城跡

鴫山城~約600年前に築城された長沼氏の城跡、自然の地形を巧みに利用した山城です。

鴫山城(南山城)(長沼城)



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【鴨山城】

鴫山城(しぎやまじょう)は、
現在の福島県南会津郡南会津町田島
にあった日本の城です。
南山城とも称します。
田島市街地の南部・愛宕山一帯が城跡です。
石垣などの城跡の保存状態が良好なことから
福島県史跡に指定されています。

【別名】
南山城

【城郭構造】
山城

【標高(比高)】
750m(190m)

【築城主】
長沼氏?

【築城年】
不明

【主な城主】
長沼氏、小倉行春

【廃城年】
寛永4年(1627年)

【遺構】
曲輪、土塁、空堀、石垣

【指定文化財】
福島県指定史跡

【再建造物】
大門石垣

【歴史・沿革】
鴫山城の築城年代は不明ですが、
「塔寺八幡宮長帳」には、
長禄4年(1459年)に
山内越中と白川氏が
「南山しき山の城」を攻め落としたことが
記載されており、
この頃にはすでに存在していたことは確実です。
鴫山城一帯(「南山」と称されている)は、
長沼氏が支配しており、
鴫山城を築城したのも
長沼氏と推定できるとのことです。
長沼氏は鎌倉幕府では御家人でした。

会津四家
また中世の会津では
会津四家と呼ばれる国人領主が割拠していました。
会津を領する最大勢力の蘆名氏
大沼郡金山谷および
南会津郡伊北只見川流域を領する山内氏。
南会津郡伊南を領する河原田氏。
南会津の東部を領し
鴫山城(長沼城・南山城)に拠った長沼氏です。

【長沼氏の全盛期】
16世紀初頭、長沼氏は長沼政義の代に
蘆名氏の蘆名盛高とともに
下野国まで勢力を拡大し、最盛期を迎えましたが、
永正6年(1509年)、
宇都宮城主・宇都宮成綱との争いに敗れ
下野国の領土をすべて失ったのでした。

【蘆名氏への臣従】
永正18年(1521年)、
長沼氏は黒川城主・蘆名氏と戦い、
鴫山城を落とされたということです。
その後も長沼氏は蘆名氏と戦い、
一時は南山を取り返すなど
勢力を巻き返しましたが、
16世紀半ばに長沼氏は
蘆名盛氏に臣従することとなりました。




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伊達政宗に臣従】
天正17年(1589年)の
摺上原の戦いで蘆名氏が滅亡すると、
鴫山城主である長沼盛秀は伊達政宗に臣従し、
伊達勢とともに河原田盛次が守る
久川城を攻撃しています。

【南山を去る長沼氏】
天正18年(1590年)の
奥州仕置によって長沼氏は
伊達氏に従って南山を去り、
鴫山城には蒲生氏郷家臣である小倉行春が
6300石で入城してきました。
その後、上杉氏時代は
直江兼続上杉景勝の執政)の弟である
大国実頼が城代となり、
関ヶ原の戦い後に蒲生秀行が
会津領主となりますと、
再び小倉行春が城代となったのでした。
その後、寛永4年(1627年)に
加藤嘉明が会津領主となった際に
廃城となりました。

【構造】
鴫山城は標高750メートルの
愛宕山北辺部に築かれた
典型的な山城です。
城全体の全長は南北に700メートルで、
山頂部の350メートルは急斜面、
山麓部の350メートルは緩斜面です。
山頂から山麓にかけて、
尾根や谷間などの自然地形を利用して、
土塁や門、堀などが構築されています。
愛宕山山頂には現在、
愛宕神社が祀られていますが、
戦国時代(長沼氏時代)は
ここが城の本丸であり、
本丸の北東と西方向に削平して
階段上になった曲輪群が
上から下へ続いています。
本丸から北東部の曲輪群をやや下がると、
主水曲輪、御茶屋場と呼ばれる
比較的広い平場が現れますが、
山頂部から御茶屋場一帯あたりまでが
長沼氏時代の城郭跡と推定されています。
山麓部には愛宕神社参道に沿って、
侍屋敷跡、大門跡、御平庭、
上千畳(本丸跡)、下千畳(二の丸跡)、
空堀などの遺構が見られ、
大門跡に石垣が復元されているほか、
御平庭は公園化されています。
これら山麓部は、
蒲生時代以降の城の中心部と見られています。
上千畳は昭和54年(1979年)に発掘調査され、
書院建築の礎石群や
庭園状の遺構が検出され、
蒲生氏・上杉氏時代の本丸跡と推定されています。

