城跡

国府台城~下総国の大激戦の地~国府台合戦、里見氏VS小田原北条氏

国府台城跡 里見広次亡霊の碑




【国府台城】

国府台城(こうのだいじょう)は
現在の千葉県市川市国府台付近
にあった日本の城です。
城名は「市河城」「鴻之台城」とも称します。
ただし市河城(市川城)に関しては、
国府台城東側の真間山(現在の市川市真間)上の
弘法寺付近にあったともされ、
別の城、あるいは存在時期を考慮して、
元となった城ではないかとの説もあるとのことです。

【地理地形】
太日川(現在の江戸川)と
坂川の合流地点に隣接する
標高20m~30mほどの
河岸段丘上端にあり、
南北650mほど
東西150mほどの細長い城域です。
連郭式の平山城を構えるには
適した場所であるとのことです。

【別名】
市川城、市河城、鴻之台城
【城郭構造】
連郭式平山城
【天守構造】
なし
【築城主】
太田資忠
【築城年】
文明11年(1479年)
【主な城主】
千葉氏、里見氏、北条氏
【廃城年】
天正18年(1590年)
【遺構】
堀、土塁、井戸

【歴史】
【市川合戦】
市河城(市川城)は、
享徳の乱(室町幕府8代将軍・足利義政の時に起こり、
28年間断続的に続いた内乱)の初期に発生した
千葉氏の内紛の際に、
宗家側の生き残りであった
千葉実胤・自胤兄弟が籠城しましたが、
康正2年(1456年)陥落しました。

【市川の衰退】
水運にて栄えた市河津を背後に持ち、
府中として栄えた市川は大きく衰退し、
軍事的・経済的な要所は宗家方勢力(武蔵千葉氏)が
落ち延びた武蔵国石浜城や江戸城
反宗家勢力(下総千葉氏)の拠点の1つであった
小金城に移ることになるのでした。

【国府台城の築城】
その後、扇谷上杉家の家臣であった
太田道灌が文明10年(1478年)12月、
武蔵千葉氏を継承した千葉自胤を援けて
下総国境根原
(現在の千葉県柏市酒井根付近)での合戦を前に、
国府台の地に仮陣を築いたことに始まります。
この際に城地として相応しいと見立て、
翌年に臼井城にいた
下総千葉氏である千葉孝胤を攻めた際、
太田道灌の弟である太田資忠らが、
この地に城を築いたと記録に残っています。

【繰り返される争奪戦】
国府台城は要所でありました。
従って小田原北条氏、千葉氏、高城氏と里見氏、
太田氏、上杉氏らの度重なる
勢力争いの舞台となったのでした。
争奪戦が繰り返され、
国府台城もまた堅固な城郭として
整備されていきました。

【廃城へ】
けれども、豊臣秀吉による小田原征伐後に
小田原北条氏に代わって江戸に入府した
徳川家康によって廃城にされたのでした。
廃城の理由の一つとして、
江戸を見下ろす場所にあったからとも言われています。

<国府台城跡からの眺め>
国府台城跡からの眺め

【現在の城】
享保12年(1727年)に徳川吉宗によって、
関宿からこの地に曹洞宗安国山總寧寺が移されました。
明治18年(1885年)には
陸軍教導団病院が設置されました。
この病院は後に陸軍衛戍(えいじゅ)病院などを経て、
現在は国立国際医療研究センター国府台病院となっています。
また、太平洋戦争時に
總寧寺と江戸川に挟まれた樹林には、
陸軍の手で多くの防空壕が作られました。
其の後昭和33年(1958年)9月に
この付近は「里見公園」として整備され、
桜の名所となりました。
そのため、特に病院の跡だった
城の南半分は原型を留めてはいません。
残りも多くは住宅街となっています。
それでも堀切や空堀、
土塁跡はよく残っており、
櫓台の跡も確認できるとのことです。





