城跡

小山田城址・築城は小山田氏の祖である小山田有重、小山田神社に小山田氏の足跡あり。

小山田城址




小山田城址】

小山田城は鎌倉幕府の有力御家人である
小山田有重によって築かれた城です。

【平安時代末期に築城】
承安元年(1171年)、
小山田氏の初代当主である
小山田有重によって
築城されたそうです。
大泉寺裏山で標高30m程の
丘陵地帯に築かれた城でした。
大泉寺を東、北、西を囲む
丘を堀切で区画された
大小の郭で形成されていたようです。
空堀、矢倉台、虎口址、馬出郭が
遺構として残っています。

小山田城址

判明している城跡としては、
京都内でもかなり古いのではないでしょうか。

【室町時代】
文明8年(1476年)に、
「長尾景春の乱」が勃発すると
扇谷・山内両上杉氏の防衛拠点として
太田道灌がこの城を修復して利用しました。
しかし、翌年には長尾景春方の
軍勢に攻め落とされるなど、
戦国時代までは
城として使われていたようです。

【小田原北条氏の時代】
小田原北条氏の時代には、
「小山田の要害」と称され、
再整備されたとのことです。
小田原北条氏の家臣の中に
「小山田弥三郎」なる人物が存在し、
小山田城にいたとのことです。

【補陀山 大泉寺】
現在は居館跡に大泉寺が建てられております。
境内に城址碑と
小山田高家公顕彰碑が建てられています。

ただし寺の背後にある城址を
見学するには許可が必要となります。

<大泉寺 本堂>
大泉寺 本堂

【所在地】(大泉寺)
〒194-0202 東京都町田市下小山田町332−2

【駐車場】
参拝者用の駐車場があります。

<大泉寺 惣門>
大泉寺 惣門
向かって左端に駐車場があります。

【交通アクセス】
【公共交通機関】
JR横浜線及び小田急「町田」駅より
「町27・小山田」行(経由:市民病院前・根岸)
(町田バスセンター発車)
「大泉寺」バス亭下車 徒歩10分程度
運賃:大人300円(IC運賃294円)

【小山田有重】

小山田 有重(おやまだ ありしげ)は、
平安時代末期の武蔵国の豪族。秩父氏の一族で、
「千葉上総系図」「尊卑分脈」に拠れば
秩父重弘の子。
兄に畠山重能がいます。
武蔵国多摩郡から
都筑郡にまたがる小山田保、
また武蔵小山田荘を支配して
小山田別当を称し、
小山田氏の祖となります。
小山田有重の子孫は稲毛氏、
榛谷氏が分出しました。
なお、兄の畠山重能は
畠山氏の祖で畠山重忠の父となります。

【大蔵合戦】
院政期における動向は不明ですが、
久寿2年(1155年)には
源義朝の長男義平が叔父の義賢と、
小山田有重・畠山重能兄弟の
叔父にあたる秩父重隆を殺害する
大蔵合戦が発生しています。
大蔵合戦は秩父一族の
主導権争いとしての性格も有し、
「平家物語」に拠れば畠山重能は
義平方に属し、勢力を拡大しています。





【保元の乱】
小山田有重の初見史料は
「保元物語」で、
保元元年(1156年)の保元の乱において、
敗れた源為朝は父の源為義に対し、
合戦に参加しなかった
三浦義明・小山田有重・畠山重能らと
談合して関東において
抵抗することを提案しています。
この三者はいずれも源義朝方に近く、
三者の立場を反映しているかの点は
慎重視されています。
また、保元の乱以前には
源義朝・藤原信頼が立荘に携わった
武蔵稲毛荘が成立しており、
畠山重能・小山田有重兄弟も
関わっていると考えられています。

平治元年(1159年)、
源義朝・藤原信頼は
平治の乱において平氏に敗れ
没落しています。

【平氏方】
「平家物語」「愚管抄」に拠れば
畠山重能と小山田有重兄弟は
平氏の郎等と記されており、
この頃には平氏方に帰属したと見られています。

源頼朝挙兵の際に】
治承4年(1180年)8月の
源頼朝挙兵では、
兄である畠山重能と共に
大番役として在京しており、
平家の忠実な家人として
各地で戦ったとされています。
小山田有重の属する秩父氏は
同年10月に源頼朝に帰伏しています。

「吾妻鏡」(文治元年7月7日条)によると、
一族が源氏方に付いた事から
平家の棟梁平宗盛に拘束されましたが、
平家の家人平貞能のとりなしにより、
宇都宮朝綱と畠山重能、小山田有重は
東国へ帰国したということです。