【大門石垣】
大門は御平庭と
下千畳の間をとおる道路上にあり、
城の大手門的なものであったと思われますが、
この一帯には石垣の遺構が残されていました。
けれども、廃城以降の人為的な破壊と
降雨や雪解け水による浸水などで
崩落していた箇所もあり、
そのため1986年⇒1988年にかけて
復元工事が行われたが、
その際の調査で石垣の構造や高さ、
「鉢巻式石垣」と呼ばれる技法などが判明しました。
大門石垣遺構はその構造や技法などから
蒲生・上杉時代の築造と思われ、
関ヶ原の戦いの前に上杉景勝が
徳川家康の攻撃に備えるために
領内諸城の改修をおこなった際に
築造された可能性がありますが
詳細は残念ながら不明となっています。

【現状】
鴫山城跡のある愛宕山には
愛宕神社が祀られており、
その参道が登山道となっています。
登山道はかつての城の大手道と推定され、
道沿いには城跡遺構が見受けられ、
その都度解説板が建てられています。
また、大門石垣が復元されているほか、
御平庭跡は公園として整備されています。

【交通アクセス】
会津田島駅から愛宕山山頂までは
約1時間ほどであるそうです。

<車>
会津田島駅から車で約10分程度。
(国道121号~町道)

【駐車場】

城跡北側の愛宕神社鳥居前にあるそうです。

【トイレ】
未確認ですがない可能性があります。
登城する前に済まされる事をお勧めします。




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【注意事項】
季節によってはクマが出没する可能性があります。

【所在地】
〒967-0004 福島県南会津郡南会津町田島根小屋甲4240

【長沼氏】

長沼氏(ながぬまし)は日本の武家のひとつです。
本姓は藤原氏です。
家系は藤原北家の末裔、
鎮守府将軍藤原秀郷の血筋で
小山氏の支族です。
関東八屋形のひとつで家紋は「左三つ巴」です。

鎌倉時代は阿波守護を務め、
室町時代は鎌倉公方である
足利満兼から屋形号を与えられ
関東八屋形のひとつに数えられていました。

【長沼氏の始まり】
源頼朝に従った小山政光の次男宗政が
下野国芳賀郡長沼(現・栃木県真岡市)に
領地を得て長沼氏を称したのが始まりとのことです。
なお、小山政光の妻は寒河尼で
源頼朝の乳母のひとりでした。

宗政の長兄である朝政は小山氏を継ぎ、
弟の朝光は下総国結城に住み、
結城氏の祖となりました。
また、結城朝光の五男である
朝良は下総国長沼(現・千葉県成田市長沼)
に住んで下総長沼氏の祖先となりました。

長沼宗政は承久の乱で功績を挙げ
淡路守護に任ぜられ、
陸奥国や武蔵国などにも
所領を与えられました。

【南北朝時代】
南北朝時代に入ると、
本国である下野長沼荘を維持することも
困難となりました。
嫡流の長沼秀直は所領のあった
陸奥国長江荘
(南山荘、現・福島県南会津町田島)
に移住し、陸奥長沼氏と
下野長沼氏に分かれていきました。

鴫山城(南山城)(長沼城) 遠景

長沼秀直の子である長沼義秀は
陸奥国において勢力を伸ばし、
明徳2年(1391年)に
陸奥国が鎌倉府の管轄下に入ると、
いち早く鎌倉公方足利氏満の下に出仕して
信任を得たとのことです。
応永6年(1399年)に
長沼義秀の下野長沼荘領有が認められ
鎌倉府の力を背景に下野長沼氏を排除して
同荘に復帰したのでした。
この年、関東八屋形の制が定められ、
長沼氏もその1つとなったのでした。