【明戸古墳】
国府台城周辺には古代から集落があり、
古墳も非常に多くありました。
現在の里見公園内にも
前方後円墳の跡があり
明戸古墳と呼称されています。
市川市の文化財に指定されています。
この2つの石棺は公園裏山内にあり、
文明11年(1479年)に太田道灌が
ここに城を築いたときに
盛土が取り払われて露出したものと
伝えられています。
現在も野ざらしながら保存されています。

板のような緑泥片岩製の
組み合わせ式箱型石棺で蓋石は見られませんが
古墳時代後期(6世紀後半~7世紀初頭)、
この地方に勢力をふるっていた豪族の墓と
推定されています。
なお、この地方に箱型石棺があるのは
極めて珍しいといわれています。

<明戸古墳>
明戸古墳

【里見公園】
里見公園

【所在地】  
市川市国府台3-9
【開設面積】 
8.4ha
【交通アクセス】  
JR市川駅または京成国府台駅から、
「松戸駅行き」または「松戸営業所行き」バス
⇒「国府台病院」下車 徒歩5分程度
【駐車場】  
公園斜面下、江戸川沿いにあり
約40台・無料    
【利用時間】
午前8時~午後5時
【トイレ】  
あり
【問合せ】  
園内管理事務所      
【電話】
047-372-0062

【里見群亡の碑(さとみぐんぼうのひ)】
永禄7年(1564年)1月4日、
里見義弘は8千の軍勢を率いて国府台に陣を構え、
北条氏康軍約2万を迎え撃ちました。
7日の戦いは里見側に有利でしたが、
8日払暁、北条軍は寝込みを襲い、
一斉に攻撃したので里見軍は狼狽し、
士気を失い敗退しました。
この合戦で敗北した里見広次らをはじめとして
討死した者は5千名と伝えられています。
その後、里見軍戦死者の亡霊を弔うものもなく、
江戸時代の後期になった
文正12年(1829年)になって
やっと里見諸士群亡塚、
里見諸将群霊墓、
里見広次公廟が建てられました。
国府台城跡 里見広次亡霊の碑

【夜泣き石(よなきいし)】
 里見群亡の碑に隣接してあります。
永禄7年(1564年)に、
里見・北条の合戦で戦死した里見広次には
12~13歳になる美しい姫がいたとのことです。
父の霊を弔うため、
はるばる遠い安房の国から
国府台を訪ねてきたのでした。
姫は身も心も疲れ果て、
そばにあった石にもたれて、
弱いかすかな声で父の名を呼びながら
幾日か泣き続け、
とうとう息が絶えてしまったとのことでした。
以来、この石から夜になると
悲しい声が聞こえてきたという
伝説のある石なのです。

<夜泣き石>
夜泣き石

【羅漢の井】
公園の南斜面下にあります。
里見一族が布陣の際の飲用水として
使用したと思われ、
高台にあって水源が乏しいにもかかわらず
1年中清水が湧いています。
一説では、弘法大師が発見し、
里人達に飲用水として
勧めたと伝えられているとのことです。
国府台は高台であるため、
飲用水を得るためには
深い井戸を掘る必要があり、
それには多額の費用がかかりました。

【国府台合戦】

国府台合戦(こうのだいかっせん)は、
戦国時代に下総国の国府台城
(現在の千葉県市川市)一帯で
北条氏と里見氏をはじめとする
房総諸将との間で戦われた合戦です。
天文7年(1538年)の第一次合戦と
永禄6年(1563年)及び永禄7年(1564年)の
第二次合戦に大別されます。

【第一次国府台合戦(天文7年/1538年)】
【背景】
古河公方足利政氏と
その子の足利高基が不和になると、
足利高基の弟である空然は還俗して・
足利義明と名乗りました。
足利義明は下総国高柳から、
上総国真里谷武田氏五代当主の
真里谷信清によって
下総国小弓城に迎え入れられます。

