【高月城】
高月城は長禄2年(1458年)に、
山内上杉氏の重臣で
武蔵国の守護代・大石顕重によって
築かれ、二宮館(二宮城)から
居城を移したとされています。
聖護院門跡・道興准后が著した紀行文
「回国雑記」の中で、1486年11月に、
招かれて「大石信濃守といへる武士の館」
を訪ねたとあり、これが高月城であると
推定されています。
また禅僧で歌人でもある
万里集九(ばんりしゅうく)が、
太田道灌の招きにより江戸城に寄ったあと、
大石定重が高月城にも招待したのは
1488年頃と推定されています。
麓の圓通寺に大石家の館が
あったとされています。
やがて関東管領である
山内上杉家・上杉顕定と、
扇谷上杉家・上杉定正が
勢力を争うことになると、
やがて家臣らを本拠に集中させておく
必要性が生じ、
高月城では手狭となったため、
大石定重の代になって滝山城の築城を開始し、
滝山城を築いて居城を移しましたが、
滝山城から1.5km程の近い場所になる
高月城は、北方の抑えとして物見などとして、
その後も支城として
使われた模様です。
多摩川と秋川の合流点近くで、
加住丘陵を利用した
天然の要害であったため、
大石氏の養子となり家督を相続した
北条氏照が、武田信玄の侵攻に
備えて整備した模様です。
現在城址は整備されていませんが、
曲輪、堀切、土塁などの
遺構が残っています。
なお私有地が多いため
見学には十分注意してくださいとのことです。
登城口から本丸跡の案内板までは
一本道で、私有地の看板を
回避しているとたどり着るとのことです。
また見学順路では本丸の奥に回る
ルートが案内されておりました。
けれども現在は整備されてはおらず、
大量の蜘蛛の巣と
丈の長い雑草が生い茂っているとのことです。
また蜂にもご注意ください。
【曲輪構成】
連郭式
【縄張形態】
山城
【標高(比高)】
152m(40m)
【築城主】
大石顕重
【築城年】
長禄2年(1458年)
【廃城年】
天正18年(1590年)
【主な改修者】
北条氏照
【主な城主】
大石顕重、大石定重、北条氏
【交通アクセス】
(電車)
JR五日市線「東秋留」駅から徒歩25分
JR五日市線「拝島」駅からバスに乗り15分、
「高月集会所前」バス停下車
JR五日市線「拝島」駅から徒歩40分
※バス運行については最新の情報をご確認ください。
(車)
圏央道「あきる野」ICから約10分
中央自動車道「八王子」ICから15分程度
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【所在地】
〒192-0002 東京都八王子市高月町1265
【駐車場】
ありません。
近くにコインパーキングもありません。
【圓通寺】
圓通寺は、滝山城跡北方約1.5km、
秋川、多摩川の合流点右岸、
高月城山下の都道筋にあります。
寺伝によりますと創建は、
醍醐天皇の代となる、延喜3年(903年)に、
比叡山延暦寺西塔の法祖である
恵亮尊者大楽大師の徒弟、
讃海阿闍梨の開創と伝えられています。
元は、武相28ケ寺の本寺として、
御朱印100石を賜わり、
天正年代(1573年~1592年)、
高月城主大石氏の深い帰依を受け、
境内3万坪余を有した大寺院でありました。
天海僧正の文書や
大正天皇の御幼少の頃の
遺品等が現存してありましたが、
昭和20年7月6日、
米軍艦載機により爆撃を受け、
塔堂伽藍一切を焼失しました。
現在の本堂は、
昭和58年4月30品に完成しました。
ご本尊の秘仏聖観世音菩薩像
(木彫坐像2尺3寸)は、
平安時代定朝の作と伝えられているそうです。
当山奥の院、境外地蔵堂に、
通称、峯之地蔵尊と呼ばれ親しまれている
延命地蔵尊が祀られています。
平安時代智證大師開眼の尊像と伝えられています。
本堂内陣脇の御厨子内には、
盤座に白蛇の彫刻がある
分身延命地蔵尊が安置されています。
しだれ桜が有名です。
<ご本尊>
聖観世音菩薩
<交通アクセス>
青梅線/拝島駅より
バスで杏林大学行高月集会所円通寺前
徒歩約1分程度。
(1時間に1本位)
【所在地】
〒192-0002 東京都八王子市高月町1158
参拝者用の駐車場があります。
滝山城跡・高月城跡と共にぜひどうぞ。
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