「平家物語」では一門都落ちの際に平知盛が、
「源平盛衰記」では平宗盛が
畠山重能及び
小山田有重兄弟を諭して
帰郷させたとしています。

【一条忠頼の謀殺】
元暦元年(1184年)6月16日の
源頼朝による一条忠頼謀殺の際、
御所に呼び出された一条忠頼の討手として
献盃する役だった工藤祐経が動揺して
顔色を変えた様子を見て、
小山田有重が座を立ち
「このような席での御酌は
年寄りの役割であろう」と言って
工藤祐経の持っていた酌を取りました。
子の重成、重朝も盃と肴を手にして
一条忠頼の前に進み、
小山田有重は息子たちに
「給仕の際の故実では、
指貫は上括とするものだ」と訓戒を述べ、
稲毛重成らが盃を置いて
括を結んで一条忠頼の気を逸らせた所を、
天野遠景が一条忠頼を斬ったとされています。

これ以降の史料による小山田有重の記録はなく、
息子達への世代交代が行われたと見られます。

畠山重忠の乱で小山田一族、粛清される】
そして、源頼朝の死後である
元久2年(1205年)6月22日、
畠山重忠の乱が起こり、
北条時政の謀略によって
従兄弟の畠山重忠が滅ぼされます。
そのご、その原因は
稲毛重成の謀略によるもので、
稲毛重成が舅の北条時政の意を受けて
無実の畠山重忠を讒言したとされ、
翌23日、三浦義村によって
弟の榛谷重朝、
その子である太郎重季、次郎秀重が謀殺され、
稲毛重成は大江戸行元によって殺害されました。
子の小沢重政は宇佐見祐村に討たれ、
小山田一族は粛清されてしまったのです。

【旧相模川橋脚】
時代は前後しますが、
建久9年(1198年)、
稲毛重成は亡き妻のために
相模川に橋をかけました。
この橋の落成供養に出席した源頼朝は、
帰りの道中で落馬し、それが元で亡くなりました。
大正12年(1923年)に
関東大震災の液状化現象によって
茅ヶ崎市下町屋1丁目の地中から出現した
「旧相模川橋脚」(国の史跡および天然記念物)は、
稲毛重成が架橋した
この橋ではないかと考えられているそうです。

<旧相模川橋脚>
旧相模川橋脚

【補陀山 大泉寺】
東京都町田市下小山田町にある大泉寺は、
小山田有重の館跡と伝えられています。
山号は「補陀山」です。

大泉寺は小山田有重の四男である行重が
安貞元年(1227年)に
開創したと伝えられています。

境内には小山田有重・行重父子と
南北朝期の高家の三基の宝篋印塔があります。

<大泉寺 仁王門>
大泉寺 仁王門

【その後の小山田氏】
【1】
【甲斐への入府】
鎌倉期の小山田氏に関しては
承久3年(1221年)の承久の乱に際して
幕府方の甲斐源氏武田氏・小笠原氏が率いた
東山道の軍勢の中に「小山田太郎」の名が見られ、
この頃には甲斐に在住したと考えられています。

【戦国時代には武田信玄の家臣】
戦国期の甲斐では戦国大名化した
守護である武田氏が治めていました。
これに対し甲斐各地では有力国衆が台頭し、
郡内では小山田氏が台頭します。
小山田氏は河内・郡内領において
独自の支配を展開した存在として知られています。
武田信直(信虎)と
叔父の油川信恵・岩手縄美兄弟の間で抗争が発生し、
永正5年(1508年)10月4日、
武田信直(信虎)・信恵間で合戦が起こり、
信恵方は大敗しました。
この時郡内小山田家を継いだ
小山田弥太郎は信恵側でした。





【伊勢盛時に亡命した小山田一族有り】
この合戦後に郡内小山田の一門である
境小山田氏の小山田平三(弾正)が
伊豆国韮山の伊勢盛時(北条早雲
のもとへ亡命したということです。

小山田弥太郎の次代は
子息あるいは弟とされる
越中守信有が継承。
以来小山田氏では
弥三郎信有、
出羽守信有と三代の当主が
同じ実名「信有」を継承しています。
そして、
郡内小山田氏の最後の当主である
小山田信茂へと続きます。

【2】
【小山田高家】
小山田高家(おやまだ たかいえ、
生年不詳 – 建武3年5月25日
(1336年7月4日))は、
南北朝時代の武将。
秩父平氏の小山田氏の出自と見られています。
名は「隆家」とも。
南北朝時代の武将。