足利義明は真里谷氏に加え、
里見氏等に擁立されて小弓公方と称されます。
古河公方や千葉氏と対立して、鎌倉占領を目指します。
ところが北条氏綱が台頭して
鎌倉や武蔵江戸城を占領すると、
今度は足利義明と北条氏綱の関係が緊張してしまいます。
最も、この時期の北条氏綱の最大の敵対者は
扇谷上杉家であり、
扇谷上杉家と同盟を結んでいた足利義明が
1527年には北条氏綱と和睦すると、
足利義明に従っていた里見氏や真里谷氏も倣い、
更に反・足利義明側にあった
千葉氏までが足利義明に従いました。
その後、足利義明が里見氏や真里谷氏の内紛に介入して
江戸湾一帯にまで勢力拡大を図ると、
北条氏綱と足利義明は対立する陣営を支援しています。
それでも、扇谷上杉氏との戦いを
優先にしていた北条氏綱は
足利義明との対立と和睦を繰り返す関係にあり、
それは千葉氏・真里谷氏・里見氏と同様でした。

その中で、里見義堯は
家督相続の際に支援を受けた
北条氏綱と一貫して協調しています。
ところが、1537年6月に
真里谷氏の内紛が再燃して、
足利義明に追われて亡命してきた
真里谷信隆(信保の庶長子)を北条氏綱が受け入れ、
続く7月に扇谷上杉家の本拠であった
河越城が陥落すると、足利義明としても
北条氏の脅威を感じるようになりました。
同年12月に千葉昌胤が足利義明から離反し、
翌1538年2月に北条氏綱が、
武蔵・下総の国境にあった葛西城を攻めると
足利義明が守勢の扇谷上杉家を支援します。
そのことによって、
北条氏綱と足利義明の対立は必至なものになりました。
更に古河公方足利晴氏(義明の甥)も
足利義明や山内上杉家との対抗上、
北条氏綱と同盟を結び、
この動きに千葉氏も合流したのでした。
一方、里見義堯はこれを機に、
北条氏綱と決別して足利義明方についたのでした。





このようにして足利義明は
北条氏綱との戦いを決意したのでした。
1538年10月、
足利義明は里見義堯及び真里谷信応ら
軍1万を従えて、国府台城に入りました。
一方、北条氏綱も嫡男の北条氏康や弟の長綱ら
2万の軍を率いて江戸城に入ったのでした。

【小弓軍の内訌】
小弓軍は軍議にて、
江戸川を渡河する北条軍を討つ事では合意しました。
けれども、己の家柄と武勇を過信する
足利義明は足利将軍の一族に
本気で弓を引ける者などいないと考えていたのでした。
そして自ら出陣して上陸した敵を討つと主張して、
渡河中に敵を殲滅させるべきだと言う
里見義堯らの主張を退けたのでした。
これでは勝利は覚束ないと考えた里見義堯は、
足利義明を援けて敗戦の巻添えを食うよりは、
足利義明を見殺しにしてその
「空白域」に勢力を伸ばす事を考えたのでした。
そこで主戦場になるであろう松戸方面ではなく、
その裏道(退路として利用可能な)である
市川側からの挟撃に備えると
称して陣を動かしたのでした。

【戦闘】
10月7日、
軍師根来金石斎(大藤信基)の進言により
渡河を終えた北条軍は、
松戸城を経て小弓軍と
国府台の北の相模台(現在の松戸市)で衝突しました。
初めは小弓軍優勢でしたが、
次第に数で優勢な北条軍が押し始めました。
しかも、弟・基頼(もとより)や
息子・義純の討ち死に
報が入った足利義明が逆上して
北条軍目がけて自ら突撃を図り、
北条軍の兵士の弓に当たって戦死しました。
里見義堯は「足利義明戦死」の情報を手にすると、
結局一度も交戦することなく戦場を離脱し、
小弓軍はここに崩壊したのでした。
勢いに乗った北条軍は小弓城を、
続いて真里谷城を押さえて、
真里谷信応を降伏させて
再び異母兄・信隆を真里谷氏当主にしたのでした。

