が美濃・明智城を攻めたともあり、このとき、嫡男・明智光綱が討死したともされます。
この嫡男・明智光綱の正室は武田信豊の娘で、その間に生まれていた幼子が、明智光秀とする説があります。
そして、明智光継は、1538年に死去したと言う事になります。
本来であれば、明智光秀が家督を継ぐところを、まだ幼少であったことから、父・明智光綱の弟である明智光安が、後見したとされています。
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以上、とにかく、よくわかりません。
ただし、明智光継から系譜は、天皇(今上天皇)に繋がっています。
→斎藤道三~権謀術数を駆使し大名になった美濃の蝮
→明智光綱とは 明智十兵衛(明智光秀)の父親とされる武将
→明智光安 幼いころから明智光秀を後見した叔父
→小見の方 (おみのかた) 斎藤道三の正室になった明智家の女性
→明智光秀の妻子まとめ 妻と子供の一覧リスト
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