「太平記」に小山田高家に
関する逸話があります。
小山田高家に関する記述は
「太平記」巻十六
「小山田太郎高家青麦を刈る事」です。

小山田高家は
建武3年(1336年)までに
上野国の新田義貞に従い、
同年3月には播磨において
兵糧の欠乏から刈田狼藉を行い、
軍令違反に問われました。
新田義貞は小山田高家を赦免し、
同年5月25日の湊川の戦いにおいて
小山田高家は新田義貞の身代わりとして
討死したということです。
なお、小山田高家の刈田狼藉に関する話は
「太平記」古本には見られず、
後世の加筆であると考えられています。

一方、この頃の甲斐の小山田氏は北朝方に
属していたとのことです。

小山田神社

別名は「嶽の内御前神社」とも
「内の御前神社」とも称するそうです。
小山田神社は小山田氏の祖で小山田城の築城者である
小山田有重の夫人を祀った神社であるともいわれています。
夫人は八田宗綱(宇都宮宗綱)の娘で、
一ノ御前、と称されていたそうです。
(ただし、ウキペディアには記載されてはいません)

<小山田神社>
小山田神社

<合祀された末社や供養塔>
末社や供養塔など 小山田神社

※菅原神社が兼務しており、神主は不在です。
例大祭(湯花の神事)は8月下旬から9月初旬です。

【所在地】
〒194-0202 東京都町田市下小山田町3029

【駐車場】
なし。
但し、停車スペースはあります。

【注意点】
小山田神社の周辺はハス田になっています。
これは町田市の大賀藕絲館が、
手工芸品の材料にするために、
下小山田の農家の方に栽培を
委託しているもので、
約2000年前の大賀ハスが栽培されいます。
7月下旬ころに花が咲くと、
多くの写真家などが訪れて撮影をされていますが、
観光用では無く、
個人の所有地なので、
見学の際はマナーや節度を十分に守って頂きたく存じます。

小山田神社 ハス田

蛭ヶ小島~源頼朝が20年間過ごし北条政子と夫婦となった配流地~

和田義盛と和田合戦~三浦一族~鎌倉幕府創始の功臣だが北条義時に嵌められる

菅谷館跡と鶴ヶ峰・二俣川の古戦場散策~畠山重忠公の足跡を訪ねて。

鎌倉幕府の政所跡について

宇都宮城~800年の歴史を誇る関東七名城~宇都宮氏が築城し本多正純が築いた城下町

深沢城跡~今川氏が築城し、北条氏と武田信玄の攻防最前線となった要害

藤原範茂卿~墓所は範茂史跡公園~承久の乱の勝利で鎌倉武家政権は盤石となる。

能登・野崎城(野崎砦)~天野氏が築城~能登天野氏とは?先祖は承久の乱で活躍した天野政景。

伊勢盛時(北条早雲・伊勢宗瑞)の登場~小田原北条初代~名門一族の出自で関東に覇を唱えに行く!

北条氏政~小田原北条4代目~最大の領土を築くも、生きた時代と合わなかった慎重派で愛妻家で家族思い。

小机城跡~長尾景春の乱と豊島氏の滅亡、小田原北条氏の時代へ~戦国時代の神奈川県を見つめてきた城

古河公方館跡~古河公方とは?関東における戦国時代の幕開けの存在

井出の沢古戦場跡~中先代の乱~南北朝黎明期、足利直義と北条時行が激突した合戦の場

神明大神宮 (しんめいだいしんぐう)~懐嶋城址~大庭景義の館址

関連記事

  1. 高崎城址 高崎城跡~井伊直政が築城し改修は安藤重信~元は鎌倉時代から存在し…
  2. 上時国家 出入り口 時国家(本家・上時国家)~能登平家の郷~祖先は平大納言時忠。源義…
  3. 深谷城址公園 深谷城址~深谷市の中心部に存在する深谷上杉氏の居城~
  4. 生土城跡 生土城跡~大森氏が築城した支城~鎌倉公方・足利持氏が滞在したと伝…
  5. リンナイチャシと案内板 リンナイチャシに行ってきました。チャシはアイヌ語で「砦」のことで…
  6. 葛西城址公園 葛西城~葛西氏が築城し、遠山綱景へ~鎌倉時代から下総国への拠点の…
  7. 栃木城址 栃木城~築城は皆川広照~小勢力ながら譜代大名として生き残りに成功…
  8. 高幡城跡  高幡城跡~新選組・土方歳三の菩提寺である高幡不動尊~分倍河原の戦…

コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

おすすめ記事

  1. 諏訪盛直(諏訪飛騨守)~明智光秀家臣~山崎の戦いでの激闘で華々しく散る!淀古城・京都諏訪氏とは? 諏訪盛直

ピックアップ記事

  1. 浦戸城跡
  2. 河村城跡 本丸跡
  3. 氏家直元
  4. 玄蕃尾城
  5. 平等院鳳凰堂の風景
スポンサーリンク

スポンサーリンク
PAGE TOP