【戦後】
この戦いの結果、
北条氏の勢力は下総にまで浸透する事になりました。
一方、足利義明の戦死と
真里谷信隆の復帰によって勢力地図が一変して
権力の「空白域」と化した
上総国南部にはこの戦いで
ほとんど無傷であった里見義堯が進出し、
真里谷氏の支配下にあった
久留里城大多喜城などを占領して
房総半島の大半を手中に収めることになったのでした。

<国府台城跡>
国府台城跡

【足利義明の「関宿城」目標説】
なお、近年において、
足利義明の最終的な攻撃目標は鎌倉ではなく、
下総国関宿城であったとする説が
出されているそうです。

足利義明は国府台合戦の4ヶ月前である
6月に記された関東管領上杉憲政の書状では
足利義明の目標は関宿城と述べられているそうです。
関宿城は当時の下総北部においては、
水運・交通の重要地点であるとともに、
古河公方の最大の支城でした。
正当な古河公方と主張する足利義明が
その本拠である古河御所を占領するために
関宿城は必ず抑える必要がある場所でした。
実際に足利義明は小弓城入城以来、
関宿攻略の意向を里見義通(義堯の伯父)ら
自派の有力者に度々伝えていたとのことです。
小弓から関宿に向かう最短距離は
本佐倉城から
印旛沼・常陸川を経由する方法でしたが、
本佐倉城は、
古河公方と結ぶ千葉氏の本拠地であり
千葉氏の抵抗を受け、
自派の臼井氏が千葉氏に屈服させられたのでした。
そこで足利義明は、
千葉氏の勢力圏の外縁である国府台を占領し、
ここから太日河(江戸川)を遡って
関宿城を目指したのではないかと
推測できるとのことです。
実際に足利義明は合戦前の6月、
国府台の近くの弘法寺に対して
寺領の安堵を約束する文書を発給しており、
国府台の確保は事前に計画されていた
可能性があります。
しかしながら、
国府台の対岸の葛西城までを
支配下に置いた北条氏としては
この動きを容認できず、
足利義明の意図を阻もうとしたのが
第一次国府台合戦であったという見解です。

【第二次国府台合戦】
永禄6年⇒永禄7年(1563年~1564年)
【第一次合戦からの流れ】
第一次合戦後、
国府台は千葉氏の重臣である
小金城主高城胤吉の所領になりました。
千葉氏が北条氏の傘下に入るとともに
同地も事実上北条領となったのでした。

永禄6年(1563年)、
北条氏康と武田信玄
上杉謙信方の武蔵松山城を攻撃した際、
上杉謙信の要請を受けた里見義堯が
嫡男である里見義弘を救援に向かわせた際に
国府台でこれを阻止しようとする
北条軍と衝突したとされています。
後世、この戦いを翌年のものと
混同されてしまっているとのことです。
結局、里見軍は上杉派の太田資正らの支援を受けて
武蔵には入ったそうですが、
武蔵松山城が陥落したため両軍とも撤退しています。

【開戦の契機】
一般によく知られている
第二次合戦のきっかけは
この直後に由来するとのことです。

同年の暮れ、
北条氏康の配下であった
江戸城の守将である太田康資
主君への不満から同族の太田資正を通じて
上杉謙信への寝返りを図って失敗し、
太田資正のもとへ逃れました。
上杉謙信から太田資正・康資救出を依頼された
里見義弘は翌永禄7年早々に房総諸将を率いて出陣し、
1月4日に国府台城に入りました。
その数は1万2千人と言われていました。
単独での迎撃は無理と
判断した千葉氏は北条氏康に援軍を求めます。
北条軍も2万の兵を率いて直ちに出陣したのでした。