けれども、長沼義秀の晩年に
子である満秀と更に孫の憲秀に
先立たれてしまいます。
そして孫の長沼憲秀の子という彦法師
弟の次郎(実名不詳)の間に家督争いが生じます。
この時は弟の次郎が家督を継ぎましたが、
兄の彦法師の成人後に家督を奪回して
次郎は奥州の足利満直の下に逃れたのでした。

永享の乱では次郎は幕府方、
淡路守である彦法師は鎌倉府方につきました。
直後の結城合戦においては彦法師は
結城氏に抵抗して幕府軍の到着まで
持ちこたえたことが評価され、
淡路守は赦免されました。

【会津と皆川の分岐】
長沼氏は長沼義秀から4代目にあたる
長沼秀宗の時代に奥州田島から
下野皆川に移ったということです。
更にその次の代である長沼氏秀のとき
会津田島から下野皆川荘に入り
皆川城を築いて、
皆川氏を称するようになったと
いわれています。
会津田島には一族か庶子を残して
田島の支配を委ねたと考えられています。
そして、その子孫が田島を領して
戦国時代に至ったと推測されるとの事です。
田島に残った長沼氏はのちに
会津四家と称される国人領主になったのでした。




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【最後の鴫山城主・長沼盛秀】
長沼盛秀(ながぬまもりひで)です。
蘆名氏が天正17年(1589年)の
摺上原の戦いで伊達政宗に敗れて
会津を去ると伊達氏に仕えるようになります。
伊達政宗の奥会津制圧に長沼盛秀が活躍し、
伊達政宗から高い評価を受けていたとの事です。

けれども天正18年(1590年)3月、
伊達氏に従わなかった
河原田氏が攻めてきました。
河原田氏も会津四家であり、
その独立性を保っていました。
蘆名氏が伊達氏に敗れた後も、
伊達氏に従わなかった
国人領主です。

この時の戦いで長沼盛秀は負傷し、
その傷が元で亡くなってしまったとの事です。
鴫山城には長沼盛秀の
長男・次男・三男が残されたとの事です。

【奥州仕置きで子供たちは米沢へ】
豊臣秀吉から奥州仕置で
伊達政宗は会津を追われてしまいます。
長沼盛秀の子供たちも伊達政宗に従い、
米沢へ行きます。
こうして鎌倉時代以来の南山における
長沼氏の歴史は幕を閉じたのでした。

【仙台藩で出世した子供たち】
伊達氏に仕えた三兄弟のうち長男は
召出家に昇進して七百石を賜ったとのことです。
次男は手水番となり、
孫である致貞の代の永代着座に列し
千五百石の家老級に昇進したとのことです。
三男も召出家に列し、
仙台藩の中堅官僚として続いたとのことです。

【皆川氏となった長沼氏】
一方下野国皆川荘(現栃木市)に移住して
皆川氏を称した長沼氏ですが、
戦国時代を生き抜き、
皆川広照が江戸時代の大名として
残ったのですが、
孫の時代に無嗣断絶となってしまったとのことです。

長沼宗政~結城朝光の兄で「荒言悪口の者」と評された暴れん坊ですが所領も沢山ありました。

会津若松城(鶴ヶ城)~日本100名城、蘆名氏が築城、伊達・上杉・蒲生・加藤・保科・松平と続いた天下の名城。

伊達政宗~独眼竜・東北の覇者~内向的だった子供が成長し、とことん人生を楽しんだ生涯!

猪苗代城 ~三浦一族で蘆名氏と同族の猪苗代氏が築城し約400年間支配、江戸時代は会津藩の重要拠点でした。

摺上原(磨上原)古戦場跡~蘆名氏VS伊達政宗の決戦地!会津の歴史が大きく変わりました。

寒河尼(網戸尼)~源頼朝の乳母で結城朝光の母、女地頭となり長寿を全うしました。

結城朝光~誇り高く抜け目ない政治力と巧みな弁舌で鎌倉幕府に重きを成していきます。

塩原城(塩原要害)~築城は平安時代末期で約420年間続いた城郭でした。

へいほう石と小平城(小平館)、怪力きこりの玄蕃は長沼氏家臣の後裔の大竹玄蕃とのことです。

会津鉄道会津線「会津田島」駅にはC11形蒸気機関車254号機が静態保存されています。

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