【遠山綱景・富永直勝・舎人経忠の死】
7日、北条軍は江戸城を出て里見軍を攻撃します。
けれども、先陣の江戸城将である
遠山綱景・富永直勝は
太田康資の離反を察知できなかった
責任を感じる余り、
本隊の北条綱成隊よりも先行突出して
現在の矢切の渡し付近を渡り、
江戸川を越えて国府台(市川市)を攻撃しましたが、
逆に里見軍の反撃に遭ってしまったのでした。
結果、遠山綱景と富永直勝は戦死し、
遠山綱景の娘婿だった舎人城主である
舎人源太左衛門経忠も戦死したのでした。
なお、舎人城は、
北条軍64城配下で現在の東京都足立区周辺です。
太田康資と高城胤辰(胤吉の子)もまた、
遠山綱景の娘姉妹・婿で、
彼らは皆、遠山氏の身内でした。
舎人経忠に嫁いでいだ遠山綱景の娘は
男児の勇丸を生んでいましたが、
舎人経忠の戦死後に娘は大道寺政繁と再婚し、
勇丸は大道寺政繁の養子となり、
後に大道寺隼人(大道寺直英)となったのでした。

この敗戦によって、
高城胤辰ら千葉軍と
北条軍で里見軍を挟撃する
連携作戦の計画は大きく狂ったのでした。

<国府台城跡の傍を流れる江戸川>
江戸川

【北条軍の反撃】
この勝利に気をよくした里見義弘は、
出陣が正月早々であったことを配慮して
兵士たちに酒を振舞います。
けれども、遠山綱景と富永直勝の早い段階での
潰走によって主力を結果的に温存することになった
北条軍は撤退したと見せかけて、
翌8日未明に再度江戸川を渡って
里見軍に夜襲をかけたのでした。
酒宴の後の里見軍は大混乱に陥ったとされています。
更に北条軍の工作で里見軍の主力である
土岐為頼(一説には義弘の外祖父ともいう)が
里見義弘を裏切って戦場を離反します。
そうして筆頭重臣である正木信茂は戦死し、
里見義弘は同じく重臣の安西実元が身代わりとなり、
合戦直前に里見側に寝返ったために
戦場に遅参してきた土気城主酒井胤治に救出されて
やっとのことで戦場を脱出できたのでした。

【近年の再検証】
近年になって、
国府台合戦の経過記録は、
永禄6年1月の戦いと
翌年の永禄7年1月の戦いが混同されて
出来上がったものであるとの見解が
有力となっています。
永禄6年にも本格的な戦闘があったとする
史料の存在が明らかになり、
従来は永禄7年であり、
誤記と考えられてきた記録も、
誤記ではないとの見解が
出されるようになっていたとのことです。
1月8日未明の奇襲については、
永禄6年とする記録があることに加えて、
現存する北条氏による発給文書において
永禄7年の戦いで里見軍を潰走させた日付を
2月18日としているものが存在しているそうです

【第二次の合戦後】
永禄7年の第二次国府台合戦の後、
北条軍は一気に上総にまで進出して、
土岐為頼に続いて正木時忠(時茂の弟)を服属させました。
けれども、苦境に立った里見軍は却って
積極的な軍事行動によって小田原北条軍を牽制したのでした。
里見義弘の本拠であるにもかかわらず、
長く小田原北条軍に占拠された佐貫城を
里見氏が奪還したのは
第二次合戦直後とする説があります。
更に、三船山合戦での勝利により
北条軍の安房遠征を失敗に追い込み、
里見氏と小田原北条氏の戦況は再び膠着するのでした。

葛西城~葛西氏が築城し、遠山綱景へ~鎌倉時代から下総国への拠点の城

小金城跡~下総国、最大規模の平山城~現在は宅地開発が進むも面影はあり

花輪城~小金城の支城として~高城氏の滅亡と共に役割を終える

戸定邸・戸定が丘歴史公園~富士見百景~戸定邸は重要文化財で庭園は国の名勝。

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